最前線の育児論byはやし浩司

★子育て最前線でがんばる、お父さん、お母さんのための支援サイト★はやし浩司のエッセー、育児論ほか

●Independent Thinker

2005-03-31 20:31:23 | Weblog
●田丸先生からの論文

 T先生こと、田丸先生の、「Independent Thinker 」についての原稿について、
 田丸先生に、私のHPに掲載してよいかという許可を求めましたら、了解がい
 ただけましたので、ここに紹介します。(05年3月31日)

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林様;

私の原稿は貴方のような筆の達人の中に入れると見劣り
します。 それでもよかったらお使いなさい。

これは貴方にとって余計な話ですが、今日を含めてこの5日
学会がありました。 一般の傾向として「大学法人化」といって
夫々の大学は出来るだけ自立しろということになります。 「産学
協同」というきれいごとの言葉がはやりだしました。 大学は実際
に役に立つことをする傾向が強くなりました。 ひどいのは会社か
らテーマと金を貰って、大学院生を人手に使って「研究らしいこと」
をします。 大学院生はそれが「研究」であると思って一生損をしま
す。被害者です。私は大学が学問をしなくなったら、駄目であると思
います。これも気のせいか、independent thinker の訓練がなくなっ
て安易に生きて行こうとする傾向に思えます。 本当は「研究」とい
うものは必死に頭で考え、考えてするものです。 それがなくて創造
性は生まれません。 個性的な研究も駄目です。 皆が似たことを実
験する研究は研究でも「試験研究」或いは「試験実験」でしかありま
せん。 愚痴になりそうですが。 研究は矢張り誰も考えなかったこ
とを考える苦しいけれども、楽しいものなのですが。

田丸謙二

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日本は本当にダメになるのか?
もっと考えるエデュケイションを 田丸謙二
現在の中高校の理科教育について何か書けという思いがけないご依頼があった。以下に普段思っていることを書いてみる。

はじめに: Education という言葉は辞書には「教育」と訳してある。しかし本当は日本式の「教え込む教育」ではなくて、生徒の(才能や知恵を)educe 引き出す作業のことである。ドイツ語でも教育は Erziehung 、「引き出す」のである。

これまでの日本式の「知識を詰め込む」教育とはベクトルが180度違っている。正に逆なのである。わが国の教育関係者でこの辺りを本当に理解している人は決して多くはない。むしろ極めて少ないと言えるのではないだろうか。

新しい時代の始まり; 一昔前には電車の中で見回すと何処かで誰かが漫画の本を見ていたものである。近頃ではどうだろう? 何処かに携帯電話をいじくっている人がいる。これからニ、三十年先にはどうなっているだろうか。多分車内の何処かでポケットから出したパソコンを開いてみているのではなかろうか。

そのような来たるべきパソコン持参のコンピュータの時代を支えるのが今の子供たちである。この時代には国際化、情報化がさらに格段に進み、ますます変化の早い時代になる。この激動の時代に適応し、その時代をリードするにはコンピュータのできないことが出来るダイナミックな知恵を持った人材である。「知識偏重」の「詰め込み教育」は到底役立たない。「知恵」は自分で引き出し、育てるものである。我々は今の子供たちのために何をすればいいのか、日本の将来を決めるのは現在の子供たちへの真の education なのである。

これまでの教育; 日本は元来「文化の輸入国」であった。「マナブ」ということは「マネブ」、真似をする、から来ている言葉である。学問を自分で築いた経験が乏しいので、学問はおのずから出来上がったものを取り入れるものとなり、「学力」は知識量をあらわし、その知識を偏重する風土になっている。

高校の理科の時間を参観すると、殆ど会話がない、「わかったか、覚えておけ」の一方的な教え込みである。それが限られた時間内に最も効率よく沢山のことを教えることが出来、「知識偏重の入試」に対する最適の教え方なのである。そこには自分の個性的な知恵を育てたり、自分の頭できびしく考えて教科書にない新しい問題を考えたり、基本を発展させる頭の働きを磨く訓練はない。自分の言葉で話し、debateすることも殆どない。個性を伸ばすどころか、education とは正反対のベクトルである。

こうして育った生徒は大学に来ても質問は少ない。受け取るだけで、考えながら学ぶ習慣が乏しいからである。さらに大学院に進み、ここは独創的なことをするんだ、自分で考えろ、と言われても、出来るわけがない。教授の方も問題だが、練習問題的な論文が少なくない。野依良治教授がアメリカと日本の新しい学位授与者を比べると、相撲で言えば三役と十両の違いである、と言われたのも分かる気がする。 

アメリカで教育改革: アメリカではこの時代の早い動きを先取りして、教育を大きく改革した。理科教育について言えば、それまでは鯨の種類など理科的知識を重視して覚えさせていたのを止めて、science inquiry つまり、探究的にものを考えるように切り替えたのである。

そうしてその探究的な考え方が、理科だけでなく歴史や社会など他の学科でも基本的な考え方として拡げていった。この大きな教育改革は1989年頃から科学アカデミーの National Research Council が中心となって始まった。全国から選ばれた人達が原案を作り,1992年から150回以上にわたりその内容を公開討論して、数多くの人達,学会などの意見を聞き、最後には4万部を刷って全国1万8千人や250のグループに配って意見を求めてNational Science Education Standards[1]を作り上げている。地域的な色彩の強い教育を基本にしているアメリカにおいて正に国を挙げての作業であった。知識量を減らしても考え方に重点を移したのである。

わが国ではそれを、真似て、従来の「詰め込み教育」はいけないと称して,知識の量は3割削減、「自ら探究的に考え、生きる力をつける」ということで、「ゆとり教育」が始まった。文部科学省の密室で原案が作られ、上意下達で始まったのである。

しかし、文部科学相が変ると、「学力(この内容が本当の問題)の低下」が起こっているから再検討をすると言って、今年の末頃までに結論を出すと言う。現場は混乱するだけである。

アメリカでの学校教育は私の孫が学んだ経験からすると、小学校の校長先生にどのような子供を育てようとしていますか、と言う娘の質問に答えて、「productive, team player, independent thinker」と言ったという(2)。

つまりproductive 社会に役立つ人間で、team player社会になじみ、そして independent thinker つまり自分なりに個性的に考える小学生、というのである。幼稚園の時から、show and tell, 自分の言葉でしゃべる練習をして、小学校でも繰り返し、繰り返し、How do YOU think ? と自分で考える訓練をさせられる。その基本的考えは、すべての子供はそれぞれ生まれつき異なるということから始まる。

生徒各自が自分で考え、自分なりによい点を引き出し(educe)育てるのが教育 education なのである。自分で独立に考えることにより、初めて個性が育つのである。Independent thinker が よいteam playerになるところに本当の「民主主義の基本」があるのである、 

考えさせる教育; わが国では independent thinker を育てるなど言う教育があっただろうか。学校では知識を教え、後は勝手に考えるのである。日本では、人は皆同じ、差別はいけない、お互いに「思いやる社会」として、「よろしく」と挨拶する社会はそれなりに素晴らしいが、その全体の中にあって兎角「個」と言うものが埋没してしまう。

これからは、激動する時代に適応するように「探究的に考え、自分で生きる力をつけろ」と言われても、教師たちは考える教育を受けたこともないし、どうしたらよいのか分からない。欧米のように「自分で考える」基本が子供たちにもないし、大人にも、第一、先生の方にも乏しいのである。

先生は余り考えたこともないし、自分の持っている「知識」を生徒に授ける方が楽である。子供たちは先生の背を見て育つ。「自分で考えない先生」からは「考える子」は育たない。知識を得ることと「考えること」とは基本的に別物である。これからの時代は「学びて思わざる教育」はダメである。「考えることの大切さ」を言うと「でも、物を知らなければ」と言う答えが返ってくる。

しかし化学の考え方を学びながら物を知ることになる。「考える」というのは、その科目の選び抜かれた基本をしっかりと身につけて考えることである。アメリカで言う「Less is more」、つまり数少ない大事な基本を本当に身につけて考えると、浅く広い知識をただ覚えるよりも格段にダイナミックな実りがあるのである。基本を基にして一を聞いて十を知り、さらに十分に考えて必要な知識を自分で獲得し、百まで考える可能性をもつものである。

これからのエデュケイション: それではこれから我々はどうしたらいいのだろうか。コンピュータの時代には、それに備えた教育が求められる。基本は矢張り本当のエデュケイションの基本を根付かせ、個性を伸ばすことである。

例えば、宿題もありうるが、授業は常に生徒と先生との communication の連続にして、教室できびしく考えさせることである。生徒たちが何を知らなくて、如何に考えさせたらいいのか、が分かる。近頃では、たとえ数人を組にしてでもコンピュータを通して一緒に討論をしながら授業をするのである。ヒストグラムを示すことも出来る。そのやり取りの記録がそのまま成績にも繋がる。

まず先生自身が考えながら生徒と会話をするのである。その会話を通して生徒は考え方を学ぶのである。「ただ読んだだけでは理解度10%,聞いただけでは20%,見ただけでは30%,見たり聞いたりの両方で50%,他の人と討論して70%,実際に体験して80%,誰かに教えてみて95%」(William Glaser,"Schools Without Failure")と言われる。

同じ事を教えるのでも工夫次第で大幅に理解度が違うのである。「聞いたことがある」程度に頭に残っているのと,深く理解したのとでは自分で新しいことを考え出す上では大変な違いになる。本当に深く身について初めて本物の「知恵」になるのである。またそのように本当の知恵を生むように「引き出さなければ」いけないのである。
    
教育成果の評価: 新しい教育には新しい教育評価システム、試験制度、が求められる。まず入試も知識量を重視する「知識偏重」から大きく変えないといけない。私はある新設大学での入試に高校の教科書持参で、答えは記述式にしてやってみたことがある(3)。

この方式では、これを覚えているか式の出題はなくなる。教科書をどれだけ本当に理解しているか、これは何故であるか、こういう場合はどうすればいいのか、どれだけの知恵を身につけているかを問うのである。少し手はかかるが、この方式では受験生一人一人の「考える力」が実に手に取るようによく分かる。○×式などの比ではない。

ただ、慣れていないこともあり、教授たちの中には問題作成が困難なこともあって、出題者の方の「考える力」が試されることになる。しかし近頃では中学校の入試にも前よりも「考えさせる問題」が出されるようにもなったというし、これからは変って行くのではないだろうか。

同じ「考える」のでも、ナゾナゾのようなものでなく、基本に基づいた知恵を調べるのである。Stanford 大学の入試では creativity と leadership を重視すると言っていたが、矢張り自分で考える力があって、人の上に立てる人材を求めるのである。福井謙一先生は「今の大学入試は若い人の芽を摘んでいるんです」とよく言われていた。

今年のセンター試験でも、ある金属のアンミン錯体の色を問う問題が出ていた。センター試験に出ると言うことはそれを覚えさせろと言う命令に近い。しかしそんな色を尋ねられても多くの受験生は見たこともなく、教科書で知るだけであり、もう一生お目にかかることのない化合物の色を覚えても何の役にも立たないことである。こんなことをして、若い人の芽を摘んでいる出題者の罪は重いが、残念ながら彼らには罪の意識は微塵もない。

教科書の問題: 今ある高校の化学の教科書を見てみる。まず文部科学省検定の日本の教科書が欧米の教科書に比べて圧倒的に貧弱である。内容も三分の一以下という。必要最低限の情報をかき集めて書くだけで精一杯に近く、考え方など到底手が届かない。

先生はその教科書さえ教えればいいということで、その情報を生徒に丸暗記させるのである。そのような教科書の中から大学入試問題を出せといわれてもいい問題ができるはずがない。それはそのまま高校以下の悪い教育へとつながって行く。これで理科が好きになれとか、探究的に考えろと言う方が無理である(4)。

一般に欧米の教科書は写真も綺麗だし、化学独自の考え方を手を尽くしてきちんと解りやすく説明されているし、各種の考えさせる例題(問題)も備えている。教科書によっては、化学の立場からの地球のできる火成岩の話しなどいろいろな興味ある身近な話も入っていたりしている。素人でも化学に興味を抱くよう、化学の好きな子はますます好きになるし、個性を伸ばせるようになっている。

欧米では教科書は学校の備品であることが多いし、5年に一度教科書を変えるとするとその実質的な費用は五分の一になる。欧米で広くやっていることを日本で出来ないことがあるのだろうか。日本のようにこれ以上は教えなくていいなど、文部科学省の余計な規制がなぜ必要なのだろうか。今はもう横並びの時代ではない。現場の先生は厚い教科書の全部を教えることはもちろんない。場合によってはここを読んでおけ、でもいい。生徒のレベルに応じて先生が好きなように教えればいいのである。その方が生徒も先生も個性を生かせてもっともっと元気が出るし、化石化してしまった現在の化学が生き返る。

「折角いい頭を・・」; 私は院生にはいつも口癖のように「折角いい頭をお持ちなのですから、もっとよく考えなさい」と言っている。

何年か前私がある賞を頂いたお祝いの会で卒業生の一人が、先生がああ言われるのは先生にいいアイディアがないからではないか、と冗談半分に本当のことを言っていた。頭は使うほどよくなるものである。優れた考えが出たときはうんと褒めることである。しかしお互い様自分の考えの足りないことは自分では解らない。考えに考え、考え抜いて、新しい発想を生んだ体験はその学生の一生の宝になるものである。creativeな才能は自分の頭で考えることによって育つものである。

おわりに; 先ごろ亡くなられたロンドン大学の名誉教授の森嶋通夫先生のお言葉を紹介する。

『現在の教育制度は単数教育〈平等教育〉で、子供の自主性を養う教育ではない。人生で一番大切な人物のキャラクターと思想を形成するハイテイ―ンエイジを高校入試、大学入試のための勉強に使い果たす教育は人間を創る教育ではない。今の日本の教育に一番欠けているのは議論から学ぶ教育である。日本の教育は世界で一番教え過ぎの教育である。自分で考え、自分で判断する訓練が最も欠如している 自分で考え、横並びでない自己判断の出来る人間を育てなければ、2050年の日本は本当に駄目になる』(5)

1. National Science Education Standards, National Resaerch Council(1996), National Academy Press.  Every Child a Scientist, National Research Council,(1998), National Academy Press:  .

2.「アメリカの孫と日本の孫」,田丸謙二,大山秀子,化学と工業,52 (1999) 1149

3 「新しい大学入試方式の模索」,田丸謙二,化学と教育,44 (1995) 456:「理科のセンスを問う・・山口東京理科大学の教科書持ち込み入試」、木下実,同誌、45 (1997) 146

4  「高校の化学をつまらなくする方法」、田丸謙二,化学と教育,38 (1990)、712
「高校化学での「触媒」の教え方について」,田丸謙二、化学と教育、51、35 (2003): 「高校化学での浸透圧の教え方について」、田丸謙二、化学と教育、51、434(2003)
  「高校化学の教科書を読んでの一つの意見」、田丸謙二、化学と教育、52、764 )2004)
5 森嶋通夫、こうとうけん、No.16 (1998) p.17
参考文献;http://www6.ocn.ne.jp/~kenzitmr/    (2005年3月)

●愛国心について

2005-03-18 11:41:57 | Weblog
●若者の意識

財団法人日本青少年研究所(東京・新宿)が、高校生の意識調査をした。昨年(04)9月から12月にかけて、3か国35の高校で行い、3649人が回答した。

★国歌・国旗について

 「自分の国に誇りを持っているか」との設問に、「強く持っている」「やや持っている」と答えた日本の高校生は、あわせて51%と、米中両国に比べ目立って低かった。

国旗、国歌を「誇らしい」と思う割合も、米中両国の半分以下。「国歌を歌えるか」との質問には、「歌える」と答えた日本の高校生は、66%にとどまり、三人に一人は、「少し歌える」「ほとんど歌えない」と答えるなど、国旗国歌に抵抗感を植えつける自虐的教育(報告書の言葉)の影響を懸念させる結果となった。

 こうした意識は国旗国歌への敬意などに表れ、「学校の式典で国歌吹奏や国旗掲揚されるとき、起立して威儀を正すか」との質問に、「起立して威儀を正す」と答えた日本人高校生は、米中の半分以下の30%。

38%は「どちらでもよいことで、特別な態度はとらない」と答え、国際的な儀典の場で、日本の若者の非礼が、批判を受ける下地となっていることをうかがわせた。

★将来、意欲について

 将来への希望を問う設問では、「将来は輝いている」「まあよいほうだが最高ではない」と答えた割合は中国が80%と最も高く、日本は54%で最も悲観的であることがわかった。

さらに、勉強については「平日、学校以外でほとんど勉強しない」が45%(米15%、中8%)、「授業中、よく寝たり、ぼうっとしたりする」も73%(米49%、中29%)と、学習意欲も米中に比べて明らかに低いことが裏づけられた。

 生活面では「若いときはその時を楽しむべきだ」と答えた高校生の割合も、三カ国で最も高かった。

★恋愛、家族について

 恋愛観では「純粋な恋愛をしたい」と考える割合は、九割と日本が最も高かった。しかし、結婚後「家族のために犠牲になりたくない」も日本がトップ。将来「どんなことをしても親の面倒をみたい」は三カ国で最も低く、逆に「経済的な支援をするが、介護は他人に頼みたい」が18%と、米国9%、中国12%を大きく上回った。

(以上、報告書のまま)

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 いろいろ反論したいことはあるが、日本の高校生の実像を表していることは、事実。で、こうした事実を並べて、財団法人日本青少年研究所(東京・新宿)は、つぎのように結論づけている。

 日本の高校生たちについて、「純愛で結婚したいが、家族の犠牲にはなりたくない。親の面倒は、金で他人に見てもらいたいという自己中心的な恋愛観・家族観が浮かんでいる」と。
(はやし浩司 日本 青少年 青少年意識 高校生 意識 意識調査 国旗 国歌)

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

●国旗、国歌について

 国旗はともかくも、国歌について言えば、それを歌うから愛国心があり、歌わないから愛国心がないというふうに、決めつけてほしくない。

 私は、(あなたもそうだろうが……)、外国で、日本を思うときは、別の歌を歌う。「ふるさと」であり、「赤とんぼ」である。

●自虐的教育について

 この日本では、自国の歴史を冷静に反省することを、「自虐的教育」という。右翼的思想の人が、左翼的傾向のある教育を批判するとき、好んで使う言葉である。

 「どうして?」と思うだけで、あとがつづかない。

●親のめんどう

 それだけ日本人の親子は、関係が、希薄ということ。親自身が、無意識のうちにも、親子の関係を破壊している。そういう事実に気づいていない。

 子どもの夢、希望、目的をいっしょに、考え育てるというよりは、「勉強しなさい」「いい高校に入りなさい」という、短絡的な教育観が、親子の関係を破壊していることに、いまだに、ほとんどの親は気づいていない。

 「子どもが自己中心的だから」という結論は、どうかと思う。こういうところで、自己中心的という言葉を、安易に使ってほしくない。家族の形態そのものも、ここ半世紀で大きく変わった。

ここに表れた「経済的な支援をするが、介護は他人に頼みたいが、18%」という数字は、数年前の調査結果と、ほとんどちがっていない。

 よりよい親子関係を育てるためには、(ほどよい親)(暖かい無視)に心がける。

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

最前線の子育て論byはやし浩司(605)

●BRIC‘s レポート

 最近経済界で話題になっているキーワードに、「BRIC‘s レポート」というのがある。

 ゴールドマン・サックス証券会社が発表した、経済レポートをいう(03年10月)。

B……Brazil(ブラジル)
R……Russsia(ロシア)
I……India(インド)
C……China(中国)を、まとめて、「BRIC‘s」という。

 同レポートによれば、2050年ごろには、これらBRIC‘sの4か国だけで、現在の日本、アメリカ、ドイツ、フランス、イギリス、イタリアの総合計を、経済規模で、上回るようになるという。

 そしてその結果、世界のGDPは、上から順に、

(1) 中国
(2) アメリカ
(3) インド
(4) 日本
(5) ブラジル
(6) ロシアの順になるという。つまり日本は、4位に転落するという。

 こうした国々をながめてみると、これからの日本が相手にすべき国は、どこか、すぐわかるはず。

 アメリカ、インド、ブラジルの3か国である。とくに注目したいのが、インドとブラジルである。これら2国は、日本との関係も深く、親日的である。最近ある公的機関を定年退職したが、ニューデリーに住んでいる、友人のマヘシュワリ君は、大の日本びいき。メールをくれるたびに、「どうしてインドへ来ないのか?」と聞いてくる。

 日本よ、日本人よ、どうしてもっと、インドやブラジルに目を向けないのか?

 中国や韓国など、もう相手にしてはいけない。必要なことはするが、限度を、しっかりとわきまえる。仲よくはするが、反日感情については、無視。そして余裕があるなら、インドやブラジルに目を向けるべきである。

 そのインドも、昔は借金国。しかし世界銀行やアジア開発銀行などからの借金の30億ドルを、2002年度までに完済している。(韓国などは、先のデフォルトのとき、550億ドルも、日本が中心になって援助したが、感謝の「カ」の字もない! 中国などは、いまだに日本の無償援助をよこせと、がんばっている!)

 私が日本のK首相なら、イの一番に、インド、つづいてブラジルを回る。もう一か国つけ加えるなら、オーストラリアも回る。オーストラリア人の親日性は、日本のK首相が、イラク派兵を頼んだときに、証明された。

 オーストラリアは、日本の自衛隊を守るために、オーストラリア兵を、イラクへ派遣してくれた(05・3月)。どうして、そういう国を、もっと大切にしないのか!

 あえてけんかをすることはないが、日本を嫌い、日本人を軽蔑している国々と、頭をさげてまで、仲よくすることはない。それよりも今、重要なことは、50年先を見越して、日本の立場を、より強固にしていくことである。

 ちなみに、「インドの人口は10億人。国土は日本の9倍。南アジア最大の軍事大国だが、同時にアジア有数の親日国家でもある。そのインドが資本市場を急速に自由化させ、中国にかわって、世界の工場となるシナリオが、日々高まってきた。

インドの昨年第四・四半期(10月ー12月)のGDP成長率は、中国を抜いて、堂々の10・4%だった」(宮崎正弘レポート)。

 そのインドに、中国が目を向けないはずがない。少し前まで、仲が悪いと思われていたが、ここ1、2年で、中印貿易高は、日印貿易高を、とうとう追いこしてしまった。が、それだけでは、ない。それを猛烈に追いあげているのが、実は、韓国である。

 この分野でも、日本は、完全に出遅れている。さらに最近の、中国や韓国の合言葉はただ一つ。「日本を、極東の島国から、太平洋の奈落の底にたたき落せ」である。うわべはともかくも、K国が、核ミサイルを、東京にうちこんだとき、それを一番喜ぶのは、中国であり、韓国なのである。

 現実の国際政治というのは、そういうものだし、現実的でない国際政治というのは、意味をもたない。

 もちろんそんなことを、K国にさせてはならない。(させてたまるものか!)

 そこで日本としては、6か国協議に見切りをつけて、K国の核問題を、国連安保理に付託するしかない。(中国や韓国は、それを警戒している。そしてそういう動きを見越して、韓国は、日韓関係の整理をし始めている。)

 話がそれたが、S県の県議会が、「竹島の日」を、こういう微妙なときに定める真意が、私には理解できない。国際性のなさというか、まあ、何というか。S県の「S」は、「島」という漢字をあてる。こうした島国根性こそが、日本の将来の足かせになっている。

 2050年という、45年後には、私は、もう生きていない。しかしそのとき、世界はどうなっているか。それを示しているのが、ここにあげたBRIC‘s レポートということになる。

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

●愛国心について

 日本が民主主義国家だと思っているのは、日本人だけ。欧米で見る「民主主義」とは、まったく異質のものである。

 まさに官僚のトップは、やりたい放題。どうやりたい放題かということについては、今さらここに書くまでもない。マスコミでは、周期的にそうした話題を取りあげ、騒ぐが、いっこうに、そうした傾向が改まる様子はない。ますますその横暴さが、ひどくなるだけ!

 国民や私たちは、そういう「日本」を、日常的に見ている。もちろん、若者たちも、だ。なのに、それらをいっしょくたにして、どうして、「日本の若者たちには、愛国心がない」と言えるのか。

 ときどき、世界の人たちの愛国心が、アンケート調査される。しかし日本で、「愛国心」というときは、そこに「国」という文字を入れる。が、たとえば英語で、「愛国心」というのは、「ペイトリアズム」という。

 ペイトリアティズムというのは、もともとはギリシア語、さらにはラテン語で、「父なる大地を愛する」という意味である。愛国心という日本語とは、意味がちがう。そういうちがいを、無視して、世界の若者のたちの意識を調査しても、意味はない。

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少し前に、愛国心について、書いた。

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●愛国心について考える
……ジョン・レノンの「イマジン」を聴きながら……。

 毎年8月15日になると、日本中から、「愛国心」という言葉が聞こえてくる。今朝の読売新聞(02年・8月12日)を見ると、こんな記事があった。

「新しい歴史教科書をつくる会」(会長・TK・東北大教授)のメンバーが執筆した「中学歴史教科書」が、愛媛県で公立中学校でも採択されることになったという。採択(全会一致)を決めた愛媛県教育委員会の井関和彦委員長は、つぎのように語っている。

 「国を愛する心を育て、多面的、多角的に歴史をとらえるという学習が可能だと判断した。戦争賛美との指摘は言い過ぎで、きちんと読めば戦争を否定していることがわかる」(読売新聞)と。

 日本では、「国を愛する」ことが、世界の常識のように思っている人が多い。しかし、たとえば中国や北朝鮮などの一部の全体主義国家をのぞいて、これはウソ。

日本では、「愛国心」と、そこに「国」という文字を入れる。しかし欧米人は、アメリカ人も、オーストラリア人も、「国」など、考えていない。たとえば英語で、愛国心は、「patriotism」という。この単語は、ラテン語の「patriota(英語のpatriot)、さらにギリシャ語の「patrio」に由来する。

 「patris」というのは、「父なる大地」という意味である。つまり、「patriotism」というのは、日本では、まさに日本流に、「愛国主義」と訳すが、もともとは「父なる大地を愛する主義」という意味である。念のため、いくつかの派生語を並べておくので、参考にしてほしい。

● patriot……父なる大地を愛する人(日本では愛国者と訳す)
● patriotic……父なる大地を愛すること(日本では愛国的と訳す)
● Patriots‘ Day……一七七五年、四月一九日、Lexingtonでの戦いを記念した記念日。この戦いを境に、アメリカは英国との独立戦争に勝つ。日本では、「愛国記念日」と訳す。

欧米で、「愛国心」というときは、日本でいう「愛国心」というよりは、「愛郷心」に近い。あるいは愛郷心そのものをいう。少なくとも、彼らは、体制を意味する「国」など、考えていない。

ここに日本人と欧米人の、大きなズレがある。(ごまかしがある。)つまり体制あっての国と考える日本、民あっての体制と考える欧米との、基本的なズレといってもよい。が、こうしたズレを知ってか知らずか、あるいはそのズレを巧みにすりかえて、日本の保守的な人たちは、「愛国心は世界の常識だ」などと言ったりする。

たとえば私が「織田信長は暴君だった」と書いたことについて、「君は、日本の偉人を否定するのか。あなたはそれでも日本人か。私は信長を尊敬している」と抗議してきた男性(四〇歳くらい)がいた。

このタイプの人にしてみれば、国あっての民と考えるから、織田信長どころか、乃木希典(のぎまれすけ、明治時代の軍人)や、東条英機(とうじょうひでき・戦前の陸軍大将)さえも、「国を支えてきた英雄」ということになる。

もちろん歴史は歴史だから、冷静にみなければならない。しかしそれと同時に、歴史を不必要に美化したり、歪曲してはいけない。

先の大戦にしても、300万人もの日本人が死んだが、日本人は、同じく300万人もの外国人を殺している。日本に、ただ一発もの爆弾が落とされたわけでもない。日本人が日本国内で、ただ一人殺されたわけでもない。

しかし日本人は、進駐でも侵略でもよいが、ともかくも、外国へでかけていき300万人の外国人を殺した。日本の政府は、「国のために戦った英霊」という言葉をよく使うが、では、その英霊たちによって殺された外国人は、何かということになる。

こういう言葉は好きではないが、加害者とか被害者とかいうことになれば、日本は加害者であり、民を殺された朝鮮や中国、東南アジアは、被害者なのだ。そういう被害者の心を考えることもなく、一方的に加害者の立場を美化するのは許されない。それがわからなければ、反対の立場で考えてみればよい。

 ある日突然、K国の強大な軍隊が、日本へやってきた。日本の政府を解体し、かわって自分たちの政府を置いた。つづいて日本語を禁止し、彼らのK国語を国語として義務づけた。日本人が三人集まって、日本語を話せば、即、投獄、処刑。しかもK国軍は、彼らのいうところの首領、金元首崇拝を強制し、その宗教施設への参拝を義務づけた。そればかりではない。

数10万人の日本人をK国へ強制連行し、K国の工場で働かせた。無論、それに抵抗するものは、容赦なく投獄、処刑。こうして闇から闇へと葬られた日本人は数知れない……。

 そういうK国の横暴さに耐えかねた一部の日本人が立ちあがった。そして戦いをしかけた。しかしいかんせん、力が違いすぎる。戦えば戦うほど、犠牲者がふえた。が、そこへ強力な助っ人が現れた。アメリカという助っ人である。アメリカは前々からK国を、「悪の枢軸(すうじく)」と呼んでいた。そこでアメリカは、さらに強大な軍事力を使って、K国を、こなごなに粉砕した。日本はそのときやっと、K国から解放された。

 が、ここで話が終わるわけではない。それから50年。いまだにK国は日本にわびることもなく、「自分たちは正しいことをしただけ」「あの戦争はやむをえなかったもの」とうそぶいている。そればかりか、日本を侵略した張本人たちを、「英霊」、つまり「国の英雄」として祭っている。そういう事実を見せつけられたら、あなたはいったい、どう感ずるだろうか。

 私は繰り返すが、何も、日本を否定しているのではない。このままでは日本は、世界の孤児どころか、アジアの孤児になってしまうと言っているのだ。つまりどこの国からも相手にされなくなってしまう。今は、その経済力にものを言わせて、つまりお金をバラまくことで、何とか地位を保っているが、お金では心買えない。お金ではキズついた心をいやすことはできない。日本の経済力に陰(かげ)りが出てきた今なら、なおさらだ。

また仮に否定したところで、国が滅ぶわけではない。あのドイツは、戦後、徹底的にナチスドイツを解体した。痕跡(こんせき)さえも残さなかった。そして世界に向かって反省し、自分たちの非を謝罪した。

(これに対して、日本は実におかしなことだが、公式にはただの一度も自分たちの非を認め、謝罪したことはない。)その結果、ドイツはドイツとして、今の今、ヨーロッパの中でさえ、EU(ヨーロッパ連合)の宰主として、その地位を確保している。

 もうやめよう。こんな愚劣な議論は。私たち日本人は、まちがいを犯した。これは動かしがたい事実であり、いくら正当化しようとしても、正当化できるものではない。また正当化すればするほど、日本は世界から孤立する。相手にされなくなる。それだけのことだ。

 最後に一言、つけ加えるなら、これからは「愛国心」というのではなく、「愛郷心」と言いかえたらどうだろうか。「愛国心」とそこに「国」という文字を入れるから、話がおかしくなる。が、愛郷心といえば、それに反対する人はいない。

私たちが住む国土を愛する。私たちが生活をする郷土を愛する。日本人が育ててきた、私たちの伝統と文化を愛する。それが愛郷心ということになる。「愛郷心」と言えば、私たちも子どもに向かって、堂々と胸を張って言うことができる。「さあ、みなさん、私たちの郷土を愛しましょう! 私たちの伝統や文化を愛しましょう!」と。
(02-8-16)※

(注)こうしたものの見方を、自虐的史観というらしい。しかし私は何も、日本を否定しているのではない。日本を嫌っているのではない。日本の未来を心配しているから、そう書く。

 私たちおとなが、正義となる見本を見せないでおいて、どうして、子どもたちに向かって、「国を愛せよ」と言うことができるだろうか。

 このところ連日のように、公務員や公職関係者の人事異動の記事が、新聞に載っている。今は、そういう季節らしい。

 しかしよく見てほしい。みながみな、公職をたらい回しにしているだけ。わかりやすく言えば、無数の天下り先を、転々としているだけ。日本は、まさに官僚王国。官僚天国。わかりやすく言えば、日本人が愛国心というときは、「愛・官僚主義国家心」ということになる。

 ここに書いたことが、過激な意見だとは、自分でもわかっている。しかし、少しはショックを感じてほしかったから、あえて、愛国心について書いた。

 ただ忘れないでほしいのは、私は、人一倍、日本の将来を心配している。日本に、もっとすばらしい国になってほしいと、願っている。

 そういう思いを、何と言ったらよいのか。それを「愛郷心」というなら、その心だけは、だれにも負けない。

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

●環境と才能

2005-03-16 12:35:41 | Weblog
●環境

 子どもを包む環境が、その子どもの才能の発育に、大きな影響を与えることがある。(そうでないばあいも、あるが……)。

 そこで、環境によって大きく受ける才能と、そうでない才能を、私なりに分類してみた。

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(環境によって、大きく影響を受ける才能)

 音楽、絵画、文学(言語の発達)などの、美的、知的才能。

(環境によって、あまり影響を受けない才能)

 運動的、肉体的動作に関する才能。

(年齢によって、大きく影響を受ける才能)

 音感、楽器演奏、言葉の取得、美的感覚

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 この中で、「学習」に関するものは、読書習慣や研究姿勢などは、環境によって大きな影響を受けると思われるが、学校教育という場が完備されているので、その輪郭(りんかく)は、明確ではない。

 さらにその人の社会性は、(これを才能と呼んでよいかどうかは、わからないが……)、環境によって、大きな影響を受けると思われる。よく知られた例に、フルグラム※の『すべては幼稚園から始まった』がある。

 それについて書いた原稿を、掲載する。

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●遊びが子どもの仕事

 「すべては幼稚園から始まった」という本の中で、「人生で必要な知識はすべて砂場で学んだ」と書いたのはロバート・フルグラムだが、それは当たらずとも、はずれてもいない。「当たらず」というのは、向こうでいう砂場というのは、日本でいう街中の公園ほどの大きさがある。オーストラリアではその砂場にしても、木のクズを敷き詰めているところもある。日本でいう砂場、つまりネコのウンチと小便の入りまざった砂場を想像しないほうがよい。また「はずれていない」というのは、子どもというのは、必要な知識を、たいていは学校の教室の外で身につける。実はこの私がそうだった。

 私は子どものころ毎日、真っ暗になるまで近くの寺の境内で遊んでいた。今でいう帰宅拒否の症状もあったのかもしれない。それはそれとして、私はその寺で多くのことを学んだ。けんかのし方はもちろん、ほとんどの遊びもそうだ。性教育もそこで学んだ。……もっとも、それがわかるようになったのは、こういう教育論を書き始めてからだ。それまでは私の過去はただの過去。自分という人間がどういう人間であるかもよくわからなかった。いわんや、自分という人間が、あの寺の境内でできたなどとは思ってもみなかった。しかしやはり私という人間は、あの寺の境内でできた。

 ざっと思い出しても、いじめもあったし、意地悪もあった。縄張りもあったし、いがみあいもあった。おもしろいと思うのは、その寺の境内を中心とした社会が、ほかの社会と完全に隔離されていたということ。たとえば私たちは山をはさんで隣り村の子どもたちと戦争状態にあった。山ででくわしたら最後。石を投げ合ったり、とっくみあいのけんかをした。相手をつかまえればリンチもしたし、つかまればリンチもされた。

しかし学校で会うと、まったくふつうの仲間。あいさつをして笑いあうような相手ではないが、しかし互いに知らぬ相手ではない。目と目であいさつぐらいはした。つまり寺の境内とそれを包む山は、スポーツでいう競技場のようなものではなかったか。競技場の外で争っても意味がない。つまり私たちは「遊び」(?)を通して、知らず知らずのうちに社会で必要なルールを学んでいた。が、それだけにはとどまらない。

 寺の境内にはひとつの秩序があった。子どもどうしの上下関係があった。けんかの強い子どもや、遊びのうまい子どもが当然尊敬された。そして私たちはそれに従った。親分、子分の関係もできたし、私たちはいくら乱暴はしても、女の子や年下の子どもには手を出さなかった。仲間意識もあった。仲間がリンチを受けたら、すかさず山へ入り、報復合戦をしたりした。

しかしそれは日本というより、そのまま人間社会そのものの縮図でもあった。だから今、世界で起きている紛争や事件をみても、私のばあい心のどこかで私の子ども時代とそれを結びつけて、簡単に理解することができる。もし私が学校だけで知識を学んでいたとしたら、こうまですんなりとは理解できなかっただろう。だから私の立場で言えば、こういうことになる。「私は人生で必要な知識と経験はすべて寺の境内で学んだ」と。

●ギャング集団

 子どもは、集団をとおして、社会のルール、秩序を学ぶ。人間関係の、基本もそこで学ぶ。そういう意味では、集団を組むというのは、悪いことではない。が、この日本では、「集団教育」という言葉が、まちがって使われている。

 よくある例としては、子どもが園や学校へ行くのをいやがったりすると、先生が、「集団教育に遅れます」と言うこと。このばあい、先生が言う「集団教育」というのは、子どもを集団の中において、従順な子どもにすることをいう。日本の教育は伝統的に、「もの言わぬ従順な民づくり」が基本になっている。その「民づくり」をすること、つまり管理しやすい子どもにすることが、集団教育であると、先生も、そして親も誤解している。

 しかし本来、集団教育というのは、もっと自発的なものである。また自発的なものでなければならない。たとえば自分が、友だちとの約束破ったとき。ルールを破って、だれかが、ずるいことをしたとき。友だちどうしがけんかをしたとき。何かものを取りあったとき。友だちが、がんばって、何かのことでほめられたとき。あるいは大きな仕事を、みなで力をあわせてするとき、など。

そういう自発的な活動をとおして、社会の一員としての、基本的なマナーや常識を学んでいくのが、集団教育である。極端な言い方をすれば、園や学校など行かなくても、集団教育は可能なのである。それが、ロバート・フルグラムがいう、「砂場」なのである。もともと「遅れる」とか、「遅れない」とかいう言葉で表現される問題ではない。

 だから言いかえると、園や学校へ行っているから、集団教育ができるということにはならない。行っていても、集団教育されない子どもは、いくらでもいる。集団から孤立し、自分勝手で、わがまま。他人とのつながりを、ほとんど、もたない。こうした傾向は、子どもたちの遊び方にも、現れている。

 たとえば砂場を見ても、どこかおかしい? たとえば砂場で遊んでいる子どもを見ても、みなが、黙々と、勝手に自分のものをつくっている。私たちが子どものときには、考えられなかった光景である。

 私たちが子どものときには、すぐその場で、ボス、子分の関係ができ、そのボスの命令で、バケツで水を運んだり、力をあわせてスコップで穴を掘ったりした。そして砂場で何かをするにしても、今よりはスケールの大きなものを作った。が、今の子どもたちには、それがない。

 こうした問題について書いたのが、つぎの原稿である。なおこの原稿は、P社の雑誌に発表する予定でいたが、P社のほうから、ほかの原稿にしてほしいと言われたので、ボツになった経緯がある。理由はよくわからないが……。今までここに書いたことと、内容的に少しダブルところもあるが、許してほしい。

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●養殖される子どもたち

 岐阜県の長良川。その長良川のアユに異変が起きて、久しい。そのアユを見続けてきた一人の老人は、こう言った。「アユが縄張り争いをしない」と。武儀郡板取村に住むN氏である。「最近のアユは水のたまり場で、ウロウロと集団で住んでいる」と。

原因というより理由は、養殖。この二〇年間、長良川を泳ぐアユの大半は、稚魚の時代に、琵琶湖周辺の養魚場で育てられたアユだ。体長が数センチになったところで、毎年三~四月に、長良川に放流される。人工飼育という不自然な飼育環境が、こういうアユを生んだ。しかしこれはアユという魚の話。実はこれと同じ現象が、子どもの世界にも起きている!

 スコップを横取りされても、抗議できない。ブランコの上から砂をかけられても、文句も言えない。ドッジボールをしても、ただ逃げ回るだけ。先生がプリントや給食を配り忘れても、「私の分がない」と言えない。これらは幼稚園児の話だが、中学生とて例外ではない。キャンプ場で、たき火がメラメラと急に燃えあがったとき、「こわい!」と、その場から逃げてきた子どもがいた。小さな虫が机の上をはっただけで、「キャーッ」と声をあげる子どもとなると、今では大半がそうだ。

 子どもというのは、幼いときから、取っ組みあいの喧嘩をしながら、たくましくなる。そういう形で、人間はここまで進化してきた。もしそういうたくましさがなかったら、とっくの昔に人間は絶滅していたはずである。が、そんな基本的なことすら、今、できなくなってきている。核家族化に不自然な非暴力主義。それに家族のカプセル化。

カプセル化というのは、自分の家族を厚いカラでおおい、思想的に社会から孤立することをいう。このタイプの家族は、他人の価値観を認めない。あるいは他人に心を許さない。カルト教団の信者のように、その内部だけで、独自の価値観を先鋭化させてしまう。そのためものの考え方が、かたよったり、極端になる。……なりやすい。

 また「いじめ」が問題視される反面、本来人間がもっている闘争心まで否定してしまう。子ども同士の悪ふざけすら、「そら、いじめ!」と、頭からおさえつけてしまう。

 こういう環境の中で、子どもは養殖化される。ウソだと思うなら、一度、子どもたちの遊ぶ風景を観察してみればよい。最近の子どもはみんな、仲がよい。仲がよ過ぎる。砂場でも、それぞれが勝手なことをして遊んでいる。私たちが子どものころには、どんな砂場にもボスがいて、そのボスの許可なしでは、砂場に入れなかった。私自身がボスになることもあった。そしてほかの子どもたちは、そのボスの命令に従って山を作ったり、水を運んでダムを作ったりした。仮にそういう縄張りを荒らすような者が現われたりすれば、私たちは力を合わせて、その者を追い出した。

 平和で、のどかに泳ぎ回るアユ。見方によっては、縄張りを争うアユより、ずっとよい。理想的な社会だ。すばらしい。すべてのアユがそうなれば、「友釣り」という釣り方もなくなる。人間たちの残虐な楽しみの一つを減らすことができる。しかし本当にそれでよいのか。それがアユの本来の姿なのか。その答は、みなさんで考えてみてほしい。

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 総じて言えば、今の子どもたちは、管理されすぎ。たとえば少し前、『砂場の守護霊』という言葉があった。今でも、ときどき使われる。子どもたちが砂場で遊んでいるとき、その背後で、守護霊よろしく、子どもたちを見守る親の姿をもじったものだ。

 もちろん幼い子どもは、親の保護が必要である。しかし親は、守護霊になってはいけない。たとえば……。

 子どもどうしが何かトラブルを起こすと、サーッとやってきて、それを制したり、仲裁したりするなど。こういう姿勢が日常化すると、子どもは自立できない子どもになってしまう。せっかく「砂場」という恵まれた環境(?)の中にありながら、その場をつぶしてしまう。

 が、問題は、それで終わるわけではない。それについては、別の機会に考えてみる。

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 しかし子どもの才能は、つくってつくれるものではない。無理をしてつくろうとしても、たいてい失敗する。つまり『才能はつくるものではなく、見つけるもの』。それについて書いた原稿(中日新聞掲載済み)が、つぎの原稿である。

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●才能は見つけるもの

 子どもの才能は、見つけるもの。作るものではない。作って作れるものではないし、無理に作ろうとすれば、たいてい失敗する。

 子どもの方向性をみるためには、子どもを図書館へつれていき、そこでしばらく遊ばせてみるとよい。一、二時間もすると、子どもがどんな本を好んで読んでいるかがわかる。それがその子どもの方向性である。

 つぎに、子どもが、どんなことに興味をもち、関心をもっているかを知る。特技でもよい。ある女の子は、二歳くらいのときから、風呂の中でも、平気でもぐって遊んでいた。そこで母親が、その子どもを水泳教室へいれてみると、その子どもは、まさに水を得た魚のように泳ぎ始めた。

 こうした才能を見つけたら、あるいは才能の芽を感じたら、そこにお金と時間をたっぷりとかける。その思いっきりのよさが、子どもの才能を伸ばす。

 ただしここでいう才能というのは、子ども自身が、努力と練習で伸ばせるものをいう。カード集めをするとか、ゲームがうまいというのは、才能ではない。また才能は、集団の中で光るものでなければならない。

この才能は、たとえば子どもが何かのことでつまずいたようなとき、その子どもを側面から支える。勉強だけ……という子どももいるが、このタイプの子どもは、一度、勉強でつまずくと、そのままズルズルと、落ちるところまで落ちてしまう。そんなわけで、才能を見つけ、その才能を用意してあげるのは、親の大切な役目ということになる。

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 子どもの才能の発達については、(1)遺伝的要因説と、(2)環境的要因説がある。シュテルンという学者は、これら二つのものが、相互にからみあいながら、子どもの才能は決定づけられると説いた。

 これを「輻輳(ふくそう)説」という。「説」というほど、大げさなものではない。いわば常識。

 遺伝的なものもあれば、そうでないものもあり、かりに遺伝的にすぐれていても、環境が整わなければ、才能がしぼんでしまうということは、よくある。もちろんその反対もある。

 しかしシュテルンの説によれば、そこには、「限界(閾値)」というものがあるという。いくら遺伝的要因による才能がすぐれていても、それを伸ばす環境が、ある程度備わっていなければ、その才能を伸ばすのは、無理ということらしい。

 そういえば、私などは、小学3年生のときに、バイオリン教室に通わされた。音楽など、見たことも聞いたこともないない環境に生まれ育った、私が、である。聞くものといえば、祖父母が好きだった浪曲が、歌舞伎とか、そんな類のものばかりだった。

 そんな私が、いきないバイオリン! 今から思えば、笑い話だが、では、その私に音楽の才能がなかったかといえば、あったように思う。事実、私の3人の息子たちは、音楽とは無縁の世界で仕事をしているが、その感性は、超一級である。(これはホント!)

 要するに、そのワクがあれば、よいということになる。それを用意するのは、親の役目ということになる。それを基盤にして、伸びるか伸びないかは、あくまでも、子どもの問題ということになる。
(はやし浩司 子どもの才能 子供の才能 環境的要因 遺伝的要因 環境 シュテルン)

●子育ては本能ではなく、学習による

2005-03-11 20:29:46 | Weblog
●母性愛と、父性愛

 最近の研究によれば、母性愛にも、父性愛にも、ほとんど差がないことがわかってきた。そしてそれが定説になってきている。

 以前は、母親には、父親にはない、母性愛があると考えられてきた。しかし実際には、母性愛にせよ、父性愛にせよ、その人自身が、乳幼児期に受けた子育てによって、その人自身が学習して身につけるものである。

 母性愛にせよ、父性愛にせよ、本能ではなく、学習によって身につくというわけである。とくに最近は、ラ・マーズ法などの普及によって、夫(父親)の立会い分娩が一般化し、父親も、母親と同じ母性愛をもつようになってきている。

 さらにこうした育児概念が浸透してくれば、母性愛と父性愛を分けて考えること自体、無意味になってくるものと考えられる。

 男児も、人形遊びをしても、おかしくないし、またそれがゆがんだ「男像」をつくるということもない。ちなみに私の調査でも、男女の区別なく、約80%の子ども(年長児、年中児)が、日常的に人形を手元においていることがわかっている。

 「親像」を形成を考えるときは、男女を区別してはならないし、またその必要はない。

 なお、ここに書いた、「子育ては本能ではない。学習によるもの」という意見は、子育ての根幹にかかわる重要な問題である。すでにたびたび書いてきたので、以前、書いた原稿を、3作、そのまま添付する。一部内容的に重複するが、許してほしい。

++++++++++++++++++

●ぬいぐるみで育つ母性

 子どもに父性や母性が育っているかどうかは、ぬいぐるみの人形を抱かせてみればわかる。しかもそれが、3~5歳のときにわかる。

父性や母性が育っている子どもは、ぬいぐるみを見せると、うれしそうな顔をする。さもいとおしいといった表情で、ぬいぐるみを見る。抱き方もうまい。そうでない子どもは、無関心、無感動。抱き方もぎこちない。

中にはぬいぐるみを見せたとたん、足でキックしてくる子どももいる。ちなみに小三児の約80%の子どもが、ぬいぐるみを持っている。そのうちの約半数が「大好き」と答えている。

 オーストラリアでは、子どもの本といえば、動物の本をいう。写真集が多い。またオーストラリアに限らず、欧米では、子どもの誕生日にペットを与えることが多い。

つまり子どものときから、動物との関(かか)わりを深くもたせる。一義的には、子どもは動物を通して、心のやりとりを学ぶ。しかしそれだけではない。子どもはペットを育てることによって、父性や母性を学ぶ。そんなわけで、機会と余裕があれば、子どもにはペットを飼わせることを勧める。

犬やネコが代表的なものだが、心が通いあうペットがよい。が、それが無理なら、ぬいぐるみを与える。やわらかい素材でできた、ぬくもりのあるものがよい。日本では、「男の子はぬいぐるみでは遊ばないもの」と考えている人がいる。しかしこれは偏見。

こと幼児についていうなら、男女の差別はない。あってはならない。つまり男の子がぬいぐるみで遊ぶからといって、それを「おかしい」と思うほうが、おかしい。男児も幼児のときから、たとえばペットや人形を通して、父性を育てたらよい。ただしここでいう人形というのは、その目的にかなった人形をいう。ウルトラマンとかガンダムとかいうのはここでいう人形ではない。

 なお日本では、古来より戦闘的な遊びをするのが、「男」ということになっている。が、これも偏見。悪しき出世主義から生まれた偏見と言ってもよい。そのあらわれが、五月人形。弓矢をもった武士が、力強い男の象徴になっている。

三百年後の子どもたちが、銃をもった軍人や兵隊の人形を飾って遊ぶようなものだ。どこかおかしいが、そのおかしさがわからないほど、日本人はこの出世主義に、こりかたまっている。「男は仕事(出世)、女は家庭」という、あの日本独特の男女差別意識も、この出世主義から生まれた。

 話を戻す。愛情豊かな家庭で育った子どもは、どこかほっとするようなぬくもりを感ずる。静かな落ち着きがある。おだやかで、ものの考え方が常識的。それもぬいぐるみを抱かせてみればわかる。両親の愛情をたっぷりと受けて育った子どもは、ぬいぐるみを見せただけで、スーッと頬(ほお)を寄せてくる。こういう子どもは、親になっても、虐待パパや虐待ママにはならない。言い換えると、この時期すでに、親としての「心」が決まる。

 ついでに一言。子育ては本能ではない。子どもは親に育てられたという経験があってはじめて、自分が親になったとき、子育てができる。もしあなたが、「うちの子は、どうも心配だ」と思っているなら、ぬいぐるみを身近に置いてあげるとよい。ぬいぐるみと遊びながら、子どもは親になるための練習をする。父性や母性も、そこから引き出される。

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あなたは気負いママ?

●気負いが強いと子育てで失敗しやすい

 「いい親子関係をつくらねばならない」「いい家庭をつくらねばならない」と、不幸にして不幸な家庭に育った人ほど、その気負いが強い。しかしその気負いが強ければ強いほど、親も疲れるが子どもも疲れる。そのため結局は、子育てで失敗しやすい……。

●子育ては本能ではなく学習

 子育ては本能ではなく、学習によってできるようになる。たとえば一般論として、人工飼育された動物は、自分では子育てができない。「子育ての情報」、つまり「親像」が、脳にインプットされていないからである。人間とて例外ではない。「親に育てられた」という経験があってはじめて、自分も親になったとき子育てができる。こんな例がある。

●娘をどの程度抱けばいいのか?

一人の父親がこんな相談をしてきた。娘を抱いても、どの程度、どのように抱けばよいのか、それがわからない、と。その人は「抱きグセがつくのでは……」と心配していたが、彼は、彼の父親を戦争でなくし、母親の手だけで育てられていた。つまりその人は父親というものがどういうものなのか、それがわかっていなかった。しかし問題はこのことではない。

●だれしも心にキズをもっている

 だれしも、と言うより、愛情豊かな家庭で、何不自由なく育った人のほうが少ない。そんなわけで多かれ少なかれ、だれしも、何らかのキズをもっている。問題は、そういうキズがあることではなく、そのキズに気づかないまま、それに振りまわされることである。よく知られた例としては、子どもを虐待する親がいる。

このタイプの親というのは、その親自身も子どものころ、親に虐待されたという経験をもつことが多い。いや、かく言う私も団塊の世代で、貧困と混乱の中で幼児期を過ごしている。親たちも食べていくだけで精一杯。いつもどこかで家庭的な温もりに飢えていた。そのためか今でも、「家庭」への思いは人一倍強い。

が、悲しいことに、頭の中で想像するだけで、温かい家庭というのがどういうものか、本当のところはわかっていない。だから自分の息子たちを育てながらも、いつもどこかでとまどっていた。たとえば子どもたちに何かをしてやるたびに、よく心のどこかで、「しすぎたのではないか」と後悔したり、「してやった」と恩着せがましく思ったりするなど、どこかチグハグなところがあった。

 ただ人間のばあいは、たとえ不幸な家庭で育ったとしても、近くの人たちの子育てを見たり、あるいは本や映画の中で擬似体験をすることで、自分の中に親像をつくることができる。だから不幸な家庭に育ったからといって、必ずしも不幸になるというわけではない。

●つぎの世代に不幸を伝えない

 子どもに子どもの育て方を教えるのが子育て。「あなたが親になったら、こういうふうに子どもを育てるのですよ」「こういうふうに子どもを叱るのですよ」と。これは子育ての基本だが、しかし気負うことはない。あなたはあなただし、あなたの子どももいつかあなたを理解するようになる。そこで大切なことは、たとえあなたの過去が不幸なものであったとしても、それはそれとしてあなたの代で切り離し、つぎの世代にそれを伝えてはいけないということ。その努力だけは忘れてはならない。

●肩の力を抜く

このテストで高得点だった人は、一度自分の過去を冷静に見つめてみるとよい。そして心のどこかに何かわだかまりがあるなら、それが何であるかを知る。親とけんかばかりしていたとか、家が貧しかったとか、そういうことでもわだかまりになることがある。この問題だけはそのわだかまりが何であるかがわかるだけでも、半分は解決したとみる。そのあと少し時間がかかるかもしれないが、それで解決する。

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●親像のない親たち

 「娘を抱いていても、どの程度抱けばいいのか、不安でならない」と訴えた、父親がいた。「子どもがそこにいても、どうやってかわいがればいいのかわからない」と訴えた、父親もいた。

あるいは子どもにまったく無関心な母親。まだ二歳の孫に、平気でものを投げつける祖父など。このタイプの人は、不幸にして不幸な家庭に育って、いわゆる「親像」のない親とみる。

 ところで愛知県の犬山市にあるモンキーセンターには、頭のよいチンパンジーがいるそうだ。人間と会話もできるという。もっとも会話といっても、スイッチを押しながら、会話をするわけだが、そのチンパンジーが、98年の夏、妊娠した。

が、飼育係の人が心配したのは、そのことではない。「はたしてそのチンパンジーに、子育てができるかどうか」だった(中日新聞)。人工飼育された動物は、ふつう自分では子育てができない。チンパンジーのような、頭のよい動物はなおさらで、中には自分の子どもを見て、逃げ回るのもいるという。いわんや、人間をや。

 子育ては、本能ではなく、学習によってできるようになる。つまり「育てられた」という体験があってはじめて、自分でも子育てができるようになる。しかしその「体験」が、何らかの理由で不完全だと、ここでいう「親像のない親」になる危険性がある。

……と言っても、今、これ以上のことを書くのは、この日本ではタブー。いろいろな団体から、猛烈な抗議が殺到する。先日もある雑誌で、「離婚家庭の子どもは……」と書いたら、その翌日から、10本以上の電話が届いた。

たいへんデリケートな問題であることは認めるが、しかし事実は事実として、冷静に見なければならない。というのも、この問題は、自分の中に潜む「原因」に気づくだけでも、その半分以上は解決したとみるからである。

つまり「私にはそういう欠陥がある」と気づくだけでも、問題の半分は解決したとみる。それに人間は、チンパンジーともちがう。たとえ自分の家庭が不完全であっても、隣や親類の家族を見ながら、自分の中に「親像」をつくることもできる。ある人は早くに父親をなくしたが、叔父を自分の父親にみたてて、父親像を自分の中につくることができた。また別の人は、ある作家に傾倒して、その作家の作品を通して、やはり自分の父親像をつくることができた。

 ……と書いたところで、この問題を、子どもの側から考えてみよう。するとこうなる。

もしあなたが、あなたの子どもに将来、心豊かで温かい家庭を築いてほしいと願っているなら、あなたは今、あなたの子どもに、そういう家庭がどういうものであるかを、見せておかねばならない。いや、見せるだけではたりない。しっかりと体にしみこませておかねばならない。

そういう体験があってはじめて、あなたの子どもは、自分が親になったとき、自然な子育てができるようになる。と言っても、これは口で言うほど、簡単なことではない。頭の中ではわかっていても、なかなかできない。だからこれはあくまでも、子育ての「努力目標」の一つと考えてほしい。

++++++++++++++++++++++

 子育ては本能ではなく、学習によるものだという意見を、理解してもらえただろうか。

+++++著作権BYはやし浩司++++++copy right by Hiroshi Hayashi+++++

●悲しき道化師

2005-03-10 08:09:21 | Weblog
【1】(子育てのこと)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●子どもの補償作用

 子どもは、(おとなもそうだが)、自分に何か欠点や、コンプレックスがあったりすると、
それを解消するために、さまざまな行動を、代償的にとることが知られている。その一つ
が、「補償」という作用である。

 たとえば容姿があまりよくない女の子が、ピアノの練習に没頭したり、あまり目だたな
い男の子が、暴力的な行動によって、目立ってみせるなど。

 運動が苦手な子どもが、勉強でがんばるのも、そのひとつ。あるいは内気な子どもが、
兵隊の服を着て、おもちゃの銃をもって遊ぶのも、その一つ。強くなったつもりで、自分
の中の(弱さ)を、補償しようとする。

 こうした補償作用は、意識的にすることもあるし、無意識的にすることもある(「心理学
小事典・岩波」)。

 つまり子どもは何らかの形で、他人の目の中で、自分を反映させようとする。自分の存
在感をつくり、最終的には、自分にとって、居心地のよい世界をつくろうとする。

 が、こんなケースもある。こうした補償が、子どもの中でうまく作用する子どもは、ま
だ幸せなほう。が、その補償が、ことごとく、裏目に出る子どもだ。子どもの心を考える、
一つのヒントには、なると思う。

++++++++++++++++++

【二重苦、三重苦】

●K塾へ入った、M君

 あのね、学校でさんざんいやな思いをしている子どもを、また塾へ入れて、いやな思い
をさせたら、どうなりますか? ものごとは、子どもの立場で考えましょう。

 よくあるのは、学校での成績がおもわしくないという理由で、塾へ入れるケース。子ど
もがその(必要性)を感じていれば話は別だが、そうでないときは、かえって子どもを苦
しめることになる。もう少し、具体的に例をあげて考えてみよう。

 M君(小五)は、学校では、「悲しい道化師※」だった。勉強が苦手ということを、ごま
かすために、皆の前で、いつもふざけてばかりいた。一見、明るい子どもに見えたが、そ
れはまさに彼、独特の、演技だった。

 たとえば先生にさされて、黒板の前に立つときも、わざとちょろけたり、ほかの子ども
にちょっかいを出したりした。冗談を言ったり、ギャグを口にすることもあった。M君は、
みなにバカにされるよりは、おもしろい男、楽しい男と思われることで、その場を逃れよ
うとした。それは意識的な行動というよりは、無意識に近い、行動だった。

 そんなM君を、親は、指導がきびしいことで有名な、K塾に入れた。K塾では、毎月テ
ストをして、その成績順に生徒をイスに座らせた。M君は、その塾でも、悲しい道化師を
演じようとした。しかし、K塾では勝手が、ちがった。

 M君は、いつもそのクラスの、左側の一番うしろに座った。そのクラスでも、成績がビ
リの子どもが座る席である。ふざけたくても、ふざけられるような雰囲気すら、なかった。
M君は、ただ小さくなっているだけだった。

 M君が、どんな気持ちでいたか。それがわからなければ、あなた自身のことで考えてみ
ればよい。

 学校でさんざん、いやな思いをしている。そういうあなたが、また塾で、いやな思いを
させられたら、あなたはどうなる? こういうのを二重苦という。が、それだけではすま
なかった。M君は、今度は、家に帰ると、母親に叱られた。「こんな成績で、どうするの!」
「いい学校に入れないわよ!」と。二重苦ではなく、三重苦が彼を襲った。

●できない子どもほど、暖かく

 簡単なことだが、勉強が苦手な子どもほど、家庭や、塾では、暖かく迎える。「学校」を
大切に考えるなら、そうする。

 だいたいにおいて、生徒に点数をつけ、順位を出して、さらにその成績順に席を決める
というのは、人間のすることではない。この日本では、そういうのを教育と思っている人
は多い。そのため疑問に思う人は少ない。しかしこんなアホなことを「教育」と思いこん
でいるのは、日本人だけ。家畜の訓練でさえ、そんなアホなことはしない。

 が、ここで大きな問題にぶつかる。親自身が、こうした暖かさを否定してしまうことが
ある。中には、きびしければきびしいほどよいと考える親がいる。このタイプの親にとっ
て、「きびしい」というのは、「子どもをより苦しめる」ことを意味する。「苦しめば、それ
をバネとして、より勉強するはず」と。

 しかしこうした(きびしさ)は、成功する例よりも、失敗する例のほうが、多い。最初
に書いたように、子ども自身が、それだけの(必要性)を感じていれば、話は別だが、そ
ういうケースは、少ない。

 M君は、やがて塾へ行くのをしぶり始めた。当然だ。あるいはあなたがM君なら、そう
いう塾へ行くだろうか。が、親は、塾からもらってくる成績を見ながら、ますますK君を
責めたてた。こうなると、行きつく先は、明白。気がついたときには、M君から、あの明
るい笑顔は消えていた。

 今、M君は、小学六年生になったが、学校でも、先生にさされても、うつろな目で、ボ
ーッとしているだけ。ふざけて、みなを、笑わす気力もない。

 もちろん中には、精神的にタフというより、どこか鈍感に見える子どももいる。しかし
そういう子どもでも、深くキズついている。心のキズというのは、そういうもので、外か
らは見えない。見えないだけに、安易に考えやすい。だから教訓は、ただひとつ。

 できない子どもほど、暖かく。
 できない子どもほど、二重苦、三重苦に追いこんではいけない。

 最後に、「ではどうすればいいのか?」という親に一言。そういうときは、「あきらめる」。
あなたがごくふつうの人であるように、あなたの子どもも、ふつうの人間として、それを
認める、受け入れる。その割り切りのよさが、子どもの心に風穴をあける。

 こういうM君のようなケースでは、親が、「まだ何とかなる」「そんなはずはない」「うち
の子は、やればできるはず」と思えば思うほど、かえって子どもの成績はさがる。親子の
関係もおかしくなる。さらに子どもの心もゆがむ。まさに百害あって一利なし、という状
態になる。

● 「悲しき道化師」というのは、私が考えた言葉。

勉強ができない子どもは、さまざまな形で、それをみなに知られるのを、防ごうとする。
その一つが、「道化師」を演ずること。

まわりを茶化すことで、自分ができないことをみなに、知られないようにする。ひょう
きんな顔をして見せたり、ふざけたりする。バタバタと暴れてみせたり、先生をからか
ったりする。

このタイプの子どもは、「勉強ができない仲間」と思われるより、「おもしろい仲間」と
思われることを望む。つまりそうすることによって、自分の自尊心(プライド)がキズ
つくのを防ぐ。一見、楽しそうに見えるが、心の中は、悲しい。だから「悲しき道化師」
と、私は呼んでいる。
(はやし浩司 補償)

【2】(特集)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●万引き

 中高校生の、約20%が、「万引きは、それほど悪いことではない」と考えているという。
昨夜のテレビの報道番組を見ていたら、そんな数字が、画面に出てきた。

 が、こうした問題を、子どもの側から論じても、あまり意味はない。子どもは、おとな
のマネをしているだけ。もっと言えば、親のマネをしているだけ。

 こう書くと、「私は万引きなど、したことがないからだいじょうぶ」とか、「子どもの前
では、万引きをしたことがないから、だいじょうぶ」と思う親がいるかもしれない。しか
しそれは、誤解。

 子どもというのは、乳幼児期に、とくに母親から、(すべてのもの)を、受けつぐ。(す
べてのもの)、だ。

 そのとき、母親のもつ、習性まで、受けついでしまう。これが、こわい。

 その習性が、好ましいものであれば、問題はない。しかしそうでないときに、困る。

 たとえばあなたという母親が、信号が赤になっても、交差点を、突っ切って走るような
タイプの女性だとしよう。あるいは、窓の外へ、平気で、タバコの吸い殻を捨てるような
女性であったとしよう。あるいは、駐車場でないところでも、平気で車を止めるような女
性であったとしよう。

 少しでもスキがあれば、平気で小ズルイことが平気でできる。そんな女性であったとし
よう。

 それがここでいう(習性)に含まれる。

 子どもは、母親のそういう習性を、そっくりそのまま、受けついでしまう。万引きをす
る、しないは、あくまでも、その結果でしかない。

 だから、今日からでも遅くない。どんなささいなことでもよいから、社会のルールや規
則を守ろう。子どもが見ているとか、見ていないとか、そういうことは関係ない。あなた
自身の習性を、まず作りなおす。

 そうした日ごろの努力が、やがてあなたの習性となり、それが子どもに伝わっていく。

 もっとわかりやすく言えば、日ごろから、あなたが社会のルールを平気で破りながら、
子どもに向かって、「万引きをしてはいけません」と教えても意味はない。こうした習性は、
言葉や、説教で、子どもに伝わるものではない。肌から肌へと、感性として、伝わる。

 ムードだ。雰囲気だ。

 いつか、私は「一事が万事論」を書いた。

 日々の生活が月となり、月々の生活が、年となり、それが積み重なって、あなたという
人間ができる。子どもがあなたから引き継ぐのは、その(あなた)である。

 だから今の今から、あなたは、自分にこう意って聞かせる。

 私は、ルールを守る。規則を守る。子どもが見ていても、見ていなくても、そういうこ
ととは関係なく、だ。

 そういう姿勢を、つまり習性として子どもが受けついだとき、その子どもは、こう言う
ようになる。「万引きをすることは、悪いことだ」と。

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●日々の積み重ねが人格
 人も50歳を過ぎると、それまでごまかしてきた持病がどっと表に出てくる。60歳を
過ぎると、その人の人格がどっと表に出てくる。

若いころは気力で、自分の人格をごまかすことができる。しかし歳をとると、その気力
そのものが弱くなる。
私の知人にこんな女性(80歳)がいる。その女性は近所では「仏様」と呼ばれていた。
温厚な顔立ちと、ていねいな人当たりで、そう呼ばれていた。が、このところ、どうも
様子がおかしい。近所を散歩しながら、他人の植木バチを勝手に持ちかえってくる。あ
るいは近所の人の悪口を言いふらす。しかしその女性は昔から、そういう人だった。が、
年齢とともに、そういう自分を隠すできなくなった。  

で、その人格。むずかしいことではない。日々の積み重ねが月となり、月々の積み重ね
が年となり、その人の人格となる。ウソをつかない。ルールを守る。ものを捨てない。
そんな簡単なことで、その人の人格は決まる。たとえば…。
信号待ちで車が止まったときのこと。突然その車の右ドアがあいた。何ごとかと思って
見ていると、一人の男がごっそりとタバコの吸殻を道路へ捨てた。高級車だったが、顔
を見ると、いかにもそういうことをしそうな人だった。

また別の日。近くの書店へ入ろうとしたら、入り口をふさぐ形で、4WD車が駐車して
あった。横には駐車場があるにもかかわらず、だ。私はそういうことが平気でできる人
が、どんな人か見たくなった。見たくなってしばらく待っていると、それは女性だった。

しかしその女性も、いかにもそういうことをしそうな人だった。こういう人たちは、自
分の身勝手さと引き換えに、もっと大切なものをなくす。小さなわき道に入ることで、
人生の真理から大きく遠ざかる。
 さてこの私のこと。私は若いころ、結構小ズルイ男だった。空き缶を道路に平気で捨
てるようなタイプの男だった。どこかの塀の上に、捨てたこともある。そういう自分に
気がつくのが遅かった。だから今、歳をとるごとに、自分がこわくてならない。「今にボ
ロが出る……」と。
 ついでに……。こんな悲しい話もある。アルピニストの野口健氏がこう言った。

「登山家の中でも、アジア隊の評判は悪い。その中でも日本隊は最悪。ヒマラヤをゴミ
に山にしている。ヨーロッパの登山家は、タバコの吸殻さえもって帰るのに」(F誌〇〇
年六月)と。

写真には酸素ボンベが写っていた。それには「二〇〇〇年H大学」とあった。
++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

●しつけは普遍

 日々の積み重ねが月となり、月々の積み重ねが歳となり、やがてその人の人格となる。
むずかしいことではない。ゴミを捨てないとか、ウソをつかないとか、約束は守るとか、
そういうことで決まる。

しかもそれはその人が、幼児期からの心構えで決まる。子どもが中学生になるころには、
すでにその人の人格の方向性は決まる。あとはその方向性に沿っておとなになるだけ。
途中で変わるとか、変えるとか、そういうこと自体、ありえない。

たとえばゴミを捨てる子どもがいる。子どもが幼稚園児ならていねいに指導すれば、一
度でゴミを捨てなくなる。しかし中学生ともなると、そうはいかない。強く叱っても、
その場だけの効果しかない。あるいは小ずるくなって、人前ではしないが、人の見てい
ないところでは捨てたりする。

 さて本題。子どものしつけがよく話題になる。しかし「しつけ」と大上段に構えるから、
話がおかしくなる。小中学校で学ぶ道徳にしてもそうだ。人間がもつしつけなどというの
は、もっと常識的なもの。むずかしい本など読まなくても、静かに自分の心に問いかけて
みれば、それでわかる。

してよいことをしたときには、心は穏やかなままである。しかししてはいけないことを
したときには、どこか心が不安定になる。不快感が心に充満する。そういう常識に従っ
て生きることを教えればよい。そしてそれを教えるのが、「しつけ」ということになる。

そういう意味ではしつけというのは、国や時代を超える。そしてそういう意味で私は、「し
つけは普遍」という。
(はやし浩司 しつけ 人格 人格論)