最前線の育児論byはやし浩司

★子育て最前線でがんばる、お父さん、お母さんのための支援サイト★はやし浩司のエッセー、育児論ほか

●ボケと人格

2006-01-15 10:20:17 | Weblog
【ボケと人格の後退】

++++++++++++++++++++++++はやし浩司

●「あの人が……?」

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50代、60代のころは、人一倍、
しっかり者に見えた女性。

そういう女性が70歳になるころから
急速にボケ始める。

そういう例は、多い。だからそういう
人の話をすると、たいていの人は

こう言って、驚く。
「エッ、あの人が……!」と。

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 私の義理の姉の母が、つい先日、亡くなった。数年前に聞いたときには、まだらボケということだった。しかし晩年は、かなりボケていた。とくにもの忘れがひどく、「サイフが盗まれた」とか、「嫁が、財産を使い果たした」とか、そんなことを、よく口にしたという。

 その義理の姉の母は、私が知るかぎり、若いころは、しっかり者で、口達者。しゃきしゃきとした感じの人だった。もしそのころのその人のことを知ったら、みな、こう思うだろう。「この人だけは、ボケないな」と。

 しかしそんな人でも、ボケた。ボケたまま、亡くなった。

 で、私が知るかぎり、このタイプの人には、女性が多いということ。少なくとも、私が話に聞くのは、女性ばかり。男性は、いない。男性のばあいは、ボケ始めると、がんこになったり、無口になったり、引きこもったりする。

 そこでまず考えてみるのが、女性特有の多弁性。よくしゃべるから頭がよいとか、そうでないから頭が悪いとか、そういうことは関係ない。そのことは、子どもの世界を見ればよくわかる。よくしゃべる子どもイコール、頭のよい子ということにはならない。たとえばAD・HD児でも、女児のばあいは、ふつうでない多弁性となって症状が現れることが多い。

 しゃべるといっても、その内容、である。いくつかの特徴がある。

(1)ペラペラと一方的に、間断なく、よくしゃべる。
(2)考えてからしゃべるというよりは、脳に飛来する情報をそのまま音声にかえているといったふう。
(3)言っていることの内容が浅い。こまごまとしたことを、つなげて話す。
(4)繰りかえしが多い。同じ内容のことを、繰りかえし、話す。
(5)相手の言うことを聞かない。聞いても上(うわ)の空。
(6)繊細で、微妙な会話ができない。
(7)視線が定まらない。ときに死んだ魚のような目つきになる。

 つまりその人の思考力と、多弁性は、関係ないということ。そのことは、その人の話している内容を、よく吟味すれば、わかる。

(1)一貫性がない

 話している内容が、ポンポンと飛んでいくことがある。野菜の話をしていたかと思うと、「ああ、そうだ」とか何とか言って、今度は、寺の話をし始めたりする。

(2)論理性がない

 「寒いから困った」「雪が降ったから困った」というようなことは言う。しかしなぜ今年はそうなのかということまでは、考えない。原因として、このところの異常気象があり、さらには、地球の温暖化の問題がある。そういう話題に切りかえようとすると、とたん、「私には、そういう話は、むずかしいから、わからない」と逃げてしまう。

(3)情報、知識の欠落

 このタイプの人は、ほとんどといってよいほど、本を読まない。雑誌も読まない。テレビを見ても、ただぼんやりと見ているだけ。そのことは、その人の周辺を観察すればわかる。本や雑誌らしきものが、まったくない。新しい情報や知識を吸収しようという意欲そのものを、感じない。

(4)生活範囲の縮小

 自分の世界だけで、生きているといった感じになる。自己中心的で、ものの考え方が利己的になる。そして年齢とともに、その世界を、どんどんと、小さくしていく。自分の損得に関係することには、極端に敏感になったり、それ以外のことには、極端に鈍感になったりする。

(5)一般的なボケ症状

 こうした症状と並行して、一般的なボケ症状が現れるようになる。物忘れがひどくなったり、感情が鈍麻したりするなど。被害妄想がひどくなることもある。

 以上、気がついたままを書いてみた。が、ボケることによる最大の問題は、(1)人格の後退と、(2)人格の崩壊である。

 その人の人格の完成度は、「情動(こころ)の知能指数」、つまりEQによって測定される。その「EQ」について、以前、書いた原稿を添付する。ボケるということは、人格の完成に向った動きと、正反対の動きになると考えると、わかりやすい。

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 EQ(Emotional Intelligence Quotient)は、アメリカのイエール大学心理学部教授。ピーター・サロヴェイ博士と、ニューハンプシャー大学心理学部教授ジョン・メイヤー博士によって理論化された概念で、日本では「情動(こころ)の知能指数」と訳されている(Emotional Education、by JESDA Websiteより転写。)

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●【EQ】

 ピーター・サロヴェイ(アメリカ・イエール大学心理学部教授)の説く、「EQ(Emotional Intelligence Quotient)」、つまり、「情動の知能指数」では、主に、つぎの3点を重視する。

(1)自己管理能力
(2)良好な対人関係
(3)他者との良好な共感性

 ここではP・サロヴェイのEQ論を、少し発展させて考えてみたい。

 自己管理能力には、行動面の管理能力、精神面の管理能力、そして感情面の管理能力が含まれる。

●行動面の管理能力

 行動も、精神によって左右されるというのであれば、行動面の管理能力は、精神面の管理能力ということになる。が、精神面だけの管理能力だけでは、行動面の管理能力は、果たせない。

 たとえば、「銀行強盗でもして、大金を手に入れてみたい」と思うことと、実際、それを行動に移すことの間には、大きな距離がある。実際、仲間と組んで、強盗をする段階になっても、その時点で、これまた迷うかもしれない。

 精神的な決断イコール、行動というわけではない。たとえば行動面の管理能力が崩壊した例としては、自傷行為がある。突然、高いところから、発作的に飛びおりるなど。その人の生死にかかわる問題でありながら、そのコントロールができなくなってしまう。広く、自殺行為も、それに含まれるかもしれない。

 もう少し日常的な例として、寒い夜、ジョッギングに出かけるという場面を考えてみよう。

そういうときというのは、「寒いからいやだ」という抵抗感と、「健康のためにはしたほうがよい」という、二つの思いが、心の中で、真正面から対立する。ジョッギングに行くにしても、「いやだ」という思いと戦わねばならない。

 さらに反対に、悪の道から、自分を遠ざけるというのも、これに含まれる。タバコをすすめられて、そのままタバコを吸い始める子どもと、そうでない子どもがいる。悪の道に染まりやすい子どもは、それだけ行動の管理能力の弱い子どもとみる。

 こうして考えてみると、私たちの行動は、いつも(すべきこと・してはいけないこと)という、行動面の管理能力によって、管理されているのがわかる。それがしっかりとできるかどうかで、その人の人格の完成度を知ることができる。

 この点について、フロイトも着目し、行動面の管理能力の高い人を、「超自我の人」、「自我の人」、そうでない人を、「エスの人」と呼んでいる。

●精神面の管理能力

 私には、いくつかの恐怖症がある。閉所恐怖症、高所恐怖症にはじまって、スピード恐怖症、飛行機恐怖症など。

 精神的な欠陥もある。

 私のばあい、いくつか問題が重なって起きたりすると、その大小、軽重が、正確に判断できなくなってしまう。それは書庫で、同時に、いくつかのものをさがすときの心理状態に似ている。(私は、子どものころから、さがじものが苦手。かんしゃく発作のある子どもだったかもしれない。)

 具体的には、パニック状態になってしまう。

 こうした精神作用が、いつも私を取り巻いていて、そのつど、私の精神状態に影響を与える。

 そこで大切なことは、いつもそういう自分の精神状態を客観的に把握して、自分自身をコントロールしていくということ。

 たとえば乱暴な運転をするタクシーに乗ったとする。私は、スピード恐怖症だから、そういうとき、座席に深く頭を沈め、深呼吸を繰りかえす。スピードがこわいというより、そんなわけで、そういうタクシーに乗ると、神経をすり減らす。ときには、タクシーをおりたとたん、ヘナヘナと地面にすわりこんでしまうこともある。

 そういうとき、私は、精神のコントロールのむずかしさを、あらためて、思い知らされる。「わかっているけど、どうにもならない」という状態か。つまりこの点については、私の人格の完成度は、低いということになる。

●感情面の管理能力

 「つい、カーッとなってしまって……」と言う人は、それだけ感情面の管理能力の低い人ということになる。

 この感情面の管理能力で問題になるのは、その管理能力というよりは、その能力がないことにより、良好な人間関係が結べなくなってしまうということ。私の知りあいの中にも、ふだんは、快活で明るいのだが、ちょっとしたことで、激怒して、怒鳴り散らす人がいる。

 つきあう側としては、そういう人は、不安でならない。だから結果として、遠ざかる。その人はいつも、私に電話をかけてきて、「遊びにこい」と言う。しかし、私としては、どうしても足が遠のいてしまう。

 しかし人間は、まさに感情の動物。そのつど、喜怒哀楽の情を表現しながら、無数のドラマをつくっていく。感情を否定してはいけない。問題は、その感情を、どう管理するかである。

 私のばあい、私のワイフと比較しても、そのつど、感情に流されやすい人間である。(ワイフは、感情的には、きわめて完成度の高い女性である。結婚してから30年近くになるが、感情的に混乱状態になって、ワーワーと泣きわめく姿を見たことがない。大声を出して、相手を罵倒したのを、見たことがない。)

 一方、私は、いつも、大声を出して、何やら騒いでいる。「つい、カーッとなってしまって……」ということが、よくある。つまり感情の管理能力が、低い。

 が、こうした欠陥は、簡単には、なおらない。自分でもなおそうと思ったことはあるが、結局は、だめだった。

 で、つぎに私がしたことは、そういう欠陥が私にはあると認めたこと。認めた上で、そのつど、自分の感情と戦うようにしたこと。そういう点では、ものをこうして書くというのは。とてもよいことだと思う。書きながら、自分を冷静に見つめることができる。

 また感情的になったときは、その場では、判断するのを、ひかえる。たいていは黙って、その場をやり過ごす。「今のぼくは、本当のぼくではないぞ」と、である。

(2)の「良好な対人関係」と、(3)の「他者との良好な共感性」については、また別の機会に考えてみたい。
(はやし浩司 管理能力 人格の完成度 サロヴェイ 行動の管理能力 EQ EQ論 人格の完成)

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ついでながら、このEQ論を、
子どもの世界にあてはめて
考えてみたい。

それを診断テストにしたのが、
つぎである。

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【子どもの心の発達・診断テスト】

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【子どもの社会適応性・EQ検査】(参考:P・サロヴェイ)

●社会適応性

 子どもの社会適応性は、つぎの5つをみて、判断する(サロベイほか)。

(1)共感性

Q:友だちに、何か、手伝いを頼まれました。そのとき、あなたの子どもは……。

○いつも喜んでするようだ。
○ときとばあいによるようだ。
○いやがってしないことが多い。


(2)自己認知力

Q:親どうしが会話を始めました。大切な話をしています。そのとき、あなたの子どもは……

○雰囲気を察して、静かに待っている。(4点)
○しばらくすると、いつものように騒ぎだす。(2点)
○聞き分けガなく、「帰ろう」とか言って、親を困らせる。(0点)


(3)自己統制力

Q;冷蔵庫にあなたの子どものほしがりそうな食べ物があります。そのとき、あなたの子どもは……。

○親が「いい」と言うまで、食べない。安心していることができる。(4点)
○ときどき、親の目を盗んで、食べてしまうことがある。(2点)
○まったくアテにならない。親がいないと、好き勝手なことをする。(0点)


(4)粘り強さ

Q:子どもが自ら進んで、何かを作り始めました。そのとき、あなたの子どもは……。

○最後まで、何だかんだと言いながらも、仕あげる。(4点)
○だいたいは、仕あげるが、途中で投げだすこともある。(2点)
○たいていいつも、途中で投げだす。あきっぽいところがある。(0点)

(5)楽観性

Q:あなたの子どもが、何かのことで、大きな失敗をしました。そのとき、あなたの子どもは……。

○割と早く、ケロッとして、忘れてしまうようだ。クヨクヨしない。(4点)
○ときどき思い悩むことはあるようだが、つぎの行動に移ることができる。(2点)
○いつまでもそれを苦にして、前に進めないときが多い。(0点)
 

(6)柔軟性

Q:あなたの子どもの日常生活を見たとき、あなたの子どもは……

○友だちも多く、多芸多才。いつも変わったことを楽しんでいる。(4点)
○友だちは少ないほう。趣味も、限られている。(2点)
○何かにこだわることがある。がんこ。融通がきかない。(0点)

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(  )友だちのための仕事や労役を、好んで引き受ける(共感性)。
(  )自分の立場を、いつもよくわきまえている(自己認知力)。
(  )小遣いを貯金する。ほしいものに対して、がまん強い(自己統制力)。
(  )がんばって、ものごとを仕上げることがよくある(粘り強さ)。
(  )まちがえても、あまり気にしない。平気といった感じ(楽観性)。
(  )友人が多い。誕生日パーティによく招待される(社会適応性)。
(  )趣味が豊富で、何でもござれという感じ(柔軟性)。


 これら6つの要素が、ほどよくそなわっていれば、その子どもは、人間的に、完成度の高い子どもとみる(「EQ論」)。
(以上のテストは、いくつかの小中学校の協力を得て、表にしてあります。集計結果などは、HPのほうに収録。興味のある方は、そちらを見てほしい。)

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順に考えてみよう。

(1)共感性

 人格の完成度は、内面化、つまり精神の完成度をもってもる。その一つのバロメーターが、「共感性」ということになる。

 つまりは、どの程度、相手の立場で、相手の心の状態になって、その相手の苦しみ、悲しみ、悩みを、共感できるかどうかということ。

 その反対側に位置するのが、自己中心性である。

 乳幼児期は、子どもは、総じて自己中心的なものの考え方をする。しかし成長とともに、その自己中心性から脱却する。「利己から利他への転換」と私は呼んでいる。

 が、中には、その自己中心性から、脱却できないまま、おとなになる子どももいる。さらにこの自己中心性が、おとなになるにつれて、周囲の社会観と融合して、悪玉親意識、権威主義、世間体意識へと、変質することもある。

(2)自己認知力

 ここでいう「自己認知能力」は、「私はどんな人間なのか」「何をすべき人間なのか」「私は何をしたいのか」ということを、客観的に認知する能力をいう。

 この自己認知能力が、弱い子どもは、おとなから見ると、いわゆる「何を考えているかわからない子ども」といった、印象を与えるようになる。どこかぐずぐずしていて、はっきりしない。優柔不断。

反対に、独善、独断、排他性、偏見などを、もつこともある。自分のしていること、言っていることを客観的に認知することができないため、子どもは、猪突猛進型の生き方を示すことが多い。わがままで、横柄になることも、珍しくない。

(3)自己統制力

 すべきことと、してはいけないことを、冷静に判断し、その判断に従って行動する。子どものばあい、自己のコントロール力をみれば、それがわかる。

 たとえば自己統制力のある子どもは、お年玉を手にしても、それを貯金したり、さらにためて、もっと高価なものを買い求めようとしたりする。

 が、この自己統制力のない子どもは、手にしたお金を、その場で、その場の楽しみだけのために使ってしまったりする。あるいは親が、「食べてはだめ」と言っているにもかかわらず、お菓子をみな、食べてしまうなど。

 感情のコントロールも、この自己統制力に含まれる。平気で相手をキズつける言葉を口にしたり、感情のおもむくまま、好き勝手なことをするなど。もしそうであれば、自己統制力の弱い子どもとみる。

 ふつう自己統制力は、(1)行動面の統制力、(2)精神面の統制力、(3)感情面の統制力に分けて考える。

(4)粘り強さ

 短気というのは、それ自体が、人格的な欠陥と考えてよい。このことは、子どもの世界を見ていると、よくわかる。見た目の能力に、まどわされてはいけない。

 能力的に優秀な子どもでも、短気な子どもはいくらでもいる一方、能力的にかなり問題のある子どもでも、短気な子どもは多い。

 集中力がつづかないというよりは、精神的な緊張感が持続できない。そのため、短気になる。中には、単純作業を反復的にさせたりすると、突然、狂乱状態になって、泣き叫ぶ子どももいる。A障害という障害をもった子どもに、ときどき見られる症状である。

 この粘り強さこそが、その子どもの、忍耐力ということになる。

(3) 楽観性

 まちがいをすなおに認める。失敗をすなおに認める。あとはそれをすぐ忘れて、前向きに、ものを考えていく。

 それができる子どもには、何でもないことだが、心にゆがみのある子どもは、おかしなところで、それにこだわったり、ひがんだり、いじけたりする。クヨクヨと気にしたり、悩んだりすることもある。

 簡単な例としては、何かのことでまちがえたようなときを、それを見れば、わかる。

 ハハハと笑ってすます子どもと、深刻に思い悩んでしまう子どもがいる。その場の雰囲気にもよるが、ふと見せる(こだわり)を観察して、それを判断する。

 たとえば私のワイフなどは、ほとんど、ものごとには、こだわらない性質である。楽観的と言えば、楽観的。超・楽観的。

 先日も、「お前、がんになったら、どうする?」と聞くと、「なおせばいいじゃなア~い」と。そこで「がんは、こわい病気だよ」と言うと、「今じゃ、めったに死なないわよ」と。さらに、「なおらなかったら?」と聞くと、「そのときは、そのときよ。ジタバタしても、しかたないでしょう」と。

 冗談を言っているのかと思うときもあるが、ワイフは、本気。つまり、そういうふうに、考える人もいる。

(4) 柔軟性

 子どもの世界でも、(がんこ)な面を見せたら、警戒する。

 この(がんこ)は、(意地)、さらに(わがまま)とは、区別して考える。

 一般論として、(がんこ)は、子どもの心の発達には、好ましいことではない。かたくなになる、かたまる、がんこになる。こうした行動を、固執行動という。広く、情緒に何らかの問題がある子どもは、何らかの固執行動を見せることが多い。

 朝、幼稚園の先生が、自宅まで迎えにくるのだが、3年間、ただの一度もあいさつをしなかった子どもがいた。

 いつも青いズボンでないと、幼稚園へ行かなかった子どもがいた。その子どもは、幼稚園でも、決まった席でないと、絶対にすわろうとしなかった。

 何かの問題を解いて、先生が、「やりなおしてみよう」と声をかけただけで、かたまってしまう子どもがいた。

 先生が、「今日はいい天気だね」と声をかけたとき、「雲があるから、いい天気ではない」と、最後までがんばった子どもがいた。

 症状は千差万別だが、子どもの柔軟性は、柔軟でない子どもと比較して知ることができる。柔軟な子どもは、ごく自然な形で、集団の中で、行動できる。

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●では、どうすればよいか?

 脳ミソが機質的に変化してボケるというのは、これはどうしようもない。しかし機能的に変化してボケるという部分については、私たちの努力で、何とかなるのではないか。

 脳ミソの健康論は、何度も書くが、そういう点では、肉体の健康論と、よく似ている。日々の絶え間ない運動が、肉体の健康を維持するように、日々の絶え間ない思考が、脳ミソの健康を維持する。つまり、考えるということ。日々に新しいものに興味をもち、それにチャレンジしていくということ。

 補う程度では足りない。私の実感としては、年を取ればとるほど、脳ミソの底に、大きな穴があく。その穴から、容赦なく、知識や経験、技術や知恵、さらには人格までもが、下に落ちていく。だから、下に落ちていく以上のものを、私たちは日々の生活の中で、補給しなければならない。

 若いころは、さほど運動をしなくても、ある程度の健康を維持できる。しかし年を取ればとるほど、そういうわけにはいかない。運動のもつ重要さが、ます。しかもその運動は、きびしいものとなる。少しサボれば、その時点から、健康は、下り坂に向う。

 同じように、脳ミソの健康を維持するためには、若いとき以上に、脳ミソを鍛えなければならない。方法は、簡単。

 考える。考えて、考えて、考え抜く。1つのヒントとして、フランスの哲学者のモンテーニュ(1533~92)は、こう書き残している。

「『考える』という言葉を聞くが、私は何か書いているときのほか、考えたことはない」(随想録)と書いている。これは私にとっては、座右の銘になっている。参考までに!
(はやし浩司 思考 ボケ 認知症 人格の後退 人格論 EQ論 サロベイ)



●親子の確執

2006-01-09 21:05:26 | Weblog

●親子の確執

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掲示板のほうに、親子の問題に悩む、1人の
女性から、相談の書きこみがあった。

いわく、「良好な人間関係がベースにあれば、
苦労も苦労ではなくなるのですが、それがないと、
親子でも、苦労は倍化します。

ときどき、『どうして私なんか、産んでくれたのよ』と
母に叫びたくなることもあります。

子どものころから、親のことでは、苦労のしっぱなし。
結婚してからも、一日とて、気が晴れる日は
ありませんでした」(静岡県S市・Yより)と。

このメールを読んで、数年前、私にこんなメールを
くれた人のことを思い出した。

それをここに再掲載します。

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【NEより、はやし浩司へ】

はやし浩司さま

突然のメールで、失礼します。
暑いですが、いかがお過ごしですか?

今回のメールは、悩み相談の形をとってはいますが、ただ単に自分の気持ちを整理するために書いているものです。返信を求めているものではないので、どうかご安心ください。

結婚後、三重県S市で生活していた私たち夫婦は、主人が東京都の環境保護検査師採用試験に合格したこともあり、今春から東京で生活することになりました。実は、そのことをめぐって私の両親と大衝突しています。

嫁姑問題ならまだしも、実の親子関係でこじれて悩んでいるなんて、当事者以外にはなかなか理解できない話かもしれません。このような身内の恥は、あまり誰にも相談もできません。人生経験の浅い同年代の友人ではわからない部分も多いと感じ、人生の先輩である方のご意見を聞かせていただけたら…(今すぐにということではなく、やはり問題解決に至らなくて、どうにもならなくなったときに、いつか…)と思い、メールを出させていただきました。

まずはざっと話させていただきます。

事の発端は、私たち夫婦が東京に住むことになったことです。
表面上は…。

私の実家は、和歌山市にあります。夫の実家は、東京都のH市にあります。東京へ移る前は、三重県のS市に住んでいました。

けれども、日頃積もり積もった不満が、たまたま今回爆発してしまったというほうが正確なのかもしれません。

母は、私たちが三重県のS市を離れるとき、こう言いました。

「結婚後しばらくは三重県勤務だが、(私の実家のある)和歌山県の採用試験を受験しなおすと言っていたではないか。都道府県どうしの検査師の交換制度に申し込んで、三重県から和歌山県に移るとかして、いつかは和歌山市にくるチャンスがあれば…と、待っていた。それがだめでも、三重県なら隣の県で、まあまあ近いからとあきらめて結婚を許した。それが突然、東京に行くと聞いて驚いた。同居できなくてもいいが、できれば、親元近くにいてほしかった。あなたに見棄てられたという気分だ」と。

親の不安と孤独を、あらためて痛感させられた一件でした。「いつか和歌山市にくるかもしれない」というのは、あくまで両親の希望的観測であり、私たちが約束したことではありません。母も体が丈夫なほうではないので、確かにその思いは強かったかも知れませんが…。

ですので、いちいち明言化しなくても、娘なら両親の気持ちを察して、親元近くに住むのが当然だろう、という思いが、母には強かったようです。

しかし、最初からどんな条件をクリアしようと、結婚に賛成だったかといえば疑問です。昔風の理想像を、娘の私に押しつけるきらいがありました。

たとえ社会的地位や財産のある(彼らの基準でみて)申し分ない結婚相手であっても、相手を自分たちの理想像に押し込めようとするのをやめない限り、いつかは結局、同様の問題が噴き出していたと思うのです。

配偶者(夫)に対して、貧乏ゆすりが気に入らないだとか、食べ物の好き嫌いがあるのがイヤだなどと…。配偶者(夫)と結婚したのか、親と結婚したのかわからないほど、結婚当初は、親の顔色をうかがってばかりいました。両親の言い分を尊重しすぎて、つまらぬ夫婦喧嘩に発展したこともしばしばありました。

いつまでも頑固に、私の夫を「気に入らない!」と、わだかまりを抱えているようでは、近くに住んでもうまくいくとは思えません。両親にとって、娘という私の結婚は、越えられないハードルだったのかもしれませんね。

結婚後、実家を離れ、三重県で生活していても、「そんな田舎なんかに住んで」とバカにして電話の一本もくれませんでした。私が妊娠しても「誰が喜ぶと思ってるんだ」という調子。結局、流産してしまったときも「私が言った(暴言)せいじゃない(←それはそうかもしれませんが、ひどいことを言ってしまって謝るという気持ちがみられない)」と。

出産後も頼れるのは、夫の母親、つまり義母だけでした。実の母は「バカなあんたの子どもだから、バカにきまってる」「いまは紙おむつなんかあるからバカでも子育てできていいね」などなど。なんでそんなことまでいわれなければならないのかと、夢にまでうなされ夜中に叫んで目がさめたこともしばしば…

そんな調子ですから、結婚後、実家にかえったことも、数えるほどしかありません。行くたびに面とむかってさらに罵詈雑言を浴びせられ、必要以上に緊張してしまうことの繰り返しです。

このまま三重県生活を続けていてもいいと考えたのですが、子どもが生まれると近くに親兄弟の誰もいない土地での生活は大変な苦労の連続。私の実家のある和歌山市と、旦那の実家のある東京のそれぞれに帰省するのも負担で、盆正月からずらして休みをとってやっと帰る…などをくりかえしていました。そのためお彼岸のお墓参りのときには、何もせずに家にいるだけというふうでした。

さらに子どもの将来の進路・進学の選択肢の多さ少なさを比較すると、このまま三重県で暮らしていていいのだろうかと思い、それで夫婦ではなしあった結果、今回思いきって旦那が東京を受験しました。ただでさえ少子化の今の時代ですから、近くに義父母や親戚、兄弟が住んでいる街で、多くの目や手に支えられた環境の中で子育てしていこう!、との結論にいたったのでした。

このことについて実の母に相談をしませんでした。事後報告だったので、(といっても相談なんてできるような関係ではなかったですし)、和歌山市の両親を激怒させたことは悪かったとは思います。しかし、これが発端となり、母や父からも猛攻撃が始まりました。

「親孝行だなんて、東京に遠く離れて、一体何ができるっていうの? 調子いいこと言わないで!」
「孫は無条件にかわいいだろうなんて、馬鹿にしないで! もう孫の写真なんか送ってこなくていいから」
「偽善者ぶって母の日に花なんかよこさないで!」
「言っとくけど東京人なんて、世間の嫌われ者だからね」云々…。

電話は怖くて鳴っただけで体のふるえがとまらなくなり、いつ三重までおしかけてこられるかと恐怖でカーテンをしめきったまま、部屋にとじこもる日々でした。それでも子どもをつれて散歩にいかなければならないと外出すれば、路上で和歌山の両親の車と同じ車種の車とでくわしたりすると、足がすくんでうごけなくなってしまい、職場にいる主人に助けをもとめて電話する…そんな日々がしばらく続きました。

いつしか『親棄て』などと感情的な言葉をあびせかけられ、話が大上段で感情的な応酬になってしまっています。親の気持ちも決して理解できないわけではないのですが…。

ふりかえると、両親も、夫婦仲が悪く、弟も進学・就職で家を離れ、私がまるで一人っ娘状態となり、過剰な期待に圧迫されて共依存関係が強まり、「一卵性母娘」関係になりかけた時期がありました。

もしかするとその頃から、親子関係にほころびが生じてしまったのかもしれません。こちらの言い分があっても、パラサイト生活の状態だったので、最後には「上げ膳据え膳の身で、何を生意気言ってるの!」とピシャリ! 何も反論できませんでした。

親が憎いとか、断絶するとか、そんな気持ちはこちらにはないのです。実の親子なのですから、ケンカしても、必ず関係修復できることはわかっています。でも、うまく距離がとれず、ちょっと苦しくなってしまったというだけ。

「おまえは楽なほうに逃げるためにあんな男つれてきて、仕事もやめて田舎にひっこんで結婚しようとしてるんだ」
「連中はこっちが金持ちだとおもってウハウハしてるんだ」
「人間はいつのまにか染まっていくもの。あんたもあんな汚らしい長家に住んでる人間たちと一緒になりたければ、出て行けばいい」などなどと、吐かれた暴言は、心にくいとなってつきささり、ひどく傷つきました。

結婚に反対され、家をとびだし一人暮らしを始めたのも、「このままの関係ではまずい」と思ったことがきっかけでした。ついに一人ではそんな暴言の嵐を消化しきれず、旦那や義父母に泣いてすがると、私の両親は「お前が何も言わなければ、そんなことあっちには伝わらなかったのに。余計なことしゃべりやがって。あっちの親ばっかりたてて、自分の親は責めてこきおろして…。よくもそんなに人バカにしてくれたね。もう私達の立場はないじゃないか。親が地獄のような日々おくっているのに、自分だけが幸せになれるなんて思うなよ」と。

そんな我が家の場合、もう一度、適切な親子の距離をとり直すために、もめるだけもめて、これまでの膿を全部出し切っていくという、痛みをともなうプロセスを、避けて通れないようです。

本や雑誌で、家族や親子の問題を扱った記事を目にすると、子ども側だけが一方的に悪いわけではないようだと知り安心するものの、それは所詮こじつけではないか?、と堂々巡りに迷いこみ、訳がわからなくなってしまいます。

娘の幸せに嫉妬してしまう母、愛情が抑圧に転じてしまう親、アダルトチルドレン、心理学用語でいう「癒着」、育ててもらった恩に縛られすぎて、自分の意思で生きていけない子ども…などなど。そんな事例もあるのだなーと飽くまで参考にする程度ですが、どこかしらあてはまる話には、共感させられることも多いです。

世間一般には、「スープの冷めない距離」に住むことが親孝行だとされています。私の母は、「近所のだれそれさんはちゃんと親近くに住んでいる。いい子だね」という調子で、それにあてはまらない子は、「ヘンな子ね、いやだわ」で終わり。スープの冷めない距離に住めなかった私は「親不孝者だ…」と己を責め、自分そのものを肯定できなくなることもあります。

こんな親不孝者には、子育ても人間関係も仕事もうまくいくわけがないのだ。親を棄てて、幸せだなんて自己満足で、いつか必ずしっぺ返しをくらって当然だ。父母の理想から外れた人生を選び、それによってますます彼らを傷つけている私に、存在価値なんてあるのだろうか…などと。

子どもは24時間待ったなしで愛情もとめてすりよってきますが、東大に入れて外交官にして、おまけにプロのピアニスト&バイオリニストなどにでもしなければ、子育てを認めないような、かたよった価値観の両親のものさしを前に、無気力感でいっぱいになってしまいます。よってくる我が子をたきしめることもできずに、ただただ涙…そんな日々もあります。

実はこの親子関係がらみの問題は、私の弟の問題でもあります。

彼は転職する際、両親と大衝突し、罵詈雑言の矛先が選択そのものにではなく、人格にまで向けられたことに対して、相当トラウマを感じているようです。(事実、1年近く、実家との一切の関わりを断ち切った時期もあったほどです)。

結局、転職先は両親の許容範囲におさまり、表層は解決したように見えるのですが、本質的な信頼の回復には至っていません。子の人生を受け入れることができない両親の狭量さを、彼はいまだに許していません。

弟は「親は親の人生、子は子の人生。親の期待に子が応えるという、狭い了見から脱して、成人した子どもとの関係を築こうとしない限り、両親が子どもの生き方にストレスをためる悪循環からは抜け出せないよ」と、両親を諭そうとした経験があります(もちろん人間そう簡単には変わりませんが…)。

今回の私の件も、問題の根本は同じであると受け止め、(今後、彼の人生にもあれこれ影響が出てくるのは必至なので)、「他人事ではない」と味方についてくれました。

まだ人生経験が浅い私には、親が遠距離にいるという事実が、将来的に、今は予想もつかないどんな事態を覚悟しておかねばならないのか、具体的なシミュレーションすらできていません。(せめて今後の参考に…と思い、ある方が書いた、「親と離れて暮らす長男長女のための本」を借りてきて、眺めたりしています。)

親の不安と孤独を軽減するには、一にも二にも顔を見せることですね。夫の実家に子どもを預けて、和歌山市にどんどん帰省しようと思います。そういう面では、親戚など誰も頼る人のいない三重県S市在住の今よりも、ずっと帰省しやすくなるはずです。あとはお互いの気持ちの問題です。そう前向きに思うようにはしたいのですが…

人は誰にも遠慮することなく、幸せをつかむ権利があり、そうした自己完結的な充足の中に、ある面では躊躇を感じる気質も持ち合わせていて、そこに人間の心の美しさがあるのかもしれない…そんなことを言っている人がいました。

私はこれまで両親から受けた恩に限りない感謝を覚えていますし、折に触れてその感謝を形に表していきたいと思っています。が、今はそんな思いは看過ごされ、けんかばかり。「親棄て」の感情論のみ先行してしまっていることが残念です。

我が家の親子関係再構築の闘いは、まだまだ続きそうです。でも性急さは何の解決も生み出しません。まずは悲観的にならず、感情的にならず、静かに思慮深く、自分の子どもにしっかり愛情注いで過ごしていくしかないと思います。

そして、原因を親にばかりなすりつけるのではなく、これまで育ててもらった愛情に限りない感謝の気持ちを忘れずに、折々に言葉や態度で示しつつ、前進していかなければ…と思っています。

理想の親子関係って何でしょうね?
親孝行って何でしょうね?

勝手なおしゃべりで失礼しました。
誰かの助言ですぐに好転する問題ではないので、急ぎの回答など気にしないでください!こうして打ち明けることで、もう既にカウンセリング効果を得たようなものですから。(と、言っている間にも、状況はどんどん変わりつつあり、解決しているといいのですが…)

ただ、私が最近思うことは、私の両親の意識改革も必要なのではないかということです。彼らの親戚も、数少ない友人もほとんどつきあいのない隣り近所も誰も、彼らのかたよった親意識にメスを入れることのできる人はいない状況です。

先日は父の還暦祝いに…と、弟と二人でだしあって送った旅行券もうけとってもらえず、ふだんご無沙汰している弟が、母の日や父の日にひとことだけ電話をいれたときにも話したくなさそうに、さも、めんどくさそうに、短く応答してすぐブツリときられてしまったそうです。

彼らはパソコン世代ではありません。親の心に染入るような書物を紹介する読書案内のダイレクトメールですとか、講演会のお知らせなどを、(私がしむけているなどとは決してわからないように)、ある日突然郵送で何度か、繰り返し送っていただくことはできませんでしょうか?

そのハガキに目がとまるかどうかが、彼らが意識を改革できるかどうかの最後のきっかけであるような気がしてならないのです。

そういうふうに、相手にかわってくれ!、と望んでいる私の姿勢も無駄なんですよね。

はやしさんのHPにあった親離れの事例などは、うちよりもさらに深刻な実の母親のストーカーの話でしたから、最近の世の中には増えてきていることなのだろうと思いました。

友達に相談しても、早くから親元はなれてそういう衝突したことのない人からみれば、まったくわからない話ですし、「あなたを今まで育ててくれたご両親に対する、そういう態度みてあきれた」と、去っていった友人もいました。また、あまり親しくない人たちのまえでは、実の親子なんですからもちろんうまくいっているかのようにとりつくろわなければならず、非常に疲れます。

時間はかかるでしょうが、両親があきらめてくれるかもしれないきっかけとしては、いろいろやるべきことがあるようです。たとえば両親の家は、新築したばかりの家ですので、和歌山市に帰って年老いた両親のかわりに、家の掃除や手入れなどをひきうけること。私が仕事(検査助手)に復帰し、英検・通検などを取得すること。小さい頃から習い続けてきて途中で放棄されたままのピアノも、もういちど始めること(和歌山市の実家に置き去りになっているアップライトのピアノがある)。母の着物一式をゆずりうけるために気付など着物の知識をしっかり勉強すること。同じく母の花器をつかって玄関先に生けてもはずかしくないくらいのいけばなができるようになること。梅干やおせち料理、郷土料理など母から(TVや雑誌などでは学べない)母の味をしっかり受け継ぐこと…などなどが考えられます。

東京で勤務し続ける弟とは、両親に何かあればひきとる考えでいることを話し合っています(実際にはかなり難しいでしょうが…)。弟も私が和歌山市に戻り、ここまでこじれても一言子どもの立場から折れて謝罪すれば、ずいぶん状況が違うだろうといってくれてはいるのですが、ほんとうに謝る気もないのにくちさきだけ謝ったとしても、いつかは親の枕もとに包丁をもって立っていた…なんてことにもなりかねません。謝ってしまうと親のねじまがった価値観を認めることになりそうでそれは絶対にできません。

万一のときには実家に駆けつけるつもりですが、正直、今の気持ちとしては何があろうと親の顔も見たくありません。

すみません。長くなりました。

急ぎではありませんので、多くの事例をご覧になってきたはやしさんの立場から何かご意見がございましたら、いつかお時間に余裕ができましたときにお聞かせいただければと思いました。

HPでは現在ご多忙中につき、相談おことわり…とありましたのに、それを承知でお便りしてしまいまして、勢いでまとまらない文章におつきあいくださいましてありがとうございました。

暑さはこれからが本番です。
どうぞお体ご自愛なさってお過ごしください。

現在は東京都F市に住んでいます。 NEより

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【静岡県S市・Yさんへ】

 『悪魔は、それを笑ったものからは退散し、それを恐れたものには、重い十字架となって、容赦なく、襲いかかる』

 親子の問題を、「悪魔」にたとえましたが、親子であるがゆえに、その関係も一度こじれると、「悪魔」にたとえてもおかしくないほど、問題は、深刻になりがちです。

 実は、私も同じような問題をかかえています。しかもそれが、断続的ではあるにせよ、定期的にやってきては、私を苦しめます。

 しかしそんなとき私は、ふと、こう思います。「笑ってやろうではないか」と。

 笑えばよいのです。笑えば……。「バカめ!」と、です。すると、悪魔は向こうのほうから、シッポを巻いて退散していきます。それが、ときとして、「実感」として体感できるから、おもしろいです。とたん、心も軽くなります。

 親に対して、「親だから……」という幻想は、捨てること。ただのジジイ、もしくは、ただのババアと思えばよいのです。私たちが幼少の子どもを本気で相手にしないように、老人など、本気で相手にしてはいけません。そのためにも、ここに書いたように、「親であるという幻想」を捨てることです。

 親だから、人生の先輩のはず。
 親だから、すばらしいはず。
 親だから、子どものことを愛しているはず。
 親だから、子どものことを心配しているはず。……みんな、幻想です。

 もちろん中には、そういうすばらしい親もいますが、大半は、ただのジジイか、ババアです。最近聞いた話には、子どもを虐待し、子どもを精神病に追いこんでしまった親の例もあります。が、当の親には、その自覚がありません。「あの子は、生まれつき、ああだ」などと、平然としているそうです。

 親もただの人間。私と同じ人間。そう気づいたとき、暗くて長いトンネルの向こうに、あなたも、一筋の光を見ることができるはずです。

 で、あなたが感じているような苦しみを、心理学の世界でも、「幻惑」(=家族自我群という束縛があるゆえの、苦しみ)と呼んでいます。こうした独立した言葉があることからもわかるように、広く、たいへん多くの人たちが、あなたのかかえるような問題で苦しんでいます。

 決して、あなた1人だけがそうであると思わないこと、ですね。がんばりましょう!

●子育て一口メモ(4)

2006-01-07 14:36:10 | Weblog
●子育ては重労働

子育ては、もともと重労働。そういう前提で、考える。自分だけが苦しんでいるとか、おかしいとか、子どもに問題があるなどと、考えてはいけない。しかしここが重要だがが、そういう(苦しみ)をとおして、親は、ただの親から、真の親へと成長する。そのことは、子育てが終わってみると、よくわかる。子育ての苦労が、それまで見えなかった、新しい世界を親に見せてくれる。子育ての終わりには、それがやってくる。どうか、お楽しみに!


●自分の生きザマを!

子育てをしながらも、親は、親で、自分の生きザマを確立する。「あなたはあなたで、勝手に生きなさい。私は私で、勝手に生きます」と。そういう一歩退いた目が、ともすればギクシャクとしがちな、親子関係に、風を通す。子どもだけを見て、子どもだけが視野にしか入らないというのは、それだけその人の生きザマが、小さいということになる。あなたはあなたで、したいことを、する。そういう姿が、子どもを伸ばす。


●問題のない子育てはない

子育てをしていると、子育てや子どもにまつわる問題は、つぎからつぎへと、起きてくる。それは岸辺に打ち寄せる波のようなもの。問題のない子どもはいないし、したがって、問題のない子育ては、ない。できのよい子ども(?)をもった親でも、その親なりに、いろいろな問題に、そのつど、直面する。できが悪ければ(?)、もっと直面する。子育てというのは、もともとそういうもの。そういう前提で、子育てを考える。


●解決プロセスを用意する

英文を読んでいて、意味のわからない単語にぶつかったら、辞書をひく。同じように、子育てで何かの問題にぶつかったら、どのように解決するか、そのプロセスを、まず、つくっておく。兄弟や親類に相談するのもよい。親に相談するのも、よい。何かのサークルに属するのもよい。自分の身にまわりに、そういう相談相手を用意する。が、一番よいのは、自分の子どもより、2、3歳年上の子どもをもつ、親と緊密になること。「うちもこうでしたよ」というアドバイスをもらって、たいていの問題は、その場で解決する。


●動揺しない
株取引のガイドブックを読んでいたら、こんなことが書いてあった。「プロとアマのちがいは、プロは、株価の上下に動揺しないが、アマは、動揺する。だからそのたびに、アマは、大損をする」と。子育ても、それに似ている。子育てで失敗しやすい親というのは、それだけ動揺しやすい。子どもを、月単位、半年単位で見ることができない。そのつど、動揺し、あわてふためく。この親の動揺が、子どもの問題を、こじらせる。


●自分なら……

賢い親は、いつも子育てをしながら、「自分ならどうか?」と、自問する。そうでない親は親意識だけが強く、「~~あるべき」「~~であるべきでない」という視点で、子どもをみる。そして自分の理想や価値観を、子どもに押しつけよとする。そこで子どもに何か問題が起きたら、「私ならどうするか?」「私はどうだったか?」という視点で考える。たとえば子どもに向かって「ウソをついてはダメ」と言ったら、「私ならどうか?」と。


●時間を置く

葉というのは、耳に入ってから、脳に届くまで、かなりの時間がかかる。相手が子どもなら、なおさらである。だから言うべきことは言いながらも、効果はすぐには、求めない。また言ったからといって、それですぐ、問題が解決するわけでもない。コツは、言うべきことは、淡々と言いながらも、あとは、時間を待つ。短気な親ほど、ガンガンと子どもを叱ったりするが、子どもはこわいから、おとなしくしているだけ。反省などしていない。


●叱られじょうずな子どもにしない

親や先生に叱られると、頭をうなだれて、いかにも叱られていますといった、様子を見せる子どもがいる。一見、すなおに反省しているかのように見えるが、反省などしていない。こわいからそうしているだけ。もっと言えば、「嵐が通りすぎるのを待っているだけ」。中には、親に叱られながら、心の中で歌を歌っていた子どももいた。だから同じ失敗をまた繰りかえす。


●叱っても、人権を踏みにじらない

先生に叱られたりすると、パッとその場で、土下座をしてみせる子どもがいる。いわゆる(叱られじょうずな子ども)とみる。しかしだからといって、反省など、していない。そういう形で、自分に降りかかってくる、火の粉を最小限にしようとする。子どもを叱ることもあるだろうが、しかしどんなばあいも、最後のところでは、子どもの人権だけは守る。「あなたはダメな子」式の、人格の「核」攻撃は、してはいけない。


●子どもは、親のマネをする

たいへん口がうまく、うそばかり言っている子どもがいた。しかしやがてその理由がわかった。母親自身もそうだった。教師の世界には、「口のうまい親ほど、要注意」という、大鉄則がある。そういう親ほど、一度、敵(?)にまわると、今度は、その数百倍も、教師の悪口を言い出す。子どもに誠実になってほしかったら、親自身が、誠実な様子を、日常生活の中で見せておく。


●一事が万事論

あなたは交通信号を、しっかりと守っているだろうか。もしそうなら、それでよし。しかし赤信号でも、平気で、アクセルを踏むようなら、注意したほうがよい。あなたの子どもも、あなたに劣らず、小ズルイ人間になるだけ。つまり親が、小ズルイことをしておきながら、子どもに向かって、「約束を守りなさい」は、ない。ウソはつかない。約束は守る。ルールには従う。そういう親の姿勢を見ながら、子どもは、(まじめさ)を身につける。


●代償的過保護に注意
「子どもはかわいい」「私は子どもを愛している」と、豪語する親ほど、本当のところ、愛が何であるか、わかっていない。子どもを愛するということは、それほどまでに、重く、深いもの。中には、子どもを自分の支配下において、自分の思いどおりにしたいと考えている親もいる。これを代償的過保護という。一見、過保護に見えるが、その基盤に愛情がない。つまりは、愛もどきの愛を、愛と錯覚しているだけ。


●子どもどうしのトラブルは、子どもに任す

子どもの世界で、子どもどうしのトラブルが起きたら、子どもに任す。親の介入は、最小限に。そういうトラブルをとおして、子どもは、子どもなりの問題解決の技法を身につけていく。親としてはつらいところだが、1にがまん、2にがまん。親が口を出すのは、そのあとでよい。もちろん子どものほうから、何かの助けを求めてきたら、そのときは、相談にのってやる。ほどよい親であることが、よい親の条件。


●許して忘れ、あとはあきらめる

子どもの問題は、許して、忘れる。そしてあとはあきらめる。「うちの子にかぎって……」「そんなはずはない」「まだ何とかなる」と、親が考えている間は、親に安穏たる日々はやってこない。そこで「あきらめる」。あきらめると、その先にトンネルの出口を見ることができる。子どもの心にも風が通るようになる。しかしヘタにがんばればがんばるほど、親は、袋小路に入る。子どもも苦しむ。


●強化の原理

子どもが、何かの行動をしたとする。そのとき、その行動について、何か、よいことが起きたとする。ほめられるとか、ほうびがもらえるとか。あるいは心地よい感覚に包まれるとか。そういう何かよいことが起こるたびに、その行動は、ますます強化される。これを「強化の原理」という。子どもの能力をのばすための大鉄則ということになる。


●弱化の原理

強化の原理に対して、弱化の原理がある。何か、行動をしたとき、つまずいたり、失敗したり、叱られたりすると、子どもは、やる気をなくしたり、今度は、その行動を避けるようになる。これを弱化の原理という。子どもにもよるし、ケースにもよるが、一度弱化の原理が働くようになると、学習効果は、著しく落ちるようになる。


●内面化
子どもは成長とともに、身長がのび、体重が増加する。これを外面化というのに対して、心の発達を、内面化という。その内面化は、(1)他者との共鳴性(自己中心性からの脱却)、(2)自己管理能力、(3)良好な人間関係をみるとよい(EQ論)。ほかに道徳規範や倫理観の発達、社会規範や、善悪の判断力などを、ふくめる。心理学の世界では、こうした発達を総称して、「しつけ」という。


●子どもの意欲

子どもは、親、とくに母親の意欲を見ながら、自分の意欲を育てる。一般論として、意欲的な母親の子どもは、意欲的になる。そうでない母親の子どもは、そうでない。ただし、母親が意欲的過ぎるのも、よくない。昔から、『ハリキリママのションボリ息子』と言われる。とくに子どもに対しては、ほどよい親であることが望ましい。任すところは子どもに任せ、一歩退きながら、暖かい無視を繰りかえす。それが子育てのコツということになる。


●ほどよい目標

過負担、過剰期待ほど、子どもを苦しめるものはない。そればかりではない。自信喪失から、やる気をなくしてしまうこともある。仮に一時的にうまくいっても、オーバーヒート現象(燃え尽き症候群、荷卸し症候群)に襲われることもある。子どもにとって重要なことは、達成感。ある程度がんばったところで、「できた!」という喜びが、子どもを伸ばす。子どもには、ほどよい目標をもたせるようにする。

●子育て一口メモ(3)

2006-01-07 14:35:42 | Weblog



●「利他」度でわかる、人格の完成度

あなたの子どもの前で、重い荷物をもって、苦しそうに歩いてみてほしい。そのとき、「ママ、もってあげる!」と走りよってくればよし。反対に、知らぬ顔をして、テレビゲームなどに夢中になっていれば、あなたの子どもは、かなりのどら息子と考えてよい。子どもの人格(おとなも!)、いかに利他的であるかによって、知ることができる。つまりドラ息子は、それだけ人格の完成度の低い子どもとみる。勉強のできる、できないは、関係ない。


●見栄、体裁、世間体

私らしく生きるその生き方の反対にあるのが、世間体意識。この世間体に毒されると、子どもの姿はもちろんのこと、自分の姿さえも、見失ってしまう。そしてその幸福感も、「となりの人より、いい生活をしているから、私は幸福」「となりの人より悪い生活をしているから、私は不幸」と、相対的なものになりやすい。もちろん子育ても、大きな影響を受ける。子どもの学歴について、ブランド志向の強い親は、ここで一度、反省してみてほしい。あなたは自分の人生を、自分のものとして、生きているか、と。


●私を知る

子育ては、本能ではなく、学習である。つまり今、あなたがしている子育ては、あなたが親から学習したものである。だから、ほとんどの親は、こう言う。「頭の中ではわかっているのですが、ついその場になると、カッとして……」と。そこで大切なことは、あなた自身の中の「私」を知ること。一見簡単そうだが、これがむずかしい。スパルタのキロンもこう言っている。『汝自身を、知れ』と。哲学の究極の目標にも、なっている。


●成功率(達成率)は50%

子どもが、2回トライして、1回は、うまくいくようにしむける。毎回、成功していたのでは、子どもも楽しくない。しかし毎回失敗していたのでは、やる気をなくす。だから、その目安は、50%。その50%を、うまく用意しながら、子どもを誘導していく。そしていつも、何かのレッスンの終わりには、「ほら、ちゃんとできるじゃ、ない」「すばらしい」と言って、ほめて仕あげる。


●無理、強制

無理(能力を超えた負担)や強制(強引な指導)は、一時的な効果はあっても、それ以上の効果はない。そればかりか、そのあと、その反動として、子どもは、やる気をなくす。ばあいによっては、燃え尽きてしまったり、無気力になったりすることもある。そんなわけで、『伸びたバネは、必ず縮む』と覚えておくとよい。無理をしても、全体としてみれば、プラスマイナス・ゼロになるということ。


●条件、比較

「100点取ったら、お小遣いをあげる」「1時間勉強したら、お菓子をあげる」というのが条件。「A君は、もうカタカナが読めるのよ」「お兄ちゃんが、あんたのときは、学校で一番だったのよ」というのが、比較ということになる。条件や比較は、子どもからやる気を奪うだけではなく、子どもの心を卑屈にする。日常化すれば、「私は私」という生き方すらできなくなってしまう。子どもの問題というよりは、親自身の問題として、考えたらよい。(内発的動機づけ)


●方向性は図書館で

どんな子どもにも、方向性がある。その方向性を知りたかったら、子どもを図書館へ連れていき、一日、そこで遊ばせてみるとよい。やがて子どもが好んで読む本が、わかってくる。それがその子どもの方向性である。たとえばスポーツの本なら、その子どもは、スポーツに強い関心をもっていることを示す。その方向性がわかったら、その方向性にそって、子どもを指導し、伸ばす。


●神経症(心身症)に注意

心が変調してくると、子どもの行動や心に、その前兆症状として、変化が見られるようになる。「何か、おかしい?」と感じたら、神経症もしくは、心身症を疑ってみる。よく知られた例としては、チック、吃音(どもり)、指しゃぶり、爪かみ、ものいじり、夜尿などがある。日常的に、抑圧感や欲求不満を覚えると、子どもは、これらの症状を示す。こうした症状が見られたら、(親は、子どもをなおそうとするが)、まず親自身の育児姿勢と、子育てのあり方を猛省する。


●負担は、少しずつ減らす

子どもが無気力症状を示すと、たいていの親は、あわてる。そしていきなり、負担を、すべて取り払ってしまう。「おけいこごとは、すべてやめましょう」と。しかしこうした極端な変化は、かえって症状を悪化させてしまう。負担は、少しずつ減らす。数週間から、1、2か月をかけて減らすのがよい。そしてその間に、子どもの心のケアに務める。そうすることによって、あとあと、子どもの立ちなおりが、用意になる。

●荷おろし症候群

何かの目標を達成したとたん、目標を喪失し、無気力状態になることを言う。有名高校や大学に進学したあとになることが多い。燃え尽き症候群と症状は似ている。一日中、ボーッとしているだけ。感情的な反応も少なくなる。地元のS進学高校のばあい、1年生で、10~15%の子どもに、そういう症状が見られる(S高校教師談)とのこと。「友人が少なく、人に言われていやいや勉強した子どもに多い」(渋谷昌三氏)と。


●回復は1年単位

一度、無気力状態に襲われると、回復には、1年単位の時間がかかる。(1年でも、短いほうだが……。)たいていのばあい、少し回復し始めると、その段階で、親は無理をする。その無理が、かえって症状を悪化させる。だから、1年単位。「先月とくらべて、症状はどうか?」「去年とくらべて、症状はどうか?」という視点でみる。日々の変化や、週単位の変化に、決して、一喜一憂しないこと。心の病気というのは、そういうもの。


●前向きの暗示を大切に

子どもには、いつも前向きの暗示を加えていく。「あなたは、明日は、もっとすばらしくなる」「来年は、もっとすばらしい年になる」と。こうした前向きな暗示が、子どものやる気を引き起こす。ある家庭には、4人の子どもがいた。しかしどの子も、表情が明るい。その秘訣は、母親にあった。母親はいつも、こうような言い方をしていた。「ほら、あんたも、お兄ちゃんの服が着られるようになったわね」と。「明日は、もっといいことがある」という思いが、子どもを前にひっぱっていく。


●未来をおどさない

今、赤ちゃんがえりならぬ、幼児がえりを起こす子どもがふえている。おとなになることに、ある種の恐怖感を覚えているためである。兄や姉のはげしい受験勉強を見て、恐怖感を覚えることもある。幼児のときにもっていた、本や雑誌、おもちゃを取り出して、大切そうにそれをもっているなど。話し方そのものが、幼稚ぽくなることもある。子どもの未来を脅さない。


●子どもを伸ばす、三種の神器

子どもを伸ばす、三種の神器が、夢、目的、希望。しかし今、夢のない子どもがふえた。中学生だと、ほとんどが、夢をもっていない。また「明日は、きっといいことがある」と思って、一日を終える子どもは、男子30%、女子35%にすぎない(「日本社会子ども学会」、全国の小学生3226人を対象に、04年度調査)。子どもの夢を大切に、それを伸ばすのは、親の義務と、心得る。


●受験は淡々と

子ども(幼児)の受験は、淡々と。合格することを考えて準備するのではなく、不合格になったときのことを考えて、準備する。この時期、一度、それをトラウマにすると、子どもは生涯にわたって、自ら「ダメ人間」のレッテルを張ってしまう。そうなれば、大失敗というもの。だから受験は、不合格のときを考えながら、準備する。


●比較しない

情報交換はある程度までは必要だが、しかしそれ以上の、深い親どうしの交際は、避ける。できれば、必要な情報だけを集めて、交際するとしても、子どもの受験とは関係ない人とする。「受験」の魔力には、想像以上のものがある。一度、この魔力にとりつかれると、かなり精神的にタフな人でも、自分で自分を見失ってしまう。気がついたときには、狂乱状態に……ということにも、なりかねない。


●「入試」「合格・不合格」は、禁句

子どもの前では、「受験」「入試」「合格」「不合格」「落ちる」「すべる」などの用語を口にするのは、タブーと思うこと。入試に向かうとしても、子どもに楽しませるようなお膳立ては、必要である。「今度、お母さんがお弁当つくってあげるから、いっしょに行きましょうね」とか。またそういう雰囲気のほうが、子どもも伸び伸びとできる。また結果も、よい。


●入試内容に迎合しない

たまに難しい問題が出ると、親は、それにすぐ迎合しようとする。たとえば前年度で、球根の名前を聞かれるような問題が出たとする。するとすぐ、親は、「では……」と。しかし大切なことは、物知りな子どもにすることではなく、深く考える子どもにすることである。わからなかったら、すなおに「わかりません」と言えばよい。試験官にしても、そういうすなおさを、試しているのである。


●子どもらしい子ども

子どもは子どもらしい子どもにする。すなおで、明るく、伸びやかで、好奇心が旺盛で、生活力があって……。すなおというのは、心の状態と、表情が一致している子どもをいう。ねたむ、いじける、すねる、ひねくれるなどの症状のない子どもをいう。そういう子どもを目指し、それでダメだというのなら、そんな学校は、こちらから蹴とばせばよい。それくらいの気構えは、親には必要である。


●デマにご用心

受験期になると、とんでもないデマが飛びかう。「今年は、受験者数が多い」「教員と親しくなっておかねば不利」「裏金が必要」などなど。親たちの不安心理が、さらにそうしたデマを増幅させる。さらに口から口へと伝わっていく間に、デマ自身も大きくなる。こういうのを心理学の世界でも、「記憶錯誤」という。子どもよりも、おとなのほうが、しかも不安状態であればあるほど、その錯誤が大きくなることが知られている。


●上下意識は、もたない

兄(姉)が上で、弟(妹)が下という、上下意識をもたない。……といっても、日本人からこの意識を抜くのは、容易なことではない。伝統的に、そういう意識をたたきこまれている。今でも、長子相続を本気で考えている人は多い。もしあなたがどこか権威主義的なものの考え方をしているようなら、まず、それを改める。


●子どもの名前で、子どもを呼ぶ

「お兄ちゃん」「お姉ちゃん」ではなく、兄でも、姉でも、子ども自身の名前で、子どもを呼ぶ。たとえば子どもの名前が太郎だったら、「太郎」と呼ぶ。一般的に、たがいに名前で呼びあう兄弟(姉妹)は、仲がよいと言われている。


●差別しない

長男、長女は、下の子が生まれたときから、恒常的な愛情不足、欲求不満の状態に置かれる。親は「平等」というが、長男、長女にしてみれば、平等ということが、不平等なのである。そういう前提で、長男(長女)の心理を理解する。つまり長男(長女)のほうが、不平等に対して、きわめて敏感に反応しやすい。


●嫉妬はタブー

兄弟(姉妹)の間で、嫉妬感情をもたせない。これは子育ての鉄則と考えてよい。嫉妬は、確実に子どもの心をゆがめる。原始的な感情であるがゆえに、扱い方もむずかしい。この嫉妬がゆがむと、相手を殺すところまでする。兄弟(姉妹)を別々に扱うときも、たがいに嫉妬させないようにする。


●たがいを喜ばせる

兄弟を仲よくさせる方法として、「たがいを喜ばせる」がある。たとえばうち1人を買い物に連れていったときでも、「これがあると○○君、喜ぶわね」「△△ちゃん、喜ぶわね」というような買い与え方をする。いつも相手を喜ばすようにしむける。これはたがいの思いやりの心を育てるためにも、重要である。


●決して批判しない

子どもどうしの悪口を、決して言わない。聞かない。聞いても、判断しない。たとえば兄に何か問題があっても、それを絶対に(絶対に)、弟に告げ口してはいけない。告げ口した段階で、あなたと兄の関係は、壊れる。反対に兄が弟のことで、何か告げ口をしても、あなたは聞くだけ。決して相づちを打ったり、いっしょになって、兄を批判してはいけない。


●得意面をさらに伸ばす

子どもを伸ばすコツは、得意面をさらに伸ばし、不得意面については、目を閉じること。たとえば受験生でも、得意な英語を伸ばしていると、不得意だった数学も、つられるように伸び始めるということがよくある。「うちの子は、運動が苦手だから、体操教室へ……」という発想は、そもそも、その発想からしてまちがっている。子どもは(いやがる)→(ますます不得意になる)の悪循環を繰りかえすようになる。


●悪循環を感じたら、手を引く

子育てをしていて、どこかで悪循環を感じたら、すかさず、その問題から、手を引く。あきらめて、忘れる。あるいはほかの面に、関心を移す。「まだ、何とかなる」「そんなハズはない」と親ががんばればがんばるほど、話が、おかしくなる。深みにはまる。が、それだけではない。一度、この悪循環に入ると。それまで得意であった分野にまで、悪影響をおよぼすようになる。自信喪失から、自己否定に走ることもある。


●子どもは、ほめて伸ばす

『叱るときは、陰で。ほめるときは、みなの前で』は、幼児教育の大鉄則。もっとはっきり言えば、子どもは、ほめて伸ばす。仮にたどたどしい、読みにくい文字を書いたとしても、「ほほう、字がじょうずになったね」と。こうした前向きの強化が、子どもを伸ばす。この時期、子どもは、ややうぬぼれ気味のほうが、あとあと、よく伸びる。「ぼくはできる」「私はすばらしい」という自信が、子どもを伸ばす原動力になる。


●孤立感と劣等感に注意

家族からの孤立、友だちからの孤立など。子どもが孤立する様子を見せたら、要注意。「ぼくはダメだ」式の劣等感を見せたときも、要注意。この二つがからむと、子どものものの考え方は、急速に暗く、ゆがんでくる。外から見ると、「何を考えているかわからない」というようになれば、子どもの心は、かなり危険な状態に入ったとみてよい。家庭教育のあり方を、猛省する。


●すなおな子ども

従順で、親の言うことをハイハイと聞く子どもを、すなおな子どもというのではない。幼児教育の世界で、「すなおな子ども」というときは、心(情意)と、表情が一致している子どもをいう。感情表出がすなおにできる。うれしいときは、顔満面にその喜びをたたえるなど。反対にその子どもにやさしくしてあげると、そのやさしさが、スーッと子どもの心の中に、しみこんでいく感じがする。そういう子どもを、すなおな子どもという。


●自己意識を育てる
乳幼児期に、何らかの問題があったとする。しかしそうした問題に直面したとき、大切なことは、そうした問題にどう対処するかではなく、どうしたら、こじらせないか、である。たとえばADHD児にしても、その症状が現れてくると、たいていの親は、混乱状態になる。しかし子どもの自己意識が育ってくると、子どもは、自らをコントロールするようになる。そして見た目には、症状はわからなくなる。無理をすれば、症状はこじれる。そして一度、こじれると、その分だけ、立ちなおりが遅れる。


●まず自分を疑う

子どもに問題があるとわかると、親は、子どもをなおそうとする。しかしそういう視点では、子どもは、なおらない。たとえばよくある例は、親の過干渉、過関心で、子どもが萎縮してしまったようなばあい。親は「どうしてうちの子は、ハキハキしないのでしょう」と言う。そして子どもに向かっては、「どうしてあなたは、大きな声で返事ができないの!」と叱る。しかし原因は、親自身にある。それに気づかないかぎり、子どもは、なおらない。


●「やればできるはず」は禁句

たいていの親は、「うちの子は、やればできるはず」と思う。しかしそう思ったら、すかさず、「やってここまで」と思いなおす。何がそうかといって、親の過関心、過負担、過剰期待ほど、子どもを苦しめるものはない。それだけではない。かえって子どもの伸びる芽をつんでしまう。そこで子どもには、こう言う。「あなたは、よくがんばっているわよ。TAKE IT EASY!(気を楽にしてね)」と。


●「子はかすがい」論
たしかに子どもがいることで、夫婦が力を合わせるということはよくある。夫婦のきずなも、それで太くなる。しかしその前提として、夫婦は夫婦でなくてはならない。夫婦関係がこわれかかっているか、あるいはすでにこわれてしまったようなばあいには、子はまさに「足かせ」でしかない。日本には『子は三界の足かせ』という格言もある。


●「親のうしろ姿」論

生活や子育てで苦労している姿を、「親のうしろ姿」という。日本では『子は親のうしろ姿を見て育つ』というが、中には、そのうしろ姿を子どもに見せつける親がいる。「親のうしろ姿は見せろ」と説く評論家もいる。しかしうしろ姿など見せるものではない。(見せたくなくても、子どもは見てしまうかもしれないが、それでもできるだけ見せてはいけない。)恩着せがましい子育て、お涙ちょうだい式の子育てをする人ほど、このうしろ姿を見せようとする。


●「親の威厳」論

「親は威厳があることこそ大切」と説く人は多い。たしかに「上」の立場にいるものには、居心地のよい世界かもしれないが、「下」の立場にいるものは、そうではない。その分だけ、上のものの前では仮面をかぶる。かぶった分だけ、心を閉じる。威厳などというものは、百害あって一利なし。心をたがいに全幅に開きあってはじめて、「家族」という。「親の権威」などというのは、封建時代の遺物と考えてよい。


●「育自」論は?

よく、「育児は育自」と説く人がいる。「自分を育てることが育児だ」と。まちがってはいないが、子育てはそんな甘いものではない。親は子どもを育てながら、幾多の山を越え、谷を越えている間に、いやおうなしに育てられる。育自などしているヒマなどない。もちろん人間として、外の世界に大きく伸びていくことは大切なことだが、それは本来、子育てとは関係のないこと。子育てにかこつける必要はない。


●「親孝行」論

安易な孝行論で、子どもをしばってはいけない。いわんや犠牲的、献身的な「孝行」を子どもに求めてはいけない。強要してはいけない。孝行するかどうかは、あくまでも子どもの問題。子どもの勝手。親子といえども、その関係は、一対一の人間関係で決まる。たがいにやさしい、思いやりのある言葉をかけあうことこそ、大切。親が子どものために犠牲になるのも、子どもが親のために犠牲になるのも、決して美徳ではない。親子は、あくまでも「尊敬する」「尊敬される」という関係をめざす。

●「産んでいただきました」論

よく、「私は親に産んでいただきました」「育てていただきました」「言葉を教えていただきました」と言う人がいる。それはその人自身の責任というより、そういうふうに思わせてしまったその人の周囲の、親たちの責任である。日本人は昔から、こうして恩着せがましい子育てをしながら、無意識のうちにも、子どもにそう思わせてしまう。いわゆる依存型子育てというのが、それ。


●「水戸黄門」論に注意

日本型権威主義の象徴が、あの「水戸黄門」。あの時代、何がまちがっているかといって、身分制度(封建制度)ほどまちがっているものはない。その身分制度(=巨悪)にどっぷりとつかりながら、正義を説くほうがおかしい。日本人は、その「おかしさ」がわからないほどまで、この権威主義的なものの考え方を好む。葵の紋章を見せつけて、人をひれ伏せさせる前に、その矛盾に、水戸黄門は気づくべきではないのか。仮に水戸黄門が悪いことをしようとしたら、どんなことでもできる。ご注意!


●「釣りバカ日誌」論

男どうしで休日を過ごす。それがあのドラマの基本になっている。その背景にあるのが、「男は仕事、女は家庭」。その延長線上で、「遊ぶときも、女は関係なし」と。しかしこれこそまさに、世界の非常識。オーストラリアでも、夫たちが仕事の同僚と飲み食い(パーティ)をするときは、妻の同伴が原則である。いわんや休日を、夫たちだけで過ごすということは、ありえない。そんなことをすれば、即、離婚事由。「仕事第一主義社会」が生んだ、ゆがんだ男性観が、その基本にあるとみる。


●「MSのおふくろさん」論

夜空を見あげて、大のおとなが、「ママー、ママー」と泣く民族は、世界広しといえども、そうはいない。あの歌の中に出てくる母親は、たしかにすばらしい人だ。しかしすばらしすぎる。「人の傘になれ」とその母親は教えたというが、こうした美化論にはじゅうぶん注意したほうがよい。マザコン型の人ほど、親を徹底的に美化することで、自分のマザコン性を正当化する傾向がある。


●「かあさんの歌」論

窪田S氏作詞の原詩のほうでは、歌の中央部(三行目と四行目)は、かっこ(「」)つきになっている。「♪木枯らし吹いちゃ冷たかろうて。せっせと編んだだよ」「♪おとうは土間で藁打ち仕事。お前もがんばれよ」「♪根雪もとけりゃもうすぐ春だで。畑が待ってるよ」と。しかしこれほど、恩着せがましく、お涙ちょうだいの歌はない。親が子どもに手紙を書くとしたら、「♪村の祭に行ったら、手袋を売っていたよ。あんたに似合うと思ったから、買っておいたよ」「♪おとうは居間で俳句づくり。新聞にもときどき載るよ」「♪春になったら、村のみんなと温泉に行ってくるよ」だ。


●「内助の功」論

封建時代の出世主義社会では、『内助の功』という言葉が好んで用いられた。しかしこの言葉ほど、女性を蔑視した言葉もない。どう蔑視しているかは、もう論ずるまでもない。しかし問題は、女性自身がそれを受け入れているケースが多いということ。約23%の女性が、「それでいい」と答えている※。決して男性だけの問題ではないようだ。
※……全国家庭動向調査(厚生省98)によれば、「夫も家事や育児を平等に負担すべきだ」という考えに反対した人が、23・3%もいることがわかった。


●子育ては、考えてするものではない

だれしも、「頭の中では、わかっているのですが、ついその場になると……」と言う。子育てというのは、もともと、そういうもの。そこでいつも同じようなパターンで、同じような失敗をするときは、(1)あなた自身の過去を冷静に見つめてみる。(2)何か(わだかまり)や(こだわり)があれば、まず、それに気づく。あとは時間が解決してくれる。


●子育ては、世代連鎖する

子育ては、世代を超えて、親から子へと、よいことも、悪いことも、そのまま連鎖する。またそういう部分が、ほとんどだと考えてよい。そういう意味で、「子育ては本能ではなく、学習によるもの」と考える。つまり親は子育てをしながら、実は、自分が受けた子育てを、無意識のうちに繰りかえしているだけだということになる。そこで重要なことは、悪い子育ては、つぎの世代に、残さないということ。これを昔の人、『因を断つ』と言った。


●子育ての見本を見せる

子育ての重要な点は、子どもを育てるのではなく、子育てのし方の見本を、子どもに見せるということ。見せるだけでは、足りない。子どもを包む。幸福な家庭というのは、こういうものだ。夫婦というのは、こういうものだ。家族というのは、こういうものだ、と。そういう(学習)があって、子どもは、親になったとき、はじめて、自分で子育てが自然な形でできるようになる。



●子育て一口メモ(2)

2006-01-07 14:33:50 | Weblog
●核(コア)攻撃はしない

子どもの人格そのものに触れるような、攻撃はしない。たとえば「あなたは、やっぱりダメ人間よ」「あんたなんか、人間のクズよ」「あんたさえいなければ」と言うなど。こうした(核)攻撃が日常化すると、子どもの精神の発達に、さまざまな弊害が現れてくる。子どもを責めるとしても、子ども自身が、自分の力で解決できる範囲にする。子ども自身の力では、どうにもならないことで責めてはいけない。それが、ここでいう(核)攻撃ということになる。
●引き金を引かない

仮に心の問題の「根」が、生まれながらにあるとしても、その引き金を引くのは、親ということになる。またその「根」というのは、だれにでもある。またそういう前提で、子どもを指導する。たとえば恐怖症にしても、心身症にしても、そういった状況におかれれば、だれでも、そうなる。たった一度、はげしく母親に叱られたため、その日を境に、一人二役の、ひとり言をいうようになってしまった女の子(2歳児)がいた。乳幼児の子どもほど、穏やかで、心静かな環境を大切にする。


●二番底、三番底に注意

子どもに何か問題が起きると、親は、そのときの状態を最悪と思い、子どもをなおそうとする。しかしその下には、二番底、さらには三番底があることを忘れてはいけない。たとえば門限を破った子どもを叱ったとする。しかしそのとき叱り方をまちがえると、外泊(二番底)、さらには家出(三番底)へと進んでいく。さらに四番底もある。こうした問題が起きたら、それ以上、状況を悪くしないことだけを考えて、半年、1年単位で様子をみる。


●あきらめは、悟りの境地

押してもダメ、引いても、ダメ。そういうときは、思い切ってあきらめる。が、子どもというのは、不思議なもの。あきらめたとたん、伸び始める。親が、「まだ何とかなる」「こんなはずはない」とがんばっている間は、伸びない。が、あきらめたとたん、伸び始める。そこは、おおらかで、実にゆったりとした世界。子育てには、行きづまりは、つきもの。そういうときは、思い切って、あきらめる。そのいさぎのよさが、子どもの心に風穴をあける。

●自らに由らせる

子育ての要(かなめ)は、「自由」。「自らに由(よ)らせる」。だから自由というのは、自分で考えさせる。自分で行動させる。そして自分で責任を取らせることを意味する。好き勝手なことを、子どもにさせることではない。親の過干渉は、子どもから考える力をうばう。親の過保護は、子どもから、行動力をうばう。そして親のでき愛は、子どもから責任感をうばう。子育ての目標は、子どもを自立させること。それを忘れてはいけない。


●旅は、歩く

便利であることが、よいわけではない。便利さに甘えてしまうと、それこそ生活が、地に足がつかない状態になる。……というだけではないが、たとえば旅に出たら、歩くように心がけるとよい。車の中から、流れるようにして見る景色よりも、一歩、一歩、歩きながら、見る景色のほうが、印象に強く残る。しかし、これは人生そのものに通ずる、大鉄則でもある。いかにして、そのときどきにおいて、地に足をつけて生きるか。そういうことも考えながら、旅に出たら、ゆっくりと歩いてみるとよい。


●指示は、具体的に

「友だちと仲よくするのですよ」「先生の話をしっかりと聞くのですよ」と子どもに言っても、ほとんど、意味がない。具体性がないからである。そういうときは、「これを○君にもっていってあげてね。○君、きっと喜ぶわよ」「学校から帰ってきたら、先生がどんな話をしたか、あとでママに話してね」と言う。子どもに与える指示には、具体性をもたせるとよい。

●休息を求めて、疲れる
イギリスの格言に、『休息を求めて疲れる』というのがある。愚かな生き方の代名詞にもなっている格言である。幼稚園教育は小学校へ入学するため。小学校教育は、中学校へ入学するため。中学校や高校教育は、大学へ入学するため……、というのが、その愚かな生き方になる。やっと楽になったと思ったら、人生が終わっていたということにもなりかねない。


●子どもの横を歩く

親には、三つの役目がある。ガイドとして、子どもの前を歩く。保護者として、子どものうしろを歩く。そして友として、子どもの横を歩く。日本人は、概して言えば、ガイドと保護者は得意。しかし友として、子どもの横を歩くのが苦手。もしあなたがいつも、子どもの手を引きながら、「早く」「早く」と言っているようなら、一度、子どもの歩調に合わせて、ゆっくりと歩いてみるとよい。それまで見えなかった、子どもの心が、あなたにも、見えてくるはず。


●先生の悪口、批評はしない

学校から帰ってきて子どもが先生の悪口を言ったり、批評したりしても、決して、相づちを打ったり、同意したりしてはいけない。「あなたが悪いからでしょう」「あの先生は、すばらしい人よ」と、それをはねかえす。親が先生の悪口を言ったりすると、子どもはその先生に従わなくなる。これは学校教育という場では、決定的にまずい。もし先生に問題があるなら、子どもとは関係のない世界で処理する。


●子育ては楽しむ

子どもを伸ばすコツは、子どものことは、あまり意識せず、親が楽しむつもりで、楽しむ。その楽しみの中に、子どもを巻き込むようにする。つまり自分が楽しめばよい。子どもの機嫌をとったり、歓心を買うようなことは、しない。コビを売る必要もない。親が楽しむ。私も幼児にものを教えるときは、自分がそれを楽しむようにしている。


●ウソはていねいにつぶす

子どもの虚言にも、いろいろある。頭の中で架空の世界をつくりあげてしまう空想的虚言、ありもしないことを信じてしまう妄想など。イギリスの教育格言にも、『子どもが空中の楼閣に住まわせてはならない』というのがある。過関心、過干渉などが原因で、子どもは、こうした妄想をもちやすくなる。子どもがウソをついたら、叱っても意味はない。ますますウソがうまくなる。子どもがウソをついたら、あれこれ問いかけながら、静かに、ていねいに、それをつぶす。そして言うべきことは言っても、あとは、無視する。


●本物を与える

子どもに見せたり、聞かせたり、与えたりするものは、いつも、本物にこころがける。絵でも、音楽でも、食べ物でも、である。今、絵といえば、たいはんの子どもたちは、アニメの主人公のキャラクターを描く。歌といっても、わざと、どこか音のずれた歌を歌う。食べ物にしても、母親が作った料理より、ファミリーレストランの料理のほうが、おいしいと言う。こういう環境で育つと、人間性まで、ニセモノになってしまう(?)。今、外からの見栄えばかり気にする子どもがふえているので、ご注意!


●ほめるのは、努力とやさしさ

子どもは、ほめて伸ばす。それはそのとおりだが、ほめるのは、子どもが努力したときと、子どもがやさしさを見せたとき。顔やスタイルは、ほめないほうがよい。幼いときから、そればかりをほめると、関心が、そちらに向いてしまう。また「頭」については、慎重に。「頭がいい」とほめすぎるのも、またまったくほめないのも、よくない。ときと場所をよく考えて、慎重に!
●親が、前向きに生きる

親自身に、生きる目的、方向性、夢、希望があれば、よし。そういう姿を見て、子どももまた、前向きに伸びていく。親が、生きる目的もない。毎日、ただ何となく生きているという状態では、子どももまた、その目標を見失う。それだけではない。進むべき目的をもたない子どもは、悪の誘惑に対して抵抗力を失う。子育てをするということは、生きる見本を、親が見せることをいう。生きザマの見本を、親が見せることをいう。


●機嫌をとらない

子どもに嫌われるのを恐れる親は、多い。依存性の強い、つまりは精神的に未熟な親とみる。そして(子どもにいい思いをさせること)イコール、(子どもをかわいがること)と誤解する。子どもがほしがりそうなものを買い与え、それで親子のキズナは太くなったはずと考えたりする。が、実際には、逆効果。親は親として……というより、一人の人間として、き然と生きる。子どもは、そういう親の姿を見て、親を尊敬する。親子のキズナも、それで太くなる。


●親のうしろ姿を見せつけない

生活で苦労している姿……それを日本では、「親のうしろ姿」という。そのうしろ姿を、親は見せたくなくても、見せてしまう。しかしそのうしろ姿を、子どもに押し売りしてはいけない。つまり恩着せがましい子育てはしない。「産んでやった」「育ててやった」「お前を大きくするために、私は犠牲になった」と。うしろ姿の押し売りは、やがて親子関係を、破壊する。


●親孝行を美徳にしない
日本では、親孝行を当然の美徳とするが、本当にそうか? 「お前の人生は、お前のもの。私たちのことは心配しなくていいから、思う存分、この世界をはばたいてみろ」と、一度は、子どもの背中をたたいてあげてこそ、親は、親としての責任を果たしたことになる。もちろんそのあと、子どもが自分で考えて、親孝行するというのであれば、それはそれ。しかし親孝行は美徳でも何でもない。子どもにそれを強要したり、求めたりしてはいけない。


●「偉い」を廃語に!

「偉い」という言葉を、廃語にしよう。日本では、地位の高い人や、何かの賞をとった人を、「偉い人」という。しかし英語国では、日本人が、「偉い人」と言いそうなとき、「リスペクティド・マン」という。「尊敬される人」という意味である。リスペクティド・マンというときは、地位や、名誉には関係ない。その人自身の中身を見て、そう判断する。あなたの子どもには、「偉い人になれ」と言うのではなく、「尊敬される人になれ」と言おう。


●家族を大切に

『オズの魔法使い』という、小説がある。あの中で、ドロシーという女の子は、幸福を求めて、虹の向こうにあるというエメラルドタウンを冒険する。しかし何のことはない。最後にドロシーは、真の幸福は、すぐそばの家庭の中にあることを知る。今、「家族が一番大切」と考える人が、80~90%になっている。99年の文部省の調査では、40%前後でしかなかったから、これはまさにサイレント革命というにふさわしい。あなたも自信をもって、子どもには、こう言おう。「この世界で、一番大切なものは、家族です」と。


●迷信は、否定しよう

子どもたちの世界では、今、占い、まじない、予言、超能力などが、大流行。努力して、自ら立ちあがるという姿勢が、ますます薄らいできている。中には、その日の運勢に合わせて行動し、あとで、「運勢が当たった」と言う子どもさえいる。(自分で、運勢に合わせただけなのだが……。)子どもが迷信らしいことを口にしたら、すかさず、「そんなのはウソ」と言ってやろう。迷信は、まさに合理の敵。迷信を信ずるようになればなるほど、子どもは、ものごとを合理的に考える力を失う。


●死は厳粛に

ペットでも何でも、死んだら、その死は厳粛にあつかう。そういう姿を見て、子どもは、「死」を学び、ついで、「生」を学ぶ。まずいのは、紙か何かに包んで、ゴミ箱に捨てるような行為。決して遊んだり、茶化したりしてはいけない。子どもはやがて、生きることそのものを、粗末にするようになるかもしれない。なぜ、ほとんどの宗教で、葬儀を重要な儀式と位置づけているかと言えば、それは死を弔(とむら)うことで、生きることを大切にするためである。生き物の死は、厳粛に。どこまでも厳粛に。


●悪玉親意識

「私は親だ」というのが、親意識。この親意識にも、二種類をある。善玉親意識と、悪玉親意識である。「私は親らしく、子どもの見本になろう」「子どもをしっかりと育てて、親の責任をはたそう」というのが、善玉親意識。一方、「親に向かって何よ!」と、子どもに対して怒鳴り散らすのが、悪玉親意識。いわゆる『親風を吹かす』ことをいう。なお親は絶対と考えるのを、「親・絶対教」という。

●達成感が子どもを伸ばす

「ヤッター!」という達成感が、子どもを伸ばす。そんなわけで子どもが幼児のうちは、(できる・できない)という視点ではなく、(がんばってやった・やらない)という視点で子どもを見る。たとえまちがっていても、あるいは不十分であっても、子どもががんばってしたようなら、「よくやったわね」とほめて終わる。こまごまとした神経質な指導は、子どもをつぶす。


●子どもは下から見る

子育てで行きづまったら、子どもは、下から見る。「下を見ろ」ではない。「下から見る」。今、ここに生きているという原点から見る。そうすると、すべての問題が解決する。昔の人は、こう言った。『上見て、キリなし。下見て、キリなし』と。つまり上ばかり見ていると、人間の欲望には、際限がなく、いつまでたっても、安穏とした世界はやってこない。しかし生きているという原点から見ると、とたんに、すべての世界が平和になる。子育ても、また同じ。


●失敗にめげず、前に進む

「宝島」という本を書いたのが、スティーブンソン。そのスティーブンソンがこんな言葉を残している。『我らが目的は、成功することではない。我らが目的は、失敗にめげず、前に進むことである』と。もしあなたの子どもが何かのことでつまずいて、苦しんでいたら、そっとそう言ってみてほしい。「あなたの目的は、成功することではない。失敗にめげず、前に進むことですよ」と。


●すばらしいと言え、親の仕事

親の仕事は、すばらしいと言う。それを口ぐせにする。どんな仕事でも、だ。仕事に上下はない。あるはずもない。しかしこの日本には、封建時代の身分制度の名残というか、いまだに、職業によって相手を判断するという風潮が、根強く残っている。が、それだけではない。生き生きと仕事をしている親の姿は、子どもに、大きな安心感を与える。その安心感が、子どもの心を豊かに育てる。

●逃げ場を大切に

どんな動物にも、最後の逃げ場というのがある。その逃げ場に逃げこむことによって、身の安全をはかり、心をいやす。子どもも、またしかり。子どもがその逃げ場へ入ったら、親は、そこを神聖不可侵の場と心得て、そこを荒らすようなことをしてはいけない。たいていは子ども部屋ということになるが、その子ども部屋を踏み荒らすようなことをすると、今度は、「家出」ということにもなりかねない。


●代償的過保護に注意

過保護というときは、その背景に、親の濃密な愛情がある。しかし代償的過保護には、それがない。子どもを親の支配下において、親の思いどおりにしたいというのを代償的過保護という。いわば親自身の心のスキマを埋めるための、親の身勝手な過保護をいう。子どもの受験競争に狂奔している親が、それにあたる。「子どものため」と言いながら、子どものことなど、まったく考えていない。ストーカーが、好きな相手を追いかけまわすようなもの。私は「ストーカー的愛」と呼んでいる。


●同居は出産前に

夫(妻)の両親との同居を考えるなら、子どもの出産前からするとよい。私の調査でも、出産前からの同居は、たいていうまくいく(90%)。しかしある程度、子どもが大きくなってからの同居は、たいてい失敗する。同居するとき、母親が苦情の一番にあげるのが、「祖父母が、子どもの教育に介入する」。同居するにしても、祖父母は、孫の子育てについては、控えめに。それが同居を成功させる、秘訣のようである。


●無能な親ほど、規則を好む

イギリスの教育格言に、『無能な教師ほど、規則を好む』というのがある。家庭でも、同じ。『無能な親ほど、規則を好む』。ある程度の約束ごとは、必要かもしれない。しかし最小限に。また規則というのは、破られるためにある。そのつど、臨機応変に考えるのが、コツ。たとえば門限にしても、子どもが破ったら、そのつど、現状に合わせて調整していく。「規則を破ったから、お前はダメ人間だ」式の、人格攻撃をしてはいけない。


●プレゼントは、買ったものはダメ

できれば……、今さら、手遅れかもしれないが、誕生日にせよ、クリスマスにせよ、「家族どうしのプレゼントは、買ったものはダメ」というハウス・ルールを作っておくとよい。戦後の高度成長期の悪弊というか、この日本でも、より高価であればあるほど、いいプレゼントということになっている。しかしそれは誤解。誤解というより、逆効果。家族のキズナを深めたかったら、心のこもったプレゼントを交換する。そのためにも、「買ったものは、ダメ」と。


●子育ては、質素に

子育ての基本は、「質素」。ときに親は、ぜいたくをすることがあるかもしれない。しかし、そういうぜいたくは、子どもの見えない世界ですること。一度、ぜいたくになれてしまうと、子どもは、あともどりができなくなってしまう。そのままの生活が、おとなになってからも維持できればよし。そうでなければ、苦しむのは、結局は子ども自身ということになる。


●ズル休みも、ゆとりのうち
子どもが不登校を起こしたりすると、たいていの親は、狂乱状態になる。そのときのためというわけでもないが、自分の中に潜む、学歴信仰や学校神話とは、今から戦っていく。その一つの方法が、「ズル休み」。ときには、園や学校をズル休みさせて、親子で、旅行に行く。平日に行けば、動物園でも遊園地でも、ガラガラ。あなたは、言いようのない解放感を味わうはず。「そんなことできない!」と思っている人ほど、一度、試してみるとよい。


●ふつうこそ、最善

ふつうであることには、すばらしい価値がある。しかし、親たちには、それがわからない。「もっと……」「もう少し……」と思っている間に、かえって子どもの伸びる芽をつんでしまう。よい例が、過干渉であり、過関心である。さらに親の過剰期待や、子どもへの過負担もある。賢い親は、そのふつうの価値に、それをなくす前に気づき、そうでない親は、それをなくしてから気づく。


●限界を知る

子育てには、限界はつきもの。いつも、それとの戦いであると言ってもよい。子どもというのは不思議なもので、親が、「まだ、何とかなる」「こんなはずではない」「うちの子は、やればできるはず」と思っている間は、伸びない。しかし親が、「まあ、うちの子は、こんなもの」「よくがんばっている」と、その限界を認めたとたん、伸び始める。皮肉なことに、親がそばにいるだけで、萎縮してしまう子どもも、少なくない。


●子どもの世界は、社会の縮図

子どもの世界だけを見て、子どもの世界だけを何とかしようと考えても、意味はない。子どもの世界は、まさに社会の縮図。社会に4割の善があり、4割の悪があるなら、子どもの世界にも、4割の善があり、4割の悪がある。つまり私たちは子育てをしながらも、同時に、社会にも目を向けなければならない。子どもがはじめて覚えたカタカナが、「ホテル」であったり、「セックス」であったりする。そういう社会をまず、改める。子どもの教育は、そこから始まる。


●よき家庭人

日本では、「立派な社会人」「社会に役立つ人」が、教育の柱になっていた。しかし欧米では、伝統的に、「よき家庭人(Good family man )」を育てるのが、教育の柱になっている。そのため学習内容も、実用的なものが多い。たとえば中学校で、小切手の切り方(アメリカ)などを教える。ところで隣の中国では、「立派な国民」という言葉がもてはやされている。どこか戦後直後の日本を思い出させる言葉である。


●読書は、教育の要(かなめ)

アメリカには、「ライブラリー」という時間がある。週1回は、たいていどこの学校にもある。つまり、読書指導の時間である。ふつうの教科は、学士資格で教壇に立つことができるが、ライブラリーの教師だけは、修士号以上の資格が必要である。ライブラリーの教師は、毎週、その子どもにあった本を選び、指導する。日本でも、最近、読書の重要性が見なおされてきている。読書は、教育の要である。


●教師言葉に注意

教師というのは、子どもをほめるときは、本音でほめる。だから学校の先生に、ほめられたら、額面どおり受け取ってよい。しかしその反対に、何か問題のある子どもには、教師言葉を使う。たとえば学習面で問題のある子どもに対しては、「運動面では問題ないですが……」「私の指導力が足りないようです」「この子には、可能性があるのですが、今は、まだその力を出し切っていませんね」というような言い方をする。


●先取り教育は、幼児教育ではない

幼児教育というと、小学校でする勉強を先取りしてする教育だとか、あるいは小学校の入学準備のための教育と考えている人は多い。そのため漢字を教えたり、掛け算の九九を教えたりするのが、幼児教育と思っている人も多い。しかしこれは、まったくの誤解。幼児期には幼児期で、しておくべきことが、山のようにある。子どもの方向性も、このころ決まる。その方向性を決めるのが、幼児教育である。


●でき愛は、愛にあらず

でき愛を、「愛」と誤解している人は多い。しかしでき愛は、愛ではない。親の心のスキマをうめるための、親の身勝手な愛。それをでき愛という。いわばストーカーがよく見せる「愛?」とよく似ている。たとえば子どもの受験勉強に狂奔している親も、それにあたる。「子どものことを心配している」とは言うが、本当は、自分の不安や心配を解消するために、子どもを利用しているだけ。そしてベタベタの親子関係をつづけながら、かえって子どもの自立をじゃましてしまう。


●悪玉家族意識

家族のもつ重要性は、いまさら説明するまでもない。しかしその家族が、反対に、独特の束縛性(家族自我群)をもつことがある。そしてその家族に束縛されて、かえってその家族が、自立できなくなってしまうことがある。あるいは反対に、「親を捨てた」という自責の念から、自己否定してしまう人も少なくない。家族は大切なものだが、しかし安易な論理で、子どもをしばってはいけない。


Hiroshi Hayashi++++++++++Jan. 06+++++++++++はやし浩司※