最前線の育児論byはやし浩司

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●三つ子の魂、百まで

2006-12-07 07:42:19 | Weblog
●三つ子の魂、百まで

 『三つ子の魂、百まで』というのは、その人の基本的な性格や方向性は、3歳ごろまでに決まるので、それまでの子育てを大切にしろという意味。しかし教育的には、つぎの4つの意味をもつ。

(1) この時期の子どもをていねいに見れば、その後、子どもがどんなふうになっていくかについて、おおよその見当がつくということ。

(2) この時期までに、何か心にキズをつけてしまうと、そのキズは、一生つづくから注意しろという意味。


(3) この時期をすぎたら、その子どもはそういう子どもだと認めたうえで、子どもの性格や方向性はいじってはいけないということ。

(4) そしてもう一つは、子どもが大きくなってから、いろいろな問題が起きたときには、この三歳までの育て方に原因を求めろということ。

 ただ念のために申し添えるなら、この格言は、公式の場(公の雑誌や新聞など)では、使えないことになっている。「差別につながる」ということだそうだ。私も一度、G社から出している雑誌に、この格言を引用して、抗議の電話をもらったことがある。いわく、「3歳までに不幸だった子どもは、おとなになってからも不幸になるということか」と。

 しかしそういった抗議はともかくも、この格言は、たしかに真実を含んでいる。「3歳」と切ることはないが、幼児期の子どものあり方は、その子どもの基礎になることは、もうだれの目にも明らかである。

 さて本題。よく親は、子どもの性格は、変えられるものと思っている。しかし実際には、そうは簡単ではない。子どもの性格は、乳児から幼児期にかけての時期。私は性格第一形成期と呼んでいる。そして幼児期から少年少女期にかけての時期。私は性格第二形成期と呼んでいる。これら二度の時期を経て、形成される。

とくに大切なのは、幼児期から少年少女期(満4・5歳~5・5歳)の時期である。この時期を経るとき、子どもに、人格の「核」ができる。教える側からすると、「この子はこういう子だ」というつかみどころができてくる。それ以前の子どもは、どこか軟弱で、それがはっきりしない。

が、この時期をすぎると、急にその形がはっきりとしてくる。言いかえると、この満4・5歳から5・5歳の時期の、幼児教育が、とくに大切ということ。冒頭にも書いたように、この時期にできる基本的な性格は、その子どもの一生を方向づける。

 またこの時期というのは、自意識がそれほど発達していないので、子ども自身が、自分を飾ったり、ごまかしたりできない。その分、その子どもの本来の姿を、正確に判断することができる。「この時期の子どもをていねいに見れば、その後、子どもがどんなふうになっていくかについて、おおよその見当がつく」というのは、そういう意味である。

 が、何よりも大切なことは、この時期をとおして、子どもは、子育てのし方そのものを、親から学ぶ。子育ては本能でできるようになるのではない。学習によってできるようになる。しかし学習だけでは足りない。子どもは自分が親に育てられたという経験があって、もっと言えばそういう体験が体の中にしみこんでいてはじめて、自分が親になったとき、今度は、自分で子育てができるようになる。

そういう意味でも、この時期は、心豊かな親の愛情や、心静かで穏やかな家庭環境を大切にする。またそれにまさる家庭教育はない。
(02-11-7)

● 3歳までの家庭環境を、大切にしよう。
● 幼児期をすぎたら、性格をいじってはいけない。あるがままを認め、受け入れてしまおう。

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この原稿に関連して書いたのが、つぎの原稿です(中日新聞にて発表済み)
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●教育を通して自分を発見するとき 

●教育を通して自分を知る

 教育のおもしろさ。それは子どもを通して、自分自身を知るところにある。たとえば、私の家には2匹の犬がいる。1匹は捨て犬で、保健所で処分される寸前のものをもらってきた。これをA犬とする。もう1匹は愛犬家のもとで、ていねいに育てられた。生後3か月くらいしてからもらってきた。これをB犬とする。

 まずA犬。静かでおとなしい。いつも人の顔色ばかりうかがっている。私の家に来て、12年にもなろうというのに、いまだに私たちの見ているところでは、餌を食べない。愛想はいいが、決して心を許さない。その上、ずる賢く、庭の門をあけておこうものなら、すぐ遊びに行ってしまう。そして腹が減るまで、戻ってこない。もちろん番犬にはならない。見知らぬ人が庭の中に入ってきても、シッポを振って、それを喜ぶ。

 一方B犬は、態度が大きい。寝そべっているところに近づいても、知らぬフリをして、そのまま寝そべっている。庭で放し飼いにしているのだが、一日中、悪さばかりしている。おかげで植木鉢は全滅。小さな木はことごとく、根こそぎ抜かれてしまった。しかしその割には、人間には忠実で、門をあけておいても、外へは出ていかない。見知らぬ人が入ってこようものなら、けたたましく吠える。

●人間も犬も同じ

 ……と書いて、実は人間も犬と同じと言ったらよいのか、あるいは犬も人間と同じと言ったらよいのか、どちらにせよ同じようなことが、人間の子どもにも言える。いろいろ誤解を生ずるので、ここでは詳しく書けないが、性格というのは、一度できあがると、それ以後、なかなか変わらないということ。A犬は、人間にたとえるなら、育児拒否、無視、親の冷淡を経験した犬。心に大きなキズを負っている。

一方B犬は、愛情豊かな家庭で、ふつうに育った犬。一見、愛想は悪いが、人間に心を許すことを知っている。だから人間に甘えるときは、心底うれしそうな様子でそうする。つまり人間を信頼している。幸福か不幸かということになれば、A犬は不幸な犬だし、B犬は幸福な犬だ。人間の子どもにも同じようなことが言える。

●施設で育てられた子ども
 
たとえば施設児と呼ばれる子どもがいる。生後まもなくから施設などに預けられた子どもをいう。このタイプの子どもは愛情不足が原因で、独特の症状を示すことが知られている。

感情の動きが平坦になる、心が冷たい、知育の発達が遅れがちになる、貧乏ゆすりなどのクセがつきやすい(長畑正道氏)など。が、何といっても最大の特徴は、愛想がよくなるということ。相手にへつらう、相手に合わせて自分の心を偽る、相手の顔色をうかがって行動する、など。

一見、表情は明るく快活だが、そのくせ相手に心を許さない。許さない分だけ、心はさみしい。あるいは「いい人」という仮面をかぶり、無理をする。そのため精神的に疲れやすい。

●施設児的な私

実はこの私も、結構、人に愛想がよい。「あなたは商人の子どもだから」とよく言われるが、どうもそれだけではなさそうだ。相手の心に取り入るのがうまい。相手が喜ぶように、自分をごまかす。茶化す。そのくせ誰かに裏切られそうになると、先に自分のほうから離れてしまう。

つまり私は、かなり不幸な幼児期を過ごしている。当時は戦後の混乱期で、皆、そうだったと言えばそうだった。親は親で、食べていくだけで精一杯。教育の「キ」の字もない時代だった。……と書いて、ここに教育のおもしろさがある。

他人の子どもを分析していくと、自分の姿が見えてくる。「私」という人間が、いつどうして今のような私になったか、それがわかってくる。私が私であって、私でない部分だ。私は施設児の問題を考えているとき、それはそのまま私自身の問題であることに気づいた。

●まず自分に気づく

 読者の皆さんの中には、不幸にして不幸な家庭に育った人も多いはずだ。家庭崩壊、家庭不和、育児拒否、親の暴力に虐待、冷淡に無視、放任、親との離別など。しかしそれが問題ではない。問題はそういう不幸な家庭で育ちながら、自分自身の心のキズに気づかないことだ。たいていの人はそれに気づかないまま、自分の中の自分でない部分に振り回されてしまう。そして同じ失敗を繰り返す。それだけではない。同じキズを今度はあなたから、あなたの子どもへと伝えてしまう。心のキズというのはそういうもので、世代から世代へと伝播しやすい。

が、しかしこの問題だけは、それに気づくだけでも、大半は解決する。私のばあいも、ゆがんだ自分自身を、別の目で客観的に見ることによって、自分をコントロールすることができるようになった。「ああ、これは本当の自分ではないぞ」「私は今、無理をしているぞ」「仮面をかぶっているぞ」「もっと相手に心を許そう」と。そのつどいろいろ考える。つまり子どもを指導しながら、結局は自分を指導する。そこに教育の本当のおもしろさがある。あなたも一度自分の心の中を旅してみるとよい。
(02-11-7)

● いつも同じパターンで、同じような失敗を繰り返すというのであれば、勇気を出して、自分の過去をのぞいてみよう。何かがあるはずである。問題はそういう過去があるということではなく、そういう過去があることに気づかないまま、それに引き回されることである。またこの問題は、それに気づくだけでも、問題のほとんどは解決したとみる。あとは時間の問題。