最前線の育児論byはやし浩司

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●浜名湖かんざんじ荘にて(ワイフの誕生日)

2011-06-15 22:07:37 | Weblog
【舘山寺温泉・浜名湖かんざんじ荘にて】(2011年6月)

●今日は6月xx日、ワイフの誕生日

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今日は、ワイフの誕生日。
仕事を早めに切り上げ、舘山寺温泉へ。
大草山頂上にある、「浜名湖かんざんじ荘」
へやってきた。
「常連」とまでは言わないが、よく利用
させてもらう。

ワイフと息子、それに私。
Happy B-Day, Akiko!

浜松市内では、一押しの簡易旅館。
いつ来ても、この旅館だけは、期待を裏切らない。
サービスも料理も安定している。
もし浜松へ来るようなことがあれば、
この旅館を推薦する。
最近、内装をリニューアルしたよう。
清潔!
(もともとは国民宿舎ということもあり、
作りは豪華だが、部屋はやや狭い。念のため。)

が、何といっても、展望風呂がすばらしい。
全面ガラス張りで、舘山寺温泉街が眼下に
一望できる。

料金も手ごろ。
3名一室のばあい、1人、8800円前後で泊まれる。
曜日によって料金が微妙に異なる。
ネットで調べてから予約を入れるとよい。
(当然のことだが・・・。)

電話は、053-487-0330。

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●Y温泉

 先週泊まった、Y温泉のS旅館は、最悪。
こういうよい旅館に泊まってみると、それがよくわかる。
カビ臭く、料理もまずかった。
デザートが、オレンジ一切というだけでも、料理の内容がよくわかってもらえると思う。

 「二度と来ない」と心に誓う。
が、幼稚園を選ぶときも、これは参考になる。
要するに幼稚園のよしあしは、園長のやる気度。
それで決まる。

 が、先日、ある母親が私にこう言った。
「うちの幼稚園のY園長は、知育教育に反対だそうです」と。
それを聞いて、私は私の教室が攻撃されたように感じた。
だからこう思った。

「知育教育が何であるかも知らないくせに!」と。
そう思ったが、言わなかった。
その母親の子どもは、まだそのX幼稚園に通っている。

もう少しきびしい言い方をすると、「知育教育をするノウハウも知らない。
その能力もない。だからやみくもに反対する」となる。
ギルバートという学者が知能因子論を唱えて、もう35年以上になる。
(私が知ったのが、35年ほど前のことだから、35年以上と書いた。)

 そのころから世界の科学者たちは、幼児の脳の発達を、懸命に研究し始めた。
知能教育の重要性も認識され始めている。
「臨界期」という言葉も、常識化している。
にもかかわらず、「反対」とは!
「賛成しない」という意見はわかる。
しかしあえて「反対」すべきようなことではない。
子どもが親に、「漢字を教えて」とくれば、いくらでも教えてよい。

 「反対」というのは、要するに、やる気なしという意味。

●臨界期

 臨界期という言葉を使ったので、少し説明しておく。

 幼児は、それぞれの発達段階において、やっておくべきことがある。
その時期を逃すと、健全な心身の発達そのものが、障害を受けることがある。
その時期を、「臨界期」という。
よい例が、野生児。
(しかしインドで発見された野生児については、最近の研究では、疑問視されている。
もともと精神に障害をもった子どもが、野生に捨てられたという説である。
詳しくは後述。)

 その一方で、たとえば音楽教育などは、かなり早い時期に臨界期が来ると言われている。
それについて書いた原稿をさがしてみる。

Hiroshi Hayashi++++++++++++林浩司・はやし浩司

●特別な時期(臨界期)

 哺乳動物の神経細胞は、外界からの刺激で大きく、機能を変える。
最近このことが、最近あちこちでよく話題になる。
たとえば人間にも、鳥類に似た、「刷り込み(インプリンティング)」があることがわかっている。
そのためこの時期に、とくに母子関係において、濃密な人間関係ができる。
が、その一方で、一部の神経細胞への刺激を遮断したりすると、その神経細胞は機能しなくなるとも言われている(注※)。
まさか人について、人体実験をするわけにはいかないので、あくまでも動物実験での話ということだが・・・。

 たとえば生後直後のマウスの片目を、何らかの方法で塞(ふさ)いでしまったとする。
するとその目は、やがて見るという機能を失ってしまう。
そればりか、ある一定の時期を過ぎると、今度は、その塞いでいたものを取り除いても、目の機能は回復しない。
視力は失ったままとなる。

 さらにこんな事実もある。
「野生児」と呼ばれる子どもたちが、今でも、ときどき発見される。
何らかの理由で、生後まもなくから人間のそばを離れ、野生の動物に育てられた子どもである。
インドのオオカミ姉妹(少女)が有名である。

 オオカミ姉妹のばあいも、そのあと手厚い保護、教育を受けたのだが、人間らしい(心)を取り戻すとはできなかったという。
つまり脳のその部分の機能が、停止してしまったということになる。
「停止した」というよりは、「退化してしまった」ということか。

 そういう意味で、「臨界期」には、特別な意味がある。
またそれだけにこの時期の子どもの教育には、重大な関心が払わなければならない。
近年話題になっている、乳幼児~1歳前後までの早期教育の科学的根拠も、ここにある。

 ほかにも乳幼児には記憶がないというのは、とんでもない誤解。
この時期、子どもは周囲の情報を、まさに怒濤のごとく記憶として脳の中に刻み込んでいる(ワシントン大学・メルツォフ教授ら)。

●ミューチュアル・アタッチメント(相互愛着)

 さらに最近の研究では、あの乳幼児のほうからも、親に働きかけをしていることまでわかってきた。
つまり自らを(かわいく)見せ、親の関心を引こうとする。
乳幼児が見せる、あの「エンゼル・スマイル」も、そのひとつと言われている。
潜在意識、もしくは本能の奥深くでなされる行為のため、もちろん乳幼児がそれを意識的にしているわけではない。
一方、親は親で、そういう乳幼児の姿を見て、いたたまれない気持ちに襲われる。
「かわいい」という感情は、まさにそういう相互作用によって生まれる。
こうした相互の働きかけを「相互愛着(アタッチメント・mutual attachment)」という。

●さらに一歩進んで・・・

 臨界期の存在は、近年になってつぎつぎと発見されてきた。
今では、それを疑う人はいない。
常識と考えてよい。

 が、さらに研究は、一歩、進んだ。
「毎日・JP」は、つぎのように伝える。

『・・・生後直後の特別な時期「臨界期」の後でも、機能変化を起こすことを理化学研究所の津本忠治チームリーダー(神経科学)らが発見した。脳の成長の仕組みを見直す成果で、人間の早期教育論にも影響しそうだ。米科学誌「ジャーナル・オブ・ニューロサイエンス」で27日発表した』(2010年1月)と。

 もう少し詳しく読んでみよう。

『・・・ チームは臨界期中と臨界期後のマウスで目隠し実験をし、大脳皮質の視覚野で、ものの細部を見る役目を担う「興奮性細胞」と、輪郭をとらえる「抑制性細胞」の活動を個別に計測した。結果、臨界期中マウスは両細胞とも、ふさいだ目側の反応が落ちた。臨界期後のマウスは興奮性細胞は変化しなかったが、抑制性細胞は臨界期中マウスと同様に反応が落ちた。抑制性細胞は臨界期後も機能が変わる証拠という。

 津本チームリーダーは「大脳は臨界期後も一定の発達が可能ということを示せた。マウスの視覚野での実験だが、人間を含む他の動物や脳のほかの機能でも同様の仕組みがあるのではないか。臨界期を人間の早期教育の根拠とする意見もあるが、それを考え直す契機にもなるだろう」としている』と。

 つまり臨界期に機能を失った脳の神経細胞でも、何らかの訓練をすれば(?)、機能を回復することもあるという。
「海馬などの一部の神経細胞以外は、再生されることはない」という定説をひっくり返す研究として、注目される。

●補記

 ただし神経細胞の再生を、そのまま喜んではいけない。
それでよいというわけではない。
もし脳の神経細胞が、ほかの細胞と同じように、死滅→再生を繰り返していたら、人間は性格、性質、人格など、こと「精神」に関する部分で、一貫性を失うことになる。
「10年前の私と、今の私は別人」ということになったら、社会生活そのものが混乱する。
従来の定説によれば、一度できた神経細胞は、死滅する一方で、再生しない。
だからこそ、私たちは、子ども時代の性格や性質、さらにはクセまで、おとなになってからも残すことができる。
20年前、30年前の知人とでも、安心して会話を交わすことができる。

 この論文でいう「再生」というのは、あくまでもごく限られた範囲での、しかも何らかの治療を目的とした「再生」と考えるべきである。

 さらに一歩進んでいえば、脳は硬い頭蓋骨に包まれている。
つまり脳ミソが入る容量には限界がある。
神経細胞だけを、どんどんとふやすということは、物理的にも不可能である。

(注※)

『思考など高度な機能を担う脳の「大脳新皮質」で、成体でも神経細胞が新たに作られることを、藤田保健衛生大、京都大、東京農工大などの研究チームがラットで見つけた。成熟した個体では脳の神経細胞が増えることはないと長い間信じられ、論争が続いていた。米科学誌「ネイチャー・ニューロサイエンス」(電子版)に27日、掲載された。

 近年、記憶に関連する海馬や嗅(きゅう)覚(かく)をつかさどる部位で神経細胞の新生が確かめられたが、哺乳(ほにゅう)類などの高等動物ほど発達している大脳新皮質については明確な報告がなかった。

 藤田保健衛生大の大平耕司助教(神経科学)らは、人間の30~40歳にあたる生後6カ月のラットの大脳新皮質で、一番外側の第1層に、分裂能力を示すたんぱく質が発現した細胞を見つけた。頸(けい)動脈を圧迫して脳への血流を一時的に少なくしたところ、この細胞が約1・5倍に増え、新しい細胞ができた。

 新しい細胞は、形状から神経細胞と確認。第1層から最深部の第6層まで7~10日かけて移動する様子が観察できた。このラットを新しい環境に置いて活動させたところ、新しい細胞が活発に働いていることも確かめた。

 これらのことから、成体ラットの大脳新皮質には、やがて神経細胞になる「前駆細胞」が存在し、神経細胞が危機にさらされると神経細胞が生み出されて働くと結論付けた。チームは、ヒトでも同様の仕組みがあると推測している。

 神経細胞は興奮性と抑制性の両方がバランスよく働いているが、この新しい神経細胞は抑制性だった。大平助教は「薬などで前駆細胞の働きを制御して抑制性の神経細胞を作り出すことで、興奮性の神経細胞が過剰に働くてんかんや、一部の統合失調症の新たな治療法が見つかるかもしれない」と話す』(以上、毎日・JPより)と。

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW はやし浩司 神経細胞 臨界期 はやし浩司 臨界期 乳幼児 乳幼児の記憶 刷り込み 神経細胞の再生 臨界期の重要性 早期教育 科学的根拠)

Hiroshi Hayashi++++++++++++林浩司・はやし浩司

●先取り教育

 平たく言えば、(1)知能教育と、(2)早期教育と、(3)先取り教育はちがうということ。
多くの人は、先取り教育をもって、知能教育と誤解している。
早期教育でもよい。
たとえば幼児に掛け算の九九を暗記させるのは、先取り教育ということになる。
意味のない教育である。

 ついでながら、オオカミ少女(野生児)についての疑問について書いた原稿を添付する。

Hiroshi Hayashi++++++++++++林浩司・はやし浩司

●野生児(タマラとアマラ)

 ひとつの情報に出会い、つぎに同じような情報に出会うのは、
こちら側が求めてそうするばあいをのぞき、めったにない。
たとえば最近、私はタマラとアマラに関する文献を目にすることが
できた。
偶然だった。
もしその偶然がなかったら、私は自分がもつ知識を修正することは
なかっただろう。

俗に言う、『オオカミ少女』と呼ばれる2人の少女である。
そののち、心理学の本でもたびたび取りあげられている。
「野生児」という言葉も、そこから生まれた。

要点をまとめると、こうだ(「オオカミ少女はいなかった」鈴木光太郎
(新曜社))。

(1) オオカミの乳は、人間には飲めない。……だから少女たちがオオカミの
乳で育つはずがない。
(2) オオカミは、人間の子どもを連れ歩くのは不可能……オオカミはどうやって
赤子を運んだのか。
(3) ウィリアム・オグバーンというアメリカの社会学者が、
1951年に現地に入った。
が、オオカミ姉妹が発見されたという「ゴダムリ」という村は存在しなかった。
(4) 現地に新聞が残っていて、「少女たちが見つかったのは、トラの
穴」と記述されていた。
(5) 少女たちを発見したのは、シング牧師ではなく、サンタル族の住民
だった。
(6) 写真を詳しく調べてみたが、推定年齢(カマラは8歳半、アマラは
1歳半)が合わない。

 私はたびたびオオカミ姉妹(少女)について書いてきた。
この本だけで、すべてを否定するものではないが、しかし大きな疑念が
生まれたのは事実。
さらにその本は、シング牧師夫妻が寄付金集めのためにしくんだ作り話の
可能性があると説く。
実際、現在の今でも、欧米ではこの手の詐欺が後を絶たない。
(ついでに書き添えると、欧米では、孤児院経営を看板に、この種の詐欺が
日常化している。
じゅうぶん、注意したらよい。)

 で、結論としては、「自閉症か何かの障害をもった姉妹が、親に捨てられた。
その姉妹が、何年かあとに見つかった。村人たちは世話に困り、シング牧師の
ところへ連れていった」ということらしい。

 ・・・となると、私が今まで引用してきた話は、すべて訂正しなければ
ならない。
野生児の話は、ウソだったのか?

が、ここで注意したいのは、だからといって子育て論の本筋、たとえば
人間性と臨界期の問題、言語発達と臨界期の問題まで否定されるというのでは
ない。
人間はそれぞれの成長期に、それぞれの適切な環境で、適切に育てられなければ
ならない。
人間性にしても、言葉にしても、さらにたとえば音感やもろもろの美的感覚
にしても、その時期を逃すと、その後、修復がたいへんむずかしくなる。
たとえオオカミ少女の話がウソであったとしても、その重要性は変わらない。
またまったくのデタラメだったとしたら、こうまで長く、多くの心理学者や
精神学者、さらには哲学者たちの支持は受けなかっただろう。

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW はやし浩司 オオカミ少女の謎 オオカミ姉妹の謎 野生児への疑問 オオカミ少女は存在しなかった はやし浩司 タマラ アマラ シング牧師 疑惑 野生児疑惑 オオカミ少女疑惑 オオカミ姉妹疑惑)

Hiroshi Hayashi++++++++++++林浩司・はやし浩司

●幼児の脳は、底なし

 こうした事実を知った上で、「知育教育反対」というのであれば、私も納得する。
しかしそうでなければそうでない。
むしろ文科省が定めるカリキュラムなるものが、いかに幼児(子ども)の能力を伸ばす障壁になっていることか。
30年も前のことだが、当時の文部省の技官と対談したことがある。
そのときその技官も、こう言っていた。
「幼児教育では、文字、数は教えてはいけません。
へたに教えると、小学校の先生が、やりにくくなります」と。

私は自分の幼児教室で、幼児たちに分数は小数、正負の数、割合、確率などを教えている。
要は、教え方の問題。
幼児の脳は、まさに底なし。
教えていて、そういう印象をもつ。

 わかりやすく言えば、自分がピアノを弾けないからといって、幼児にできるわけがないと考えてはいけない。
「早すぎる」と考えるのは、まちがっている。
いわんや、「ピアノ教育、反対!」を唱えてはいけない。
反対に、私の実感としては、6歳を過ぎてからピアノ教室へ通ったばあい、それなりにピアノを弾けるようにはなるかもしれない。
しかし「それなりに」というレベルで、進歩は停止する。

●やる気

 話はそれたが、やる気のあるなしで、旅館のよさは決まる。
たとえばこの部屋。
テーブルの上には、水の入ったポットと、お湯の入ったポットが2つ並べてある。
お茶を入れる急須も茶碗も、ピカピカに磨いてある。
客の私たちは、そういうのを見て、やる気度、つまり本気度を知る。

 で、一事が万事。
浴衣もノリがきいて、パリパリ。
丹前も新品のよう。
アイロンもしっかりとかかっている。
掃除も部屋の隅々まで行きとどいている。
空調の音も、ほとんどしない。

 幼稚園にしても、そうだ。
やる気を感ずる幼稚園には、園長の哲学を感ずる。
その哲学があれば、よし。
そうでなければ、そうでない。
園長は毎日、幼稚園と銀行の間を行ったり来たりしているだけ。
そういう幼稚園へは、子どもをやってはいけない。
これは私の意見というよりは、常識。

 それにしても「知育教育、反対」とは!
論法としては、「日本語すら満足に話せない子どもに、英語教育反対」と言うのに似ている。
あるいは「日本のこともよく知らないのに、外国へ行っても意味がない」と言うのにも似ている。
さらに「お尻も拭けない子どもが、バイオリンを弾くのはおかしい」でもよい。

 もしこんな論法がまかり通るなら、こうも言える。

「先の短い老人が、英語の勉強などしても無駄」
「旅行しても、お金が無駄になるだけ」
「足腰が曲がった老人が、ミュージカルを観劇して、何になる」と。

 幼児のもつ可能性に、もう少し目を向けてほしい。
・・・というのが、このエッセーの主題。
ちょうど食事時間になったので、この話はここまで。

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●後記

 たった今、カラオケルームから帰ってきた。
ワイフと息子、それに私の3人で、歌を20曲近く歌った。
この旅館のカラオケルームは、超一流。
まるで豪華な劇場のよう。
照明も、四方八方から調整できる。
楽しかった。

 で、夕食だが、もちろん5つ星。
★★★★★。

 改めて確認。
浜松で、一押しの簡易旅館は、この「浜名湖かんざんじ荘」。
家族連れに最適。
はやし浩司は、ウソは申しません。
ぜひ、おいでください。
では、おやすみなさい!


Hiroshi Hayashi++++++++June.2011+++++++++はやし浩司


(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW 知育教育 幼児教育の重要性 2011-06)


Hiroshi Hayashi++++++++June 2011+++++++++はやし浩司








●子どもの動機づけ

2007-05-09 08:49:31 | Weblog
● 外発的動機づけ

 無理、強制、条件、比較は、確実に、子どもから、やる気を奪う。一時的には効果があっても、あくまでも一時的。

 このように、外部から、子どもを脅したり、条件をつけたりして、子どもにやる気を引き出す方法を、外発的動機づけという。

 子どもに、本当にやる気を出せせるためには、子ども自身の中から、そのやる気を引き出さねばならない。

 このように、子ども自身が、自分でやる気を起こすことを、内発的動機づけという。

 子どもからやる気を引き出すためには、子ども自身を、その気にさせねばならない。イギリスの格言にも、『馬を水場につれて行くことはできても、水を飲ませることはできない』というのがある。最終的に、やる・やらないと決めるのは、子ども自身ということになる。

 ……と、いろいろな説があるが、やる気の問題は、私たち自身の問題でもある。

 子育てをしていても、がんばれるときと、がんばれないときがある。たとえば子どもが、何かのことで懸命になっている姿を見ると、親の私たちも、がんばろうという気持ちになる。

 しかし何もせず、ぐうたらしている子どもを見ると、やる気も、消える。「どうして、親の私が、子どものためにがんばらなくては、いけないのか」と。

 こうした心理は、子どもも、同じ。そこで、どうすれば、子どものやる気を引き出すことができるかということになる。

  大脳生理学の分野でも、子どものやる気は、大脳辺縁系の中の、帯状回がコントロールしているという説もある(伊東正男氏、新井康允氏ほか)。この部分が、大脳からほどよい信号を受け取ると、やる気を引き起こすという。もう少し具体的には、帯状回が、モルヒネ様の物質を放出し、それが脳内に、心地よさを引き起こすということか。つまり、大脳からのほどよい信号こそが、子どものやる気を決めるというわけである。

 この説に従えば、子どもからやる気を引き出すためには、子どもが何かをしたら、何らかの心地よさを、子ども自身が感じるようにすればよいということになる。

 その一つが、達成感ということになる。達成満足感と言いかえても、よい。「やったア!」「できたア!」という喜びが、子どものやる気を引き出す。つまりは、そういう喜びを、いつも子どもが感じるように指導する。

 方法として、つぎのことに注意したらよい。


● 成功率(達成率)は50%

子どもが、2回トライして、1回は、うまくいくようにしむける。毎回、成功していたのでは、子どもも楽しくない。しかし毎回失敗していたのでは、やる気をなくす。だから、その目安は、50%。その50%を、うまく用意しながら、子どもを誘導していく。そしていつも、何かのレッスンの終わりには、「ほら、ちゃんとできるじゃ、ない」「すばらしい」と言って、ほめて仕あげる。


●無理、強制

無理(能力を超えた負担)や強制(強引な指導)は、一時的な効果はあっても、それ以上の効果はない。そればかりか、そのあと、その反動として、子どもは、やる気をなくす。ばあいによっては、燃え尽きてしまったり、無気力になったりすることもある。そんなわけで、『伸びたバネは、必ず縮む』と覚えておくとよい。無理をしても、全体としてみれば、プラスマイナス・ゼロになるということ。


●条件、比較

「100点取ったら、お小遣いをあげる」「1時間勉強したら、お菓子をあげる」というのが条件。「A君は、もうカタカナが読めるのよ」「お兄ちゃんが、あんたのときは、学校で一番だったのよ」というのが、比較ということになる。条件や比較は、子どもからやる気を奪うだけではなく、子どもの心を卑屈にする。日常化すれば、「私は私」という生き方すらできなくなってしまう。子どもの問題というよりは、親自身の問題として、考えたらよい。(内発的動機づけ)


●方向性は図書館で

どんな子どもにも、方向性がある。その方向性を知りたかったら、子どもを図書館へ連れていき、一日、そこで遊ばせてみるとよい。やがて子どもが好んで読む本が、わかってくる。それがその子どもの方向性である。たとえばスポーツの本なら、その子どもは、スポーツに強い関心をもっていることを示す。その方向性がわかったら、その方向性にそって、子どもを指導し、伸ばす。(役割形成)


●神経症(心身症)に注意

心が変調してくると、子どもの行動や心に、その前兆症状として、変化が見られるようになる。「何か、おかしい?」と感じたら、神経症もしくは、心身症を疑ってみる。よく知られた例としては、チック、吃音(どもり)、指しゃぶり、爪かみ、ものいじり、夜尿などがある。日常的に、抑圧感や欲求不満を覚えると、子どもは、これらの症状を示す。こうした症状が見られたら、(親は、子どもをなおそうとするが)、まず親自身の育児姿勢と、子育てのあり方を猛省する。


●負担は、少しずつ減らす

子どもが無気力症状を示すと、たいていの親は、あわてる。そしていきなり、負担を、すべて取り払ってしまう。「おけいこごとは、すべてやめましょう」と。しかしこうした極端な変化は、かえって症状を悪化させてしまう。負担は、少しずつ減らす。数週間から、1、2か月をかけて減らすのがよい。そしてその間に、子どもの心のケアに務める。そうすることによって、あとあと、子どもの立ちなおりが、用意になる。


●荷おろし症候群

何かの目標を達成したとたん、目標を喪失し、無気力状態になることを言う。有名高校や大学に進学したあとになることが多い。燃え尽き症候群と症状は似ている。一日中、ボーッとしているだけ。感情的な反応も少なくなる。地元のS進学高校のばあい、1年生で、10~15%の子どもに、そういう症状が見られる(S高校教師談)とのこと。「友人が少なく、人に言われていやいや勉強した子どもに多い」(渋谷昌三氏)と。


●回復は1年単位

一度、無気力状態に襲われると、回復には、1年単位の時間がかかる。(1年でも、短いほうだが……。)たいていのばあい、少し回復し始めると、その段階で、親は無理をする。その無理が、かえって症状を悪化させる。だから、1年単位。「先月とくらべて、症状はどうか?」「去年とくらべて、症状はどうか?」という視点でみる。日々の変化や、週単位の変化に、決して、一喜一憂しないこと。心の病気というのは、そういうもの。


●前向きの暗示を大切に

子どもには、いつも前向きの暗示を加えていく。「あなたは、明日は、もっとすばらしくなる」「来年は、もっとすばらしい年になる」と。こうした前向きな暗示が、子どものやる気を引き起こす。ある家庭には、4人の子どもがいた。しかしどの子も、表情が明るい。その秘訣は、母親にあった。母親はいつも、こうような言い方をしていた。「ほら、あんたも、お兄ちゃんの服が着られるようになったわね」と。「明日は、もっといいことがある」という思いが、子どもを前にひっぱっていく。


●未来をおどさない

今、赤ちゃんがえりならぬ、幼児がえりを起こす子どもがふえている。おとなになることに、ある種の恐怖感を覚えているためである。兄や姉のはげしい受験勉強を見て、恐怖感を覚えることもある。幼児のときにもっていた、本や雑誌、おもちゃを取り出して、大切そうにそれをもっているなど。話し方そのものが、幼稚ぽくなることもある。子どもの未来を脅さない。


●子どもを伸ばす、三種の神器

子どもを伸ばす、三種の神器が、夢、目的、希望。しかし今、夢のない子どもがふえた。中学生だと、ほとんどが、夢をもっていない。また「明日は、きっといいことがある」と思って、一日を終える子どもは、男子30%、女子35%にすぎない(「日本社会子ども学会」、全国の小学生3226人を対象に、04年度調査)。子どもの夢を大切に、それを伸ばすのは、親の義務と、心得る。
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●ジジババ・受難の時代

2007-02-28 09:24:30 | Weblog
●ジジ・ババ受難の時代

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年々、ジジ・ババへの風当たりが
強くなってきている(?)。

これから先、私たち高齢者予備軍は、
どのように社会とかかわりあって
いったらよいのか。

++++++++++++++

 私は感じている。ひょっとしたら、あなたも感じている。このところ、年を追うごとに、ジジ・ババへの風当たりが強くなってきている。

 若者たちが書くBLOGにしても、「ジジイ」とか「ババア」という言葉を使って、年配者をののしる表現が、最近、目につくようになってきた。ある交通事故の相談を専門に受けつけるBLOGには、こんな書きこみすらあった。

 「先日、枯れ葉マークのジジイの車に追突された。おかげで、こちらは2週間も入院。そのジジイが、2、3日ごとに見舞いにくるから、たまらねえ。あんなジジイに、何度も見舞いに来られて、うるさくてしかたねえ。こっちは、迷惑している」と。

 その若者は、バイクに乗っているところを、車で追突されたらしい。

 つまりこのところ、老齢者が、ますます、「粗大ゴミ」になってきた。そんな感じがする。老人医療費用、介護費用の増大が、若者の目にも、それが「負担」とわかるようになってきた。加えて、日本では、世代間における価値観の相違が、ますます顕著になってきた。若者たちは、程度の差こそあれ、上の世代の犠牲になっているという意識をもっている。

 これに対して、たとえば私たち団塊の世代は、こう反論する。「現在の日本の繁栄を築きあげたのは、私たちの世代だ」と。

 しかしこれは、ウソ。団塊の世代の私が、そう言うのだから、まちがいない。

 たしかに結果的には、そうなった。つまりこうした論理は、結果論を正当化するための、身勝手な論理にすぎない。私も含めて、だれが、「日本のため……」などと思って、がんばってきただろうか。私たちは私たちで、今までの時代を、「自分のために」、がんばってきた。結果として日本は繁栄したが、それはあくまでも結果論。

 そういう私たちを、若い世代は、鋭く見抜いている。

 しかしこれは深刻な問題でもある。

 これから先、高齢者はもっとふえる。やがてすぐ、人口の3分の1以上が、満65歳以上になるとも言われている。そうなったとき、若者たちは、私たち老齢者を、どういう目で見るだろうか。そのヒントが、先のBLOGに隠されているように思う。

 ジジ・ババは、ゴミ。
 ジジ・ババは、臭い。
 ジジ・ババは、ムダな人間、と。

 そういう意識を若者たちが共通してもつようになったら、私たち高齢者にとって、この日本は、たいへん住みにくい国ということになる。そのうち老人虐待や老人虐殺が、日常的に起こるようになるかもしれない。

 では、どうすればよいのか。

 ……というより、高齢者のめんどうを、第一にみなければならないのは、実の子どもということになる。が、その子どもが成人になるころには、たいていの親子関係は、破壊されている。親たちは気がついていないが、「そら、受験だ」「そら、成績だ」「そら、順位だ」などと言っているうちに、そうなる。

 中学生になる前に、ゾッとするほど、心が冷たくなってしまう子どもとなると、ゴマンといる。反対に、できが悪く(?)、受験とは無縁の世界で育った子どもほど、心が暖かく、親思いになる。ウソだと思うなら、あなたの周囲を見回してみればよい。あるいはあなた自身のことを考えてみればよい。

 「親のめんどうなどみない」と宣言している若者もいる。「親の恩も遺産次第」と考えている若者は、もっと多い。たいはんの若者は、「経済的に余裕があれば、親のめんどうをみる」と答えている。つまり「余裕がなければ、みない」※と。数年置きに、総理府が調査しているので、そのうち、これについての全国的な調査結果も出てくると思うが、これが現状と考えてよい。

 私はこのところ、近くの老人ケア・センターへ行く機会がふえた。そこでは、30~40人の老人を相手に、4、5人の若い男女が、忙しそうにあれこれと世話をしている。見た目には、のどかで、のんびりとした世界だが、こんな世界も、いつまでつづくかわからない。

 すでに各自治体では、予算不足のため、老人介護のハードルをあげ始めている。補助金を削減し始めている。10年後には、もっと、きびしくなる。20年後には、さらにきびしくなる。単純に計算しても、今は30~40人だが、それが90~120人になる。

 そうなったとき、そのときの若者たちは、私たち高齢者を、どのような目で見るだろうか。またどのように考えるだろうか。

 老齢になるまま、その老齢に負け、老人になってはいけない。ケア・センターでは、老人たちが、幼稚園の年長児でもしないような簡単なゲームをしたり、手細工をしたりしている。ああいうのを見ていると、「本当に、これでいいのか」と思う。

 高齢者は、人生の大先輩なはず。人生経験者のはず。そういう人たちが、手をたたいて、カラオケで童謡を歌っている! つまりこれでは、「粗大ゴミ」と呼ばれても、文句は言えない。また、そうであっては、いけない。

 わかりやすく言えば、高齢者は、高齢者としての(存在感)をつくらねばならない。社会とかかわりをもちながら、その中で、役に立つ高齢者でなければならない。そういうかかわりあいというか、若者たちとの(かみあい)ができたとき、私たち高齢者は、それなりにの(人間)として認められるようになる。

 「私たちが、この日本を繁栄させたのだ」とか、「だれのおかげで、日本がここまで繁栄できたか、それがわかっているか」とか、そういう高慢な気持ちは、さらさらもっていはいけない。

 私たち高齢者(実際には、高齢者予備軍)は、どこまでも、謙虚に! 姿勢を低くして、若者や社会に対して、自分たちの人生を、還元していく。その努力を今から、怠ってはいけない。

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古い原稿を再掲載します。

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●本末転倒の世界

 「老人のような役立たずは、はやく死んでしまえばいい」と言った、高校生がいた。そこで私が、「君だって、老人になるんだよ」と言うと、「ぼくは、人に迷惑をかけない。それにそれまでにうんと、お金を稼いでおくからいい」と。

そこでさらに私が、「君は、親のめんどうをみないのか」と聞くと、こう言った。「それだけのお金を残してくれるなら、めんどうをみる」と。親の恩も遺産次第というわけだが、今、こういう若者がふえている。

 97年、総理府が成人式を迎えた青年を対象に、こんな意識調査をした。「親の老後のめんどうを、あなたはみるか」と。

それに対して、「どんなことをしてでも、みる」と答えた若者は、たったの19%! この数字がいかに低いかは、たとえばアメリカ人の若者の、60数%。さらに東南アジアの若者たちの、80~90%という数字と比較してみるとわかる。しかもこの数字は、その3年前(94年)の数字より、4ポイントもさがっている。このことからもわかるように、若者たちのドラ息子化は、ますます進行している。

 一方、日本では少子化の波を受けて、親たちはますます子どもに手をかけるようになった。金もかける。今、東京などの都会へ大学生を一人、出すと、毎月の仕送り額だけでも、平均27万円。この額は、平均的サラリーマンの年収(1005万円)の、3割強。

だからどこの家でも、子どもが大学へ行くようになると、母親はパートに出て働く。それこそ爪に灯をともすような生活を強いられる。が、肝心の大学生は、大学生とは名ばかり。大学という巨大な遊園地で、遊びまくっている! 先日も京都に住む自分の息子の生活を、見て驚いた母親がいた。春先だったというが、一日中、電気ストーブはつけっぱなし。毎月の電話代だけでも、数万円も使っていたという。

 もちろん子どもたちにも言い分は、ある。「幼児のときから、勉強、勉強と言われてきた。何をいまさら」ということになる。「親のために、大学へ行ってやる」と豪語する子どもすらいる。今、行きたい大学で、したい勉強のできる高校生は、10%もいないのではないか。

大半の高校生は、「行ける大学」の「行ける学部」という視点で、大学を選ぶ。あるいはブランドだけで、大学を選ぶ。だからますます遊ぶ。年に数日、講義に出ただけで卒業できたという学生もいる(新聞の投書)。

 こういう話を、幼児をもつ親たちに懇談会の席でしたら、ある母親はこう言った。「先生、私たち夫婦が、そのドラ息子ドラ娘なんです。どうしたらよいでしょうか」と。

私の話は、すでに一世代前の話、というわけである。私があきれていると、その母親は、さらにこう言った。「今でも、毎月実家から、生活費の援助を受けています。子どものおけいこ塾の費用だけでも、月に4万円もかかります」と。しかし……。今、こういう親を、誰が笑うことができるだろうか。

(親から大学生への支出額は、平均で年、319万円。月平均になおすと、約26・6万円。毎月の仕送り額が、平均約12万円。そのうち生活費が6万5000円。大学生をかかえる親の平均年収は1005万円。自宅外通学のばあい、親の27%が借金をし、平均借金額は、182万円。99年、東京地区私立大学教職員組合連合調査。)


●スタンフォード大学の監獄実験

2007-02-26 23:08:00 | Weblog
【スタンフォード大学の監獄実験】

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今から、15年ほど前、アメリカの
スタンフォード大学で、興味ある
実験がなされた。

「スタンフォード監獄実験」というのが、
それである。

この実験を通して、改めて、人間のもつ
弱さというか、本来的な欠陥が明らかに
なった。

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 ウィキペディア百科事典から、直接、そのまま原稿を引用する。

【スタンフォード・監獄実験】

1971年8月14日から1971年8月20日まで、アメリカ・スタンフォード大学心理学部で、心理学者フィリップ・ジンバルドー(Philip Zimbardo)の指導の下に、刑務所を舞台にして、普通の人が特殊な肩書きや地位を与えられると、その役割に合わせて行動してしまう事を証明しようとした実験が行われた。模型の刑務所(実験監獄)はスタンフォード大学地下実験室を改造したもので、実験期間は2週間の予定だった。
新聞広告などで集めた普通の大学生などの70人から選ばれた被験者21人の内、11人を看守役に、10人を受刑者役にグループ分けし、それぞれの役割を実際の刑務所に近い設備を作って演じさせたところ、時間が経つに連れ、看守役の被験者はより看守らしく、受刑者役の被験者はより受刑者らしい行動をとるようになるという事が証明された。
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●実験の内容

ジンバルドーは役割を与えられた者達に自ら与えられた役割をよりリアルに演じさせるため、逮捕から始まり、囚人役に対して指紋をとり、シラミ駆除剤を拭きつけ、屈辱感を与えるために下着を着用させず、トイレへ行くときは目隠しをさせ、看守役には表情が読まれないようサングラスを着用させたり、午前2時半などに囚人役を起こさせたりした。

次第に、看守役は誰かに指示されるわけでもなく、自ら囚人役に罰則を与え始める。反抗した囚人の主犯格は、独房へ見立てた倉庫へ監禁し、その囚人役のグループにはバケツへ排便するように強制され、耐えかねた囚人役の一人は実験の中止を求めるが、ジンバルドーはリアリティを追求し、「仮釈放の審査」を囚人役に受けさせ、そのまま実験は継続された。

精神を錯乱させた囚人役が、1人実験から離脱。さらに、精神的に追い詰められたもう1人の囚人役を、看守役は独房に見立てた倉庫へうつし、他の囚人役にその囚人に対しての非難を強制し、まもなく離脱。

離脱した囚人役が、仲間を連れて襲撃するという情報が入り、一度地下1階の実験室から5階へ移動されるが、実験中の囚人役のただの願望だったと判明。

●実験の中止

ジンバルドーは、実際の監獄でカウンセリングをしている牧師に、監獄実験の囚人役を診てもらい、監獄実験と実際の監獄を比較させた。牧師は、監獄へいれられた囚人の初期症状と全く同じで、実験にしては出来すぎていると非難。

看守役は、囚人役にさらに屈辱感を与えるため、素手でトイレ掃除(実際にはトイレットペーパの切れ端だけ)や靴磨きをさせ、ついには禁止されていた暴力が開始された。

ジンバルドーは、それを止めるどころか実験のリアリティに飲まれ実験を続行するが、牧師がこの危険な状況を家族へ連絡、家族たちは弁護士を連れて中止を訴え協議のすえ6日間で中止された。しかし看守役は「話が違う」と続行を希望したという。

後のジンバルドーの会見で、自分自身がその状況に飲まれてしまい、危険な状態であると認識できなかったと説明した。ジンバルドーは、実験終了から約10年間、それぞれの被験者をカウンセリングし続け、今は後遺症が残っている者はいない。

●実験の結果

権力への服従
強い権力を与えられた人間と力を持たない人間が、狭い空間で常に一緒にいると、次第に理性の歯止めが利かなくなり、暴走してしまうのである。

非個人化
しかも、元々の性格とは関係なく、役割を与えられただけでそのような状態に陥ってしまう。

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 以上が、『スタンフォード・監獄実験』
と呼ばれる実験の概要である。この実験
記事を読んで、私は、かなり前に書いた
原稿のことを思い出した。それをそのま
ま紹介する。

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自分の中の敵と戦え!

子どもに平和を語るとき 

● 私の知人は七三一部隊の教授だった 

平和教育について一言……。

私の知人、(知人といっても、近所に住んでいた、男性だったが)、その知人は関東軍第七三一部隊の教授だった。残虐非道な生体実験をした、あの細菌兵器研究部隊である。そのことがある本で暴露されたとき、知人の妻はその本を私に見せながら、人目もはばからず、大声で泣いた。「父ちゃん(知人)が死んでいて、よかったア~」と。知人はその少し前、脳内出血で死んでいた。

●「貴様ア! 何抜かすかア!」

 ドイツのナチスは、1100万人のユダヤ人絶滅計画をたて、あのアウシュビッツの強制収容所だけで、400万人のユダヤ人を殺した。そういう事実を見て、多くの日本人は、「私たち日本人はそういうことをしない」と言う。しかし本当にそうか? ゲーテやシラー、さらにはベートーベンまで生んだドイツですら狂った。この日本も狂った。狂って、同じようなことをした。

それがあの七三一部隊である。が、知人は私が知る限り、どこまでも穏やかでやさしい人だった。将棋のし方を教えてくれた。子ども会の長もしていたので、よく遊びにも連れていってもらった。いや、一度だけ、こんなことがあった。

ある夜、知人と一緒に夕食をとっていたときのこと。知人が新聞の切り抜きを見せてくれた。見ると、知人がたったひとりで中国軍と戦い、30名の満州兵を殺したという記事だった。当時としてもたいへんな武勲で、そのため知人は国から勲章をもらった。記事はそのときのものだった。

が、私が「おじさん、人を殺した話など自慢してはダメだ」と言うと、知人は突然激怒して、「貴様ア! 何抜かすかア!」と叫んで、私を殴った。その夜私は、泣きながら家に帰った。

●敵は私たち自身の中に

 もしどこかの国と戦争をすることになっても、敵はその国ではない。その国の人たちでもない。敵は、戦争そのものである。あの知人にしても、私にとっては父のような存在だった。家も近かった。いつだったか私は子どものころそういう知人と仲良くしていたことを知り、自分の胸をかきむしったことがある。

時代が少し違えば、私がその教授になっていたかもしれない。いや、戦争が知人のような人間を作った。知人を変えた。繰りかえすが、私の知っている知人は、どこまでも穏やかでやさしい人だった。倒れたときも、中学校で柔道の指導をしていた。

知人だって、戦争の犠牲者なのだ。戦争という魔物に狂わされた被害者なのだ。つまり戦争には、そういう魔性がある。その魔性を知ること。その魔性を教えること。そしてその魔性と戦うこと。敵は私たちの中にいる。それを忘れて、平和教育は語れない。

(付記)

●戦争の責任論

 日本政府は戦後、一貫して自らの戦争責任を認めていない。責任論ということになると、その責任は、天皇まで行ってしまう。象徴天皇を憲法にいだく日本としては、これは誠に都合が悪い。

そこで戦後、政府は、たとえば「一億総ざんげ」という言葉を使って、その責任を国民に押しつけた。戦争責任は時の政府にではなく、国民にあるとしたわけである。が、それでは「日本はますます国際社会から孤立し、近隣諸国との友好関係は維持できなくなってしまう」(小泉総理大臣)。

そこで、2001年の8月、小泉総理大臣は、「先の大戦で、わが国は、多くの国々、とりわけアジア諸国の人々に多大の損害と苦痛を与えた」(第56回全国戦没者追悼式)と述べ、「わが国」という言葉を使って、その戦争責任(加害主体)は「政府」にあることを、戦後はじめて認めた。

が、しかし戦後、60年近くもたってからというのでは、あまりにも遅すぎるのではないだろうか。

(参考)

 この「平和教育を語るとき」の原稿と同時に書いたのが、次の「杉原千畝副領事のビザ発給事件」である。

●杉原千畝副領事のビザ発給事件 
 
「1940年、カウナス(当時のリトアニアの首都)領事館の杉原千畝副領事は、ナチスの迫害から逃れるために日本の通過を求めたユダヤ人6000人に対して、ビザ(査証)を発給した。これに対して1985年、イスラエル政府から、ユダヤ建国に尽くした外国人に与えられる勲章、『諸国民の中の正義の人賞(ヤド・バシェム賞)』を授与された」(郵政省発行20世紀デザイン切手第九集より)。

●たたえること自体、偽善

 ナチス・ドイツは、ヨーロッパ全土で、1100万人のユダヤ人虐殺を計画。結果、アウシュビッツの「ユダヤ人絶滅工場」だけでも、ソ連軍による解放時までに、約400万人ものユダヤ人が虐殺されたとされる。杉原千畝副領事によるビザ発給事件は、そういう過程の中で起きたものだが、日本人はこの事件を、戦時中を飾る美談としてたたえる。郵政省発行の記念切手にもなったことからも、それがわかる。が、しかし、この事件をたたえること自体、日本にとっては偽善そのものと言ってよい。

●杉原副領事のしたことは、越権行為?

 当時日本とドイツは、日独防共協定(1936年)、日独伊防共協定(37年)を結んだあと、日独伊三国同盟(40年)まで結んでいる。

こうした流れからもわかるように、杉原副領事のした行為は、まさに越権行為。日本政府への背信行為であるのみならず、軍事同盟の協定違反の疑いすらある。杉原副領事のした行為を正当化するということは、当時の日本政府がしたことはまちがっていると言うに等しい。その「まちがっている」という部分を取りあげないで、今になって杉原副領事を善人としてたたえるのは、まさに偽善。

いやこう書くからといって、私は杉原副領事のした行為がまちがっていたというのではない。問題は、その先と言ったらとよいのか、その中味である。

当時の日本といえば、ドイツ以上にドイツ的だった。しかも今になっても、その体質はほとんど変わっていない。どこかで日本があの戦争を反省したとか、あるいは戦争責任を誰かに追及したというのであれば、話はわかる。そうした事実がまったくないまま、杉原副領事のした行為をたたえるというのは、「今の日本人と戦争をした日本人は、別の人種です」と言うのと同じくらい、おかしなことなのだ。

●日本はだいじょうぶか?

 そこでこんな仮定をしてみよう。仮に、だ。仮にこの日本に、100万人単位の外国人不法入国者がやってくるようになったとしよう。そしてそれらの不法入国者が、もちまえの勤勉さで、日本の経済を動かすまでになったとしよう。さらに不法入国者が不法入国者を呼び、日本の人口の何割かを占めるようになったとしよう。そしてあなたの隣に住み、あなたよりリッチな生活をし始めたとしよう。

もうそのころになると、日本の経済も、彼らを無視するわけにいかない。が、彼らは日本に同化せず、彼らの国の言葉を話し、彼らの宗教を信じ、さらに税金もしっかりと払わないとする。そのとき、だ。もしそうなったら、あなたならどうする? あなた自身のこととして考えてみてほしい。あなたはそれでも平静でいられるだろうか。ヒットラーが政権を取ったころのドイツは、まさにそういう状況だった。

つまり私が言いたいことは、あのドイツですら、狂ったということ。この日本が狂わないという保証はどこにもない。現に2000年の夏、東京都の石原都知事は、「第三国発言」をして、物議をかもした。そして具体的に自衛隊を使った、総合(治安)防災訓練までしている(2000年9月)。石原都知事のような日本を代表する文化人ですら、そうなのだ。

●「日本の発展はこれ以上望めない」

 ついでながら石原都知事の発言を受けて、アメリカのCNNは、次のように報道している。「日本人に『ワレワレ』意識があるうちは、日本の発展はこれ以上望めない」と。そしてそれを受けてその直後、アメリカのクリントン大統領は、「アメリカはすべての国からの移民を認める」と宣言した。

日本へのあてこすりともとれるが、日本が杉原副知事をたたえるのは、あくまでも結果論。チグハグな日本の姿勢を見ていると、どうもすっきりしない。石原都知事の発言は、「私たち日本人も、外国で同じように差別されても文句は言いませんよ」と言っているのに等しい。

多くの経済学者は、2015年には日本と中国の経済的立場は逆転するだろうと予測している。そうなればなったで、今度は日本人が中国へ出稼ぎに行かねばならない。そういうことも考えながら、この杉原千畝副領事によるビザ発給事件、さらには石原都知事の発言を考える必要があるのではないだろうか。

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 『善人も悪人も紙一重』。大きくちがうようで、それほど、ちがわない。子どもの世界もまた、しかり。問題のある子どももいれば、そうでない子どももいる。大きくちがうようで、それほど、ちがわない。

 置かれた環境、育てられ方、受けた教育で、よい子は、よい子になり、そうでない子は、そうでなくなる。

 もしあなたが今、善人なら、それはたまたまそうであるにすぎない。もしあなたが今、悪人なら、それはたまたまそうであるにすぎない。

 『スタンフォードの監獄実験』は、心理学の教科書にもよく出てくる話である。この実験の内容、経過を読めば読むほど、人間の心がもつ、本来的な魔性がよくわかる。
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 監獄実験 スタンフォード大学 監獄 個性 権力への服従 非個人化)



●子どもの万引き

2007-02-21 11:42:56 | Weblog
●万引きを繰りかえす子ども

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掲示板のほうに、万引きを繰りかえす
子どもについての相談があった。

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 掲示板のほうに、万引きを繰りかえす子どもについての相談があった。それをそのまま紹介する。

【UK様より、はやし浩司へ】

中2の娘(一人っ子)の万引きについての相談です。

化粧に興味を持ち始め、昨年(06)の夏頃から化粧品を買うようになりました。もともとオープンな性格でない上、校則で禁止、親にも反対されることはわかっているため、コソコソと隠れて買っていました。

私は時々娘にわからないようにチェックしていました。小遣いのわりに化粧品の数が多い?、と心配していたところ、先日じんじょうでない量の化粧品を見つけました。問いただすと、万引きをしていたことを認めました。

5つの店で10数点。とても出来心でとはいえない数です。翌日学校を休ませてお詫びにまわりました。もうやらないとうなだれていた娘でしたが、その一週間後に、また返し渋ったと思われる化粧品を見つけました。

が、証拠(?)をつきつける前に娘は、それを隠してしまいました。あの時の涙は何だったの?、と娘が信じられません。そしてそのわずか数日後、買い物に行くという娘をドキドキしながら送り出しました。

娘が帰ってきてから調べてみると、所持金、レシート、購入品、残高が合いません。レシートのない商品がふたつ。4000円ほど。これをどう娘に切り出せばいいか、今後どのようにすればいいか、わからないでします。

学校でのことなど、当たり障りのないことは話しますが、そのほかのことについては、秘密主義。小さい頃からのこともあって、私は気になってしかたありません。それが今回の万引き発覚に繋がった訳ですが、娘にしてみれば、私はこそこそ嗅ぎまわる母親でしかなく、たがいに不信感は募るばかりです。だから娘は、余計隠す・・・の悪循環に陥っています。

心のうちをなかなか明かしてくれないので、というより、鎧を着込んでかたくなになるばかりの娘の心をときほぐし、良好な親子関係を築き、二度と万引きをしないようにするにはどうしたらいいのでしょうか。

娘は、インターネットや雑誌の情報が世の中全てと思い、自分の生活との違いに不満ばかりをもらします。使いもしないのに持っていたいという、欲張りなところもあります。

●子どもの行為障害

 病的な万引きということであれば、まず疑ってみるべきは、「行為障害」ということになる。(UKさんの子どもがそうであるというのではない。こうした相談を受けたときには、最悪なケースから考え、消去法で問題を考えていくのが、筋道だからである。)

 行為障害の診断基準は、つぎのようになっている(「心理学用語辞典」かんき出版)。

(1) 他人に対するいじめ、脅迫、威嚇
(2) 取っ組み合いのけんか
(3) 凶器を使用して他人に重大な身体的危害を加える
(4) 他人の体に対して残酷な行為をする
(5) 動物の体に対して残酷な行為をする
(6) 強盗
(7) 性行為を強いる
(8) 放火
(9) 器物損壊
(10) 他人の住居、建造物、自動車の中への侵入
(11) ウソをつく
(12) 万引き、侵入盗以外の窃盗、偽造
(13) 親の監視にもかかわらず、深夜の外出がしばしばある
(14) 外泊が2回以上
(15) 不登校(13未満)

 以上、15項目のうち、3項目以上があてはまる場合、行為障害となる(同書)。

 多くは、児童期にADHDを示した子どもが、思春期(中学生)以上になって示すことが多いとされる(同書)。

 が、ADHD児が、すべてこうした障害をもつようになるというわけではない。ADHDに対する不適切な対応、たとえば、(1)身体的、性的虐待、(2)攻撃的なモデル(身近で、暴力的な行為を見聞きして育つ)、(3)不安定な愛着(同書)などが重なったときに、思春期以後、行為障害を誘発すると考えられる。

 病的な万引きのばあいには、つぎのような特徴が見られる。

(1) 無作為、無目的に万引きする
(2) 同一物を万引きする
(3) 衝動性が強く、罪悪感を覚えることなく万引きする
(4) 咎(とが)められると、そのときは、しおらしく謝罪したりする

 (そのものを使いたいから、万引きする)というよりは、(そのものがほしいから、万引きする)。また同じものをもっていても、万引きする。で、万引きするのは衝動的で、得をしたという快感が、陶酔感を呼び起こす。

 咎められると、そのときは反省した態度を示し、しおらしく謝罪したりはするものの、ほとんど、効果はない。周期的、習慣的に万引きを繰りかえす。

 わかりやすく言えば、(心の病気)が基本にあって、その(心の病気)を代償的に解消するために、万引きを繰りかえすと考えるとわかりやすい。つまり万引きだけを問題にして、それを叩いても、あまり意味はないということ。病気にたとえるなら、対症療法だけを繰りかえしても、根治療法にはならないということ。

 さらに児童期にADHDを経験したような子どものばあい、管理能力、自制力、善悪の自己判断力が弱く、ふつうの子ども以上に、ていねいで、静かな指導が必要である。頭ごなしに、ガミガミ叱っても意味がないばかりか、かえって症状をこじらせてしまうことになるから注意する。

 ただし、掲示板の相談のあった子どもが、ここでいう行為障害のある子どもというわけではない。(これだけの内容では、判断はできない。)しかしもしここでいう行為障害の疑いがあるなら、(心の病気)を疑ってみる。たとえば依存うつなど。

 解決方法としては、子どもの心を抑圧している重荷を、解放させることを第一に考える。とくにこの相談をしてきた親子のばあいは、すでに親子関係が危険なレベルに達していると思われる。相互の不信感が、親の過干渉、過関心へとつながっている。子どもの側からみて、息が抜けない家庭(親子)環境になっている。

 中2の子どもというのであれば、本来なら、たがいにその存在すら感じないという家庭環境が望ましい。しかし(一人っ子)という環境では、それもままにならない。おそらく、子どもが生まれたときから、UKさんは、過関心ぎみの子育てをしてきたものと考えられる。またその時期(小3~4)に、親ばれをしようとする子どもを、適切に親離れさせなかったということも考えられる。今は、すでに子離れしてなければならない時期であるにもかかわらず、UKさん自身が、無意識のうちにも、それを拒んでいる。

 UKさんにはたいへん辛らつな言い方になるが、UKさんは、子どもの万引きを心配しながら、それでいて、娘を自分の支配下におき、自分という親の存在を、娘の前で、誇示しようとしようとしているのではないのか。そういうケースは、多い。たとえば子どものことになると、「心配だ」「心配だ」を繰りかえし、子どもをかえって、その(心配な子ども)にしてしまうケースがある。

 一見、この問題は、(万引きをする子どもの問題)のように見えるが、実は、(子離れができない親の問題)と考えてよい。

 もしここでいう行為障害、もしくは病的な万引きでなければ、UKさんは、冷めた目で、一度、子どもを突き放してみること。簡単なことではない。それはわかっている。それこそ、今の子どもを妊娠したときからつづいている、親子のリズムを、ここで変えなければならないからである。

 というのも、(万引き)そのものは、この時期の子どもにとっては、(はしか)のようなもの。もっと言えば、熱病のようなもの。万引きを是認するわけではないが、たいていの子どもは、それを経験する。掲示板に書かれた様子からみるかぎり、それほど、大げさな万引きでもないように思われる。「5つの店で、10数点」というのは、やや多いかなという程度である。

 それよりも気になるのは、UKさん自身が、子どもを連れ、それぞれの店を回って、謝罪したということ。このあたりは意見の分かれるところだとは思うが、「ふつうなら、そこまではしない」というのが、私の印象である。

 「親がしない」というのではない。「子どもがしない」ということ。

 謝罪するなら、親だけが行ってすればよい。「子どもを連れて……」というところが気になる。UKさんの子どもは、それに従順に従ったのだろうか。ふつうなら、子どものほうがそれに抵抗するはず。「イヤダ!」とか「行かない!」とか、など。

 もし従順に従ってというのなら、親の威圧的な過干渉のもとで、どこか萎縮している子どもの姿が、浮かんでくる。

 さらにUKさんは、「不信感がつのるばかり」と書いている。しかし大切なことは、子どもを信ずること。仮に悪いことをしているようであっても、見て見ぬフリをする。「まあ、どんな子どもでも、万引きくらいはする」「万引きして、補導されたら、そのときはそのとき」というおおらかさが、子どもの心に風穴をあける。(もちろん、それが発覚したときは、叱らなければいけないが……。)

 私がUKさんの子どもなら、UKさんのことを、「うるさい親だな」と思うだろう。あるいは私なら耐えられない。UKさんの子どもには、はたしてそういう反発力はあるのだろうか。

 さらに親に連れられて、5店を謝罪して回ることによって、子どものプライドは、ズタズタにされてしまった。もともと萎縮した子どもであれば、さらに萎縮し、自信をなくしてしまったはず。

 私がこの相談から受けた印象としては、そんなわけで、UKさん自身が、完ぺき主義の母親ではないかということ。その完ぺき主義が、UKさんの子どもの心を、かえって閉ざしてしまっているのではないかということ。繰りかえすが、小学生ならまだしも、中学2年生で、そこまで従順な子どもは少ない。その(従順すぎる)というところが、どうしても気になる。

 今のUKさんと子どもの置かれた状況から思うに、UKさんがカリカリしても、かえって逆効果ではないかということ。この問題の「根」は、もっと深いところにある。さらに言えば、UKさんは、子どもの問題点ばかりを指摘しているが、UKさん自身については、問題にしていない。もっと言えば、自分がかかえている問題点について、気づいていない。

 子どもが化粧品をほしがるようなら、どうしていっしょに、買い物に行ってやらないのか。化粧品選びを手伝ってやらないのか。押してだめなら、思い切って引いてみる。これは子どもを指導するときのコツでもある。「あら、すてきな化粧品ね。お母さんも使ってみたいな。でも盗むのは悪いことだから、今度、いっしょに買いに行かない?」とかなど。

 以上、おおざっぱに思いつくまま書いたので、不適切な表現もあるかもしれないが、UKさんの参考になればうれしい。

【はやし浩司よりUKさんへ】

 以上、ほとんど返事を書いたようなものです。きびしい意見も並べましたが、UKさん親子の、よりよい関係作りに役立てば、うれしいです。(ご立腹なさっておられるかもしれませんが……。)

 この種の問題は、「今の状況をこれ以上悪くしないこと」だけを考えて、対処するのがコツです。子どもを直してやろう(?)と考えて、無理をすればするほど、逆効果。子どもを追いつめることになってしまいますから、ご注意ください。追いつめれば追いつめるほど、症状はこじれ、さらに二番底、三番底に子どもは落ちていきます。

 とくに今は、子どもは、思春期という、たいへんむずかしい時期に入っています。子ども自身も、内なる世界からわきおきてくる、性的エネルギー(フロイト)を、自分でどうコントロールしてよいかわからないでいる時期です。今ほど、UKさんの冷静な、判断力、指導力が必要なときはありません。

 あまりカリカリしないで、肩の力を抜いてください。そしてUKさん自身が、子離れの準備をしてください。つまり子どものことは忘れて、あなた自身が、1人の人間として、したいこと、やるべきことを追求します。その結果として、子離れをします。

 子どもの横に友として立ち、手をつなぎながら歩くのです。決してたがいに見つめあわないように! いっしょに前だけを見て、前に進みます。
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司
子供の行為障害 行為障害 子供の万引き 盗癖)