最前線の育児論byはやし浩司

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●「私」論、3つの条件

2005-06-10 15:23:20 | Weblog
●「私」論、3つの条件

 「私」とは、何か? つまりそれぞれの人には、「私」がある。しかしそれぞれの人は、いつも「私」とは何か、それを知りたくて、悩んでいる。とくに、若い人ほど、そうだ。

 そこで「私」論。その私をつかむためには、3つの条件が必要である。

(1)私は「私」であるという自覚。(自己自信性)
(2)私はいつも私であるという連続性(一貫性)。
(3)私は、他者と、良好な人間関係をもっているという、3つの条件、である。

 しかしこの「私」は、いつも、不変なものとはかぎらない。そのつど、状況に応じて、変化する。とくに青年期においては、そうである。ゆれ動く。そのため多くの青年たちは、「私とは何か」というテーマについて、思い悩む。

(1) 私であるという自覚

 「私であるという自覚」は、(私が考える私)と、(現実の私)が、一致したとき、自分のものにすることができる。

 たとえて言うなら、結婚がある。好きで好きでたまらなくて、その人と結婚したというのであれば、結婚生活を、そのまま自分のものとして、受けいれることができる。

 しかし反対に、いやな相手と不本意なまま結婚したとしたらどうであろうか。(自分のしたかった結婚)と、(現実の結婚)が、大きくズレていることになる。こうなると、その結婚生活は、ギクシャクとしたものになり、その結婚生活をそのまま自分のものとして、受けいれることはできなくなる。

 同じように、(本来の私)と、(現実の私)が、一致していれば、その人は、「私は私である」という自覚をもつことができる。そうでなければ、そうでない。

 もう少し具体的に考えてみよう。

 あなたは、こう心の中で、願っている。容姿もよく、頭も聡明でありたいと。人気者で、どこへ行っても注目される。資産家の子どもで、何一つ不自由のない生活をしたい、と。

 しかし現実には、そうでない。容姿は悪い。学校での成績も悪い。みなに嫌われ、ときには、いじめも受けている。両親は離婚状態で、家計も苦しい。このままでは大学進学も、おぼつかない。

 そこであなたは、(現実の私)を、(本来の私)に、近づけようとする。

 勉強面で努力する。あるいはスポーツマンになるべく、努力する。服装や、身だしなみにも、注意を払う。(こうあるべき)と思う「私」に、あなたは自分自身を近づけようとする。

しかしそこにも、限界がある。努力しても、どうにもならないことはある。それについては、あきらめ、受けいれる。

 が、それは決して、たやすい道ではない。あきらめることは、若いあなたにとっては、敗北以外の何ものでもない。それにまだ、あなたには、無数の可能性が残されている。そういう思いもある。だからあなたはいつも、こう悩む。「私は、いったい、どこにいるのか?」と。

 が、この段階でも、うまくいかないことが多い。努力しても、それが報われない。せっかく新しい服を買ってきても、みなに、「あなたには似あわない」と笑われる。あなたは自信をなくす。それが高じて、自暴自棄になり、自分を否定するようになるかもしれない。

 が、あなたの心の奥底に住む、「私」は、それを許さない。そこでその心の奥底に住む、「私」は、自分を防衛しようとする。自分が崩壊していくのを、防ごうとする。

 もっとも手っ取りばやい方法は、攻撃的になること。みなに、暴力を振るって、みなに、恐れられればよい。あるいはさらに自虐的になって、めちゃめちゃな勉強や練習をするようになるかもしれない。

 これらをプラス型というなら、他人に服従的になったり、依存的になったりするのを、マイナス型という。さらにその程度が進んで、逃避型になり、他人との接触をこばむようになるかもしれない。引きこもりも、その一つである。

 私が「私」であるためには、私がそうでありたいと思っている私、あるいは自分が自分で描く自己像(自己概念)と、現実の私(現実自己)を一致させなければならない。

 なぜ、青年期に、私であるという自覚が混乱するかといえば、えてして、青年期には、現実の自分とは、かけ離れた理想像をもちやすいからと考えてよい。夢や目標も、大きい。そのギャップに悩む。「こんなはずではなかった」「もっと別の道があるはずだ」と。

 (私が考える私)と、(現実の私)が、一致すること。これが、私が「私」であるための、第一の条件ということになる。

(2)私はいつも私であるという連続性

 あまりよいビデオではなかったが、こんなビデオがあった。

 ある女性捜査官が、ギャングにつかまってしまう。その捜査官は、イスにしばられたまま、拷問を受ける。そのとき、ギャングが、「仲間のいる場所を言え」と迫る。が、その捜査官は、敵意をさらにむき出しにして、そのギャングに、ペッとつばをかける。

 その女性捜査官は、気の強い女性ということになる。で、そのシーンを見ながら、私は、こんなことを考えた。

 「映画だから、そういうことができるのだ。現実に、そういう場面に置かれたら、ふつうの人なら、そこまで、私を押しとおすことはできないのではないか」と。

 とくに私は優柔不断な人間である。その場、その場で、だれにでもシッポを振ってしまう。人間的なモロさをもっている。だからイスにしばられ、命の危険を感じたら、友人のいる場所を、ペラペラとしゃべってしまうにちがいない。

 が、それでは、ここでいう「連続性」がないということになる。優柔不断であるということは、それだけで、「私」がないことになる。つまりはいいかげんな人間ということ。

 そこで私が「私」であるためには、連続性がなければならない。「一貫性」ともいう。カメレオンが自分の色を変えるように、いつも私を変えていたのでは、「私」は、そもそも、ないということになる。

 どんな場所でも、またどんな状況でも、一貫して、「私」がそこにいる。私が「私」であるための、これが第二の条件ということになる。

(3)他者との良好な人間関係

 私ひとりで、「私」を認識することはできない。他人の間にあって、はじめて、私たちは、「私」を認識することができる。つまり「私」というのは、相手があってはじめて、「私」でありえる。

 世俗的なつきあいをすべて断ち切り、山奥で、ひとりで生活を始めたとしよう。が、何もしないわけではない。文章を書いたり、絵を描いたりすることもある。何かの工芸物を作ることもある。

 しかしいくらひとりで生活をしていたとしても、その文章や絵を発表することによって、他者とのかかわりをもつ。作品を売ることによって、他者とのかかわりをもつ。本気で、他者とのかかわりを切るつもりなら、そうしたかかわりすらも、やめなければならない。

 たとえばひとり穴の中にこもって、原始人のような生活をする、とか。まったく他人の目を感じない世界で、だ。

 こういう世界の中で、果たして私たちは、「私」を認識することができるだろうか。もう少しわかりやすい例では、チャールストン・ヘストンが演じた『猿の惑星』がある。

 あとでわかったことだが、あの映画のモデルになったのは、日本人だそうだ。それはともかくも、ある宇宙飛行士が、ある惑星にロケットで不時着する。が、そこは猿の惑星。が、猿といっても、知能は高く、言葉も話す。

 しかしそこがもし、本当に猿の惑星だったら、どうだろうか。猿といっても、映画の中に出てくるような猿ではなく、日光の山奥に住む猿のような、本物の猿である。

 あなたははげしい絶望感を覚えるにちがいない。言葉も通じない。気持ちも通じない。あなたがもっている文化性や道徳性は、猿たちの前では、何一つ、意味をもたない。つまりいくら「私は私」と思ったところで、その私は、その絶望感の中に、叩き落されてしまう。

 私が「私」であるためには、他者との良好な人間関係がなければならない。その上で、はじめて、私は「私」でありえる。これが第三の条件ということになる。

 ほとんどの若い人たちは、それが一つの関門であるかのように、一度は、「自分さがし」の旅に出る。「私は何か」「自分はどこにいるのか」「私は、何をすべきなのか」と。

 その一助になればと思い、この「私」論を書いた。
(はやし浩司 私論 私とは何か 自分さがし 自分探し 自我 自我の確立 青年期の悩み 自我の一貫性 自我の連続性 自我の社会性 自我の一致 現実自己 自己概念 はやし浩司)

++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

私も、「私」について、若いとき、悩みました。
それについて書いたのが、つぎの原稿です(駐日新聞掲載済み)

++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

●高校野球に学ぶこと

 懸命に生きるから、人は美しい。輝く。その価値があるかないかの判断は、あとからす
ればよい。生きる意味や目的も、そのあとに考えればよい。たとえば高校野球。

私たちがなぜあの高校野球に感動するかといえば、そこに子どもたちの懸命さを感ずる
からではないのか。たかがボールのゲームと笑ってはいけない。私たちがしている「仕
事」だって、意味があるようで、それほどない。「私のしていることは、ボールのゲーム
とは違う」と自信をもって言える人は、この世の中に一体、どれだけいるだろうか。

●人はなぜ生まれ、そして死ぬのか

 私は学生時代、シドニーのキングスクロスで、ミュージカルの『ヘアー』を見た。幻想
的なミュージカルだった。あの中で主人公のクロードが、こんな歌を歌う。「♪私たちはな
ぜ生まれ、なぜ死ぬのか、(それを知るために)どこへ行けばいいのか」と。

それから三〇年あまり。私もこの問題について、ずっと考えてきた。そしてその結果と
いうわけではないが、トルストイの『戦争と平和』の中に、私はその答のヒントを見い
だした。

 生のむなしさを感ずるあまり、現実から逃避し、結局は滅びるアンドレイ公爵。一方、
人生の目的は生きることそのものにあるとして、人生を前向きにとらえ、最終的には幸福
になるピエール。そのピエールはこう言う。『(人間の最高の幸福を手に入れるためには)、
ただひたすら進むこと。生きること。愛すること。信ずること』(第五編四節)と。

つまり懸命に生きること自体に意味がある、と。もっと言えば、人生の意味などという
ものは、生きてみなければわからない。映画『フォレスト・ガンプ』の中でも、フォレ
ストの母は、こう言っている。『人生はチョコレートの箱のようなもの。食べてみるまで、
(その味は)わからないのよ』と。

●懸命に生きることに価値がある

 そこでもう一度、高校野球にもどる。一球一球に全神経を集中させる。投げるピッチャ
ーも、それを迎え撃つバッターも真剣だ。応援団は狂ったように、声援を繰り返す。みん
な必死だ。命がけだ。ピッチャーの顔が汗でキラリと光ったその瞬間、ボールが投げられ、
そしてそれが宙を飛ぶ。

その直後、カキーンという澄んだ音が、場内にこだまする。一瞬時間が止まる。が、そ
のあと喜びの歓声と悲しみの絶叫が、同時に場内を埋めつくす……。

 私はそれが人生だと思う。そして無数の人たちの懸命な人生が、これまた複雑にからみ
あって、人間の社会をつくる。つまりそこに人間の生きる意味がある。

いや、あえて言うなら、懸命に生きるからこそ、人生は光を放つ。生きる価値をもつ。
言いかえると、そうでない人に、人生の意味はわからない。夢も希望もない。情熱も闘
志もない。毎日、ただ流されるまま、その日その日を、無難に過ごしている人には、人
生の意味はわからない。

さらに言いかえると、「私たちはなぜ生まれ、なぜ死ぬのか」と、子どもたちに問われた
とき、私たちが子どもたちに教えることがあるとするなら、懸命に生きる、その生きざ
までしかない。あの高校野球で、もし、選手たちが雑談をし、菓子をほおばりながら、
適当に試合をしていたら、高校野球としての意味はない。感動もない。見るほうも、つ
まらない。そういうものはいくら繰り返しても、ただのヒマつぶし。人生もそれと同じ。

そういう人生からは、結局は何も生まれない。高校野球は、それを私たちに教えてくれ
る。