【教育再生会議・中間報告原案】
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06年の12月21日、教育再生会議の
中間報告会議の原案が、提示された。
「塾を禁止せよ」と提案した野依良治氏
(座長)。過激すぎるというか、現実離れ
しすぎているというか?
いろいろ提案がなされたようだが、本当
に、このメンバーの人たちは、教育の現
場を知っているのだろうかというのが、
私の率直な疑問。
案の定、教育再生会議の出した提案は、
ことごとく無視されている。
かろうじて通ったのは、(ゆとり教育の
見直し)だけ。
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06年の12月21日、教育再生会議の中間報告の原案が提示された。内容は、以下のようなもの。
(1) ゆとり教育の見直し
(2) 教員免許更新制
(3) 学校の第三者評価制度
(4) 教育委員会改革
(5) 大学9月入学
このうち、安倍内閣の教育改革の意に合致したものは、(1)のゆとり教育の見直しだけ。(2)の教員免許更新制については、検討中ということ。
どこかわかりにくい中間報告の原案だが、私たちの視点で、もう一度、この原案なるものを、検討してみたい。
●ダメ教員の問題
どこの学校にも、ダメ教員と呼ばれる教員がいる。その数は、「不適格教師」と認定された教師の10倍以上はいるとみてよい。
しかしその基準が、イマイチ、はっきりしない。さらに40代、50代の教師となると、それぞれ個性があり(?)、上からの指導になじまない。自分の指導法に自信をもっている教師も多い。あるいは自分の指導法に、こだわる教師も多い。
だからたとえばすでに文科省が、決めているように、10年ごとに30時間の講習を受けるなどいう制度だけで、こうした教師の再教育ができると考えるほうが、無理。
もっとも効率的な方法は、親や子ども自身に、(教師選択の自由)を与えること。「あの先生に、うちの息子を教えてもらいたい」「私は、あの先生に教えてもらいたい」と。
アメリカでは、こうした選択は、ごくふつうのこととして、すでになされている。「今年も、エリー先生の教室で勉強したい」と、親や子どもが願えば、学年に関係なく、その教室で勉強できるようになっている。教育再生会議では、(3)学校の第三者評価制度をあげているが、これは教育現場をまったく知らない、ド素人のたわごとと考えてよい。
だれが、どうやって評価するのか? 具体性が、まったく、ない。
ただ私立幼稚園のばあい、講演に招かれたりすると、その幼稚園がすぐれた幼稚園であるかどうかは、雰囲気でわかる。教師や子どもたちが、生き生きとしている。園長の個性が、あちこちで光っている。
しかしそれは、私立幼稚園という、教育の自由が許された環境でこそ、可能だということ。しかも私立幼稚園は、常に、生き残りをかけて、壮絶な戦いというか、苦労を重ねている。
●美しい国づくり
提言の中に、「美しい国づくり」がある。大賛成である。が、どうして、「美しい国づくり」が、教育と関係があるのか。
あえて言葉を借りるなら、「国民全体の資質向上」(会議)ということになる。これにも大賛成だが、では「美しい国」とは、どういう国をさすのか。
外国から帰ってきて成田空港で電車に乗ったとたん、あまりの落差というか、醜さに、がく然とすることがある。「これが私たちの国か」と思うことさえある。
雑然と並んだ町並み。自分の家さえよければと、無理に増築に増築を重ねた家々。クモの巣のように張りめぐされた電線。けばけばしい看板。標識の数々。入り組んだ道に、手あたりしだいにつけられたガードレールなどなど。
その間にパチンコ屋があり、駐車場があり、軒をつらねて商店街がある。数日も住むと、今度は日本の風景になじんでしまい、今度はその醜さがわからなくなる。が、日本という国は、基本的な部分から、美的感覚を再構築しないと、決して「美しい国」にはならない。
が、それは教育の問題ではない。社会の問題である。もっと言えば、日本人自身がもつ文化性の問題ということになる。これだけ豊かな自然(木々の緑)に囲まれながら、その自然を生かすことさえできないでいる。
教育で、それを子どもに押しつけるような問題ではない。
●いじめを許さない
提言では「いじめを許さない、安心して学べる規律のある教室」を歌っている。
方法がないわけではない。現在のように、英・数・国・社・理にかぎるのではなく、科目数をふやせばよい。子どものもつニーズと多様性に合わせて、子どもたちにとって、好きなことを好きなだけできるような環境を用意すればよい。
好きなことを生き生きできる。そういう世界を用意してこそ、子どもはいじめを忘れることができる。
たとえばオーストラリアでは、中学1年レベルで、外国語にしても、ドイツ語、フランス語、インドネシア語、中国語、日本語の5つから、選んで学習できるようになっている。芸術にしても、ドラマ(演劇)、絵画、工芸、音楽などが、それぞれ独立した科目になっている。
以前書いた原稿を1作、紹介する(中日新聞掲載済み)。
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【学校神話を打ち破る法】
常識が偏見になるとき
●たまにはずる休みを……!
「たまには学校をズル休みさせて、動物園でも一緒に行ってきなさい」と私が言うと、たいていの人は目を白黒させて驚く。「何てことを言うのだ!」と。多分あなたもそうだろう。しかしそれこそ世界の非常識。あなたは明治の昔から、そう洗脳されているにすぎない。
アインシュタインは、かつてこう言った。「常識などというものは、その人が一八歳のときにもった偏見のかたまりである」と。子どもの教育を考えるときは、時にその常識を疑ってみる。たとえば……。
●日本の常識は世界の非常識
★かねばならぬという常識……アメリカにはホームスクールという制度がある。親が教材一式を自分で買い込み、親が自宅で子どもを教育するという制度である。希望すれば、州政府が家庭教師を派遣してくれる。
日本では、不登校児のための制度と理解している人が多いが、それは誤解。アメリカだけでも97年度には、ホームスクールの子どもが、100万人を超えた。毎年15%前後の割合でふえ、2001年度末には200万人に達するだろうと言われている。
それを指導しているのが、「Learn in Freedom」(自由に学ぶ)という組織。「真に自由な教育は家庭でこそできる」という理念がそこにある。
地域のホームスクーラーが合同で研修会を開いたり、遠足をしたりしている。またこの運動は世界的な広がりをみせ、世界で約千もの大学が、こうした子どもの受け入れを表明している(LIFレポートより)。
★おけいこ塾は悪であるという常識……ドイツでは、子どもたちは学校が終わると、クラブへ通う。早い子どもは午後1時に、遅い子どもでも3時ごろには、学校を出る。
ドイツでは、週単位(※)で学習することになっていて、帰校時刻は、子ども自身が決めることができる。そのクラブだが、各種のスポーツクラブのほか、算数クラブや科学クラブもある。学習クラブは学校の中にあって、たいていは無料。学外のクラブも、月謝が1200円前後(2001年調べ)。
こうした親の負担を軽減するために、ドイツでは、子ども1人当たり、230マルク(日本円で約1万4000円)の「子どもマネー」が支払われている。この補助金は、子どもが就職するまで、最長27歳まで支払われる(01年)。
こうしたクラブ制度は、カナダでもオーストラリアにもあって、子どもたちは自分の趣向と特性に合わせてクラブに通う。
日本にも水泳教室やサッカークラブなどがあるが、学校外教育に対する世間の評価はまだ低い。ついでにカナダでは、「教師は授業時間内の教育には責任をもつが、それ以外には責任をもたない」という制度が徹底している。
そのため学校側は教師の住所はもちろん、電話番号すら親には教えない。私が「では、親が先生と連絡を取りたいときはどうするのですか」と聞いたら、その先生(バンクーバー市日本文化センターの教師Y・ムラカミ氏)はこう教えてくれた。
「そういうときは、まず親が学校に電話をします。そしてしばらく待っていると、先生のほうから電話がかかってきます」と。
★進学率が高い学校ほどよい学校という常識……つい先日、東京の友人が、東京の私立中高一貫校の入学案内書を送ってくれた。全部で70校近くあった。が、私はそれを見て驚いた。
どの案内書にも、例外なく、その後の大学進学先が明記してあったからだ。別紙として、はさんであるのもあった。「○○大学、○名合格……」と(※)。この話をオーストラリアの友人に話すと、その友人は「バカげている」と言って、はき捨てた。そこで私が、では、オーストラリアではどういう学校をよい学校かと聞くと、こう話してくれた。
「メルボルンの南に、ジーロン・グラマースクールという学校がある。そこはチャールズ皇太子も学んだこともある古い学校だが、そこでは生徒一人ひとりにあわせて、学校がカリキュラムを組んでくれる。
たとえば水泳が得意な子どもは、毎日水泳ができるように。木工が好きな子どもは、毎日木工ができるように、と。そういう学校をよい学校という」と。なおそのグラマースクールには入学試験はない。子どもが生まれると、親は出生届を出すと同時にその足で学校へ行き、入学願書を出すしくみになっている。つまり早いもの勝ち。
●そこはまさに『マトリックス』の世界
日本がよいとか、悪いとか言っているのではない。日本人が常識と思っているようなことでも、世界ではそうでないということもある。それがわかってほしかった。そこで一度、あなた自身の常識を疑ってみてほしい。あなたは学校をどうとらえているか。学校とは何か。教育はどうあるべきか。さらには子育てとは何か、と。
その常識のほとんどは、少なくとも世界の常識ではない。学校神話とはよく言ったもので、「私はカルトとは無縁」「私は常識人」と思っているあなたにしても、結局は、学校神話を信仰している。「学校とは行かねばならないところ」「学校は絶対」と。それはまさに映画『マトリックス』の世界と言ってもよい。仮想の世界に住みながら、そこが仮想の世界だと気づかない。気づかないまま、仮想の価値に振り回されている……。
●解放感は最高!
ホームスクールは無理としても、あなたも一度子どもに、「明日は学校を休んで、お母さんと動物園へ行ってみない?」と話しかけてみたらどうだろう。実は私も何度となくそうした。平日に行くと、動物園もガラガラ。あのとき感じた解放感は、今でも忘れない。「私が子どもを教育しているのだ」という充実感すら覚える。冒頭の話で、目を白黒させた人ほど、一度試してみるとよい。あなたも、学校神話の呪縛から、自分を解き放つことができる。
※……1週間の間に所定の単位の学習をこなせばよいという制度。だから月曜日には、午後3時まで学校で勉強し、火曜日は午後1時に終わるというように、自分で帰宅時刻を決めることができる。
●「自由に学ぶ」
「自由に学ぶ」という組織が出しているパンフレットには、J・S・ミルの「自由論(On Liberty)」を引用しながら、次のようにある(K・M・バンディ)。
「国家教育というのは、人々を、彼らが望む型にはめて、同じ人間にするためにあると考えてよい。そしてその教育は、その時々を支配する、為政者にとって都合のよいものでしかない。それが独裁国家であれ、宗教国家であれ、貴族政治であれ、教育は人々の心の上に専制政治を行うための手段として用いられてきている」と。
そしてその上で、「個人が自らの選択で、自分の子どもの教育を行うということは、自由と社会的多様性を守るためにも必要」であるとし、「(こうしたホームスクールの存在は)学校教育を破壊するものだ」と言う人には、次のように反論している。
いわく、「民主主義国家においては、国が創建されるとき、政府によらない教育から教育が始まっているではないか」「反対に軍事的独裁国家では、国づくりは学校教育から始まるということを忘れてはならない」と。
さらに「学校で制服にしたら、犯罪率がさがった。(だから学校教育は必要だ)」という意見には、次のように反論している。「青少年を取り巻く環境の変化により、青少年全体の犯罪率はむしろ増加している。学校内部で犯罪が少なくなったから、それでよいと考えるのは正しくない。
学校内部で少なくなったのは、(制服によるものというよりは)、警察システムや裁判所システムの改革によるところが大きい。青少年の犯罪については、もっと別の角度から検討すべきではないのか」と(以上、要約)。
日本でもホームスクール(日本ではフリースクールと呼ぶことが多い)の理解者がふえている。なお2000年度に、小中学校での不登校児は、13万4000人を超えた。中学生では、38人に1人が、不登校児ということになる。この数字は前年度より、4000人多い。
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世界は、ここまで進んでいる。にもかかわらず、(4)教育委員会改革だの、(5)大学9月入学だのと、そんなことを論じていること自体、バカげている。ノーベル賞を受賞した偉い(?)先生かも知れないが、世の中には、「専門バカ」という人もいる。
「塾を禁止して、(勉強が)できない子どものための塾だけにせよ」(野依座長)という提言にいたっては、「?」マークを、10個ほど、並べたい。むしろ世界は、教育の自由化(=民営化)をこぞって選択している。
カナダでは、そこらの塾が塾をたちあげるほど簡単に、学校の設立そのものを自由化している。その学校で使う言語も、自由である。たとえば、ヒンズー語で教える学校を作りたいと思えば、それもできる。
(これに反して、アメリカでは、学校では英語で教育すべしというのが、原則になっている。またそういう学校しか認可されていない。)
ドイツ、イタリアにいたっては、ここにも書いたように、「クラブ」が、教育の自由化を側面から支えている。野依座長も、もう少し、研究室から出て、世界を見てきたらどうか。少なくとも、もう少し教育の現場をのぞいてみてから、意見を述べるべきである。
教育再生会議のメンバーたちは、「提言がことごとく無視された」と怒りをぶちまけているが、それもしかたのないことではないかと、私は思う。
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 教育再生会議 再生会議提案 中間報告 中間報告原案)
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06年の12月21日、教育再生会議の
中間報告会議の原案が、提示された。
「塾を禁止せよ」と提案した野依良治氏
(座長)。過激すぎるというか、現実離れ
しすぎているというか?
いろいろ提案がなされたようだが、本当
に、このメンバーの人たちは、教育の現
場を知っているのだろうかというのが、
私の率直な疑問。
案の定、教育再生会議の出した提案は、
ことごとく無視されている。
かろうじて通ったのは、(ゆとり教育の
見直し)だけ。
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06年の12月21日、教育再生会議の中間報告の原案が提示された。内容は、以下のようなもの。
(1) ゆとり教育の見直し
(2) 教員免許更新制
(3) 学校の第三者評価制度
(4) 教育委員会改革
(5) 大学9月入学
このうち、安倍内閣の教育改革の意に合致したものは、(1)のゆとり教育の見直しだけ。(2)の教員免許更新制については、検討中ということ。
どこかわかりにくい中間報告の原案だが、私たちの視点で、もう一度、この原案なるものを、検討してみたい。
●ダメ教員の問題
どこの学校にも、ダメ教員と呼ばれる教員がいる。その数は、「不適格教師」と認定された教師の10倍以上はいるとみてよい。
しかしその基準が、イマイチ、はっきりしない。さらに40代、50代の教師となると、それぞれ個性があり(?)、上からの指導になじまない。自分の指導法に自信をもっている教師も多い。あるいは自分の指導法に、こだわる教師も多い。
だからたとえばすでに文科省が、決めているように、10年ごとに30時間の講習を受けるなどいう制度だけで、こうした教師の再教育ができると考えるほうが、無理。
もっとも効率的な方法は、親や子ども自身に、(教師選択の自由)を与えること。「あの先生に、うちの息子を教えてもらいたい」「私は、あの先生に教えてもらいたい」と。
アメリカでは、こうした選択は、ごくふつうのこととして、すでになされている。「今年も、エリー先生の教室で勉強したい」と、親や子どもが願えば、学年に関係なく、その教室で勉強できるようになっている。教育再生会議では、(3)学校の第三者評価制度をあげているが、これは教育現場をまったく知らない、ド素人のたわごとと考えてよい。
だれが、どうやって評価するのか? 具体性が、まったく、ない。
ただ私立幼稚園のばあい、講演に招かれたりすると、その幼稚園がすぐれた幼稚園であるかどうかは、雰囲気でわかる。教師や子どもたちが、生き生きとしている。園長の個性が、あちこちで光っている。
しかしそれは、私立幼稚園という、教育の自由が許された環境でこそ、可能だということ。しかも私立幼稚園は、常に、生き残りをかけて、壮絶な戦いというか、苦労を重ねている。
●美しい国づくり
提言の中に、「美しい国づくり」がある。大賛成である。が、どうして、「美しい国づくり」が、教育と関係があるのか。
あえて言葉を借りるなら、「国民全体の資質向上」(会議)ということになる。これにも大賛成だが、では「美しい国」とは、どういう国をさすのか。
外国から帰ってきて成田空港で電車に乗ったとたん、あまりの落差というか、醜さに、がく然とすることがある。「これが私たちの国か」と思うことさえある。
雑然と並んだ町並み。自分の家さえよければと、無理に増築に増築を重ねた家々。クモの巣のように張りめぐされた電線。けばけばしい看板。標識の数々。入り組んだ道に、手あたりしだいにつけられたガードレールなどなど。
その間にパチンコ屋があり、駐車場があり、軒をつらねて商店街がある。数日も住むと、今度は日本の風景になじんでしまい、今度はその醜さがわからなくなる。が、日本という国は、基本的な部分から、美的感覚を再構築しないと、決して「美しい国」にはならない。
が、それは教育の問題ではない。社会の問題である。もっと言えば、日本人自身がもつ文化性の問題ということになる。これだけ豊かな自然(木々の緑)に囲まれながら、その自然を生かすことさえできないでいる。
教育で、それを子どもに押しつけるような問題ではない。
●いじめを許さない
提言では「いじめを許さない、安心して学べる規律のある教室」を歌っている。
方法がないわけではない。現在のように、英・数・国・社・理にかぎるのではなく、科目数をふやせばよい。子どものもつニーズと多様性に合わせて、子どもたちにとって、好きなことを好きなだけできるような環境を用意すればよい。
好きなことを生き生きできる。そういう世界を用意してこそ、子どもはいじめを忘れることができる。
たとえばオーストラリアでは、中学1年レベルで、外国語にしても、ドイツ語、フランス語、インドネシア語、中国語、日本語の5つから、選んで学習できるようになっている。芸術にしても、ドラマ(演劇)、絵画、工芸、音楽などが、それぞれ独立した科目になっている。
以前書いた原稿を1作、紹介する(中日新聞掲載済み)。
+++++++++++++++++
【学校神話を打ち破る法】
常識が偏見になるとき
●たまにはずる休みを……!
「たまには学校をズル休みさせて、動物園でも一緒に行ってきなさい」と私が言うと、たいていの人は目を白黒させて驚く。「何てことを言うのだ!」と。多分あなたもそうだろう。しかしそれこそ世界の非常識。あなたは明治の昔から、そう洗脳されているにすぎない。
アインシュタインは、かつてこう言った。「常識などというものは、その人が一八歳のときにもった偏見のかたまりである」と。子どもの教育を考えるときは、時にその常識を疑ってみる。たとえば……。
●日本の常識は世界の非常識
★かねばならぬという常識……アメリカにはホームスクールという制度がある。親が教材一式を自分で買い込み、親が自宅で子どもを教育するという制度である。希望すれば、州政府が家庭教師を派遣してくれる。
日本では、不登校児のための制度と理解している人が多いが、それは誤解。アメリカだけでも97年度には、ホームスクールの子どもが、100万人を超えた。毎年15%前後の割合でふえ、2001年度末には200万人に達するだろうと言われている。
それを指導しているのが、「Learn in Freedom」(自由に学ぶ)という組織。「真に自由な教育は家庭でこそできる」という理念がそこにある。
地域のホームスクーラーが合同で研修会を開いたり、遠足をしたりしている。またこの運動は世界的な広がりをみせ、世界で約千もの大学が、こうした子どもの受け入れを表明している(LIFレポートより)。
★おけいこ塾は悪であるという常識……ドイツでは、子どもたちは学校が終わると、クラブへ通う。早い子どもは午後1時に、遅い子どもでも3時ごろには、学校を出る。
ドイツでは、週単位(※)で学習することになっていて、帰校時刻は、子ども自身が決めることができる。そのクラブだが、各種のスポーツクラブのほか、算数クラブや科学クラブもある。学習クラブは学校の中にあって、たいていは無料。学外のクラブも、月謝が1200円前後(2001年調べ)。
こうした親の負担を軽減するために、ドイツでは、子ども1人当たり、230マルク(日本円で約1万4000円)の「子どもマネー」が支払われている。この補助金は、子どもが就職するまで、最長27歳まで支払われる(01年)。
こうしたクラブ制度は、カナダでもオーストラリアにもあって、子どもたちは自分の趣向と特性に合わせてクラブに通う。
日本にも水泳教室やサッカークラブなどがあるが、学校外教育に対する世間の評価はまだ低い。ついでにカナダでは、「教師は授業時間内の教育には責任をもつが、それ以外には責任をもたない」という制度が徹底している。
そのため学校側は教師の住所はもちろん、電話番号すら親には教えない。私が「では、親が先生と連絡を取りたいときはどうするのですか」と聞いたら、その先生(バンクーバー市日本文化センターの教師Y・ムラカミ氏)はこう教えてくれた。
「そういうときは、まず親が学校に電話をします。そしてしばらく待っていると、先生のほうから電話がかかってきます」と。
★進学率が高い学校ほどよい学校という常識……つい先日、東京の友人が、東京の私立中高一貫校の入学案内書を送ってくれた。全部で70校近くあった。が、私はそれを見て驚いた。
どの案内書にも、例外なく、その後の大学進学先が明記してあったからだ。別紙として、はさんであるのもあった。「○○大学、○名合格……」と(※)。この話をオーストラリアの友人に話すと、その友人は「バカげている」と言って、はき捨てた。そこで私が、では、オーストラリアではどういう学校をよい学校かと聞くと、こう話してくれた。
「メルボルンの南に、ジーロン・グラマースクールという学校がある。そこはチャールズ皇太子も学んだこともある古い学校だが、そこでは生徒一人ひとりにあわせて、学校がカリキュラムを組んでくれる。
たとえば水泳が得意な子どもは、毎日水泳ができるように。木工が好きな子どもは、毎日木工ができるように、と。そういう学校をよい学校という」と。なおそのグラマースクールには入学試験はない。子どもが生まれると、親は出生届を出すと同時にその足で学校へ行き、入学願書を出すしくみになっている。つまり早いもの勝ち。
●そこはまさに『マトリックス』の世界
日本がよいとか、悪いとか言っているのではない。日本人が常識と思っているようなことでも、世界ではそうでないということもある。それがわかってほしかった。そこで一度、あなた自身の常識を疑ってみてほしい。あなたは学校をどうとらえているか。学校とは何か。教育はどうあるべきか。さらには子育てとは何か、と。
その常識のほとんどは、少なくとも世界の常識ではない。学校神話とはよく言ったもので、「私はカルトとは無縁」「私は常識人」と思っているあなたにしても、結局は、学校神話を信仰している。「学校とは行かねばならないところ」「学校は絶対」と。それはまさに映画『マトリックス』の世界と言ってもよい。仮想の世界に住みながら、そこが仮想の世界だと気づかない。気づかないまま、仮想の価値に振り回されている……。
●解放感は最高!
ホームスクールは無理としても、あなたも一度子どもに、「明日は学校を休んで、お母さんと動物園へ行ってみない?」と話しかけてみたらどうだろう。実は私も何度となくそうした。平日に行くと、動物園もガラガラ。あのとき感じた解放感は、今でも忘れない。「私が子どもを教育しているのだ」という充実感すら覚える。冒頭の話で、目を白黒させた人ほど、一度試してみるとよい。あなたも、学校神話の呪縛から、自分を解き放つことができる。
※……1週間の間に所定の単位の学習をこなせばよいという制度。だから月曜日には、午後3時まで学校で勉強し、火曜日は午後1時に終わるというように、自分で帰宅時刻を決めることができる。
●「自由に学ぶ」
「自由に学ぶ」という組織が出しているパンフレットには、J・S・ミルの「自由論(On Liberty)」を引用しながら、次のようにある(K・M・バンディ)。
「国家教育というのは、人々を、彼らが望む型にはめて、同じ人間にするためにあると考えてよい。そしてその教育は、その時々を支配する、為政者にとって都合のよいものでしかない。それが独裁国家であれ、宗教国家であれ、貴族政治であれ、教育は人々の心の上に専制政治を行うための手段として用いられてきている」と。
そしてその上で、「個人が自らの選択で、自分の子どもの教育を行うということは、自由と社会的多様性を守るためにも必要」であるとし、「(こうしたホームスクールの存在は)学校教育を破壊するものだ」と言う人には、次のように反論している。
いわく、「民主主義国家においては、国が創建されるとき、政府によらない教育から教育が始まっているではないか」「反対に軍事的独裁国家では、国づくりは学校教育から始まるということを忘れてはならない」と。
さらに「学校で制服にしたら、犯罪率がさがった。(だから学校教育は必要だ)」という意見には、次のように反論している。「青少年を取り巻く環境の変化により、青少年全体の犯罪率はむしろ増加している。学校内部で犯罪が少なくなったから、それでよいと考えるのは正しくない。
学校内部で少なくなったのは、(制服によるものというよりは)、警察システムや裁判所システムの改革によるところが大きい。青少年の犯罪については、もっと別の角度から検討すべきではないのか」と(以上、要約)。
日本でもホームスクール(日本ではフリースクールと呼ぶことが多い)の理解者がふえている。なお2000年度に、小中学校での不登校児は、13万4000人を超えた。中学生では、38人に1人が、不登校児ということになる。この数字は前年度より、4000人多い。
++++++++++++++++++
世界は、ここまで進んでいる。にもかかわらず、(4)教育委員会改革だの、(5)大学9月入学だのと、そんなことを論じていること自体、バカげている。ノーベル賞を受賞した偉い(?)先生かも知れないが、世の中には、「専門バカ」という人もいる。
「塾を禁止して、(勉強が)できない子どものための塾だけにせよ」(野依座長)という提言にいたっては、「?」マークを、10個ほど、並べたい。むしろ世界は、教育の自由化(=民営化)をこぞって選択している。
カナダでは、そこらの塾が塾をたちあげるほど簡単に、学校の設立そのものを自由化している。その学校で使う言語も、自由である。たとえば、ヒンズー語で教える学校を作りたいと思えば、それもできる。
(これに反して、アメリカでは、学校では英語で教育すべしというのが、原則になっている。またそういう学校しか認可されていない。)
ドイツ、イタリアにいたっては、ここにも書いたように、「クラブ」が、教育の自由化を側面から支えている。野依座長も、もう少し、研究室から出て、世界を見てきたらどうか。少なくとも、もう少し教育の現場をのぞいてみてから、意見を述べるべきである。
教育再生会議のメンバーたちは、「提言がことごとく無視された」と怒りをぶちまけているが、それもしかたのないことではないかと、私は思う。
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 教育再生会議 再生会議提案 中間報告 中間報告原案)