●田丸先生からの論文
T先生こと、田丸先生の、「Independent Thinker 」についての原稿について、
田丸先生に、私のHPに掲載してよいかという許可を求めましたら、了解がい
ただけましたので、ここに紹介します。(05年3月31日)
+++++++++++++++++++++
林様;
私の原稿は貴方のような筆の達人の中に入れると見劣り
します。 それでもよかったらお使いなさい。
これは貴方にとって余計な話ですが、今日を含めてこの5日
学会がありました。 一般の傾向として「大学法人化」といって
夫々の大学は出来るだけ自立しろということになります。 「産学
協同」というきれいごとの言葉がはやりだしました。 大学は実際
に役に立つことをする傾向が強くなりました。 ひどいのは会社か
らテーマと金を貰って、大学院生を人手に使って「研究らしいこと」
をします。 大学院生はそれが「研究」であると思って一生損をしま
す。被害者です。私は大学が学問をしなくなったら、駄目であると思
います。これも気のせいか、independent thinker の訓練がなくなっ
て安易に生きて行こうとする傾向に思えます。 本当は「研究」とい
うものは必死に頭で考え、考えてするものです。 それがなくて創造
性は生まれません。 個性的な研究も駄目です。 皆が似たことを実
験する研究は研究でも「試験研究」或いは「試験実験」でしかありま
せん。 愚痴になりそうですが。 研究は矢張り誰も考えなかったこ
とを考える苦しいけれども、楽しいものなのですが。
田丸謙二
++++++++++++++++++
日本は本当にダメになるのか?
もっと考えるエデュケイションを 田丸謙二
現在の中高校の理科教育について何か書けという思いがけないご依頼があった。以下に普段思っていることを書いてみる。
はじめに: Education という言葉は辞書には「教育」と訳してある。しかし本当は日本式の「教え込む教育」ではなくて、生徒の(才能や知恵を)educe 引き出す作業のことである。ドイツ語でも教育は Erziehung 、「引き出す」のである。
これまでの日本式の「知識を詰め込む」教育とはベクトルが180度違っている。正に逆なのである。わが国の教育関係者でこの辺りを本当に理解している人は決して多くはない。むしろ極めて少ないと言えるのではないだろうか。
新しい時代の始まり; 一昔前には電車の中で見回すと何処かで誰かが漫画の本を見ていたものである。近頃ではどうだろう? 何処かに携帯電話をいじくっている人がいる。これからニ、三十年先にはどうなっているだろうか。多分車内の何処かでポケットから出したパソコンを開いてみているのではなかろうか。
そのような来たるべきパソコン持参のコンピュータの時代を支えるのが今の子供たちである。この時代には国際化、情報化がさらに格段に進み、ますます変化の早い時代になる。この激動の時代に適応し、その時代をリードするにはコンピュータのできないことが出来るダイナミックな知恵を持った人材である。「知識偏重」の「詰め込み教育」は到底役立たない。「知恵」は自分で引き出し、育てるものである。我々は今の子供たちのために何をすればいいのか、日本の将来を決めるのは現在の子供たちへの真の education なのである。
これまでの教育; 日本は元来「文化の輸入国」であった。「マナブ」ということは「マネブ」、真似をする、から来ている言葉である。学問を自分で築いた経験が乏しいので、学問はおのずから出来上がったものを取り入れるものとなり、「学力」は知識量をあらわし、その知識を偏重する風土になっている。
高校の理科の時間を参観すると、殆ど会話がない、「わかったか、覚えておけ」の一方的な教え込みである。それが限られた時間内に最も効率よく沢山のことを教えることが出来、「知識偏重の入試」に対する最適の教え方なのである。そこには自分の個性的な知恵を育てたり、自分の頭できびしく考えて教科書にない新しい問題を考えたり、基本を発展させる頭の働きを磨く訓練はない。自分の言葉で話し、debateすることも殆どない。個性を伸ばすどころか、education とは正反対のベクトルである。
こうして育った生徒は大学に来ても質問は少ない。受け取るだけで、考えながら学ぶ習慣が乏しいからである。さらに大学院に進み、ここは独創的なことをするんだ、自分で考えろ、と言われても、出来るわけがない。教授の方も問題だが、練習問題的な論文が少なくない。野依良治教授がアメリカと日本の新しい学位授与者を比べると、相撲で言えば三役と十両の違いである、と言われたのも分かる気がする。
アメリカで教育改革: アメリカではこの時代の早い動きを先取りして、教育を大きく改革した。理科教育について言えば、それまでは鯨の種類など理科的知識を重視して覚えさせていたのを止めて、science inquiry つまり、探究的にものを考えるように切り替えたのである。
そうしてその探究的な考え方が、理科だけでなく歴史や社会など他の学科でも基本的な考え方として拡げていった。この大きな教育改革は1989年頃から科学アカデミーの National Research Council が中心となって始まった。全国から選ばれた人達が原案を作り,1992年から150回以上にわたりその内容を公開討論して、数多くの人達,学会などの意見を聞き、最後には4万部を刷って全国1万8千人や250のグループに配って意見を求めてNational Science Education Standards[1]を作り上げている。地域的な色彩の強い教育を基本にしているアメリカにおいて正に国を挙げての作業であった。知識量を減らしても考え方に重点を移したのである。
わが国ではそれを、真似て、従来の「詰め込み教育」はいけないと称して,知識の量は3割削減、「自ら探究的に考え、生きる力をつける」ということで、「ゆとり教育」が始まった。文部科学省の密室で原案が作られ、上意下達で始まったのである。
しかし、文部科学相が変ると、「学力(この内容が本当の問題)の低下」が起こっているから再検討をすると言って、今年の末頃までに結論を出すと言う。現場は混乱するだけである。
アメリカでの学校教育は私の孫が学んだ経験からすると、小学校の校長先生にどのような子供を育てようとしていますか、と言う娘の質問に答えて、「productive, team player, independent thinker」と言ったという(2)。
つまりproductive 社会に役立つ人間で、team player社会になじみ、そして independent thinker つまり自分なりに個性的に考える小学生、というのである。幼稚園の時から、show and tell, 自分の言葉でしゃべる練習をして、小学校でも繰り返し、繰り返し、How do YOU think ? と自分で考える訓練をさせられる。その基本的考えは、すべての子供はそれぞれ生まれつき異なるということから始まる。
生徒各自が自分で考え、自分なりによい点を引き出し(educe)育てるのが教育 education なのである。自分で独立に考えることにより、初めて個性が育つのである。Independent thinker が よいteam playerになるところに本当の「民主主義の基本」があるのである、
考えさせる教育; わが国では independent thinker を育てるなど言う教育があっただろうか。学校では知識を教え、後は勝手に考えるのである。日本では、人は皆同じ、差別はいけない、お互いに「思いやる社会」として、「よろしく」と挨拶する社会はそれなりに素晴らしいが、その全体の中にあって兎角「個」と言うものが埋没してしまう。
これからは、激動する時代に適応するように「探究的に考え、自分で生きる力をつけろ」と言われても、教師たちは考える教育を受けたこともないし、どうしたらよいのか分からない。欧米のように「自分で考える」基本が子供たちにもないし、大人にも、第一、先生の方にも乏しいのである。
先生は余り考えたこともないし、自分の持っている「知識」を生徒に授ける方が楽である。子供たちは先生の背を見て育つ。「自分で考えない先生」からは「考える子」は育たない。知識を得ることと「考えること」とは基本的に別物である。これからの時代は「学びて思わざる教育」はダメである。「考えることの大切さ」を言うと「でも、物を知らなければ」と言う答えが返ってくる。
しかし化学の考え方を学びながら物を知ることになる。「考える」というのは、その科目の選び抜かれた基本をしっかりと身につけて考えることである。アメリカで言う「Less is more」、つまり数少ない大事な基本を本当に身につけて考えると、浅く広い知識をただ覚えるよりも格段にダイナミックな実りがあるのである。基本を基にして一を聞いて十を知り、さらに十分に考えて必要な知識を自分で獲得し、百まで考える可能性をもつものである。
これからのエデュケイション: それではこれから我々はどうしたらいいのだろうか。コンピュータの時代には、それに備えた教育が求められる。基本は矢張り本当のエデュケイションの基本を根付かせ、個性を伸ばすことである。
例えば、宿題もありうるが、授業は常に生徒と先生との communication の連続にして、教室できびしく考えさせることである。生徒たちが何を知らなくて、如何に考えさせたらいいのか、が分かる。近頃では、たとえ数人を組にしてでもコンピュータを通して一緒に討論をしながら授業をするのである。ヒストグラムを示すことも出来る。そのやり取りの記録がそのまま成績にも繋がる。
まず先生自身が考えながら生徒と会話をするのである。その会話を通して生徒は考え方を学ぶのである。「ただ読んだだけでは理解度10%,聞いただけでは20%,見ただけでは30%,見たり聞いたりの両方で50%,他の人と討論して70%,実際に体験して80%,誰かに教えてみて95%」(William Glaser,"Schools Without Failure")と言われる。
同じ事を教えるのでも工夫次第で大幅に理解度が違うのである。「聞いたことがある」程度に頭に残っているのと,深く理解したのとでは自分で新しいことを考え出す上では大変な違いになる。本当に深く身について初めて本物の「知恵」になるのである。またそのように本当の知恵を生むように「引き出さなければ」いけないのである。
教育成果の評価: 新しい教育には新しい教育評価システム、試験制度、が求められる。まず入試も知識量を重視する「知識偏重」から大きく変えないといけない。私はある新設大学での入試に高校の教科書持参で、答えは記述式にしてやってみたことがある(3)。
この方式では、これを覚えているか式の出題はなくなる。教科書をどれだけ本当に理解しているか、これは何故であるか、こういう場合はどうすればいいのか、どれだけの知恵を身につけているかを問うのである。少し手はかかるが、この方式では受験生一人一人の「考える力」が実に手に取るようによく分かる。○×式などの比ではない。
ただ、慣れていないこともあり、教授たちの中には問題作成が困難なこともあって、出題者の方の「考える力」が試されることになる。しかし近頃では中学校の入試にも前よりも「考えさせる問題」が出されるようにもなったというし、これからは変って行くのではないだろうか。
同じ「考える」のでも、ナゾナゾのようなものでなく、基本に基づいた知恵を調べるのである。Stanford 大学の入試では creativity と leadership を重視すると言っていたが、矢張り自分で考える力があって、人の上に立てる人材を求めるのである。福井謙一先生は「今の大学入試は若い人の芽を摘んでいるんです」とよく言われていた。
今年のセンター試験でも、ある金属のアンミン錯体の色を問う問題が出ていた。センター試験に出ると言うことはそれを覚えさせろと言う命令に近い。しかしそんな色を尋ねられても多くの受験生は見たこともなく、教科書で知るだけであり、もう一生お目にかかることのない化合物の色を覚えても何の役にも立たないことである。こんなことをして、若い人の芽を摘んでいる出題者の罪は重いが、残念ながら彼らには罪の意識は微塵もない。
教科書の問題: 今ある高校の化学の教科書を見てみる。まず文部科学省検定の日本の教科書が欧米の教科書に比べて圧倒的に貧弱である。内容も三分の一以下という。必要最低限の情報をかき集めて書くだけで精一杯に近く、考え方など到底手が届かない。
先生はその教科書さえ教えればいいということで、その情報を生徒に丸暗記させるのである。そのような教科書の中から大学入試問題を出せといわれてもいい問題ができるはずがない。それはそのまま高校以下の悪い教育へとつながって行く。これで理科が好きになれとか、探究的に考えろと言う方が無理である(4)。
一般に欧米の教科書は写真も綺麗だし、化学独自の考え方を手を尽くしてきちんと解りやすく説明されているし、各種の考えさせる例題(問題)も備えている。教科書によっては、化学の立場からの地球のできる火成岩の話しなどいろいろな興味ある身近な話も入っていたりしている。素人でも化学に興味を抱くよう、化学の好きな子はますます好きになるし、個性を伸ばせるようになっている。
欧米では教科書は学校の備品であることが多いし、5年に一度教科書を変えるとするとその実質的な費用は五分の一になる。欧米で広くやっていることを日本で出来ないことがあるのだろうか。日本のようにこれ以上は教えなくていいなど、文部科学省の余計な規制がなぜ必要なのだろうか。今はもう横並びの時代ではない。現場の先生は厚い教科書の全部を教えることはもちろんない。場合によってはここを読んでおけ、でもいい。生徒のレベルに応じて先生が好きなように教えればいいのである。その方が生徒も先生も個性を生かせてもっともっと元気が出るし、化石化してしまった現在の化学が生き返る。
「折角いい頭を・・」; 私は院生にはいつも口癖のように「折角いい頭をお持ちなのですから、もっとよく考えなさい」と言っている。
何年か前私がある賞を頂いたお祝いの会で卒業生の一人が、先生がああ言われるのは先生にいいアイディアがないからではないか、と冗談半分に本当のことを言っていた。頭は使うほどよくなるものである。優れた考えが出たときはうんと褒めることである。しかしお互い様自分の考えの足りないことは自分では解らない。考えに考え、考え抜いて、新しい発想を生んだ体験はその学生の一生の宝になるものである。creativeな才能は自分の頭で考えることによって育つものである。
おわりに; 先ごろ亡くなられたロンドン大学の名誉教授の森嶋通夫先生のお言葉を紹介する。
『現在の教育制度は単数教育〈平等教育〉で、子供の自主性を養う教育ではない。人生で一番大切な人物のキャラクターと思想を形成するハイテイ―ンエイジを高校入試、大学入試のための勉強に使い果たす教育は人間を創る教育ではない。今の日本の教育に一番欠けているのは議論から学ぶ教育である。日本の教育は世界で一番教え過ぎの教育である。自分で考え、自分で判断する訓練が最も欠如している 自分で考え、横並びでない自己判断の出来る人間を育てなければ、2050年の日本は本当に駄目になる』(5)
1. National Science Education Standards, National Resaerch Council(1996), National Academy Press. Every Child a Scientist, National Research Council,(1998), National Academy Press: .
2.「アメリカの孫と日本の孫」,田丸謙二,大山秀子,化学と工業,52 (1999) 1149
3 「新しい大学入試方式の模索」,田丸謙二,化学と教育,44 (1995) 456:「理科のセンスを問う・・山口東京理科大学の教科書持ち込み入試」、木下実,同誌、45 (1997) 146
4 「高校の化学をつまらなくする方法」、田丸謙二,化学と教育,38 (1990)、712
「高校化学での「触媒」の教え方について」,田丸謙二、化学と教育、51、35 (2003): 「高校化学での浸透圧の教え方について」、田丸謙二、化学と教育、51、434(2003)
「高校化学の教科書を読んでの一つの意見」、田丸謙二、化学と教育、52、764 )2004)
5 森嶋通夫、こうとうけん、No.16 (1998) p.17
参考文献;http://www6.ocn.ne.jp/~kenzitmr/ (2005年3月)
T先生こと、田丸先生の、「Independent Thinker 」についての原稿について、
田丸先生に、私のHPに掲載してよいかという許可を求めましたら、了解がい
ただけましたので、ここに紹介します。(05年3月31日)
+++++++++++++++++++++
林様;
私の原稿は貴方のような筆の達人の中に入れると見劣り
します。 それでもよかったらお使いなさい。
これは貴方にとって余計な話ですが、今日を含めてこの5日
学会がありました。 一般の傾向として「大学法人化」といって
夫々の大学は出来るだけ自立しろということになります。 「産学
協同」というきれいごとの言葉がはやりだしました。 大学は実際
に役に立つことをする傾向が強くなりました。 ひどいのは会社か
らテーマと金を貰って、大学院生を人手に使って「研究らしいこと」
をします。 大学院生はそれが「研究」であると思って一生損をしま
す。被害者です。私は大学が学問をしなくなったら、駄目であると思
います。これも気のせいか、independent thinker の訓練がなくなっ
て安易に生きて行こうとする傾向に思えます。 本当は「研究」とい
うものは必死に頭で考え、考えてするものです。 それがなくて創造
性は生まれません。 個性的な研究も駄目です。 皆が似たことを実
験する研究は研究でも「試験研究」或いは「試験実験」でしかありま
せん。 愚痴になりそうですが。 研究は矢張り誰も考えなかったこ
とを考える苦しいけれども、楽しいものなのですが。
田丸謙二
++++++++++++++++++
日本は本当にダメになるのか?
もっと考えるエデュケイションを 田丸謙二
現在の中高校の理科教育について何か書けという思いがけないご依頼があった。以下に普段思っていることを書いてみる。
はじめに: Education という言葉は辞書には「教育」と訳してある。しかし本当は日本式の「教え込む教育」ではなくて、生徒の(才能や知恵を)educe 引き出す作業のことである。ドイツ語でも教育は Erziehung 、「引き出す」のである。
これまでの日本式の「知識を詰め込む」教育とはベクトルが180度違っている。正に逆なのである。わが国の教育関係者でこの辺りを本当に理解している人は決して多くはない。むしろ極めて少ないと言えるのではないだろうか。
新しい時代の始まり; 一昔前には電車の中で見回すと何処かで誰かが漫画の本を見ていたものである。近頃ではどうだろう? 何処かに携帯電話をいじくっている人がいる。これからニ、三十年先にはどうなっているだろうか。多分車内の何処かでポケットから出したパソコンを開いてみているのではなかろうか。
そのような来たるべきパソコン持参のコンピュータの時代を支えるのが今の子供たちである。この時代には国際化、情報化がさらに格段に進み、ますます変化の早い時代になる。この激動の時代に適応し、その時代をリードするにはコンピュータのできないことが出来るダイナミックな知恵を持った人材である。「知識偏重」の「詰め込み教育」は到底役立たない。「知恵」は自分で引き出し、育てるものである。我々は今の子供たちのために何をすればいいのか、日本の将来を決めるのは現在の子供たちへの真の education なのである。
これまでの教育; 日本は元来「文化の輸入国」であった。「マナブ」ということは「マネブ」、真似をする、から来ている言葉である。学問を自分で築いた経験が乏しいので、学問はおのずから出来上がったものを取り入れるものとなり、「学力」は知識量をあらわし、その知識を偏重する風土になっている。
高校の理科の時間を参観すると、殆ど会話がない、「わかったか、覚えておけ」の一方的な教え込みである。それが限られた時間内に最も効率よく沢山のことを教えることが出来、「知識偏重の入試」に対する最適の教え方なのである。そこには自分の個性的な知恵を育てたり、自分の頭できびしく考えて教科書にない新しい問題を考えたり、基本を発展させる頭の働きを磨く訓練はない。自分の言葉で話し、debateすることも殆どない。個性を伸ばすどころか、education とは正反対のベクトルである。
こうして育った生徒は大学に来ても質問は少ない。受け取るだけで、考えながら学ぶ習慣が乏しいからである。さらに大学院に進み、ここは独創的なことをするんだ、自分で考えろ、と言われても、出来るわけがない。教授の方も問題だが、練習問題的な論文が少なくない。野依良治教授がアメリカと日本の新しい学位授与者を比べると、相撲で言えば三役と十両の違いである、と言われたのも分かる気がする。
アメリカで教育改革: アメリカではこの時代の早い動きを先取りして、教育を大きく改革した。理科教育について言えば、それまでは鯨の種類など理科的知識を重視して覚えさせていたのを止めて、science inquiry つまり、探究的にものを考えるように切り替えたのである。
そうしてその探究的な考え方が、理科だけでなく歴史や社会など他の学科でも基本的な考え方として拡げていった。この大きな教育改革は1989年頃から科学アカデミーの National Research Council が中心となって始まった。全国から選ばれた人達が原案を作り,1992年から150回以上にわたりその内容を公開討論して、数多くの人達,学会などの意見を聞き、最後には4万部を刷って全国1万8千人や250のグループに配って意見を求めてNational Science Education Standards[1]を作り上げている。地域的な色彩の強い教育を基本にしているアメリカにおいて正に国を挙げての作業であった。知識量を減らしても考え方に重点を移したのである。
わが国ではそれを、真似て、従来の「詰め込み教育」はいけないと称して,知識の量は3割削減、「自ら探究的に考え、生きる力をつける」ということで、「ゆとり教育」が始まった。文部科学省の密室で原案が作られ、上意下達で始まったのである。
しかし、文部科学相が変ると、「学力(この内容が本当の問題)の低下」が起こっているから再検討をすると言って、今年の末頃までに結論を出すと言う。現場は混乱するだけである。
アメリカでの学校教育は私の孫が学んだ経験からすると、小学校の校長先生にどのような子供を育てようとしていますか、と言う娘の質問に答えて、「productive, team player, independent thinker」と言ったという(2)。
つまりproductive 社会に役立つ人間で、team player社会になじみ、そして independent thinker つまり自分なりに個性的に考える小学生、というのである。幼稚園の時から、show and tell, 自分の言葉でしゃべる練習をして、小学校でも繰り返し、繰り返し、How do YOU think ? と自分で考える訓練をさせられる。その基本的考えは、すべての子供はそれぞれ生まれつき異なるということから始まる。
生徒各自が自分で考え、自分なりによい点を引き出し(educe)育てるのが教育 education なのである。自分で独立に考えることにより、初めて個性が育つのである。Independent thinker が よいteam playerになるところに本当の「民主主義の基本」があるのである、
考えさせる教育; わが国では independent thinker を育てるなど言う教育があっただろうか。学校では知識を教え、後は勝手に考えるのである。日本では、人は皆同じ、差別はいけない、お互いに「思いやる社会」として、「よろしく」と挨拶する社会はそれなりに素晴らしいが、その全体の中にあって兎角「個」と言うものが埋没してしまう。
これからは、激動する時代に適応するように「探究的に考え、自分で生きる力をつけろ」と言われても、教師たちは考える教育を受けたこともないし、どうしたらよいのか分からない。欧米のように「自分で考える」基本が子供たちにもないし、大人にも、第一、先生の方にも乏しいのである。
先生は余り考えたこともないし、自分の持っている「知識」を生徒に授ける方が楽である。子供たちは先生の背を見て育つ。「自分で考えない先生」からは「考える子」は育たない。知識を得ることと「考えること」とは基本的に別物である。これからの時代は「学びて思わざる教育」はダメである。「考えることの大切さ」を言うと「でも、物を知らなければ」と言う答えが返ってくる。
しかし化学の考え方を学びながら物を知ることになる。「考える」というのは、その科目の選び抜かれた基本をしっかりと身につけて考えることである。アメリカで言う「Less is more」、つまり数少ない大事な基本を本当に身につけて考えると、浅く広い知識をただ覚えるよりも格段にダイナミックな実りがあるのである。基本を基にして一を聞いて十を知り、さらに十分に考えて必要な知識を自分で獲得し、百まで考える可能性をもつものである。
これからのエデュケイション: それではこれから我々はどうしたらいいのだろうか。コンピュータの時代には、それに備えた教育が求められる。基本は矢張り本当のエデュケイションの基本を根付かせ、個性を伸ばすことである。
例えば、宿題もありうるが、授業は常に生徒と先生との communication の連続にして、教室できびしく考えさせることである。生徒たちが何を知らなくて、如何に考えさせたらいいのか、が分かる。近頃では、たとえ数人を組にしてでもコンピュータを通して一緒に討論をしながら授業をするのである。ヒストグラムを示すことも出来る。そのやり取りの記録がそのまま成績にも繋がる。
まず先生自身が考えながら生徒と会話をするのである。その会話を通して生徒は考え方を学ぶのである。「ただ読んだだけでは理解度10%,聞いただけでは20%,見ただけでは30%,見たり聞いたりの両方で50%,他の人と討論して70%,実際に体験して80%,誰かに教えてみて95%」(William Glaser,"Schools Without Failure")と言われる。
同じ事を教えるのでも工夫次第で大幅に理解度が違うのである。「聞いたことがある」程度に頭に残っているのと,深く理解したのとでは自分で新しいことを考え出す上では大変な違いになる。本当に深く身について初めて本物の「知恵」になるのである。またそのように本当の知恵を生むように「引き出さなければ」いけないのである。
教育成果の評価: 新しい教育には新しい教育評価システム、試験制度、が求められる。まず入試も知識量を重視する「知識偏重」から大きく変えないといけない。私はある新設大学での入試に高校の教科書持参で、答えは記述式にしてやってみたことがある(3)。
この方式では、これを覚えているか式の出題はなくなる。教科書をどれだけ本当に理解しているか、これは何故であるか、こういう場合はどうすればいいのか、どれだけの知恵を身につけているかを問うのである。少し手はかかるが、この方式では受験生一人一人の「考える力」が実に手に取るようによく分かる。○×式などの比ではない。
ただ、慣れていないこともあり、教授たちの中には問題作成が困難なこともあって、出題者の方の「考える力」が試されることになる。しかし近頃では中学校の入試にも前よりも「考えさせる問題」が出されるようにもなったというし、これからは変って行くのではないだろうか。
同じ「考える」のでも、ナゾナゾのようなものでなく、基本に基づいた知恵を調べるのである。Stanford 大学の入試では creativity と leadership を重視すると言っていたが、矢張り自分で考える力があって、人の上に立てる人材を求めるのである。福井謙一先生は「今の大学入試は若い人の芽を摘んでいるんです」とよく言われていた。
今年のセンター試験でも、ある金属のアンミン錯体の色を問う問題が出ていた。センター試験に出ると言うことはそれを覚えさせろと言う命令に近い。しかしそんな色を尋ねられても多くの受験生は見たこともなく、教科書で知るだけであり、もう一生お目にかかることのない化合物の色を覚えても何の役にも立たないことである。こんなことをして、若い人の芽を摘んでいる出題者の罪は重いが、残念ながら彼らには罪の意識は微塵もない。
教科書の問題: 今ある高校の化学の教科書を見てみる。まず文部科学省検定の日本の教科書が欧米の教科書に比べて圧倒的に貧弱である。内容も三分の一以下という。必要最低限の情報をかき集めて書くだけで精一杯に近く、考え方など到底手が届かない。
先生はその教科書さえ教えればいいということで、その情報を生徒に丸暗記させるのである。そのような教科書の中から大学入試問題を出せといわれてもいい問題ができるはずがない。それはそのまま高校以下の悪い教育へとつながって行く。これで理科が好きになれとか、探究的に考えろと言う方が無理である(4)。
一般に欧米の教科書は写真も綺麗だし、化学独自の考え方を手を尽くしてきちんと解りやすく説明されているし、各種の考えさせる例題(問題)も備えている。教科書によっては、化学の立場からの地球のできる火成岩の話しなどいろいろな興味ある身近な話も入っていたりしている。素人でも化学に興味を抱くよう、化学の好きな子はますます好きになるし、個性を伸ばせるようになっている。
欧米では教科書は学校の備品であることが多いし、5年に一度教科書を変えるとするとその実質的な費用は五分の一になる。欧米で広くやっていることを日本で出来ないことがあるのだろうか。日本のようにこれ以上は教えなくていいなど、文部科学省の余計な規制がなぜ必要なのだろうか。今はもう横並びの時代ではない。現場の先生は厚い教科書の全部を教えることはもちろんない。場合によってはここを読んでおけ、でもいい。生徒のレベルに応じて先生が好きなように教えればいいのである。その方が生徒も先生も個性を生かせてもっともっと元気が出るし、化石化してしまった現在の化学が生き返る。
「折角いい頭を・・」; 私は院生にはいつも口癖のように「折角いい頭をお持ちなのですから、もっとよく考えなさい」と言っている。
何年か前私がある賞を頂いたお祝いの会で卒業生の一人が、先生がああ言われるのは先生にいいアイディアがないからではないか、と冗談半分に本当のことを言っていた。頭は使うほどよくなるものである。優れた考えが出たときはうんと褒めることである。しかしお互い様自分の考えの足りないことは自分では解らない。考えに考え、考え抜いて、新しい発想を生んだ体験はその学生の一生の宝になるものである。creativeな才能は自分の頭で考えることによって育つものである。
おわりに; 先ごろ亡くなられたロンドン大学の名誉教授の森嶋通夫先生のお言葉を紹介する。
『現在の教育制度は単数教育〈平等教育〉で、子供の自主性を養う教育ではない。人生で一番大切な人物のキャラクターと思想を形成するハイテイ―ンエイジを高校入試、大学入試のための勉強に使い果たす教育は人間を創る教育ではない。今の日本の教育に一番欠けているのは議論から学ぶ教育である。日本の教育は世界で一番教え過ぎの教育である。自分で考え、自分で判断する訓練が最も欠如している 自分で考え、横並びでない自己判断の出来る人間を育てなければ、2050年の日本は本当に駄目になる』(5)
1. National Science Education Standards, National Resaerch Council(1996), National Academy Press. Every Child a Scientist, National Research Council,(1998), National Academy Press: .
2.「アメリカの孫と日本の孫」,田丸謙二,大山秀子,化学と工業,52 (1999) 1149
3 「新しい大学入試方式の模索」,田丸謙二,化学と教育,44 (1995) 456:「理科のセンスを問う・・山口東京理科大学の教科書持ち込み入試」、木下実,同誌、45 (1997) 146
4 「高校の化学をつまらなくする方法」、田丸謙二,化学と教育,38 (1990)、712
「高校化学での「触媒」の教え方について」,田丸謙二、化学と教育、51、35 (2003): 「高校化学での浸透圧の教え方について」、田丸謙二、化学と教育、51、434(2003)
「高校化学の教科書を読んでの一つの意見」、田丸謙二、化学と教育、52、764 )2004)
5 森嶋通夫、こうとうけん、No.16 (1998) p.17
参考文献;http://www6.ocn.ne.jp/~kenzitmr/ (2005年3月)