最前線の育児論byはやし浩司

★子育て最前線でがんばる、お父さん、お母さんのための支援サイト★はやし浩司のエッセー、育児論ほか

●日本の仏教

2006-09-25 10:15:51 | Weblog

●日本の仏教

++++++++++++++++++

日本の仏教には、いくつかの謎がある。

その第一。なぜ、日本にある仏像は、
どれも例外なく、古代インドのそれではなく、
古代ギリシアの服装をしているのか。

その謎を解く、ひとつのカギがまたまた
見つかった。

++++++++++++++++++

 アフガニスタンの中部にあるバーミヤンで、このほど、5~6世紀ごろの塔院跡や、高さ3メートルはあったとみられる、立仏像のひざ下部が発見されたという。

 発見したのは、UNESCO(国連教育科学文化機構)。

 アフガン考古保護協会のゼマリアライ・タルジ代表は、「7世紀にバーミヤンを訪れたとされる、玄奘三蔵(三蔵法師のこと)が、『大唐西域記』の中で見たと記した幻の涅槃(ねはん)像が近くにあるかもしれない」と話しているという(中日新聞06-09-25)。

 が、この記事の中で、私の目をひいたのは、つぎの部分である。

 「……しっくいで覆われた主仏塔側面の柱状の装飾部分には、ギリシア文化の影響を受けた植物の葉の彫刻が施されていた」と。つまり「ギリシア文化の影響を受けた装飾が施されていたという。

 バーミヤン遺跡というのは、一般には、5~8世紀の造営とされているが、それ以前との説もある。アフガニスタンの首都カブール、西約240キロのところに、それはある。

 以前から、このバーミヤンで、インドから伝わってきた仏教と、古代ギリシア文明が融合したという説はあった。日本の仏像が、どれも、古代インドの服装ではなく、古代ギリシアの服装をしているのも、そのためと考えてよい。

 ただ私が調べた範囲では、ここに書いた、玄奘三蔵(三蔵法師のこと)は、バーミヤンまでは来ていない。現在のチベットあたりまで来て、引きかえしているはずである。それはともかくも、三蔵法師は、インドまでは行っていない。これは動かしがたい事実である。

 つまり私たちが今、この日本で「仏教」と呼んでいるものは、原型をとどめないほどまでに、その過程で、加工されたものと考えてよい。釈迦経典と言われているものについても、釈迦滅後、何百年もたってから、そのときどきの仏教徒によって書かれたり、編纂されたものである。

 つまり、日本の仏教には、多くの矛盾がある。矛盾だらけと言ってもよい。少し前になくなったが、東大の中村名誉教授も、さかんに「大乗非仏説」を唱えていた。つまりインドからヒマラヤ山脈の北を回って中国、日本へと伝わった仏教(大乗仏教、北伝仏教)は、釈迦が唱えた仏教とは異質のものである、と。

 たしかにおかしな点も多い。たとえば、インドでは男性だったカノンが、日本では「観音様」という女性になっている。

ここに書いたように、日本の仏像が、(ガンダーラの仏像もそうだが)、古代インドの服装ではなく、すべてヘレニズム文化の影響を受けた古代ギリシアの服装を身につけている。

また経典の中に、よく、貨幣の話が出てくるが、釈迦の時代にはまだ貨幣はなかったこと、などなど。

釈迦の生誕地に残る仏典(法句経)は別として、それ以外は、どうも?、というものが多い。そういうものを根拠にして、仏教を説いても、あまり意味がないのではないのか。さらに総じてみれば日本の仏教は、あのチベット密教の影響をモロに受けている。それが中国の土着宗教と結びついて、日本へ入ってきた。チベット密教そのものと言う人もいる。

 だからといって私は仏教を否定しているのではない。仮に仏教が否定されたとしても、
その仏教とともに生きてきた、何億何千万もの人たちの人生まで否定することはできない。ただ、盲信するのはいけない。中には、経典の一言半句にまで深い意味を求める人もいるが、しかしここにも書いたように、矛盾がないわけではない。そういう矛盾、つまり明らかなまちがいまで押し殺して盲信するのは、危険なことでもある。

 大切なことは、自分で考えることだ。先日もある著名な仏教哲学者U氏の講演をテレビで見ていたが、その中でその哲学者はこう言っていた。「○○経にXXという言葉がありますが、つまり人間はみな、平等と釈迦は教えているのです」(NHK、02年6月)と。

しかし、だ。何もおおげさに経典の一節をもちださなくても、人間がみな平等というのは常識ではないのか。ほんの少し自分自身の「常識」に照らし合わせれば、小学生にだってわかる。それにその哲学者は、こうも言っていた。「人間は白人も、黒人も、黄色人種も、みな平等だと、そういうことを釈迦は教えているのです。すばらしいことです」と。

しかしこの話はウソ。釈迦の時代に、釈迦の周辺に、白人や黒人、黄色人種はいなかった! その教授は、経典に、自説をこじつけたにすぎない。

 私たちは何の疑いもなく、日々の生活の中で、仏教的な儀式を繰り返している。そしてそれがあるべき方法だと、信じて疑わないでいる。しかしそういう姿勢こそ、ひょっとしたら、釈迦がもっとも嫌った姿勢ではないのか。話せば長くなるが、法句経で述べている釈迦の精神とは、どこか違うような気がする。

 ここではこの程度にしておくが、もし興味があったら、あとは皆さんが、自分でたしかめてほしい。
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 古代インド 古代ヘレニズム バーミヤン 大乗非仏説 中村元 日本の仏教)

●より高い人間性を求めて

2006-09-15 17:25:54 | Weblog

【より高い人間性を求めて】(1)

++++++++++++++++++

古今東西、実に多くの哲学者たちが、
「どうすればより人間として、
人間らしく生きることができるか」という
テーマについて考えている。

ここでは、マズローの「欲求段階説」を
中心に、それを考えてみたい。

+++++++++++++++++++

 今日も、昨日と同じ。明日も、今日と同じ……というのであれば、私たちは人間として生きることはできない。

 そこで「より高い人間として生きるためには、どうしたらよいか」。それについて、A・H・マズローの、「欲求段階説」を参考に、考えてみる。マズローは、戦時中から、戦後にかけて活躍した、アメリカを代表する心理学者であった。アメリカの心理学会会長も歴任している。

●第1の鉄則……現実的に生きよう

 しっかりと、「今」を見ながら、生きていこう。そこにあるのは、「今という現実」だけ。その現実をしっかりと見つめながら、現実的に生きていこう。

●第2の鉄則……あるがままに、世界を受けいれよう

 私がここにいて、あなたがそこにいる。私が何であれ、そしてあなたが何であれ、それはそれとして、あるがままの私を認め、あなたを認めて、生きていこう。

●第3の鉄則……自然で、自由に生きよう

 ごく自然に、ごくふつうの人として、当たり前に生きていこう。心と体を解き放ち、自由に生きていこう。自由にものを考えながら、生きていこう。

●第4の鉄則……他者との共鳴性を大切にしよう

 いつも他人の心の中に、自分の視点を置いて、ものを考えるようにしよう。他人とのよりよい人間関係は、それ自体が、すばらしい財産と考えて、生きていこう。

●第5の鉄則……いつも新しいものを目ざそう

 過去や、因習にとらわれないで、いつも新しいものに目を向け、それに挑戦していこう。新しい人たちや、新しい思想を受けいれて、それを自分のものにしていこう。

●第6の鉄則……人類全体のことを、いつも考えよう

 いつも高い視野を忘れずに、地球全体のこと、人類全体のことを考えて、生きていこう。そこに問題があれば、果敢なく、それと戦っていこう。

●第7の鉄則……いつも人生を深く考えよう

 考えるから人は、人。生きるということは、考えること。どんなささいなことでもよいから、それをテーマに、いつも考えながら生きていこう。

●第8の鉄則……少人数の人と、より深く交際しよう

 少人数の人と、より深く交際しながら生きていこう。大切なことは、より親交を温め、より親密になること。夫であれ、妻であれ、家族であれ、そして友であれ。

●第9の鉄則……いつも自分を客観的に見よう

 今、自分は、どういう人間なのか、それを客観的に見つめながら、生きていこう。方法は簡単。他人の視点の中に自分を置き、そこから見える自分を想像しながら生きていこう。 

●第10の鉄則……いつも朗らかに、明るく生きよう

 あなたのまわりに、いつも笑いを用意しよう。ユーモアやジョークで、あなたのまわりを明るくして生きていこう。
(はやし浩司 マズロー 欲求段階説 高い人間性)

【より高い人間性を求めて】(2)

 人格論というのは、何度も書いているが、健康論に似ている。日々に体を鍛錬することによって、健康は維持できる。同じように、日々に心を鍛錬することによって、高い人間性を維持することができる。

 究極の健康法がないように、究極の精神の鍛錬法などというものは、ない。立ち止まったときから、その人の健康力は衰退する。人間性は衰退する。

 いつも前向きに、心と体を鍛える。しかしそれでも現状維持が、精一杯。多くの人は、加齢とともに、つまり年をとればとるほど、人間性は豊かにななっていくと誤解している。しかしそんなことはありえない。ありえないことは、自分が、その老齢のドアウェイ(玄関)に立ってみて、わかった。

 ゆいいつ老齢期になって、新しく知ることと言えば、「死」である。「死の恐怖」である。つまりそれまでの人生観になかったものと言えば、「死」を原点として、ものを考える視点である。「生」へのいとおしさというか、「生きることのすばらしさ」というか、それが、鮮明にわかるようになる。

 そうした違いはあるが、しかし、加齢とともに、知力や集中力は、弱くなる。感性も鈍くなる。問題意識も洞察力も、衰える。はっきり言えば、よりノーブレインになる。

 ウソだと思うなら、あなたの周囲の老人たちを見ればわかる。が、そういう老人たちが、どうであるかは、ここには書けない。書けないが、あなたの周囲には、あなたが理想と考えることができるような老人は、いったい、何人いるだろうか。

 せっかくの命、せっかくの人生、それをムダに消費しているだけ。そんな老人の、何と、多いことか。あなたはそういう人生に、魅力を感ずるだろうか。はたしてそれでよいと考えるだろうか。

 マズローは、「欲求段階説」を唱え、最終的には、「人間は自己実現」を目ざすと説いた。人間は、自分がもつ可能性を最大限、発揮し、より人間らしく、心豊かに生きたいと願うようになる、と。

 問題は、どうすれば、より人間らしく、心豊かに生きられるか、である。そこで私はマズローの「欲求段階説」を参考に、10の鉄則をまとめてみた。

Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司

【人間らしく生きるための、10の鉄則】(マズローの「欲求段階説」を参考にして)

●第1の鉄則……現実的に生きよう

●第2の鉄則……あるがままに、世界を受けいれよう

●第3の鉄則……自然で、自由に生きよう

●第4の鉄則……他者との共鳴性を大切にしよう

●第5の鉄則……いつも新しいものを目ざそう

●第6の鉄則……人類全体のことを、いつも考えよう

●第7の鉄則……いつも人生を深く考えよう

●第8の鉄則……少人数の人と、より深く交際しよう

●第9の鉄則……いつも自分を客観的に見よう

●第10の鉄則……いつも朗らかに、明るく生きよう


+++++著作権BYはやし浩司++++++copy right by Hiroshi Hayashi+++++

●マズローの欲求段階説

 昨日、「マズローの欲求段階説」について書いた。その中で、マズローは、現実的に生きることの重要性をあげている。

 しかし現実的に生きるというのは、どういうことか。これが結構、むずかしい。そこでそういうときは、反対に、「現実的でない生き方」を考える。それを考えていくと、現実的に生きるという意味がわかってくる。

 現実的でない生き方……その代表的なものに、カルト信仰がある。占い、まじないに始まって、心霊、前世、来世論などがもある。が、そういったものを、頭から否定することはできない。

ときに人間は、自分だけの力で、自分を支えることができなくことがある。その人個人というよりは、人間の力には、限界がある。

 その(限界)をカバーするのが、宗教であり、信仰ということになる。

 だから現実的に生きるということは、それ自体、たいへんむずかしい、ということになる。いつもその(限界)と戦わねばならない。

 たとえば身近の愛する人が、死んだとする。しかしそのとき、その人の(死)を、簡単に乗り越えることができる人というのは、いったい、どれだけいるだろうか。ほとんどの人は、悲しみ、苦しむ。

いくら心の中で、疑問に思っていても、「来世なんか、ない」とがんばるより、「あの世で、また会える」と思うことのほうが、ずっと、気が楽になる。休まる。

 現実的に生きる……一見、何でもないことのように見えるが、その中身は、実は、奥が、底なしに深い。


●あるがままに、生きる

 ここに1組の、同性愛者がいたとする。私には、理解しがたい世界だが、現実に、そこにいる以上、それを認めるしかない。それがまちがっているとか、おかしいとか言う必要はない。言ってはならない。

 と、同時に、自分自身についても、同じことが言える。

 私は私。もしだれかが、そういう私を見て、「おかしい」と言ったとする。そのとき私が、それをいちいち気にしていたら、私は、その時点で分離してしまう。心理学でいう、(自己概念=自分はこうであるべきと思い描く自分)と、(現実自己=現実の自分)が、遊離してしまう。

 そうなると、私は、不適応障害を起こし、気がヘンになってしまうだろう。

 だから、他人の言うことなど、気にしない。つまりあるがままに生きるということは、(自己概念)と、(現実自己)を、一致させることを意味する。が、それは、結局は、自分の心を守るためでもある。

 私は同性愛者ではないが、仮に同性愛者であったら、「私は同性愛者だ」と外に向って、叫べばよい。叫ぶことまではしなくても、自分を否定したりしてはいけない。社会的通念(?)に反するからといって、それを「悪」と決めつけてはいけない。

 私も、あるときから、世間に対して、居なおって生きるようになった。私のことを、悪く思っている人もいる。悪口を言っている人となると、さらに多い。しかし、だからといって、それがどうなのか? 私にどういう関係があるのか。

 あるがままに生きるということは、いつも(自己概念)と、(現実自己)を、一致させて生きることを意味する。飾らない、ウソをつかない、偽らない……。そういう生き方をいう。


●自然で自由に生きる

 不規則がよいというわけではない。しかし規則正しすぎるというのも、どうか? 行動はともかくも、思考については、とくに、そうである。

思考も硬直化してくると、それからはずれた思考ができなくなる。ものの考え方が、がんこになり、融通がきかなくなる。

 しかしここで一つ、重要な問題が起きてくる。この問題、つまり思考性の問題は、脳ミソの中でも、CPU(中央演算装置)の問題であるだけに、仮にそうであっても、それに気づくことは、まず、ないということ。

 つまり、どうやって、自分の思考の硬直性に、気がつくかということ。硬直した頭では、自分の硬直性に気づくことは、まず、ない。それ以外のものの考え方が、できないからだ。

 そこで大切なのは、「自然で、自由にものを考える」ということ。そういう習慣を、若いときから養っていく。その(自由さ)が、思考を柔軟にする。

 おかしいものは、「おかしい」と思えばよい。変なものは、「変だ」と思えばよい。反対にすばらしいものは、「すばらしい」と思えばよい。よいものは、「よい」と思えばよい。

 おかしなところで、無理にがんばってはいけない。かたくなになったり、こだわったりしてはいけない。つまりは、いつも心を開き、心の動きを、自由きままに、心に任せるということ。

 それが「自然で、自由に生きる」という意味になる。
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 マズロー A・H・マズロー 欲求段階説 人間らしい生き方

●教えにくい子ども

2006-09-08 08:21:31 | Weblog
【教えにくい子ども】

+++++++++++++++++++

育てやすい子ども、育てにくい子どもというのが、いる。
それについては、少し前に書いた。

その原稿を、S市に住む、W先生(男性教師)が読んでくれた。
そしてこんな話をしてくれた。

+++++++++++++++++++

育てやすい子ども、育てにくい子どもというのが、いる。それについては、少し前に書いた。

その原稿を、S市に住む、W先生(男性教師)が読んでくれた。そしてこんな話をしてくれた。

 「教えにくい子どもというのも、いますね。いろいろなタイプの子どもがいますが、最近、こんなことがありました」と。

 ある日、突然、その子ども(小3・女児)の母親が、職員室へ飛びこんできたという。ものすごい剣幕だった。そこで応対した教頭は、その様子に驚き、授業中だったが、W先生を職員室へ呼んだ。

 「何ですか?」と聞こうとする間もなく、その母親は、こう怒鳴ったという。「あなたは、うちの子を殴ったそうですね。それも頭を!」「うちの子は、寝る前になって、シクシクと泣いていましたア!」と。

  青天の霹靂(へきれき)とは、まさにそのこと。W先生には、まったく身に覚えがなかった。しかも母親の言い分に耳を傾けるだけで精一杯。その母親は、興奮状態だった。一方的に、まくしたてた。

 で、一通りあやまったあと、その場は教頭の取りはからいで、何とか、すますことができた。が、どうしてそうなったか、W先生には、まったく理解できなかった。その母親の子どもを、U子としておく。そのU子を、殴った覚えどころか、叩いた覚えもない。体に触れたという記憶さえない。

 が、思い当たることが、ひとつだけ、あった。

 ふつう「すなおな子ども」というときは、(心の様子=情意)と、(顔の表情)が一致している子どもをいう。このすなおさに欠けるようになると、(情意)と(表情)が、一致しなくなってくる。

 どこかニンマリと笑っているような感じになる。いやなはずなのに、穏やかな表情をして、それに黙って従ったりする、など。教える側からすると、心がつかみにくくなる。何を考えているか、わからないといったタイプの子どもになる。

 原因は、おしなべて家庭環境にある。とくに母子関係にある。

 威圧的な育児姿勢、過干渉、過関心などなど。要するに、親子、とくに母子関係の不全を疑う。子どもは、母親の前で仮面をかぶることを覚え、それがひどくなると、外の世界でも、自分を調整できなくなる。

 U子も、そんなタイプの女の子だったという。数の上では、決して少なくない。10人もいれば、その中に、必ず、1人や2人は、いる。

 で、その前日、つまりその母親が怒鳴りこんでくる前日、こんなことがあったという。

 毎週、「X」という授業がある。その学校独自の授業で、それには、毎回、家族の協力が必要であった。が、U子は、つづけて、その忘れ物をした。そこでW先生が、U子にこう言ったという。

 「明日は、ちゃんと、もってきてくださいよ。もし忘れたら、ぼくのほうから、お母さんに電話をして頼んであげるから」と。

 W先生にしてみれば、軽いおどしのつもりだったという。が、(多分?)、U子は家の中では、まったく別の反応を示した。

 (母親への不満)→(学校へ行くのがおっくう)→(先生に何かを言われるのが苦痛)→(反撃!)と。

 U子は、W先生の悪口を言い始めた。それが「先生が、私を殴った」という言葉になった。が、U子にしても、まさか、自分の母親が、学校まで怒鳴りこんでいくとは、思ってもいなかったらしい。ことが、おおげさになってしまった!

 こうしたケースでは、しばらく間をおくのが、よい。U子について言えば、そっとしておくのが、よい。時間がたてば、みな、冷静になる。

 しかしそれからというもの、W先生は、U子については、あたかも腫れ物に触れるかのようにして、教えなければならなかったという。

 「何を考えているかわからない子どもを教えることほど、不気味さを感じさせるのはありません。私のちょっとした不用意な言葉が、とんでもない方に、曲解されてしまうからです。こわいです」と。

 さらに不幸なことに、U子の母親自身が、それに気づいていなかった。職員室では、「うちの子は、ウソをつくような子ではない」「あなたはうちの子がウソつきだと言うのかア!」と、教頭やW先生に、かみついてきたという。

 あのシェークスピアも、こう書いている。「己の子どもを知るは賢い父親だ」(ベニスの商人)と。

 以前、こんな原稿を書いたことがある。

+++++++++++++++++++

●子どもを知る

 「己の子どもを知るは賢い父親だ」と書いたのはシェークスピア(「ベニスの商人」)だが、それくらい自分の子どものことを知るのは難しい。

親というのは、どうしても自分の子どもを欲目で見る。あるいは悪い部分を見ない。「人、その子の悪を知ることなし」(「大学」)というのがそれだが、こうした親の目は、えてして子どもの本当の姿を見誤る。いろいろなことがあった。

 ある子ども(小6男児)が、祭で酒を飲んでいて補導された。親は「誘われただけ」と、がんばっていたが、調べてみると、その子どもが主犯格だった。

ある夜1人の父親が、A君(中1)の家に怒鳴り込んできた。「お宅の子どものせいで、うちの子が不登校児になってしまった」と。A君の父親は、「そんなはずはない」とがんばったが、A君は学校でもいじめグループの中心にいた、などなど。こうした例は、本当に多い。

子どもの姿を正しくとらえることは難しいが、子どもの学力となると、さらに難しい。たいていの親は、「うちの子はやればできるはず」と思っている。たとえ成績が悪くても、「勉強の量が少なかっただけ」とか「調子が悪かっただけ」と。

そう思いたい気持ちはよくわかるが、しかしそう思ったら、「やってここまで」と思いなおす。子どものばあい、(やる・やらない)も力のうち。子どもを疑えというわけではないが、親の過剰期待ほど、子どもを苦しめるものはない。そこで子どもの学力は、つぎのようにして判断する。

 子どもの学校生活には、ほとんど心配しない。いつも安心して子どもに任せているというのであれば、あなたの子どもはかなり優秀な子どもとみてよい。しかしいつも何か心配で、不安がつきまとうというのであれば、あなたの子どもは、その程度の子ども(失礼!)とみる。

そしてもし後者のようであれば、できるだけ子どもの力を認め、それを受け入れる。早ければ早いほどよい。そうでないと、(無理を強いる)→(ますます学力がさがる)の悪循環の中で、子どもの成績はますますさがる。

要するに「あきらめる」ということだが、不思議なことにあきらめると、それまで見えていなかった子どもの姿が見えるようになる。シェークスピアがいう「賢い父親」というのは、そういう父親をいう。

+++++++++++++++++++

 つまりこういう子どもの親にかぎって、自分の子どもを見ていない。知らない。外の世界では、柔和な表情をしているので、かえって、「うちの子は、できのいい子」と思いこんでしまう。

 W先生は、こう言った。「教えにくい子どもというのは、たしかにいます。しかし何とか対処できる子どもなら、まだ教えることができます。しかしU子のような子どもは、教えにくいというか、教えていても、心底、神経をすり減らします」と。

 わから、わかる、その気持ち。

 子どもをそういうタイプの子どもにしないように、私の教室では、大声を出させたり、大声で笑わせたりする。その時期は、年中~年長のころがよい。年長児でも、夏休みを過ぎるころから、急に少年、少女ぽくなる。それに従わなくなる。人格の「核」ができ始めるからである。

 この「核」、心理学でいうところの、「コア・アイデンティティ」ができると、子どもの心をいじることはできない。またいじってはならない。へたにいじると、子ども自身が、自分に自信をなくしてしまう。ついでながらそういう状態を、心理学では、「同一性の危機」と呼んでいる。

 W先生は、こう言った。「これからさまざまな問題を、いろいろ起こすでしょうね。が、そのたびに、親や教師は、そういう子どもに振りまわされる。いつか親も、それに気づくときがくるかもしれませんが、そのころには、親子関係は、すでに破壊されているでしょうね」と。
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 何を考えているかわからない子ども 仮面をかぶる子供 子供の仮面)

+++++++++++++++++

コア・アイデンティティについて
書いた原稿を添付します。

+++++++++++++++++

●自己同一性(アイデンティティ)

 若いお母さんでも、「アイデンティティ」という言葉を口にする時代になった。すごいことだと、私は思う。「みんな、勉強しているんだな」と思う。

 そこでもう一度、そのアイデンティティについて、考えてみたい。日本では、「自己同一性」と訳されている。

【アイデンティティ】

 もともとは、エリクソンが提唱した、精神分析概念をいう。他人とはちがう、本当の自分、あるいは「自分らしさ」をいう。

 アイデンティティの確立した人は、自己の単一性、連続性、不変性、独自性の感覚があるという(「日本語大辞典」)。そしてその結果、「ある特定の対象や集団との間で、是認された役割と連帯感がもてる」(同)ようになるという。

 順にかみくだいて、考えてみよう。

(1) 自己の単一性

 わかりやすさ……簡単に言えば、そういうことになる。「わかりやすい」というのは、「この子は、こういう子だ」という、つかみどころをいう。教える立場でいうなら、「こういうことをすれば、この子は喜ぶだろうな」というふうに、予測のたてやすい子どもということになる。

(2) 連続性

 いつも同じ調子であること。気分にムラがなく、性格や気質が安定している。感情が変化することがあっても、「なぜそうなるのか」「なぜそうなったのか」ということが、わかりやすい。突然、わけのわからないことをする……ということがないことをいう。

(3) 不変性

 いわゆるシンのしっかりした子ども、ということになる。自分の意見をもち、その意見に従って、行動する。フラつきがなく、目標に向ってがんばることができる。約束も、しっかりと守る。

(4) 独自性

 日本的に言えば、個性のこと。集団の中にいても、その子どもらしさが、光ることをいう。他人と協調しながらも、いつも「私」をもっている。独自性のない子どもは、どこか軟弱。その場、その場で、他人に迎合したり、同調したりする。

 こうしてアイデンティティの問題を考えていくと、いつも、「では、私はどうか?」という問題に行きつく。

 実のところ、この私は、そのアイデンティティが、軟弱な人間といってよい。ときどき、自分にさえ、自分がどこにいるかわからなくなることがある。犬にたとえていうなら、だれにでもシッポを振る。そんな人間である。

 そういう私だから、若いころは、集団とのかかわりが、苦手だった。いや、表面的には社交的で、だれとでもうまく交際した。愛想もよく、口もじょうずだった。だから私が、「実は、本当のことを言うと、ぼくは、集団が苦手だ」などと言うと、みんな、「ウソつけ」とか、「そんなはずはないだろ」とか、言ったりした。

 しかし本当の私は、そうではなかった。自分をさらけ出せない分だけ、集団の中では疲れた。エリクソンが唱えるところの、単一性、独自性に欠けた。

 なぜ、私がそうなったかといえば、理由はいろいろ考えられる。しかし自分の記憶をいくらたどっても、満5、6歳を境に、それ以前は闇に包まれてしまう。自分を客観的に見ることができない。そんなわけで、あくまでもこれは私の推察によるものだが、私は、きわめて精神的に貧しい乳幼児期から幼児期を過ごしたのではないかと思う。

 で、こうしたアイデンティティは、いつも集団とのかかわりの中で、評価される。いくらアイデンティティがあっても、集団とうまくかかわれないというのであれば、それはアイデンティティとは言わない。「ある特定の対象や集団との間で、是認された役割と連帯感がもてる」ということが、重要になってくる。

 つまりは、個人と集団との調和が、エリクソンの説く、アイデンティティということになる。「私がすべて。私以外は、みな、無価値」と考えるのは、アイデンティティでもなんでもない。ただの独善という。

 そのアイデンティティを、子どもの中に育てるためには、どうするか?

【アイデンティティを育てる】

 アイデンティティをどう育てるか……というよりも、どうすれば、アイデンティティを、つぶさないですむかと考えるほうが、実際的である。

 というのも、このアイデンティティは、自然な状態では、どの子どもも、みな、平等にもっている。それが、親の過干渉、過関心、溺愛、過保護、さらには育児放棄、否定的な育児姿勢の中で、つぶされてしまう。そういうケースは、少なくない。

 たとえば否定的な育児姿勢を考えてみよう。

 A子さん(年中女児)が、「私は、おとなになったら、花屋さんになりたい」と言ったとする。そのとき大切なことは、「そうね、花屋さんって、すてきな仕事ね」と、親はそれを前向きにとらえてあげる。

 そういう育児姿勢の中で、子どもは、自分の役割を、前向きに形成していくことができる。自分で花の本を読んだり、種を育ててみたりする。

 が、このとき親が、「花屋さんなんて、ダメ」「あなたは算数教室と英語教室に行くのよ」と、それを否定したとする。(否定するつもりはなくても、否定することがあるので注意する。)

 すると子どもは、自分の意思に自信がもてなくなり、ばあいによっては、自己否定したり、さらに罪悪感をもつようになる。役割混乱から、情緒不安定になることもある。

 よくある例は、親が、子どもの進路を勝手に変えてしまうようなケース。「成績がさがったから、サッカークラブをやめなさい」とか、「受験が近づいたから、バスケットクラブをやめなさい」とか言うのが、それ。子どもによっては、あたかも山が崩れるかのように、人格そのものを、崩壊させてしまうことがある。

 が、実際のところ、否定的な育児姿勢といっても、それは日常的なものである。そしてさらにその背景はといえば、親の子どもへの不信感がある。「うちの子は、何をしてもだめ」という不信感が、姿を変えて、否定的な育児姿勢になることが多い。

 そしてそれは、言葉によるというよりは、あくまでも「親の姿勢」によるところが大きい。たとえば、こんな会話。

親「そのお弁当箱を洗っておいてよ。いいこと、しっかり洗うのよ。どうせあなたのことだから、いいかげんな洗い方をするのでしょうけど……」

親「やっぱり、いいかげんな洗い方ね。もう一度、洗いなさい。あれだけしっかり洗いなさいと言ったのに、どうして、しっかりと洗えないの。ほら、まだごはんの食べカスが残っているでしょ」

親「あんたみたいな子はね、ずるいから、いつか悪いことをして、警察につかまるかもしれないわよ。そうなったとき、お母さんの言っている意味が、はじめてわかるのよ」と。

 過干渉にしても、過関心にしても、同じように考えてよい。子どもへの不信感が、子どもへの過干渉になったり、過関心になったりする。ここでいう否定的な育児姿勢になることもある。

【いつも前向きに……】

 エリクソンは、こう説く。

 赤ん坊がおなかをすかして泣いたとき、すかさず母親が乳を与えたとする。すると子どもは、自分が泣くことで、母親を動かしたことを知る。

 あるいは赤ん坊がおむつをぬらして、同じように泣いたとする。母親はそれを見て、おむつをかえたとする。すると子どもは、自分が泣くことで、母親を動かしたことを知る。

 こうした一連の行動をとおして、赤ん坊は、自分が求められていることを知る。「自信」という言葉が適切かどうかは知らないが、子どもは自分に自信をもつようになる。「安心感」と言いかえてもよい。この自信や安心感が、「核(コア)」を形成する。

 エリクソンは、それをそのまま、「コア・アイデンティティ」と呼んだ。

 が、反対に、赤ん坊が泣いたとき、それをそのつど、否定したらどうなるだろうか。赤ん坊がおなかをすかして泣いたとき、無視したり、冷淡にあしらったりする。あるいは、「待っていなさい!」と叱って、あとまわしにしたりする。

 そうなると、子どもは、自分のしていることに自信がもてなくなる。不安になる。「私はまちがったことをしているのではないか」と思う。この状態が、子どもから、(私らしさ)をうばっていく。

 が、それだけではすまない。

 このコア・アイデンティティは、まさにその人の核(コア)になる。子どもというのは、この核をふくらませる形で、年齢とともに成長していく。もっとわかりやすく言えば、母子関係を、やがて、たとえば、先生との関係、友人との関係へと、応用していく。

 が、最初の段階で、つまり母子との関係で、核(コア)づくりに失敗した子どもは、たとえば、先生との関係、友人との関係で、良好な人間関係を結べなくなる。ここでいうアイデンティティも、同じように考えてよい。

 もうおわかりかと思う。

 子どものアイデンティティを育てるためには、いつも子どもを前向きにほめていく。とくに乳幼児期は、「子どもを、こうしよう」「ああしよう」と考えるのではなく、ありのままを認めながら、「それでいいのだ」と教えていく。

 この時期は、多少、うぬぼれ気味、自信過剰気味のほうが、あとあとその子どもは、伸びる。「ぼくは、すばらしい人間だ」「私は、何でもできる」と。そういう思いが、ここでいうアイデンティティを明確にする。そしてそれが、その子どもを、さらに前向きに伸ばしていく。

 最後に私のばあいだが、私は、30歳をすぎるころから、自分さがしを始めたように思う。それまでの私は、私が何であるか、どこにいるか、何を望んでいるかさえ、よくわからなかった。

 が、40歳をすぎるころからは、そのつど、居なおるようになった。たとえば私は、あのパーティが苦手だった。酒を飲めないこともある。大声で騒ぎながら、意味もないゲームをしたり、歌を歌ったりする……。苦手というより、苦痛だった。

 だからそのころから、そういったパーティに出るのをやめるようにした。「私は私だ」と。

 それまでの自分は、みなに嫌われたくない。好かれたい。そういう思いを優先させ、がまんしていた。が、そのがまんをするのを、やめた。

 この傾向は50歳をすぎてから、さらに強くなった。「私は、もっと私らしく生きるぞ」と思うようになった。が、だからといって、自分のアイデンティティを確立したわけではない。今でも、ふと油断すると、自分がどこにいるかわからなくなるときがある。

 そういう意味で、この問題は、まさに10年単位の問題と考えてよい。もしこの文章を読んでいるあなたが、同じような問題をかかえているとしたら、10年単位で考えたらよいということ。決して、1年や2年で解決する問題ではない。

 ここでいうアイデンティティの問題には、そういう問題も、含まれるということ。

(はやし浩司 アイデンティティ アイデンティティー 自己同一性 コア コアアイデンティティ コア・アイデンティティ エリクソン)
(040615)

【追記】

 今、ふと思ったが、私の年代の人間には、私のようにヘラヘラと、やたらと愛想がよく、だれにでもシッポを振る人間が多いのでは……?

 戦後の貧しい時期に育児を経験したためかもしれないが、ひょっとしたら、あのギューギューのつめられた、寿司詰め教育にも、その原因があるのではないか、と。

 私の時代には、50人クラスが当たり前だった。中学校のときは、1クラス55人だった。

 いつも先生が、何かをガンガンと叫んでばかりいたような気がする。考えてみれば、それもそうで、先生もたいへんだったなあと思うと同時に、ああいう世界では、そもそもアイデンティティをもつことすら、許されなかったのではないか。

 あくまでも、今、ふとそう思ったというだけのことだが、近く、この問題についても考えてみたい。
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 アイデンティティ 同一性 自己同一性)


●子どもと受験

2006-09-07 09:36:52 | Weblog

【子どもの受験】

++++++++++++++++++++

子どもを愛することは難しい。
子どもを信ずることは、さらに難しい。

大切なことは、子どもを信じ、
子どもの心に耳を傾け、
子どもの心を知り、
友として子どもの横に立ち、
子どもといっしょに歩くこと。
それができる親を、賢い親という。
それができない親を、愚かな親という。

++++++++++++++++++++++

●不本意な結婚

 親は言う。「Xさん(男性30歳)は、すてきな人だから、結婚しろ」と。X氏の家系は、その地域でも名が知られた財産家。祖父の代から、祖父、父親は、特定郵便局だが、その郵便局の局長を勤めていた。

 しかしA子さん(女性22歳)は、結婚をためらっていた。ほかに好きな人がいたわけではない。ないが、X氏が、自分のタイプではないことだけは、よくわかっていた。2、3度会って、食事をしたこともあるが、どうもしっくりこない。会えば会うほど、自分の心が乾いていくのを感じた。

 が、相手の親も、自分の親も、「結婚させたい」「結婚しろ」と。とくに母親は、毎日のようにグチを言った。「早く、孫の顔を見たい」「安心したい」「どうしてためらっているの」「こんないい縁談はないのに」と。

 A子さんには、ほかにしたいことがあった。一度は都会に出て、自由な空気を吸ってみたかった。漠然(ばくぜん)とした思いではあったが、日を追うごとに、それがますます強くなった。自分の心を覆うようになった。

 で、そういう状態が、半年近くもつづき、結局は、A子さんは、X氏と結婚してしまった。「自分さえがまんすれば、みな、幸福になれる」と。

 しかし現実は、きびしいものだった。味気ない結婚生活。殺伐(さつばつ)とした夫婦関係。家事をしていても、手が重い。ときに体が動かなくなることもあった。それを知って、夫となったX氏は、毎日のように、A子さんを責めた。「お前は怠け者だ」と。A子さんは、自分の心がますます夫のX氏から離れていくのを感じた……。

●子どもの世界でも……

 ……これは夫婦の話だが、子どもの世界でも、これと似たようなことがよく起きる。ここでいうX氏を、受験校に置きかえてみると、それがよくわかる。

 親は「勉強しろ」と、一方的に言う。「SS中学校に入れ」という。親は、自分の知らないところで、進学塾の説明会に行き、勝手に申し込み書を出してしまった。「みんなが行くから、あなたも行きなさい」と。

 子どもは言われるまま、進学塾に通い、受験のための勉強をする。分厚いテキストを与えられる。毎日、毎晩、その宿題に追われる。その進学塾では、毎月、月末に学力テストが実施される。上位10番までの子どもは、塾からの通信に名前が載る。

 成績がよくても、安心してはおられない。少しでも成績がさがると、塾で並ぶ席が入れかわってしまう。さらにさがれば、AクラスからBクラスにさげらる。それをその塾では、「マイナー落ち」と呼んでいる。メジャー(全国チーム)から、マイナー(地方チーム)へ落ちることに似ているから、そう言う。

 こうして、たいはんの子どもたちは、勉強に追われるまま、悶々とした日々を過ごす。心が晴れることはない。憂鬱(ゆううつ)な毎日。重苦しい毎日。たまの日曜日でも、家で休んでいると、親は、すぐこう言う。「宿題はやっやたの!」「テスト勉強はしたの!」と。少しでも親に反発しようものなら、すかさず、こう言いかえされる。「高い月謝を払っているのは、私なんだからね」と。

 結局、SS中学校を断念し、AA中学校を受験。やっとの思いで入学したAA中学校だったが、達成感がまるでない。満足感がまるでない。ある日母親が言った一言が、心を大きく押しつぶす。母親はこう言った。

 「小さいころから、高い月謝を払って塾へ通わせたけど、ムダだったわね」と。が、それですんだわけではない。

味気ない学生生活。殺伐(さつばつ)とした友人関係。勉強をしていても、手が重い。ときに体が動かなくなることもあった。それを知って、母親は、毎日のように、子どもを責めた。「あんたは怠け者だ」と。子どもは、自分の心がますます勉強から離れていくのを感じた……。

●大切なことは……

 多くの……というより、ほとんどの親たちは、自分の子どもを、よりよい学校(?)に入れることしか考えていない。それが自分の子どもにとって最善であると、信じて疑わない。が、つまるところ、親は、自分が感じている不安や心配を子どもにぶつけているだけ。

 が、こんな方法がうまくいくはずがない。仮にうまくいったとしても、つぎに今度は、高校受験。さらにそこでうまくいったとしても、その先では大学受験。

 できる子どもはできる子どものレベルで、できない子どもはできない子どものレベルで、勉強に追われる。息つくひまもない。休む間もない。で、こうして最後まで生き残る(?)子どもは、数割もいない。たいはんの子どもたちは、その過程で、もがき苦しみ、心に大きなキズをもって、ドロップ・アウトしていく。

 悲しいかな、世の親たちは、自分の子どもが成功することだけしか考えていない。失敗したときの心のケアまで考えている親は、まず、いない。失敗といっても、ふつうの失敗ではない。燃えつき症候群、荷卸し症候群、ピーターパン・シンドローム、ニート、引きこもり、家庭内暴力、うつ病……。まさに何でもござれといった状態になる。

 怠学から非行に走るケースなどといったものは、まだよいほうだ。

 が、親にはそれがわからない。「うちの子にかぎって……」「まだ何とかなる……」と無理をする。かりにその兆候が出てきても、「そんなはずはない」「まさか……」と見逃してしまう。

 つまりこうして親たちは、やがて行き着くところまで行く。またそこまで行かないと、気がつかない。いや、そういう状態になっても、まだ何とかしようと、あせる。子どもを責める。脅(おど)す。自分のしてきたことは、すべて棚にあげて……。そしてこう言う。

 「私は子どものために、一生懸命しています」と。

 ……とまあ、否定的なことばかり書いたが、しかし今、こうして子育てで失敗していく人が、あまりにも多い。本当に、多い。が、私のような者が、いくら叫んでもムダ。それはたとえて言うなら、流れる川の中で、一本の旗を立てるようなもの。流れを止めることはもちろん、流れを変えることさえできない。

 明治の昔から、あるいはそれ以前から、日本人の体の中には、体質として、出世主義、それにまつわる学歴制度が、しみついている。職業による身分制度的な意識も、まだ残っている。それが親から子へと、代々と、引き継がれている。今、感じている、あなたの不安や心配にしても、それはあたながあなたの親から引き継いだものである。

 そういう意味でも、世代連鎖というのは、恐ろしい。無意識のうちに、親から子へと、そしてまわりの環境の中で、あなたに伝えられていく。が、ここで止まるわけではない。勉強を嫌い、勉強から逃げているあなたの子どもでさえ、今度は自分が親になると、自分の子ども(あなたから見れば孫)に対して、同じようなことをするようになる。

 それがわからなければ、あなた自身の過去をみることだ。それともあなたは、子どものころ優等生で、勉強が好きだったとでもいうのだろうか。そういう人もいなくはない。が、もしあなたが、「私は受験勉強が楽しかった」「みなを順位で負かすのが、気持ちよかった」と思っているなら、同時に、あなたは、あなた自身の人間性を疑ってみたらよい。

 きっと、あなたの心は、冷たく、点数だけで人を判断するような人かもしれない。あるいはどこか、心の欠けた人かもしれない。あなた自身は、それに気がついていないかもしれないが……。

 ともかくも、中学時代に経験していた高校受験が、今では、小学時代に中学受験で経験するようになった。3年、それが早まったということになる。

 中学生ともなると、親の言うことを聞かなくなる。だから小学生のうちに……ということではないと思いたいが、しかしそれだけに、この時期、一度、つまずくと、あとがない。それだけ大きく、子どもの心をキズつける。へたをすれば、生涯にわたって、その子どもをうしろ向きに引っ張りつづけるかもしれない。ハキのない、ナヨナヨとした人生観の子どもにしてしまうかもしれない。

 子どもの教育で重要なことは、(1)子どもの心の灯(ひ)をともし、(2)楽しませ、(3)能力を引き出すことである。

 子どもを脅し、成績をつけ、順位でおいまくるような教育は、教育ではない。家畜の訓練でも、そんなバカなことはしない。仮に「進学塾へ……」ということを考えることがあったとしても、親は、1歩さがって、慎重に判断したらよい。子どもよっては、よい刺激になることもないわけではない。またこの日本では、進学競争を無視して生きるというのも、たいへんなことである。

 大切なことは、子どもを信じ、子どもの心に耳を傾け、子どもの心を知り、友として子どもの横に立ち、子どもといっしょに歩くこと。それができる親を、賢い親という。それができない親を、愚かな親という。進学塾へ行く、行かないは、あくまでもその結果として考えることである。

 やがていつか、今の子育ても終わるときがやってくる。そのとき自分の過去、自分の子育てを振りかえってみて、その中で光り輝くのは、自分の子どもを信じきった、愛しきった、守りきったという、親としての実感である。

 見栄、メンツ、世間体に引きずられて、「勉強しろ」「勉強しなさい」と子どもを叱りつづけた思い出ほど、自分の過去を汚すものはない。それであなたの子どもが、一流大学に進学したとしても、だ。その汚点は消えることなく、死ぬまでつづく。
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 子供の受験 受験 灯をともし、引き出す 親の宿命)