拉麺歴史発掘館

淺草・來々軒の本当の姿、各地ご当地ラーメン誕生の別解釈等、あまり今まで触れられなかっらラーメンの歴史を発掘しています。

辨麺 ~謎の愛すべき拉麺遺産 Ⅶ (Last)

2022年12月05日 | 老舗の中華料理
■長く、どうでもいいような、あとがき
 この原稿も随分と長くなってしまった。ボクが編集で使用しているのは当然ながらMicrosoft社のWord。このアプリは、編集中の文書の文字数を欄外下部に表示してくれる。およそ53,000字になっているので400字詰め原稿用紙なら130枚超、である。ただ、原稿用紙換算なら、純粋な文字数ではなく、余白も入れて数えるし、脚注や資料等、本文の文字数にはカウントされていないものも結構あるので、まあ倍近くの200~220枚程度にはなりそうである。一般的な小説なら中編小説にはちょっと足りない、という程度だろうか。

 本文の中で引用した、池波正太郎の『むかしの味』について、もう少し詳しく触れておく。
 この書では、ボクも何度か出かけて一度は辨麺もいただいている店、横浜中華街所在の清風楼についても実際、触れている。清風楼の辨麺は汁こそ少ないものの、れっきとした辨麺を提供する、1945(昭和20)年創業の店である。シウマイがたいそう評判の店で、書の中で池波は、師と仰ぐ長谷川 伸 氏(注26)にこの店のシウマイを土産に持って行ったところ、長谷川は「このシウマイはむかしの味がするね」と言ったと書き、池波自身も此処のシウマイを「大好物」としている。

 池波は中華街では蓬莱閣(注27)と徳記(注28)にも触れ、「(中華街の)変貌の度合いは東京とくらべものにならぬ」とし、中華街に足を向けると「表通りの店よりも、山下町の裏通りを歩くことが多い。ウイークデイの夕暮れなど、表通りの賑わいが嘘のように、落ち着いた店の姿がある。いまは消え果てた、東京の下町の匂いが、そこにはただよっているような想いさえする」と書いた。ボクは横浜で6年ほど勤務し、後半の3年間は中華街まで徒歩圏にある事業所の所長を務めていて、外出すればちょっと中華街まで寄り道、なんてことも当然あった。

 ボクは横浜での勤務を終えてもう4年が過ぎる。それ以降、コロナ禍さなかの中華街にも何度か訪れたが、本当に哀しいほどに人がいなかった。ボクが月に2~3回宿泊していた伊勢佐木町ワシントンホテルがクローズした。中華街脇、横浜スタジアム前のシティホテルで、自らは“オベールジュホテル(比較的小規模な、料理自慢のホテル)”を名乗った「横浜ガーデン」も閉館してしまった。あろうことか我が国最古の“現役”中華料理店『聘珍楼 横浜本店』でさえ店を閉じさせてしまったコロナ禍は、中華街をさながらゴーストタウンのような街に替えてしまった。

 けれど、2022年初秋に出向いたら、コロナ禍の前の、横浜中華街が戻っていた。

 ボクは60年以上、東京の東のはずれ、いわゆる下町で育ってきたのだが、池波が書くような『消え果てた、東京の下町の匂い』を中華街の裏通りで感じることはついぞなかった。というより、都心から少し離れれば、都内のあちこちに下町のにほいはまだまだ相当色濃く残っている。それは確かだ。ボク自身が半世紀以上も東京の東の外れ、200メートルも歩けば江戸川対岸の国府台の森が見えるところに住んでいるということもあるのだろう。

 けれど、大声で談笑しながら、肉まんやらを食べ歩く若い人たちから逃げるように裏通りに入り、まだ訪れたことのない小さな店を探すのは、中華街に行けばごく自然の行動であった。徳記や清風楼は、確かにメインストリートにはなく、事情が分かっている人だけおいでなさい、と呼びかけるように存在していた。

 さて、本篇最後はボクの想像を書いて終えた。分かり辛いという方もおいでだろうから、解説がてら追記しておきたい。

 長野系と、六軒島萬来軒系以外では「汁ありそば=辨麺≒広東麺、(五目)うま煮そば、(五目)餡掛けそば」として知られてきたし、作り手もそう意識して調理場に立っていただろう。しかし、六軒島萬来軒系は、それを全く意識せずに作って、客に提供している(してきた)可能性はある。本文で書いたように、「萬来軒」の“萬”の字を取って、店のウリ的な品にしようとした、ということは複数の店主の証言からして間違いない。すなわち「萬麺(メン)」である。
 
 けれど、一部の店はそれを否定していたし、何より「萬麺(メン)」が「(五目)餡掛けそば」になっているのが単なる偶然としたら、そこにむしろ作為を感じる。まあ、その作為をだれが何のために? ということはある。だからノーマルに考えるのであれば・・・幡ヶ谷の萬来軒の創業年やら長野系バンメンの誕生時期などが大正末期に集まっていること、幡ヶ谷萬来軒の店舗群拡張と新潟の縁戚の話は四つ木萬来軒創業時の話と被ること・・・などなどを考えると、偶然であるとする考え自体は無理があろう。

 もっと面白いのは長野系である。松本の竹之家の初代(石田氏)も、権堂の福昇亭の初代(小松氏)も、横浜の中華街や周辺の店とかかわりを持ったあとに長野に移った。長野の2店よりも創業年次が古い、例えば本牧の奇珍楼や、伊勢佐木町の玉泉亭などの焼きそばと極めて似ていることからして、少なくとも、長野のソウルフードとさえ呼ばれるようになった(餡掛け)焼きそばのルーツは、横浜であったこともまず間違いない。しかし、辨麺、バンメンは、というと・・・

 これはおそらくこういうことなのだろう。横浜系は、あくまで「汁そば」として伝えられ、市域に広がった。一方、長野系はというと、おそらく餡掛けカタヤキソバはあくまで「かき混ぜて食べる」から、焼きそば、というよりは「拌麺の一ヴァリエーション」として一部には伝わり、その商品名=「焼きそば」として認知された。

 耳で聞く分には「拌麺」も「辨麺」も同じバンメン。一部料理人は「汁そばの辨麺」を単に「バンメン」として聞き覚えていたので、“あたま”が同じ汁そばの辨麺のことを、焼きそばと同じ拌麺と認知したが、汁そばであるから焼きそばとは異なる商品名、すなわちバンメンとして記憶した。その際、商品はバンメンでもいいし、拌メンでもよい。大事なのは、汁そばといえども「かき混ぜて食べるから拌麺の一種」ということだ。
 つまり、横浜で働いていた一部料理人は、
  • 五目餡掛け(“あたま”)が載る麺料理=かき混ぜて食べるから、汁があろうがなかろうが、ともに拌麺の一種。耳で聞くだけならどちらも”バンメン“である。
  • ただ、汁なしのものと、汁ありのものとでは当然違いがあるから、前者を「焼きそば」、後者を「拌メン(バンメン)」として記憶し、長野に持ち込んだ。だから長野でバンメンを注文すると、料理人にとっては「かき混ぜて食べる麺料理」だから汁そばであってもそれは「バンメン(拌麺、バン麺、拌メン)」なのである。
  • とても面白いことに、横浜や都内のごく一部の店等で提供されている「汁そばのバンメン(辨麺)」と長野の「汁そばのバンメン(拌麺)」の”文字違い”に気が付き、それを指摘することが数十年もなかったのは「バンメン」自体がマイナーな食べ物であるが故の、こちらこそ正真正銘の単なる偶然であるに過ぎないのだ。

 竹之家の主人、石田 華 氏は中国からやって来た人だ。やはり日本語の理解は、日本人と同じ、という訳にはいかなかったろう。一方、のちの初代福昇亭主となる小松氏は、拌麺と辨麺の違いを正確に理解していた。「汁そばの餡掛けそば」の商品は「拌麺」ではないから、明確にするため「バンメン」としたが、石田氏はややこしい日本語の意図するところをよく呑み込めず、「汁そばの餡掛そば」も拌麺の一種だから「拌メン」とした・・・、福昇亭と驪山の「バンメン」表記が違うのは、そんな理由があったのかも知れない。


 (上が福昇亭=「ばんめん」。下が驪山=バン麺)
 
 ともあれ、ボクが驪山で拌メンを食べた際、オカミさんが仰った「ウチのは“バンメン”(かき混ぜてたべる)“なのです」というのは、汁ありであろうとなかろうと、かき混ぜて食べるから、ということだったのであろう。

 さて、ここまでお読みいただき、腑に落ちないことがなかろうか? ボクの創作では石田氏と小松氏は横浜で同じ時期に働いて、同じ時期に長野に移った、としているが(実際、そうなのだが)、これもまた偶然として片づけるには果たしてどうだろう? ともに横浜で働いていたかどうかはともかく、二人は間違いなく中華料理の調理人であったはずで、知り合いというか、付き合いがあって、それもそれなりに深い交流があったのではないか? そうでも考えない限り二人が横浜にいて、関東大震災後の大正末期の同じ時期に長野で店を開いて、同じ品、つまり餡掛け焼きそばと、汁ありのバンメンが、品書きに載って百年近くも経って今なお残ることの説明ができないのである。もちろん、偶然の二乗三乗という可能性もないわけではないのだが。

 そんな結論にたどり着いたのは、長野から東京に戻って数週間も経ってからのことだ。正直なところすぐにでも、また長野に行って再度話を聞きたいとは思う。やはり推測は推測に過ぎないし、そこにボクの想像が加わったことで、もしかすると真実は、もっと遠いものになってしまったのかも知れない。

 この原稿を書いている途中、何度かボクが書いたことと違うことがネット上に出ていることを見つけた。それほど多いわけではないが、例えば「餡掛け焼きそば」発祥のくだり、である。

◇『長野市でやきそばといえば、ソースではなくあんかけ。昭和初期、山国のために海鮮が調達しづらく、キノコや野菜をたっぷり使った長野流のあんかけやきそばが誕生しました』
(立山黒部観光宣伝協議会公式サイト)。筆注・この箇所の解説別途あり(下の☆☆の箇所)。
◇『信州で焼きそばといえば、「あんかけ焼きそば」のこと! 長野市権堂にあった「福昇亭」の店主が、昭和初期に考案したのが、信州あんかけ焼きそばのルーツなんだとか』
(Webサイト「旅時間」)

 こうした記述は例によって、引用元が明示されていないし、『~なんだとか』のように明らかに伝聞であることが分かる文面からして、正誤を含めてコメントのしようがない。

 だから、真実に少しでも近づこうとするなら、関係者に話を聞くのが近道である。残念なことにボクにはもう、長野まで出かけていく、その体力も時間もなくなってしまったようである。もしかすると、どこぞのどなたかが、いつか真実を明かしてくれる時期がくるのかも知れない。あるいは、もはや一世紀も前の一地方のローカルな、ただの食べ物に関してのことだ、真実を探したところで、それは深い海の底のようなところに沈んだまま、浮かんで来ることはないのかも知れない。

 ただ、ボクとしては、ボクの想像通りであろうと思い込み、本当のところは分からないまま、この物語を書き終えることが幸せなことだろうと思っている。冒頭にも書いたのだが、これをお読みくださった方々にも、あくまで可能性としての一つの物語としてお読みいただければと思う次第である。

 最後に。もう一度行けないならせめて、と探しまくった結果、2022年11月中旬、一冊の雑誌が手に入った。初代福昇亭について、ちょっと詳しい記述があるので、関係個所を引用してみよう(注29)


komachi2022~2023 信州おいしい〇プチ旅『信州おでかけガイド』)

 初代福昇亭創業者・小松福平氏は、善光寺が気に入って、1924(大正13)年、長野市権堂に店を開いた、というのは記述したとおり。店の場所は、権堂通り、別名「権堂アーケード」の交番近く、であったという。権堂通りは、昭和のはじめから栄えたということなので、大正末期でも賑わいのあったところなのだろう。『権堂商店街は、県都長野市の善光寺のお膝元に位置し、賑やかさと歴史的風格を兼ね備えた商店街』で、『江戸時代には善光寺参詣の精進落としの水茶屋が栄え』『今もそれらの舞台となった名所旧跡が点在し、権堂劇場の骨格を作って』いるそうだ(注30)。権堂のアーケードは1961(昭和36)年に長野県下で初めてアーケードが設置された場所でもあるという、まさに商店を開くのに最高の立地だったのではないか。

 小松氏は、横浜で勤務していた店が廃業したということもあって権堂に移ったというが、善光寺周辺が気に入ったという以外の理由は見つからなかった。横浜の店が廃業というのは、時期からして関東大震災の影響が少なからずあったと推測される。また当時の勤務先は、餡掛け焼きそばやバンメンの出来上がりの様子から、山手・本牧、野毛・桜木町、中華街あたりであったこともまた、想像できる。

 なんにせよ記事によれば、権堂で店を開いた福平氏は、長野という土地柄で海鮮類が入手し辛いことから、地元産の野菜や茸をふんだんに使用した“餡掛け焼きそば”を考案、これが大変な評判を取った(筆注・この箇所の解説別途あり。下の☆☆の箇所。その際、辛子を酢で溶いた“辛子酢”をかけて食べることも流行った、とか。

 その後、子どもたちが後を継いだものの閉店。孫の世代になって現在の福昇亭、日昇亭が上田市で開業した、という趣旨のことが記述されている。

現在では、
◇福昇亭 福平氏の二女⇒孫⇒ひ孫(現在)。福昇亭中之条支店は下記「杉坂製麺所」の縁戚により運営。
◇日昇亭 福平氏の二男⇒孫(現在)。日昇亭支店は“二男時代の弟子”により運営。
◇杉坂製麺所 福平氏の長女⇒孫。福昇亭、日昇亭ほか、上田市所在の焼きそば提供店(一部)の麺の製造卸元。
 という関係(別図3)になっている。残念ながら、校了までに石田 華氏と小松福平氏の関係については不明のままであった。

 そして事実をもう二つ。
 その一。長野県内で、焼きそばがウリ、という店を片っ端から調べてみたが、表記を問わず“バンメン”を提供している店は驪山と、福昇亭系列のみ。生碼麺も2~3店という状況であった。大正末期に創業した2店にしかバンメンなく、生碼麺も僅か。焼きそば、バンメン、生碼麺は同時に横浜からやって来たのだろうが、長野で逞しく生き残り、広がっていったのは焼きそば、だけだったということである。

 その二。バンメンを提供する店は長野にたった2店(2系統)しかないのに、その2店、すなわち驪山(竹之家・石田 華氏)と、初代福昇亭(小松福平氏)の関係性について着目あるいは言及した記事やブログ等は皆無、であった。これは、“バンメン”という料理についてのみ2店(二人)は共通項があったに過ぎないということを示している。バンメンという特異な、希少な麺料理の性格からして、これは仕方のないことだろう。この共通項を見逃され続けてきたことで、両店(両者)の関係性については無視されてきた。ボクがたまたま辨麺に対して興味を持ち、追いかけてきたからこその、今回の指摘につながったということだ。

 ☆☆この箇所の解説別途あり。と記した箇所というのは『小松福平氏があんかけ焼きそばを考案したのだが、それは長野という土地柄、海鮮類が調達し辛かったため、野菜やキノコをふんだんに使った“あん”をかけた焼きそばであった』という趣旨のことを指す。ボクはこの文面を最初に読んだ時から相当違和感を覚えていた。後段の部分の冊子(引用元は注29参照)をママ引用すると・・・
 『あんかけ焼きそばといえば、海鮮が入ったあんを想像するが、福昇亭には入っていなかった。当時、海鮮類は値段も高く、さらに山国ということもあり、手に入り辛かったのだ。そこで地元で採れるキャベツやニンジン、タケノコなどの野菜を使った、東北信エリアで広く親しまれる信州流のあんかけ焼きそばが誕生した』。
 
 前段の観光宣伝協議会公式サイトの文面も同様であるが、この二つの文章の趣旨は『海鮮類が入ったあん、ではなく、野菜やキノコが主体のあん、であって、それが長野流』ということだ。文章に、そして福昇亭の功績にケチをつけるつもりは毛頭ないことはお断りをしておく。しかし、長野流あんかけ焼きそばの元は“海鮮類が入ったあん”だけれど、それが入手し辛いから“野菜やキノコが中心”になった、という風に解釈するのが自然である。つまり、長野流あんかけ焼きそばは、まったくのオリジナルではなく、おそらくは横浜から持ち込まれた“海鮮入りのあんかけ焼きそば”がベースになっていて、これは研究会が指摘されていた『明治後期に横浜で食べられ始めた炒麺(焼きそば)は、昭和初期まであんかけカタヤキ(そば)が主流であった』ものであり、当然海鮮類も入っていた、ということになるだろう。


(横浜中華街「清風楼」辨麺イラスト。2016年11月。RDBレヴュー投稿の際のモノ。
当該店の辨麺の撮影はご遠慮くださいとのことだったのやむを得ず、適当にPCで作成した)
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 さて、いかがであったであろう? 今まで辨麺に関しては様々な解釈、解説、研究などなどがネットで公表されてきた。しかし、六軒島萬来軒系のバンメンなり、長野の拌メンなり、それを大正期に横浜で伝わり広まったこととを結び付け、ここまで長文で書いたのはボクが初めてだろう。先ほども書いた通り、真実かそうでないかはともかく、ではあるが。

 『真実かそうでないかはともかく、であるが』。そう、本稿もまた、ボクのこの、他のブログシリーズ同様、真実と創作が綯い交ぜ(ないまぜ)になっている。できるだけ真実に迫りたいと考えるものの、本稿のテーマも百年も前のこと、関係者の話を聞くにしても記憶違いもあるだろうし、古い資料したって誤りも当然あるだろう。それらを検証・精査をしても限界があるわけだが、そこに“想像力”という、まあ反則的なワイルドカードを切ることによって、物語は作られる。

 石田 華さん、小松福平さん、あなた方お二人は横浜の何という店で働いて、どうして長野に来て、なぜ二人別々の地で店を開いたの? 幡ヶ谷で萬来軒を開いた下山さん、あなたは横浜のどこかの店で働いていたのではないですか?

 そんな問いに、答えが返ってくるはずもなく。ボクは手元に集めた資料史料や雑誌などを基に、こんなことがあったのだろうな、こう考えないと後世の事実と辻褄が合わない・・・といった事柄を文章にして、物語を作った。これを読んでくださっている方々、本当のこと、事実であったであろうこと、それはあなたがまた考えて、あなたの物語を作ればいい。ボクは作った物語は、一つの可能性を示したに過ぎないのだから。

 そしてもう一つ。

 新幹線で上田で下車すりゃあ、此処に行くといい。昭和30年代の東京のどこかの繁華街、それもバーやクラブが立ち並ぶ少々場末感の漂う飲み屋街の、正午ちょっと過ぎたあたり。そんな立地に小洒落た日式中華店の趣・・・いやいや、なんとなくテレビドラマか映画で見たような戦前の満州のような雰囲気さえ漂う、それが現在の福昇亭。客はひっきりなしに訪れるから、時間はゆるりと流れるものの、店は生き物のように活気に満ちる。頂くものは、大正期から昭和初期にかけてずっと長野に伝わるカタヤキソバか、C#4 の汽笛が響く港町横濱から運ばれたバンメンか。
 新幹線が味気ないというのなら、中央線特急のあずさで松本に向かえばいいさ。松本に着いたなら五重六階の天守を誇る松本城を眺めて戦国の世に思いを馳せ、余韻をそのまま驪山に向かおう。粋な調度品を目で楽しみながら音の消えたような空間で、パリパリと心地よく響くカタヤキソバを喰らうもよし、池波正太郎が愛してやまない叉焼入りのバンメンを喰うもよし。普段旨い食い物は食べ飽きたと仰せの貴方と貴女、大正ロマン漂う日式中華を堪能し給え。

 福昇亭、驪山。もちろん長野には旨い店がもっともっとあるだろうが、こういう店に一度は行って食べてみるべき、とボクは心から薦めるのだよ。

 さて。
 今まで淺草來々軒のこと、まあそれは・・・日本最初のラーメン専門店ではないことは、研究会さんが先に公表されたのだけれど、岐阜の丸デブや高山ラーメンとの関係、旭川ラーメンの発祥の話、“現役最古参”の可能性がある沖縄のきしもと食堂と沖縄そば誕生の物語などなど、ボクの想像が相当混ざってしまったご批判はあろうが、明治期以降のラーメンの歴史についてその一端をネットで公表できたことは、人生の最期に、「よくできました」と花丸印の判を、自分で押印してあげたようなもの、言ってみれば「自分への最後のご褒美」ということでご勘弁願いたい。

 時間があれば、全国のご当地ラーメンの歴史などもきちんとまとめておきたいと考えていたわけだが、残念ながらその時間はもう、ない。おそらくこれが、ボクの『拉麺歴史発掘』の最後のテーマになってしまうのは、本当に無念極まりないが、まあ、それもまた、人生。

 人生、ね。

 ボクの64年近くの人生。今更ながら思う。若い時から、いまわの際(きわ)に後悔していたら死んでも死にきれないよな、と意識して生きてきたから、今のボクは露ほどの後悔もないし、やり残したこともない。その意味で、ボクは幸せな人生を送ってきた。もちろん人知れず泣いたこと、何日も眠れないほど悔しい思いをしたこと、他人を悪魔のように呪ったこと、そんなことは多分人並みに経験してきた。しかしそうした思いも、楽しく嬉しい時間も、全部ひっくるめて、ボクはボクの自分の人生が限りなく愛おしい。できることならもう少し、この世界で生きたい。生きて、まだその人生を第三者的に愛でていたい。“そのとき”が来るまで、生きていることを楽しみ、そんなことを意識していたい。

 今まで多くの方と出会い、同じ数ほどの人々と別れてきた。こうしてこれを読んでくださっている方も含め、ボクに関わったすべての方々に深い感謝の気持ちを申し上げ、本稿、校了としたい。

 ありがとうございました。

 もし、幸運にもまだボクに時間があればこのブログは続けたいし、RDBの投稿も続けたい。髙橋さんが淺草に來々軒をオープンさせる。そしてボクがそこに食べに行って、舌鼓を打てたとしたら、それは間違いなく・・・鬼籍に入る前の、奇跡である。

 そんな駄洒落が実際になることは、あるのか、ないのか。

 ボクはまだ、人生に与えられていたはずの“幸運”というカードを、まだすべて使い切っていないはず。だとしたら、きっと、またお逢いできるはず、なのではあるけれど。

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 Special thanks to (敬称略、順不同)

RDBレヴュワー
いたのーじ (RDBのご本人のページ⇒
ぬこ横浜 (RDBのご本人のページ⇒

近代食文化研究会(「お好み焼きの物語」等の著者)
塩崎 省吾(『焼きそばの歴史』上下巻著者。
髙橋 雄作(淺草來々軒創業者・尾崎寛一氏の玄孫)

nako(辨麺を研究され、ブログ等で情報を発信されている方。
研究論文は↓

 ☆藤ノ木 久史(株式会社萬来軒代表取締役、中華麺屋 まんまる店主。

 ☆そのほか、驪山、福昇亭、水元萬来軒、流山萬来軒等々、商売のさなかの御多忙中にも関わらずお話をお聞かせくださったお店とその関係者の皆様。

 以上、皆々様のご健勝と今後のご活躍・ご発展を心から祈念申し上げます。

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注26 長谷川 伸⇒作家。1884年~1963年。横浜市の日ノ出町で生まれる。股旅(またたび)物の創始者とも呼ばれる。作品に「瞼(まぶた)の母」「一本刀土俵入」など。
注27 蓬莱閣⇒横浜市中区山下町189、横浜中華街所在。1959=昭和34年創業)
注28 徳記⇒横浜市中区山下町166、横浜中華街所在。1945=昭和20年創業。当初は製麺所であった)
注29 初代福昇亭にかかわる詳しい記述がある雑誌⇒komachi2022~2023 信州おいしい〇プチ旅『信州おでかけガイド』。編集・発行・発売 株式会社長野こまち、2022年4月1日付発行。特集「あんかけ焼きそば」から抜粋」)。
注30 権堂商店街、権堂アーケード⇒長野市権堂商店街協同組合のHPから抜粋。https://nagano-gondo.com/)


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