拉麺歴史発掘館

淺草・來々軒の本当の姿、各地ご当地ラーメン誕生の別解釈等、あまり今まで触れられなかっらラーメンの歴史を発掘しています。

拉麺歴史発掘館 INDEX

2022年12月08日 | ラーメン
 明治期に大陸から伝わった「ラーメン」。支那そば、中華そばとも呼ばれ、いまでは日本食を代表する「食」となり、海外あちこちに日本ブランドのラーメン店が進出するまでになった。

 この拉麺歴史発掘館では、創業50年超のラーメン店リストを紹介しつつ、ラーメンの埋もれた歴史や、ご当地ラーメン誕生の別解釈等々、史実と資料・史料を基にしながら、筆者(ボク)の独自視点などを取り入れた物語などをお伝えしている。

 暇つぶしにご利用を!

【INDEX】

2022年12月NEW!!
横濱、東京、千葉、そして長野へ。謎に満ちたラーメン界の
シーラカンス「辨麺」の真実に迫る!!

【2020年12月8日 大正初期の「辦麺」は「冷やしそば」
であった! 衝撃の事実・・・取り合えず Ⅱ へ
詳しくは2022年中に公開いたします】

(上田「福昇亭」 2022年9月)


【2022年8月11日 本篇UP!! 全2頁】
【2022年8月19日 検証篇UP!!】

【2020年3月UP 全4頁】

【2021年7月UP 全6頁】

【2021年9月UP 全4頁】

【2021年12月UP  ■2022年7月修正

【2017年12月UP 最終更新2022年9月

【2017年12月UP!!】

【2017年12月UP、全4頁  ■最終更新2022年7月 随時更新!!









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ノスタルジックラーメンⅣ 東京都市町村・横浜市内・千葉 1975(昭和49)年以前創業店

2022年10月18日 | ラーメン
ノスタルジックラーメンⅣ 
東京都市町村・横浜(一部千葉) 老舗ラーメン1975年以前創業

2017.12初稿UP。その時点での現存店。2019年12月加筆・修正。
2020年1月大幅加筆・修正。以後、随時修正中です。
2020年10月、千葉県内店を調査開始、随時掲載中。
※=管理人実食済、リンク先はラーメンデータベース
店舗名後ろの★印=辨麺(汁あり)提供店。
「辨麺」についてはコチラをご覧ください。
※店舗創業年は、末尾記載の書籍・雑誌等から情報を得、店舗公式サイトやWEBマガジン等インターネットでの情報等で裏付けなどをして記載したものです。間違いがある場合もありますので、情報等を最下段コメントにてお寄せいただければ幸いです。


1868 明治元 田中家 京成中山(法華経寺参道) *ラーメンの提供開始時期は相当後からと思われる。


(明治元年創業 法華経寺参道にある田中家)



1912 大正元 ※福来軒 立川 
*創業時は立川駅北口。ラーメンの提供は少し後。

1916 大正5  ※のんきや 奥多摩


1924 大正13 ※萬来軒 府中

1927 大正2 四つ角飯店 立川 *一旦閉店後、2014年に再開。

1930 昭和5ごろ ※手打ちラーメン三玉家 青梅
1933 昭和9  ※ホープ軒本舗 吉祥寺

1946 昭和21 ※たちばな家 檜原村
1950 昭和25 偕楽 青梅 
1954 昭和29 珍々亭 武蔵境

1959 昭和34 ※初富士 西八王子
1960 昭和35 スンガリー飯店 東府中
1963 昭和38 萬栄軒 西東京市東伏見(西武柳沢)

1965 昭和40 大勝軒 喜多見 喜多見(狛江市)
        安楽 三鷹
                        丸信中華そば 国立市富士見台(南武線谷保駅)
1968 昭和43 杏苑 三鷹1971 昭和46 宝華らぁめん 立川南
横浜市内(中華街は別掲)
1908 明治41  ※華香亭本店★ 山手
1910 明治43  ※旭酒楼  石川町
1910 明治43  ※旭 石川町*旭酒楼四代目のラーメン専門店

(横浜・石川町 旭酒楼
1915 大正4  ※玉泉亭本店★  伊勢佐木町
1916 大正5  ※奇珍楼★ 山手

1927 昭和2 太田樓 蒔田
1932 昭和7 ※三渓楼★ 山手
1939 昭和14 ※酔来軒 阪東橋

(阪東橋・酔来軒の葱叉焼麺

1939 昭和14 ※中華八景堂 金沢八景

1945 昭和20 中国料理 美珍  白楽
1945 昭和20ごろ 中華料理 平安  蒔田
1947 昭和22    ※清華ラーメン 上大岡
1949 昭和24 ※萬里本店 野毛
1949 昭和24 ※中華でぶそば 大船


1951 昭和26 ※レストランすいれん 日ノ出町 
*2017年に管理人が出向いた際にはラーメン類の提供は終えて洋食のみであった。2019年9月発行の「ぴあ 絶品 横浜の町中華」(ぴあmook)では生碼麺を提供している、とある。
1954 昭和29 ※中華料理うらふね 阪東橋(市大センター病院前)
1954 昭和29 おがさや 菊名
1954 昭和29 ※しなのそば仙之助 横浜駅西口地下街 
*八仙閣(杏仁坊)の創業年で、二代目が現店舗を復活させている。

1958 昭和33 ※紅花 関内

(関内・紅花の生馬麺

1959 昭和34 ※第一亭 野毛
1961 昭和36    ※コトブキ亭★  伊勢佐木町
1961 昭和36ごろ ※生香園 本館 馬車道
1963 昭和38  ※三幸苑  桜木町
1964 昭和39 大連 戸部 *創業地は五反田。2015年に戸部で再開。
1964 昭和39より数年前 ※鴻 横浜・石川町
*前身の真金町「鴻楽」の開店時期)

1965 昭和40 明華 菊名
1967 昭和42 ※南京亭 東神奈川(所在地は西神奈川)

(横浜 東神奈川・南京亭の生馬麺

1967 昭和42 ※佐野金総本店 上大岡
1968 昭和43 ※中華料理 萬福★  日ノ出町
1968 昭和43 皆楽亭 西横浜
1968 昭和43 小麦のかおり永福拉麺 六ッ川(弘明寺)
1967 昭和44より以前  ※中華料理 一番本店   阪東橋
1971 昭和46 ※龍味(りゅうまい) 横浜駅西口地下街
1973 昭和48 ※翠園(みどりえん) 関内 
*1975年創業(「ぴあ ぜっぴん横浜の町中華」)との記載もある。

(関内・翠園のねぎそば

1973 昭和48 グリル来来(らいらい) 鶴見市場
1974 昭和48 ※吉村家 横浜駅(創業は新杉田)
1974 昭和48 ※太源 関内・伊勢佐木町
1974 昭和49  ※マリモラーメン  横浜駅西口

1975 昭和50 鳳華飯店笹下本店  笹下(港南中央)
1975 昭和50ごろ ※鶴廣  横浜・鶴屋町



横浜中華街
1884 明治17    ※聘珍樓横浜本店    
※聘珍楼横浜本店は2022年5月15日、「移転のため」クローズ。その後、同年6月2日に運営企業の破産が公表された。賃料等が負担となっておりコロナ禍以前より移転を模索していたが、コロナにより大規模宴会の中止などで店舗運営が困難となった。負債総額は約3億円。移転して再開するかは不明である。本店とは切り離されている別の運営企業が日比谷・吉祥寺・大阪・小倉で営業している。


1892 明治25 ※萬珍樓本店  

?  明治期  ※中華菜館 同發 本館 *公式サイトなどには『焼き物・乾物の店として明治に創業』とあるが、中華店としては「戦後」の記載もある。
 
1923 大正12 金陵(酒家) 
1926 大正15 ※一楽 
1926 大正15 ※翠香園 
1926 大正15 ※福養軒 
大正時代    萬来亭 (市場通り南端)

1932 昭和7   ※安記 
1936 昭和11 ※海員閣 (南京路)
1939 昭和14 華正楼 

1945 昭和20  ※清風楼
1945 昭和20 徳記(開廷廟通り脇)*創業時は製麺所。  
1947 昭和22 大珍楼 
1952 昭和27 横浜大飯店 
1954 昭和29 ※廣新樓(上海路)

1955 昭和30 ※状元樓 本店

1956 昭和31 海南飯店
1958 昭和33 蓬莱閣 (一説に1959年創業)
1959 昭和34 重慶飯店 
1961 昭和36 廣東飯店 

1969 昭和44 ※保昌 
1969 昭和44 ※長崎屋 
1969 昭和44 慶華飯店(広東路)

(横浜中華街・聘珍樓


創業年調査中

・中華料理 大吉亭 伊勢佐木長者町
・※元祖十八番 阪東橋



参考書籍等:発行順、★=単行本 ☆=MOOK本、雑誌 
★「トーキョーノスタルジックラーメン」山路力哉・幹書房(2008年6月刊)
★「日本ラーメン秘史」大崎裕史・日本経済出版社(2011年10月刊)
★「町中華とはなんだ 昭和の味を食べに行こう」町中華探検隊・立東舎(2016年8月刊)
☆「町の中華」BRUTUS833号・マガジンハウス(2016年10月刊)
★「東京ノスタルジック町中華」タツミMOOK・辰巳出版(2016年11月刊)
☆「みんなの町中華」散歩の達人 2018年1月号・交通新聞社(2017年12月刊)
☆「絶品!町中華 首都圏版」ぴあMOOK・ぴあ株式会社(2018年12月刊)
☆「定食マニア」散歩の達人 2019年2月号(2019年1月刊)
★「町中華探検隊がゆく!」町中華探検隊・交通新聞社(2019年2月刊)
☆「塩・醤油 しみるラーメン」おとなの週末2019年2月号・講談社ビーシー(2019年2月刊)
☆「昭和の東京を歩く」散歩の達人 2019年7月号(2019年6月刊)
☆「絶品!横浜の町中華」ぴあMOOK・ぴあ株式会社(2019年9月刊)
☆「荻窪・西荻窪」散歩の達人 2019年11月号(2019年10月刊)



【検証篇】沖縄と東京、そして岐阜、高山。120年近くの時を超えた出逢い ~沖縄そばと、東京支那そばの、必然的な相似点~

2022年08月19日 | ラーメン
 本編で触れたように、きしもと食堂をはじめとする沖縄そばのスープに欠かせない素材は「豚」と「かつお節」である。この二つの素材は、琉球料理の「味わい」を演出するのに欠かせない出汁素材であることも書いたとおりである。
 それではなぜ、この二つの素材が沖縄そばと、その基礎となっている琉球料理に欠かせないのか? 本編でも少し紹介した近代食文化研究会(以下「研究会」)から寄せられた情報も含め、本編内容を敢えて『検証』してみたい。

□豚□
 本編でも引用した沖縄県の公式サイトの中、『沖縄の伝統的な食文化の保存・普及・継承について』で、琉球料理は「本土のように食肉禁忌の影響が少なく、肉食文化が発達しており、特に豚肉食習が根強い」と指摘している。確かに沖縄(琉球)料理には豚肉が登場することが多い。なぜ、沖縄では本土よりも早くから豚肉を食する習慣ができたのか。

 これはやはり中国からやって来た冊封使の存在が大きいようだ。彼らは4か月から8か月もの間、500人ほどの大人数でやって来た。だから食事も大量に用意する必要に迫られた。とりわけ一行は豚肉を好んだため、その調達に地元の人々は大層苦労したという。「全集日本の食文化 第8巻 異文化との接触と受容」注20では、『豚肉が(沖縄の)肉食文化の主流になった背景には冊封使の存在がある。冊封使達の供応には豚が必要であった。そのため(琉球)王府は養豚を奨励』したとあり、『冊封使の食糧支給に、島内の豚だけでは足りず、永良部・大島など近隣から買い集めた』(季刊誌「新沖縄文学 第54号」。注21)のである。

 結果として『飼料となる甘藷(かんしょ。注22)も普及し、豚の飼育も各地へと広がっていきました。こうして各地で豚の飼育が普及し、豚肉が主要な食材となる沖縄の食文化が広まっていった』(沖縄県畜産振興公社公式サイト。注23)。また、食という本来の目的のほかに、利殖を図るために『大正末期ころまで、那覇、首里でも多くの主婦たちが副業に一、二頭の子豚を飼育』(「聞き書 沖縄の食事」より。注24)されていたともという。沖縄(の人々)は、豚について『「鳴き声とひづめ以外は食べる」「ブタに始まり、ブタに終わる」ともいわれ、肉の他に、顔や耳の皮、足、内臓まで無駄なく使う習慣があります』注25とまで言われているのだ。

 「沖縄大百科事典 下」注26では、豚肉料理について『琉球料理のなかで最も代表的な料理』とし、以下のように解説している。

 『豚料理の発達した理由として、安価な芋飼料に恵まれていたこと、気候が養豚に適し、沖縄の人の嗜好にあっていたこと、冊封使の接待料理として需要が大きかったこと、救荒用家畜として重要な役目を果たしていたことなどがあげられる』。

 先ほども引用した沖縄県畜産振興公社の公式サイトには、興味深いこんな記述もある。

 『一般庶民は日常生活の粗食の中で、効率良く栄養をたっぷり摂取できる料理をあみだしていきます。そして単に豚肉を食べるのではなく、脂肪をしっかり落として調理することで、余分な脂肪分を摂らずに、必要な栄養分だけ摂取するという食文化が育まれていきました』。

 沖縄そばのスープ素材に豚を多用しながら脂分が少ないのは、獣臭さを除するということもあっただろうが、『余分な脂分を落として必要なモノだけ使う』という沖縄の食文化が育っていたという側面が大きいのであろう。



 なお、研究会は「東京におけるラーメン和風化の決め手は蕎麦屋によるラーメンの取り込みだと思っている」注27としている。また「日露戦争の影響で牛肉が不足、豚肉に取って代わられていて、淺草來々軒開業以前から東京人は豚肉慣れしていた。日露戦争後に東京人が豚肉慣れしたことが、淺草來々軒などの中華料理勃興の一因なのでは」という点も指摘している。ボクはブログで淺草來々軒が「明治末期創業時から提供していた支那そばの和風的なスープを、大正半ばから豚を前面に出したスープに大きく変更した」と推測しているが、その一つの背景に“東京に暮らす人たちの豚肉慣れ”があったのかも知れない、と感じている。

□鰹□
 豚とともに、スープ素材に欠かせないもう一つの材料、「かつお(節)」。あとでまた引用するのだが、2014年に開催された立教大学の公開シンポジウム“南洋と沖縄”の中で元埼玉大学教授の藤林泰氏(以下”藤林氏の報告”とする。注28)は『沖縄そばがお好きな方も多いと思いますが、かつお出汁抜きには沖縄そばは語れません』と話しておいでだ。

 研究会から連絡を頂いた中にこうした指摘もあった。研究会の引用元は、“豚”の項でも引用した「聞き書 沖縄の食事」である。

 指摘によれば、
 『那覇ではかつおだしが基本のだしで、味噌汁などに使われて』いて、歴史を辿っていくと『沖縄のかつお漁業は、かつお節の製造と合わせて古い歴史を持つ漁業で、大正時代は全国第三位の生産量を誇っていた』、『(八重山では)昭和の初期から、かつお漁がさかんになり、かつおが安く手に入るようになって、ふだんのおかずとしても利用している』。

 このように、“大正期から昭和初期”にかけては、沖縄の鰹漁は盛んであって、かつ一般家庭でも味噌汁などに多用されていたようである。現在でも沖縄の鰹節を他県に比較して相当多く消費しているというこんなデータもある。

≪令和2年 鰹節・削り節の地方別購入数量“二人以上の世帯”(注29)
 全国平均223(グラム。以下同じ)。地方別→北海道189、関東209、東海269、四国197、九州213・・・沖縄992。
 なんと、全国平均の4倍以上も沖縄の人は鰹節・削り節を買っている! ところが、である。生産量は、というと

≪令和2年 節類(本節)・削り節の主な生産地と生産数量(注30)
1.鰹節 全国1位鹿児島県19,880(トン。以下同じ)、2位静岡6,909、3位以下なし
2.鰹削り節 全国1位愛媛県5,058、2位静岡県2,727、3位鹿児島県1,085、以下愛知県、兵庫県、京都府(沖縄ゼロ)。

 つまり、かつて全国有数の鰹節生産量を誇った沖縄ではあるが、今となっては鰹節の生産はされていない。これは歴史的な背景が大きいようだ。少々長くなるが書いておきたい。参考にしたのは、前述の藤林氏の報告のほか、都度記す。

 鰹節は、江戸時代半ばに広く庶民の間に使われたという。水産加工品メーカーの「にんべん」の創業者、四日市出身の髙津伊兵衛は、『日本橋四日市土手蔵(現在の野村証券日本橋本社付近)に戸板を並べて、鰹節と干魚類の商いを始めました。時は元禄12年(1699)。当社ではこの年をにんべん創業の年』(注31)としているそうだ。つまり17世紀末には、鰹節などが立派な商品として商いができるようになっていた。当時の鰹節生産地は熊野(紀伊半島南部)、土佐、薩摩、安房、伊豆あたりであったという。

 沖縄の鰹節生産はそれからずっと後のことで、1901(明治34)年、松田和三郎という本土から来た人がカツオ漁を始め、1903年に鰹節生産を始めたのが最初という。1910(明治43)年になると、沖縄県はカツオ漁や鰹節生産の技術者を宮崎県・高知県から招聘し、沖縄県内のカツオ産業が盛んな地域へ派遣した。また、明治の後半から大正期にかけて、漁船の動力化も進んでいた。

 ちなみに、沖縄本島でないが、1896(明治29)年もしくは1897年に尖閣諸島でカツオ漁が、1897年に鰹節生産が始まったという記録がある。
・「1896年 古賀辰四郎氏(注32)が尖閣諸島で沖縄でのかつお漁を始める」=ヤマキ株式会社公式サイト(注33)
・「1895年には古賀(辰四郎)氏自ら船を艤装(注34)して久場島(注35)に上陸し、1896年に同島の開拓の許可を得た後、1897年に漁夫等35名を派遣して以降、夜光貝の採取、海鳥の捕獲(羽毛の採取・剥製づくり)、鳥糞採取(肥料)、鰹漁・鰹節製造など種々の事業を展開した」=海洋政策研究所 島嶼資料センター公式サイト(注36)
 
 こうした背景があったところに、1914(大正3)年、第一次世界大戦が勃発したのである。結果はドイツ帝国やロシア帝国などの敗戦となるわけだが、このとき日本は日英同盟を理由に連合国側として参戦、ドイツに宣戦布告する。日本は戦時中、太平洋地域におけるドイツの根拠地へと進出し、ドイツなどの敗戦を受けた戦争処理の結果、南洋群島(現在の北マリアナ諸島・パラオ・マーシャル諸島・ミクロネシアなど)を委任統治領とした。実質的に日本の植民地としたのである。

 日本は1922(大正11)年、パラオに「南洋庁」を設置、カツオ漁と鰹節製造業の奨励を押し進めた。漁場調査のほか、動力船購入補助などで手厚く支援をしたのである。沖縄県でも、県による奨励策が次々と実施され、1919年には沖縄県人が南洋群島のカツオ漁に参入を始めた。結果、1937(昭和12)年には国内鰹節生産量の37%を南洋群島産が占め、1942(昭和17)年に至っては沖縄県人の保有漁船は400隻以上、沖縄県人の水産業従事者は6,000人超えた。この数字は、南洋諸島における日本人漁業従事者の92%にも達するものであった。

 こうして、沖縄におけるカツオ漁・鰹節生産は最盛期を迎えるのだが、その期間はあまりに短かった。
 1941(昭和16)年、日本軍がハワイ・真珠湾を奇襲攻撃し始まった太平洋戦争は、1945(昭和20)年8月、日本が敗れ終戦した。南洋群島におけるカツオ漁とともに、“南洋節”と呼ばれた鰹節生産も終焉の時を迎えることになる。

 しかしながら、既に豚とともに、沖縄の人々の食生活には欠かせなくなっていた鰹節である。幸い、隣県の鹿児島県は鰹節の一大生産地であった。とりわけ、鹿児島県南端の枕崎では『1707年(宝永4年)・・・この頃から枕崎で煮熟ばい乾を基礎とするかつお節製造が始まった』(枕崎市公式サイトより)とされ、『鰹節は枕崎市で全国の約5割を占める日本一の産地』となっている。さらに枕崎市と南九州市を挟んだ隣接市・指宿にある山川漁港は、1600年代初頭の薩摩藩による琉球侵攻の際、薩摩藩側の拠点となったことなど、『鹿児島県の薩摩半島の西にある山川町は、琉球王国時代から、沖縄と深いかかわりのある町』(沖縄県嘉手納町公式サイト)、『指宿市の山川港は1613年から約270年にわたって、琉球と日本との交流の玄関口でありました』(鹿児島県指宿市公式サイト)等にあるように、両県の交流が活発だった。戦争で沖縄の鰹節生産が途絶えても、枕崎・指宿(山川)で生産された鰹節は沖縄の食生活を支えてきたのであろう。




□鰹節が『勝敗』の決め手?□
 ここで那覇で“支那そばや”などが開業した年とその店の調理人の出身地、それに沖縄で鰹節が作られ始めた年の「関係性」について整理してみよう。
  • 松田和三郎が沖縄でカツオ漁を始める   1901(明治34)年
  • 那覇に支那そばや〈中国〉が開業     1902(明治35)年
  • 松田和三郎が鰹節の生産を開始      1903(明治36)年
  • 支那そばや支店 比嘉店〈沖縄〉”が開業  1905(明治38)年
  • きしもと食堂〈沖縄〉が開業       1905(明治38)年
  • “観海楼〈中国)”が開業         1907(明治40)年10月
  • “比嘉店”と“観海楼”が客の争奪戦を展開    1907(明治40)年11~12月
    〈〉内は調理人出身地
 実は、明治35年創業の“支那そばや”と、同40年の“観海楼”は同一店という指摘がある。所在地が同じであった、ということらしい。本稿では別店舗のように記述しているのだが、その理由は両店ともそれぞれ創業年とされる年の新聞に「開業広告」を出している点から、である。どちらが正しいか、これ以上検証する手立てがないのだが、此処では同一店だったと仮定して記述する(もっとも同一店でなくても同じような結果となるのだが)。

 まず、新聞記事から引用する。2018年4月16日付琉球新報社海面に掲載されたものである。
 『沖縄県内の沖縄そば店店主らでつくる「沖縄そば継承発展の会」(野崎真志会長)は15日、初めての沖縄そば屋とされる「観海楼」のメニュー「唐人そば」を約110年ぶりに再現した。関係資料に基づき、約10カ月の試行錯誤を経て再現した味をそばじょーぐー(そば好き)ら約90人が試食した。(中略)
 初の沖縄そば屋とされる観海楼は、1902年4月の琉球新報広告で「那覇市警察署下り」に「支那そばや」が開業したと紹介された。これが最も古い沖縄そば屋の記述とされ、同店は約6年間営業したという。(中略)
 再現では、スープは沖縄そばの風味を残し、しょうゆラーメン風にはならないように注意した。かつお節は県内では1903年に製造が始まったという資料があるため、今回かつお節は使わなかった。(以下略)』

 此処でのポイントは三つ。
一、「沖縄そば継承発展の会」という団体がかつて存在した「観海楼」の味を“再現”することを試みた、という点。
二、前述のとおり、「支那そばや」と「観海楼」は同一の店である、という点。ただし、この記事では、新聞社独自取材したものでなく、関係者の聞き取りによるもの。
三、「支那そばや」(=観海楼)の創業年は1902年、沖縄で初の鰹節生産が1903年であることから、再現に当たってはスープに鰹節を使用しなかった、点。
 余談だが、6年続いたという「支那そばや」(=観海楼)の調理人の“唐人”は、比嘉店との競争に敗れたためか、『国に帰ったということだ』(注37)そうである。

 この記事、開催した団体「沖縄そば継承発展の会」(注38)公式サイトにも「唐人そばとは」と題した紹介記事がある。内容は琉球新報と当然同じなのであるが、二つの点に注目しよう。

 『・・・沖縄での「かつお節」の始まりは、1901年に座間味島でカツオ漁が始まり、1903年にかつお節製造開始との資料がありました。そして、唐人は貝柱や干し海老を使用するが、かつお節は使わない文化。という説を考慮して、今回は「かつお節」を使用せずに仕上げました。
 「支那そば屋(唐人そば)」で働いていた比嘉氏が独立して、1905年「比嘉店」が開業します。その店のレシピには「かつお節」が使用されていました。』

注目したい二つの点とは
  • 唐人は貝柱や干し海老を使用するが、かつお節は使わない文化があったという点。
  • 1905年開業の「比嘉店」はレシピで鰹節を使用していた、とある点。ただし、比嘉店のレシピがどのような形で残っていたなどについて明らかにしていない。
 先ほど書いたように、隣県鹿児島と沖縄はすでに交流が盛んであったため20世紀初めの時点で鰹節が沖縄に全くなかったとは考えにくい。というより、このころすでに、沖縄の人々はある程度鰹節を使った料理に馴染んでいたと考えるのが正しいのではないか。だから「支那そばや」の“支那そば”スープ素材に鰹節が入っていても違和感はないのだが、「唐人は鰹節を使わない文化」に着目すれば「観海楼のものには鰹節は入っていなかった」と考えるのが自然だ。この際、 “支那そばや(唐人そば)=観海楼”という図式が成り立とうとそうでなかろうと両店の調理人が“唐人”であったから鰹節は使わなかった、ことになる。

 “比嘉店”と“支那そばや(観海楼)”との際は「ヒラヤーチ」の有無であったが、客の争奪戦で“比嘉店”が優位に立ったのは、それよりも馴染みのあった鰹節を使った”比嘉店“のスープに、沖縄の人々は軍配を挙げた、とボクは考えている。


(ヒラヤーチ)

 豚と鰹(節)。“比嘉店”が勝ったその理由は、琉球料理の“味わい”の基となる出汁素材を使ったスープだった・・・だからこそ、である。

□沖縄(琉球)料理の『鰹節と水質の関係』□
 鰹節(と昆布)がいつから国内で使われてきたか。書くにあたっては信頼性の高い、非常にいい資料がWeb上にあったので、そこから引用する。タイトルは「ミニ電子展示 本の万華鏡」で運営は国立国会図書館(注39)、である。

 「日本の文献に昆布が登場する最古の例は、『続日本紀』霊亀元(715)年冬十月丁丑条とされて」いるそうで、「一方、鰹は天平宝字元(757)年に施行された法令である養老令の注釈書『令集解』にその名が見られ」るという。相当に古い歴史があるものの、「時代とともに鰹や昆布の利用方法は変化していき、鰹や昆布をそのまま食べるだけでなく、煮出してそのうま味を引き出した”だし”として料理に使用されるように」なっていった。「現代の”だし”に相当するものが最初に登場するのは「室町時代に始まったとされる日本料理の流派、大草流の相伝書として、『群書類従』に収録されている料理書で、室町時代の後期の資料と推定され、白鳥を煮て調理する際に”にたし”という鰹節を用いた”だし”や、”だし”をとる際にだし袋を使用していたという記述が見られます。現在、これが”だし”に関する最も古い記述とされて」いるそうである。室町時代初期、というから、14世紀半ば、ということになる。

 また、戦国時代(15世紀末から16世紀末)には、「かつお節(鰹節)は梅干と共に携帯しやすい兵食として広がり、名前の語呂でもある“勝男武士”とも相まって、縁起の良い、貴重な食材としてその地位を確立した」(一般社団法人日本鰹節協会公式サイトより)。



 いずれにせよ、沖縄の鰹節生産が始まるかなり前から、鰹節を出汁とした料理はあったということであり、「江戸時代には”だし”は日本料理の中に定着し、日本食文化の中核に位置づけられるように」なっていた。

 「本の万華鏡」の中で、昆布については沖縄(琉球)に渡った時期が記されている。それによると、
 『江戸時代の中頃から幕末にかけて成立した昆布の流通網は、現在では「昆布ロード」と呼ばれています。”昆布ロード”の確立とともに昆布の消費地も江戸や九州、琉球にまで広が』ったそうである。琉球に伝わったのは「18世紀以降」との記録もあることから1700年代後半、流通網の確立は幕末のころ、すなわち1860年代まで、と推測される。

 一方、鰹節。「関東では主に鰹節が使われ」たが、「関西では主に昆布が使われるように」なったそうだ。生産と流通の関係のほか、水質の影響も大きかったという。これだと沖縄には昆布より遅れて鰹節が伝わったことになろう・・・と、考えるのが普通かも知れないが、ボクが考えるに、この「水質」という問題が逆に沖縄においての鰹節普及を早めた可能性があるのではないか? これはあとで詳しく書く。

 まず、沖縄の水、である。那覇市によれば「沖縄本島は、中・南部の地域が石灰岩層から形成されていますので、その影響を受けた井戸水や地下水は硬水になり、硬度が高くなって」いる(注40)

 ボクは今年初めて名護から少し入った今帰仁(なきじん)の宿に2泊した。驚いたことがいくつかあったのだが、その一つが「水質」であった。宿のオーナーシェフが言うに「このあたりの水道水は料理に使えないほどの硬質で、たとえば水洗トイレなんかはカルシウム成分が固まってすぐ水が詰まってしまう」と嘆いておいでだった。

 水の硬度はカルシウムやマグネシウムの含有量に左右され、沖縄の水道水は、水地域によって硬度に相当な違いがあるというが、たとえば那覇エリアでは平成4年に180mg/L程度という値があったとされる。日本国内では300mg/L(水1リットル中に炭酸カルシウムとして300mg)以下となるよう基準が設定されているからそれ自体に問題はない。WHO基準では120mg/Lを超えると「硬水」、180mg/L以上だと「非常に硬水」と分類される。現在では那覇エリアでもそれほどの値は出ないそうではあるが、かつての那覇では「相当な硬水」であったことは間違いない。それはまた、上水道が整備される以前から、料理する者にとっては厄介なことだったであろう。

 沖縄県の水道事業を所管する県企業局によれば(注41)、「沖縄は亜熱帯性の地域で、全国に比べて年間に降る雨の量は多いですが、梅雨や台風の季節に集中することや島に大きな河川がないことなどから飲み水には恵まれない地域でした。そのため、水道ができる以前は、雨水や“村ガー”と呼ばれる井戸や湧き水に頼って」いた時代が長く続いた。1883年(明治16)年~1884(明治17)年、「湧き水の水を土管で引き、一般に給水」したこともあったそうだが、一般的な上水道の整備は、1933(昭和8)年に那覇に誕生するまで待たなければならなかった。その水道も、1944(昭和19)年10月の米軍の沖縄大空襲によりすべて破壊され、以後7年に亘って水道空白期間が生じたという。このように、戦後しばらくまでの期間、沖縄では水の問題が残っていた。

 次に、昆布と鰹節の沖縄への伝わり方である。この二つには流通ルートの成立からしてまず大きく違う。先に触れた「本の万華鏡」の中で昆布ロードは、江戸時代の中頃から幕末にかけて成立した、とあった。昆布の一大生産地と言えば北海道であったから、『昆布は北前船で北海道から大阪へ運ばれると、まず上質な昆布から売れていき、大阪で売れ残ったものが江戸で消費された』。このため、江戸では昆布を使うことがあまり好まれなかったのだ。

 一方、鰹節の生産量は前述のとおり、圧倒的に沖縄の隣県・鹿児島だ。さらに、四国・土佐(高知)でも盛んであった。逆に良質な昆布が優先的に運ばれる北陸地方や、煮干しが捕れる瀬戸内、その反対側にある四国の日本海側から北陸にかけてはアゴ(飛魚)の産地であったことから鰹節の需要はあまりなく、流通ルートはあまり作られなかった。

 こうしたことから、先にも紹介したが元禄時代に創業した「株式会社にんべん」によれば『江戸の初期から、外国船により長崎港・平戸港を出発して南方や中国(明・清)へ輸出される鰹節の中継港であったのと、薩摩藩が領内産鰹節の中国向け輸出基地としたこと』で、沖縄への流通は自然と確立され、結果的に『鰹節だしが沖縄の食文化に根付くことに』なったとしている。

 次に、水質、に戻る。「食の万華鏡」によれば『硬度が低い関西の水は昆布だしを引き出すのに適していますが、硬度が高い関東の水は関西に比べ昆布だしが出にくいといわれています。そのため、濃い“だし”を取るために、関東では鰹節が主に使われるようになったとされて』いる。そして、沖縄、である。沖縄は地域によって差はあるにせよ、那覇の水は非常に硬度が高い。そして放送大学・沖縄学習センター客員教員、森山克子氏によれば『琉球料理は旨味を大切にします。だしなど手抜きをしないでつくります。沖縄県民の多くは、中国の影響をうけて濃厚なだしを好』んでいたのだ(注42)

 昆布の流通ルートから外れるも、鰹節の一大産地・鹿児島や高知に近かった沖縄は、古くからの中国・冊封使の来訪、さらに硬質な水質などなど、まさに“歴史と自然”の必然的な出逢いによって、濃厚な鰹節食文化が作られていた。だからこそ、その文化を取り入れた「比嘉店」が「支那そばや」より支持を集めたのは当然すぎる結果だったのだ。

 沖縄そばの歩みは、明治末期からそう進んでいない。それは人々が求める姿であるからだ。そしてその基となるものは、江戸時代から関東でも好まれていた鰹節の醸し出す深く濃い味わいだったのである。そして、沖縄では古来中国から伝わってきた豚を味わう文化があり、関東では日露戦争後に訪れた豚肉忌避傾向否定の動きもあった。これらは先ほども述べたように、長い歴史と、その地が置かれた自然とが、必然的に出会って醸成されたその土地の食文化である。それが1600kmも離れた地で、時期をほぼ同じくして、同じようなテイストを持つ麺の文化となって誕生し、その先もずっと続いていくことなど、当時の人々は予想だにしなかったであろう。

 淺草來々軒はもうとうにないが、その系譜に連なる岐阜・丸デブと、沖縄のきしもと食堂。歴史はまだ、その、途中。
 


(上:きしもと食堂の「そば 小」、下:丸デブの「中華そば」)

□検証篇のあとがきに代えて 研究会に感謝□
 この「検証篇」は当初書く気はなかった。ただ、まとめている最中、検証篇以外の本文だけでは薄っぺらい感はずっと拭えなかったのは確か。とはいえ、沖縄の食文化に詳しくはないどころか、ほとんど知識はないボクのこと、沖縄の食の歴史に踏み込んでも書ききれないと感じていた。それでも多少は、鰹節や沖縄の豚については調べてはいたのだが。

 本編をネット上に試験的に上げた際、近代食文化研究会にメールで「何かご意見があれば」と連絡を取った。研究会から早速ご返事を頂き、いくつかご指摘をいただいたのと同時に、豚出汁・鰹出汁についても情報を頂いた。「やっぱり本編だけでは薄っぺらだよな」と“反省”して、この“検証篇”をまとめるに至った。

 研究会の著作は題材が幅広く、調査は綿密で、内容も深い。ボクのネット文章と比較するべくもないのだが、こうして助言などを頂戴できること、ただ感謝しかない。この場を借りて深く御礼申し上げたい。

 沖縄から戻って一月以上たつが、あまり体調がすぐれない。途中、2週間ほど入院することになったし、退院後も食事が摂れず、ベッドで横になっている時間が増えた。それでもこの先、時間と遊ぶ金が許す限り、ボクはまだ動くことを諦めない。

 次回は、ご当地ラーメン総ざらえ、と行きたいが、それほどの時間は残されたいないだろうから、ひとつ、ずつ。まずは北陸あたりから。

 それでは、また、きっと。

(2022年8月 そろそろ、処暑。)



(注21 季刊誌「新沖縄文学 第54号」⇒”特集=食の文化史ー沖縄の風土と食物” 沖縄タイムス社/編、川満 信一/編、沖縄タイムス、1982年12月刊)
(注22 甘藷(かんしょ)⇒さつまいも。17世紀前後に中国から琉球を経て薩摩(鹿児島)など九州に広がった。沖縄では唐芋 (からいも) ,九州で琉球芋とも呼ばれる。以上、農林水産省HPから)
(注23 沖縄県畜産振興公社公式サイト⇒「美味(まーさん)肉ガイド」~沖縄の食肉文化と歴史 http://www.ma-san-meet.jp/guide/より。
(注24 「聞き書 沖縄の食事」⇒~日本の食生活全集47。日本の食生活全集沖縄編集委員会・編、農山漁村文化協会、1988年1月刊。
(注25 沖縄で豚の鳴き声とひづめ以外は⇒公益財団法人・オリオンビール奨学財団公式サイト ”沖縄県民のエネルギー源「豚肉」の魅力”より)
(注26 「沖縄大百科事典 下」⇒沖縄大百科事典刊行事務局・編、沖縄タイムス社。1983年5月刊)
(注27)ラーメンの和風化は蕎麦屋の取り込み⇒関連資料「身近過ぎて知らなかった! 東京のそば屋が「ラーメン」を出しているワケ」 近代食文化研究会。WEBサイト『URBAN LIFE METRO』より。https://urbanlife.tokyo/post/73078/
(注28 立教大学の公開シンポジウム「南洋と沖縄」⇒立教大学アジア地域研究所 私立大学戦略的研究基盤形成支援事業「21世紀海域学の創成」プロジェクト主催、2014年6月21日、同大学池袋キャンパス にて開催。「かつお節から見た沖縄と南洋の出会い」藤林泰氏の事例報告から引用)
(注29 鰹節・削り節の地方別購入数量⇒総務省「令和2年 家計調査年報」(二人以上の世帯)より)
(注30 節類(本節)・削り節の主な生産地と生産数量⇒農林水産省「水産物流調査、令和2年水産加工統計調査結果」より)

(注31 「にんべん」の創業年等⇒株式会社「にんべん」公式サイトより。https://www.ninben.co.jp/)
(注32 古賀辰四郎氏⇒「1856~1918。現在の(福岡県)八女市山内に製茶農家の三男として生まれる。23歳で沖縄に渡り、茶と海産物業の古賀商店を開業。1896年に明治政府から尖閣諸島の魚釣島などを借り受けると、家屋や船着き場の建設などの開拓を始め、その後、漁業やかつお節製造などを行った。その功績が認められ、1909年に藍綬褒章を受章した」。以上、西日本新聞『ワードBOX』より)
(注33 ヤマキ株式会社公式サイト⇒『沖縄×かつお節 宮古諸島におけるかつお漁の歴史 宮古・かつお漁 初期の年表』より。)
(注34 艤装⇒「造船における艤装とは、船としての機能するために必要な装置や設備の総称であり、またそれらを取り付ける作業を指す」。以上、ヤンマーホールディングス株式会社公式サイト『ボートの基礎知識』より。)
(注35 久場島⇒座間味島の南西約7㎞の海上に位置する慶良間諸島最西端の無人島。周辺はダイビングスポットとしてよく知られている」。尖閣諸島の一でもある。以上、沖縄文化・観光ポータルサイト、内閣府沖縄総合事務局 より
(注36 海洋政策研究所 島嶼資料センター公式サイト⇒笹川平和財団運営。『日本の島嶼をめぐる様々な問題に関連する文献等の史資料を収集・整理を行うことを目的に、2012年に設置』した、とある)
(注37 唐人は国に帰った・・・⇒沖縄生麺協同組合公式サイト「沖縄そばの歴史」より。
(注38 沖縄そば継承発展の会⇒一般社団法人。会の公式サイトには『志のある沖縄そば店主がお互いに協力し、各店舗では解決できない問題に取り組み、よりおいしい沖縄そばを提供するために、勉強会、経営の近代化、合理化、コスト削減、販路拡大、品質向上を図るために一般社団法人「沖縄そば発展継承の会」を設立』した、とある。公式サイトでは22店舗会員があるとのこと。URLは 
http://soba-okinawa.net
(注39 ミニ電子展示「本の万華鏡」⇒国立国会図書館が運営するWEBサイトで『様々なテーマに沿って、皆さまを国立国会図書館の蔵書の世界へと誘』う、とある。今回の引用元は同サイト「第17回 日本のだし文化とうま味の発見」から。https://www.ndl.go.jp/kaleido/entry/17/1.html)
(注40 沖縄の水は硬度が高い⇒那覇市上下水道局「水質Q&A」より

(注41 沖縄県企業局によれば⇒同局の公式サイト「沖縄の水道の歴史」より)
(注42  森山克子氏によれば⇒放送大学「【学習センター機関誌から】大人の食育④ウィズコロナの時代は【医食同源】の琉球料理で健康を」より)

【後編】沖縄と東京、そして岐阜、高山。120年近くの時を超えた出逢い ~沖縄そばと、東京支那そばの、必然的な相似点~

2022年08月11日 | ラーメン
※文中、「現在」とあるのは2022(令和4)年8月時点。
※写真は原則、著者による撮影。



(きしもと食堂の「そば(小)」。2022年7月)

その作り方も、やはり独特な沖縄そば□
 あくまでボクの個人的な思いであると断って書く。沖縄そばという麺料理は、一風変わっているように思える。理由は単純で、食べ慣れていないというのが最も大きいのではあるが、沖縄そばは日本蕎麦や饂飩とも違うし、もちろんボクたちが一般的にラーメンと呼んでいる食べ物の範疇には入らないと、食べるたびに(もっとも殆ど食べないのだが)感じるからだ。その理由は、
  1. 太い麺の食感は、ラーメン専門店のつけ麺などの太麺とは明らかに違う。饂飩のよう、と感じる人も多い。
  2. スープは脂分はほとんど感じることなく、まるで関西系の饂飩つゆのようである。
 近年の沖縄そばの麺は、中華麺同様かん水を使うことが多くなったそうだが、きしもと食堂は創業時より使用していないという。

 かん水はアルカリ塩水溶液であって、小麦粉に混ぜることで柔らかさや弾力性を持たせ、中華麺特有の麺の風味、感触、色合いを出す元、とされる。ただ、明治期の沖縄ではかん水が入手し辛く、その代用として“唐灰汁(とうあく)”を用いた、という。今でもきしもと食堂は、ガジュマルなどを燃やした際に出た「木灰(もっかい)」を水に入れてできた上澄み(灰汁)を、かん水の代わりに使っている。これもまたアルカリ性水溶液であるのだが、かん水では出せない、沖縄そば独特の歯ごたえやのど越し、風味を生み出すことができるという。ただ、これに関してボクは、まったく検証ができない。単純に分からない、からだ。

 無論、水溶液の種類だけではなく、火加減、水加減なども影響しているに違いない。きしもと食堂の厨房を見れば一般的な中華料理店と趣を異にしていることが一目でわかる。茹でる器は、鍋、というより“釜”、いやいや“窯”といった表現が近いだろう。

 スープのベースは豚と鰹。そう、琉球料理の、味わいを醸し出すという“出汁”そのものの素材を用いる。そしてそれに醤油ダレを合わせる。現代の凝ったラーメンに比べればずっとシンプルで、そして“和”的なテイストだ。そして、きしもと食堂はそれを、明治38年の創業時には”支那そば”と銘打って販売した。大正期になると、警察署長からの通達で県内全般の支那そばの名称は「琉球そば」へと変更するよう指示されたという記録もあるが、それもいつの間にか立ち消えとなり、きしもと食堂では今、単に「そば」としてだけ、品書きにして販売している。


(きしもと食堂のメニュー。これですべて。2022年7月)
 
 沖縄そば。

 沖縄には明治期まで独自の麺文化は育たなかったが、中国的な料理には馴染んでいた沖縄の人々だからこそ誕生させることのできた麺料理なのだ、とボクは考える。そしてそれは、“中国的な要素を備えた、日本的(琉球的・沖縄的)”なものだった、と言えるのではないか。


□日本的な“支那そば”が、中国的な“支那そば”を打ち破る?□
 ここで、明治中期以降大正前期までの沖縄そばの歴史を簡単にまとめておく(<>内は主要な出典元)
■1887~1897(明治20年代) 前之毛(現在の那覇市辻二丁目近辺と思われる)に唐人の経営するそば屋があった。明治23年の「沖縄県統計書」には、蕎麦屋の記述がある(日本蕎麦または沖縄そば)。<国立国会図書館Detail of reference example>
■1902(明治35)年4月9日 福永義一が大阪から清国人を雇いれ那覇警察暑近くに「支那そばや」を開業<新聞広告>
■1905(明治38)年 本部にて岸本恵愛・オミト夫妻により「きしもと食堂」が開業する<国立国会図書館Detail of reference example ほか多数>
■1905 (明治38)年11月 「支那そばや」従業員であった比嘉 牛(ウシ) が“字四前毛”にて「支那そば 比嘉店」を開業<新聞広告>。“ベェーラー(おしゃべり、の意)そば”と評判を取る。
■1907(明治40)年10月20日 “字四前之毛”にて「観海楼」開業。福州(中国福建州)出身の料理人・張添基 氏を雇い入れ、“支那麥蕎(そば。原文ママ)”・支那料理”を提供した<新聞広告>
■1907(明治40)年11月~12月 「支那そば 比嘉店」と「観海海」が客の奪い合いを展開。ヒラヤーチー(注12)を載せた「支那そば 比嘉店」が勝利する<琉球新報>
※「支那そば 比嘉店」と客の争奪戦を繰り広げたのは“唐人そば”であって、時期は1906年という記述もある<沖縄生麺協同組合公式サイト>
■1915(大正4)年 「不勉強屋」という店の広告に“琉球そば”の品書き。琉球そばの名称が出て来た最初の記録で、支那そばを琉球そばという名に変えろと言う那覇警察署長の指示であった<琉球新報>

 ここで注目すべきは、≪1907(明治40)年11月~12月 「支那そば 比嘉店」と「観海楼」が客の奪い合いを展開≫の部分である。この記述に関してはネット上に様々あるが、今回は琉球新報記事を基にする。それは1994(平成6)年2月22日付のもので、『「流文手帳」主宰の新城栄徳さん(四四)が」古い新聞や雑誌の広告を手掛かりにして調査』したものだと紹介されている。

 明治40年に那覇の前之毛で福州の料理人を雇う「観海楼」と地元の「比嘉店」が客の争奪戦をして、結果的に比嘉店が勝利をおさめたというものだ。ボクの想像も入るのではあるが、「観海楼」の調理人は「福建州出身」であり、店自体は「支那料理の店」であったのに対し、比嘉店のほうは日本人の経営であり、あくまで“支那そば”の店であった。ということは、「観海楼」は現在で言う「中華そば」的な「支那そば」を提供していたのに対し、比嘉店はヒラヤーチという、玉子を使った簡易なものとはいえ沖縄の郷土料理を添えて、地元の人の味覚にあった「琉球料理」的な「支那そば」を出していた、そして結果的に比嘉店のほうに客は集まった、というのである。いわば、『中国的な支那そばに対し、日本的(沖縄的、琉球的)な支那そばのほうが人気はあった』ということだ。

 これについて、琉球新報では新城氏の言葉を引用し『明治35年に入って来た支那そばが、このころまでには沖縄独自に発展、この味が一般に定着して支那そば本場の味が負けたのではないか。既に沖縄そばが完成したと考えられる』としている。ボクもおそらくそういうことだろうと思っている。

 比嘉 牛の店と、きしもと食堂が開業したのは同じ明治38年。比嘉 牛の店は、その3年前に開業した“支那そばや”が母体となっている。那覇と本部では結構な距離があるが、同じ島内のことである、繁盛していた“支那そばや”の味にきしもと食堂が近づいていたとしても何ら不思議はない。

 明治35年誕生の“支那そばや”と、味がまったく同じかどうか定かではないけれど、少なくとも同一系統のテイストを持つ麺料理として、きしもと食堂の“支那そば”は地元の人々に長い間、ずっとずっと親しまれ、定着した。そしてその味は今もこうして、沖縄そばとして多くの人々に愛されている。つまり、沖縄そばは、14世紀以降大陸から入ってきた中国料理を源流とし、饗応料理から宮廷料理と変遷した結果としての琉球料理を基にして、当時の沖縄の人々の味覚に合わせた麺料理として明治末期から伝わってきたもの、ということだ。


□淺草來々軒と岐阜・丸デブと、きしもと食堂の相似点□
 ボクのブログ、淺草來々軒のことを書いたシリーズもの(注13)をお読みいただいた方には、來々軒の大正7~8年ころまでの味について書いた内容を思い出していただきたい。まだお読みいただいてない方にはお読みいただくとして、そこでボクは、あくまで仮設ではあるが、淺草來々軒の正統な後継店が存在するとしたなら、それは岐阜市内所在の『丸デブ』という店である、と結論付けた。そしてその『丸デブ』のスープの味は、同じ岐阜県内の飛騨高山のラーメンに繋がっている、とも(注14)。

 
(岐阜「丸デブ」外観と中華そば。2021年7月)

 『丸デブ』、それに飛騨高山ラーメン店の代表格と言える『まさごそば』『やよいそば』『つづみそば』などで食べたことがある方はお分かりだろうが、これらの店のスープは相当な“和のテイスト”を感じさせる。とりわけ『丸デブ』に関して言えば、スープは(誤解を恐れずに書けば)まんま“蕎麦つゆ”であるし、麺に至っても食感は“日本蕎麦”なのである。もちろん、分類すればそれは蕎麦粉を使用しないから日本蕎麦ではなく、小麦を用いたラーメンであるのだが、予備知識なしで入店し目をつぶって口に入れたら「うん、なかなかの蕎麦じゃあないか」と言ってしまう方が結構多いのではないか、という感じである。



 (飛騨高山の「つづみそば」<上>と「まさごそば」<下>。2021年7月)

 『丸デブ』の創業者・神谷氏は、淺草來々軒に勤務、大正6年に岐阜に戻って屋台の引き売りから始め、現在の店を開いたという。このあたりの経緯は、Web上に現在の店主(三代目)神谷房昭氏のインタビュー記事があるので(注15)参照されたい。

 麺はともかく、岐阜丸デブ、飛騨高山のいくつかの中華そば店のスープは、多くの現代の人々が思い浮かべるラーメンのスープというよりは、蕎麦つゆに近い。そして丸デブの初代主人は大正前期に浅草來々軒の味を持ち帰り、以後味は変えずに商売をしているところから、淺草來々軒の明治43年のの創業時から大正7~8年ごろまでのスープもまた、蕎麦つゆに似ていたのではないかと推測している。

 それでもだ。

 かつての淺草來々軒も、現在の丸デブや飛騨高山の中華そばも、ラーメンとして認知されているのだ。そう考えるなら、きしもと食堂をはじめとする沖縄そばが、“支那そば”として存在したこと・していることに違和感はないのである。

 大陸から日本に入って来た麺料理=支那そば は、日本人にとっては脂っぽくとても売れないと商売人たちは判断したのだろう。淺草來々軒をはじめとした東京の支那料理店提供する支那そばは、明治末期から大正中期まではできるだけ獣臭さを排除した。出汁素材には豚などの動物系は使わないようにした、あるいは使っても少量にしたのだろう。

 一方沖縄では、琉球料理の出汁として「豚」(と鰹)を使う食文化がすでに確立されていた。そのため、支那そば提供にあたってはスープ素材に豚を用いつつ、極力獣臭さ、豚脂を感じないように調理したのではないか。

 その結果、沖縄では明治末期に、横浜や東京では大正中期までに、岐阜や高山では大正中期から昭和初期にかけて、敢えて日本人に馴染みがありそうなテイストに仕上げて「支那そば」として売り出されたのだ。


(現在の那覇空港。1936=昭和11=年に那覇飛行場として開港。人々が高速で空を
飛ぶジェット機を利用するのは1950年代に入ってからのこと。2022年7月)

 インターネットどころか電話さえ普及しておらず、航空機が空を飛ぶのはもっとずっとずっと先の時代に、淺草來々軒やその他東京、横浜の支那そば提供店と、きしもと食堂など沖縄そばの店が相互に情報を交換していたとは考えにくいが、奇しくも和テイストという共通項を持った支那そばが南関東と沖縄、1600kmほど距離を隔てた両方の地で、ほぼ同時期に誕生したのであった。それは、大陸からの食文化を歓迎しながらも、日本人、というよりは「そこに住む人々の味覚に合う」味にした。それこそがずっと培われてきたその地ならではの「食文化」になるのであろう。


□120年近くの膨大な時間が流れれば□
 今まで書いてきたように、沖縄そばは、本土の支那そばとは別の歩みを進めて来た。というより、沖縄そばはその進化を明治末期に止め、その場に留まっているようにも思える。しかし結果として、沖縄そばは、岐阜の「丸デブ」などと同様、日本人、というよりそれを口にする地の人々が慣れ親しんだものになっていた。

 すなわち、スープは“饂飩つゆ”“蕎麦つゆ”を彷彿させたものの。そして麺はきしもと食堂が饂飩に、丸デブは蕎麦の触感に似たものそのまま、になっている。そして丸デブの源流は、大正中期ころまでの淺草來々軒にある、のである。

 似たようなテイストになった・・・これは単なる偶然かも知れない。しかし、ボクはそうは思わない。

 “食文化”というものは、その国、その地域において何十年、何百年とかけて培われてきたものである。饂飩は室町時代から、蕎麦は江戸時代初期から、それぞれ現在の形と近い状態となって庶民に親しまれてきた。一方支那そばは、箱館(函館)、横浜、新潟、神戸、長崎と言った“開港5港”の都市を中心に、明治中期に、ほぼ時を同じくして日本各地に伝わった。

 支那そばは大陸から入ってきた食だから、入ってきた当初は、日本人にはかなり苦手な部分もあった。苦手と言うよりは「食べ慣れていない」と言ったほうが良いかも知れない。それはスープの材料となった豚をはじめとした“獣の脂”の存在である。独特の臭みを放ち、ちょっとくどい脂は、明治期の日本人にはすんなりと受け入れられなかった。

 明治中期から明治末期にかけて、横浜の南京街(中華街)で支那そばを食べた日本人の多くは、脂がくどくて臭みもあるその味に対してかなり戸惑ったという記録がある。だから日本の商売人は、支那そば自体は美味しいと思いながらも、商売として成功させるために客に出す際は、その地に住む人たちが慣れ親しんだ味に近づけようとした。そしてそれは「丸デブ」や飛騨高山ラーメン、あるいは沖縄そばといった商品となり、今に至る。

 鎖国から解かれた日本人はやがて速やかに西洋料理に馴染んでいくことになるが、支那そばは大陸とは違った日本独自の食・ラーメンとし変化し、そしてて進化していくことになる。太平洋戦争でラーメンだけでなくほとんどすべての日本の食文化は中断するか途絶えるかした。しかしラーメンは戦後すぐ闇市などで復活し、瞬く間に大衆の中へと再び広がっていった。現在では、我が国を代表する“日本食”になり、広く海外へと進出するまでになったほどだ。

 そのルーツこそ、淺草來々軒であり、丸デブであり、きしもと食堂なのではないか。大正期から昭和初期、さらには戦後にかけて誕生した、所謂ご当地“支那そば”はやがて、“ラーメン”という食の一大ジャンルの中に収斂されていくのだが、沖縄そばはというと、長崎のちゃんぽんと同様、誕生した当時のまま、現代に伝えられていく。

 沖縄そばや長崎ちゃんぽんは、ラーメンとは同根だ。しかし、ともにかん水を用いず木灰汁を使うなど、その製法も敢えて進化することなく、その地に合った独自の伝統的な“食、麺料理”として残ったことになる。だから人によってはラーメンとはベツモノと言い、ある人はラーメンの一種に分類する。どちらが正しく、どちらかが間違いということはない。敢えて言うなら、ラーメンも沖縄そばも長崎ちゃんぽんも、“日本独自の麺料理”のヴァリエーションの一、と言える。

 考えてみれば、我々日本人は様々に独自の麺料理を考案してきた。冷やし中華、つけ麺と言ったポピュラーなモノのほか、B級グルメの代表格ソース焼きそばは、横手(秋田)、浪江(福島)、富士宮(静岡)といった“ご当地グルメ”としても知られるようになった。小樽には“小樽あんかけ焼きそば”があるし、山形、盛岡、大分には“冷麺”もある。盛岡ではまた“じゃじゃ麺”も知られるし、名古屋には“台湾まぜそば”があり、“太平燕(たいぴーえん)”は熊本の名物である。


(大分県別府・胡月店舗と冷麺。2021年9月)

 これら中華系(?)に限ったことではない。我ら日本人は“スパゲティ・ナポリタン”という、イタリア料理にもないパスタ料理すら自分の国の食べ物にしてしまっている。さらにそのヴァリエーションとして“納豆”やら“たらこ”、“ねぎ塩”といったソースまで考案してメニューに並べているではないか。

 1905(明治38)年、「きしもと食堂」開業。日露戦争が終わったその年は、奇しくものちに「人形町大勝軒」(注16)となる店の主人が屋台を引いて支那そばを売り始めた年とも言われる。横濱・南京街(中華街)から始まった支那そばは徐々に周辺に広がり、『日露戦争が終わったころから、東京の夜の町にはチャルメラの音が悲しく響き始めた』(注17)のであった。全国の特徴あるラーメンを紹介た、所謂“ラ本”のさきがけともなったと言われる「ベスト オブ ラーメン」(注18)ではこの年、明治38年を『ラーメン八十年の歴史はここに始まったのである』と書いている。まさに、日本のラーメン史上、エポックメイキング的な年ともいえる。

 東京と、およそ1,600kmも離れた沖縄の地で、明治の終わりの、ほぼ同じころに、新たな麺料理の歴史が始まったわけである。そして沖縄そばの歴史も。ラーメンのそれも、なお今継続されており、この先さらに長くゞ続くはずだ。


(とうに閉店してしまった、かつての「人形町大勝軒」。2021年5月)

 きしもと食堂は「我が国最古の現役ラーメン専門店」なのか? そして沖縄そばはラーメンの一ヴァリエーションであるのか? 

 120年近くという膨大な時間がそこに横たわり、さらにこれからも延び続けると考えれば、どうでも良いことのように思えるし、どうしても白黒決着をつけたいのなら、それはこの先を生きていく人たちで決めればよい、とボクはそんな気がするのである。

(2022年8月中旬 脱稿)


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□あとがきに代えて ボクの病気のこと その日が来るまで□
 ボクの病気のことはブログほかで何度も書いているので、経過報告もかねて簡潔に。

 2019年正月。激しい腹痛で、松も取れぬうちに病院を受診したボクに、医師が冷徹に告げた。「大腸がんです。イレウス(腸閉塞)を起こしているし、腹水もかなり溜まっています。すぐ手術しないと数日の命と思ってください」。

 即入院、翌日手術。医療機関での勤務経験が長いボクのことだ、検査結果のステージⅲbの診断は、一定の確率で他臓器に遠隔転移することだと知っていた。定年間際の仕事も辞めて、当然、抗がん剤治療も進めたが、案の定翌2020年夏、両肺転移、除去手術。さらに翌2021年夏、多発性の肝転移、腹膜播種、おまけに原発性肝外胆管がん、発症。最悪、余命半年と無常の宣告。がん発症の少し前から淺草來々軒のことを書き始めた。もう諦めて、日本全国のラーメンの物語を書こうなんて思ってね、日本全国、いろんなところを回り始めた。それこそ北は小樽、室蘭、旭川から、南は鹿児島、宮崎、そして・・・

 今年、2022年の夏。それでもボクはまだ生きている。がん発症以来、各5回の入院と手術を繰り返したが、ベッドに縛り付けられているわけでなく、まあ、横になっていることは随分と増えたのは事実だが、それでも何とか3泊程度の国内旅行なら。

 と思って沖縄に出かけたのだが、今帰仁(なきじん)の宿ではほとんど食事が摂れず、那覇市内のホテルに移ったら熱発して動けず。コロナではなかったが、帰京後も発熱。急性閉塞性胆管炎という二度目の診断で、六度目の入院をする始末であった。

 ボクのこの世の寿命は1年とか精々持って1年半とかそんなモノ。でも、死ぬまで生きるしかないのだし、生きるのだったら楽しまなくては。だから、動けなくなるまで、そして遊ぶお金が無くなるまで、どちらが先か分からんが、ボクはまだラーメンのことを書き続けるし、そのために全国あちこち、出かけるつもり。

 ボクのその日が来るまで、ぜひお付き合いを!


(沖縄・「美ら海」の風景。また行きたいが・・・2022年7月)



他の「拉麺歴史発掘館」へ。













(注12)ヒラヤーチー⇒沖縄の卵を使った郷土料理。『小麦粉を卵とだし(または水)で溶き、ネギやニラなどを散らして焼くもの。塩味のお好み焼きのような料理で、冷蔵庫に残っている野菜や常備している食材などで作る事が多く、最近はソースをつけて食す人も多いため、「沖縄風お好み焼き」と呼ばれることがある。平たく焼くという意味で「ヒラヤーチー」といわれる。食感は韓国料理のチヂミに近い』(農林水産省“うちの郷土料理 次世代に伝えたい大切な味”より)。
(注13)ボクのブログのシリーズ (1)【其の後の、淺草來々軒を、継ぐもの】~大正・昭和の店、味、そしてご当地ラーメン~https://blog.goo.ne.jp/buruburuburuma/e/29fa0d0e620bbded30724266b78172da
(2)明治の味を紡ぐ店 ~謎めく淺草來々軒の物語 最終章~ https://blog.goo.ne.jp/buruburuburuma/e/10e274d87ab2698a1161374b2933f956
(注14)丸デブのスープ関して⇒『明治の味を紡ぐ店~謎めく淺草來々軒の物語 最終章~Vol.5』
https://blog.goo.ne.jp/buruburuburuma/e/bc1653883d33bc34e93f732b678fa9c8
(注15)丸デブ三代目主人神谷房昭氏のインタヴュー記事⇒株式会社KADOKAWA『Walkerplus』第25回“2017年で創業100周年!大正時代から変わらぬ味の中華そばが食べられる「丸デブ 総本店」2017年9月23日” https://www.walkerplus.com/trend/matome/article/120324
(注16)人形町大勝軒⇒国内に四系統あるとされるラーメン店舗群「大勝軒」系で、もっとも歴史ある系統の店舗群の本店格にあたる。初代の渡辺半之助氏が、中国人・林仁軒氏と、1905(明治38)年ごろ、屋台の引き売りを始めた。1912(大正2)年ごろに店舗を構えたという。昭和初期には浅草にも大規模な支店を構えていた。最終的に暖簾分けは17店を数えたが、現在残るのは東京・浅草橋にある店のみである。新川(茅場町)にある大勝軒飯店はかつての暖簾分け店ではあるが、現在は経営者がまったく別の人になっており、人形町系とは無関係。以上、WEBサイト「Dairy Portal Z」2020年3月11日付の「大勝軒本店四代目インヴュー記事」より。https://dailyportalz.jp/kiji/coffee-taishoken
(注17)東京の夜にチャルメラの音⇒「東京おぼえ帳」より。平山蘆江・著、[初版]住吉書店、1952年刊。最新版はウェッジ文庫、2009年2月刊。
(注18)「ベストオブラーメン」⇒(「ベストオブラーメンin pocket」)麺’s CLUB ・篇、文藝春秋、1986年3月刊。




【前篇】沖縄と東京、そして岐阜、高山。120年近くの時を超えた出逢い ~沖縄そばと、東京支那そばの、必然的な相似点~

2022年08月11日 | ラーメン
※文中、「現在」とあるのは2022(令和4)年8月時点。
※写真は原則、著者による撮影で、撮影年月を表示した


(沖縄・本部にある「きしもと食堂」。2022年7月)


□元首相が撃たれたその日。沖縄・本部。□
 強烈な日差しは、狂暴、という表現こそが相応しい。視線を泳がせば、ゆらゆらと陽炎があちらこちらで揺れている。頭上から降り注ぐような蝉の鳴き声は、そうさね、こういうことを蝉時雨と言う。

 ・・・そう、此処は沖縄、本部。創業は明治38年という「きしもと食堂」の真ん前。10数人の待ち客だ。まあ、これは想定内である。けれど、この陽射しの強烈さはどうよ。耐え難い。
 
 並び始めて30分ほど、店の脇の細い路を通ってください、と、ようやっと若いスタッフに言われ、奥の座敷にボク一人だけ招き入れられた。3帖ほどの空間には変色しかかった畳、四角い古いテーブル、ガタガタと音を立てるガラスの引き戸。ここに黒電話とブラウン管テレビでも置こうものなら、ボクの子どものころ、だ。つまりは、昭和30年代後半から40年代前半で、半世紀以上も前のこと。随分と、遠い昔に、なってしまったな。

 ぼんやりとそんな思いに浸っていると、「おまちどうさま」と声がする。ほんの2分かそこら待っただけで届いた一杯を頂けば、それはもう、想像の範囲にきっちり収まるモノだった。


(きしもと食堂の座敷席。すっきり整理されている。2022年7月)

 麺を啜れば、平打ちで、かなり密度の高いこと。つまりはミシッとした食感で喰いでがある。というか噛み応えありすぎ、こりゃあラーメンの麺と言うよりは・・・スープを飲めば、それほど脂(あぶら)がなく、あくまであっさり。麺を含めて書けば、ラーメンではなくて、やっぱり饂飩に近いのだ。だから、沖縄そばをラーメンの類に分けることは、やっぱりボクは抵抗がある。

 豚(骨)を相当量使っているはずなのだが、脂はないのはどういう訳か? スープはそれでも染み入るようだし、角煮状の三枚肉は甘めの味付けでボク好み。パサつき気味の蒲鉾は妙にそれはそれで存在感もある。麺だきゃあ、ごにょごにょと言葉を濁そう、か。

 此処の食堂の麺は、かん水不使用。その代わり、木灰(もっかい)、この店ではガジュマルなどを燃やした際に出た上澄みを使用しているそうである。製法は創業時から一切変えていないというのだが。沖縄そばがお好きな方は「隙なき一杯」「他店と明確に違う」と言った賛辞を贈るのであろうが、やっぱり、ボクは沖縄そばを含めて、沖縄料理全般が苦手だ。でも記憶に残る一杯であったことは、間違いない。ご馳走様。

 ・・・名護から少し入った、今帰仁(なきじん)の宿を出て、美ら海(ちゅらうみ)水族館を経て、路線バスを利用して店に着いたのは12時前。並びは10数人ほどだったが、帰り際に見ると、あらま30人超の大行列だ。行列の末尾の人が店に入れるのには、あと30分か40分、あるいはもう少し必要だろうか。

 沖縄に来る数日前にレンタカーを予約しようとしたらまったく取れず。前日搭乗した400近い座席を有するボーイング787 ANA国内線の旅客機もほぼ満席状態だったから、新型コロナの禍から観光客はかなり戻ったことは間違いない。にしても東京とは比較にならないほど強い陽射しが容赦なく照り付ける本部の街角で、30分以上待つのはしんどいだろうに。しかも何組かは泣く赤子を抱いている。親の身勝手もたいがいにしろよ、と呟くのは還暦過ぎの嫌味な爺の説教に過ぎないか。

 ・・・入店前に並んでいたときのこと。退屈しのぎにスマホでニュースを見れば、あろうことか安倍元首相が凶弾に倒れたという。まさか令和の平和なこの日本で、という思いは日本人なら誰でも思うことだろう。ボクは元首相の支援者ではなかったが、得体の知れない不安感と喪失感が暫く抜けずにいた。それは東日本大震災の際の原発メルトダウン時に似た感情だ。帰り際、並んでいる人たちの多くはスマホを見ていたが、さて、このニュースをどんな思いで見ていることか・・・そんな思いを置いて、来た道を戻ってまた路線バスに乗る。パイン、マンゴー、島バナナ、パッションフルーツ等々、魅惑の果物がズラリと並んで安価だよ、と今帰仁の宿のオーナーに教わった名護の市場に向かおうとしようかね。

 2022年、文月八日、正午前後。沖縄・本部にて


□きしもと食堂は「最古参の現役ラーメン専門店」なのか?□
 先ほどちらっと書いたが、ボクは沖縄そばを含む沖縄料理全般がとにかく苦手だ。だいぶ前のことになるが、予備知識なしで初めて沖縄料理店に行った際、出てくるものすべてが口に合わず、往生したことを思い出す。だから生涯、沖縄に行くことはあるまいと思っていたのだが・・・。2022年夏、僅か3泊ではあったが行くことになった。そのきっかけは、ボク自身の病気のこと(文末に記す)もあるのだが、本部にある「きしもと食堂」を知ったからというのが大きい。この店、考えようによっては「我が国最古の、現役ラーメン専門店」である・・・かも知れないのだから、どうしても行かなければならないという思いにかられてしまったのである。

 その「きしもと食堂」、創業は1905(明治38)年である。ある程度信頼できる資料が残されており、明治40年までに創業し、かつ現在まで営業していて、さらに創業時からラーメン類を提供していたと考えられる店は、全国で以下の数店のみである。
(※ボクが知らない店もあるだろうから、もしご存じの方がおいでになったらぜひご教示いただきたい)。

≪リスト1≫
 ◆聘珍楼 創業1884(明治17)年。横浜中華街。ただし、2022年5月に中華街の本店はクローズ。翌6月には運営企業が破産した。ただし、本店とは別の運営企業が日比谷・吉祥寺・大阪等で店舗営業をしている。
 ◆萬珍楼 創業明治25年。横浜中華街。
 ◆維新號 創業明治32年。当初は神保町で開業、現在の本店は赤坂である。
 ◆四海楼 明治32年の創業。長崎。「長崎ちゃんぽん、皿うどん発祥の中華料理の店」(公式サイトより)。
 ◆きしもと食堂 明治38年創業。沖縄県本部(もとぶ)。所謂沖縄そばの店である。
 ◆揚子江菜館 創業明治39年。東京・神保町。 


(上 運営企業が破産、店舗はクローズされた中華街・聘珍楼。2021年5月、
中 神保町・揚子江菜館の広東麺。2017年12月、
下 長崎の四海楼。周辺を圧倒する存在感。2020年8月

 僅かこれだけである。クローズしてしまったが、横浜聘珍楼は大型の店舗が犇めく横浜中華街でもひときわ目立つ、威厳に満ちた雰囲気を持つ建物だ。長崎四海楼もまた、周辺を圧倒する威容を誇り、極めて高い存在感を示している。この2店ほど大規模ではではないが、萬珍楼、維新號、揚子江菜館もまた、長い歴史を感じさせる凛とした雰囲気を持つ。きしもと食堂だけは、平屋建てで、地方の食堂然(実際、地方の食堂なのだが)とした佇まい。なんとまあ対照的であることか。

 上記でも触れているが、挙げた6店のうち、長崎四海楼はいわゆる「長崎ちゃんぽん」発祥の店。また、今回取り上げる沖縄本部の「きしもと食堂」は創業時に「支那そば」の名で提供していたのだが、食してみればラーメンとはちょっと異なる、所謂「沖縄そば」の店で、現在の店の品書きには「そば」とだけ記載がある。

 実はこのほかにも創業自体はかなり古い店もあるのだが、今回のリストには入れていない。これは「創業時からラーメン類を提供していると考えられる」という条件をつけたからだ。つまり、明治40年以前の創業であっても「現在はラーメン類を提供しているが、創業時は提供していなかった」店が結構あるのだ。多くは前身も飲食業であったにせよ、寿司屋のなどの他業種である。その簡単なリスト(明治40年より前、関東地区)を記しておく。

≪リスト2≫
◆山田家 創業は明治元年。千葉・京成線中山駅、法華経寺参道。ラーメン提供開始時期は不明。立地や店舗形態(お休み處的)から、ラーメンの提供は相当、後のことと推測される。
◆ゑちごや 創業明治10年。東京・春日。ラーメン提供は昭和25年ごろから。
◆とらや 創業明治20年。東京・柴又帝釈天参道。ラーメン提供開始時期は不明なるも前述「山田家」同様、立地等からラーメンの提供はずっと後のことであろう。
◆龍公亭 明治22年の創業。東京・神楽坂。当初は寿司店で、中華提供開始は大正期。
◆水新菜館 創業は明治32年ごろ。東京・浅草橋。中華店に衣替えをしたのは昭和後期。
◆関東以外の“最古参”では、福島・郡山ブラックラーメン提供店、「ますや本店」(郡山駅前ほか)で、その前身「ますや食堂」が明治元年に開業している。平成15年に一度クローズしているが再開。ラーメンの提供は、メニュー構成からしておそらく昭和初期には始まっていると推測されるが、詳しい開始時期は不明である。今後、時間が許せば全国の明治時代創業ラーメン店を探すつもりではあるが、さて?。

 ちなみにボクは≪リスト1、2≫の12店のうち、郡山の「ますや」を除く店のすべてに行っているのだが、実際は数店舗でしか話は聞けていない。こういう原稿を書くと決めていたのなら、きちんと話を聞く用意をするのであったのだが・・・

□現役最古参ラーメン(専門)店を決めることは可能なのか?□
 ネットや雑誌(MOOK本)等で、「日本の現役店で、最も古いラーメン専門店はどこだ?」といった問とその解とされる記述を結構見かける。しかし、ボクは以前から「その定義では、店の特定はできない」と考えている。その理由は、主に二つ。

一 ラーメン「専門店」の定義ができない 
 中華料理店はもとより、一般的に世間で「ラーメン専門店」と呼ばれる店の多くでも、サイドメニュー等で「ラーメン以外」の商品を提供している。餃子、シウマイ、チャーハン、ごはん、あるいはワンタン、野菜炒め等々・・・さて、「ラーメン以外のどんな品を出したら専門店でなくなるのか、なくならないのか」。それを決める機関もないし、そんな機関があったとして、その機関をだれが認証するのか。

二 同様、「ラーメン」の定義すらない
 たとえば、日本最大(つまり世界最大)のラーメン類投稿サイト・RDB(WEBサイト『ラーメン・データ・ベース』、注1)では、汁ありのいわゆる”ラーメン”はもちろんだが、つけ麺、あえそば、まぜそば、冷やし中華はラーメンの類に分類されている。ラーメン専門店とされる店がパスタで多用される小麦粉(デュラム小麦のセモリナ粉)を使用した麵でトマトソースのあえそばを提供しても“ラーメン”の範疇。沖縄そばも、長崎ちゃんぽんもラーメン類に分類されるのだが、一方、長崎の“皿うどん”はラーメン類には入らないし、やきそば、と名称がついていたらレヴューは受け付けない。そのほか、ラーメンには具はなくてもあってもよく、その素材は何でもOK。

 この分類、一WEBサイトが独自に決めているので、「何を基準にラーメン類かどうか決めているのか?」と、ときどき議論されている。ボクは、一般的に「長崎ちゃんぽん」をラーメン類とする人は少数派ではなかろうかと思うのである。沖縄そばも同様で、麺類・麺料理ではあるけれど、それぞれ「ちゃんぽん」「沖縄そば」という“食べ物”だ、と考える人が多いのでなかろうか。

 「まぜそば」がラーメン類で「やきそば」がそうでないという根拠を、同サイトでは示していない。いや、明確な根拠がないため、示せない、というのが正しいのではないか。

□尼崎「大貫」は今も昔も中華料理店□
 だからこそ、最古参の現役ラーメン(専門)店は? という問いは意味がない・・・として結論づけるのもありだが、ネット上などでは、主にラーメン評論家とされる人々が「この店だ」と断定的に書いていることを目にする。先日もあるラーメン評論家が「それは尼崎の『大貫』」だ、と書いているものをネット上で読んだ。尼崎「大貫」をそう紹介する記述は多いのであるが、それは明確に誤りだと指摘しておく。

 ボクは淺草來々軒のことを調べ始めて以降、ことラーメンの歴史に関しては、ネット上に溢れる情報や、新横浜の某博物館の公式サイトにある記述は、ほぼ信用しなくなった。ちょっと調べれば簡単に分かることなのだが、それを怠り、信ぴょう性が定かではない元ネタを、様々な人によって繰り返しコピペされるから、誤情報があたかも真実の如く語られてしまうようになる。長い間、淺草來々軒が「日本初のラーメン専門店」とされていた事例は、その典型であろう。

 ちょっと脇道に逸れる。

 淺草來々軒の「日本初のラーメン専門店」説は、1990年代に横浜の某所から発せられた誤情報が基になっているとボクは考えている。そのあたりはボクのブログ『【其の後の、淺草來々軒を、継ぐもの】~大正・昭和の店、味、そしてご当地ラーメン』に詳しい。

 そこでボクは『淺草來々軒の「日本初のラーメン専門店」説』は誤りだと、2020年の暮れに指摘したのだが、実はその2年近くも前に、近代食文化研究会というところによって明確に否定されていたのである(注2)。ボクは(間抜けなことに)そうとも知らず、古い書籍を求めたり、図書館に通ったりして原稿を必死になって書いていたわけだ。その著作を知ったのは、原稿をあらかた書き終え、ネット上に上げる寸前のことであった。

 研究会の食文化に関する著作は他にもあるが、ともかく綿密な調査と詳細な分析により、極めて的確な指摘等をなされている。幸い、ボクのブログをラーメン評論家の大崎裕史氏がネットで取り上げてくださったこともあって、研究会とは現在も連絡を取り合っている。


(尼崎「大貫」。黄色い看板に「中華料理」、暖簾には「やきめし」とある。2021年7月)

 さて、話を戻そう。

 尼崎「大貫」の件、である。ただし、ボクのブログの『明治の味を紡ぐ店 ~謎めく淺草來々軒の物語 最終章~ 5』(注3)でも書いているので、ごく簡単に、しかし補足も含めて記載しておく。
1.「大貫」は開業時も現在も、「ラーメン専門店」はでない。
 「大貫」は大正期の創業時に、神戸所在の20年超の営業歴のある中国料理店から調理人を招いた、と店舗公式サイトにも記述がある。その店の名を杏香楼、という。創業は1892(明治25)年ごろ。神戸初の本格的中華料理店・広東料理店であったという。場所は当時の南京町の南側であった(注4)。
 その杏香楼が開業してからおおよそ20年ほど経ってから、そこの調理人である“周”氏を招いて大貫は開業した。

 大貫の創業者で仙台出身の千坂長治氏は、淺草來々軒で食べた味が忘れられずに店を開いたとのことであるが、仙台⇒東京⇒神戸と移住した経緯が分からないため、千坂氏がどの程度淺草來々軒に通ったかは不明である。しかしながらいくら早く開け、海外との貿易も盛んだった神戸とはいえ、まだ中華料理店も極めて数が少なく、開業時千坂氏は24歳前後であった(つまり資金の余裕はないと推測する)ことを考慮すれば、東京市内(当時)でさえほとんどなかった中華そば専門店として大貫を開業したとは考えにくい。『神戸初の本格的中華料理店・広東料理店』から調理人を招いたということは、來々軒の味を追求して開業したということではなく、商売上の成功を優先し、本格的な”支那料理店“として開業したはずなのである。

 2021年7月、ボクは大貫に伺った。店頭の大きい黄色の看板には「中華料理 大貫」とあり、品書きには「五目そば」「やきめし」などとあった。さらに、この店の公式サイトでも「日本最古の中華そば店」であることを把握できていない、と明示している。


(尼崎「大貫」メニュー。2021年7月)

 大貫は開業時から、おそらくずっと「中華料理店」であった。少し考えれば大正時代の初期に「中華そば専門店」であったはずがないと理解できるだろう。少なくとも、現在の大貫は「ラーメン専門店」でないことは明白である。いつ、だれが、この店を「最も歴史がある、現役のラーメン専門店」と言い出した(書いた)のか分からないが、ネット情報の信用性に甚だ疑問符が付けられる典型的な例であろう。

□沖縄の“そば”の歴史は浅いけれど、中華料理は14世紀から□
 さて、ここで沖縄の“そば”と中華料理の歴史をごくごく簡単に記しておく。

 日清食品の元会長、というより“チキンラーメン”や“カップヌードル”等の考案者として知られる安藤百福氏の編著「日本めん百景」(注5)には『コムギが生育できない沖縄には、麺の歴史がない』『沖縄のめん食文化は新しい。沖縄ソバが食べられるようになるのは、明治中頃以降のことらしい。それまでの沖縄のめん食は、縁起ものとしてソウメンがあるくらい』などと書かれている。後述するが、明治20年代には沖縄に蕎麦屋があったというのだが、それが日本蕎麦屋なのか沖縄そばの店なのかははっきりしないという。

 かつての農林水産省の試験研究機関で、現在は国立研究開発法人「農業・食品産業技術総合研究機構」(農研機構)の研究資料『ソバ新品種の普及について』(注6)によれば『九州では古くからソバ栽培が行われていたが、沖縄ではソバ栽培自体が行われてこなかった』。これは、土壌などの条件はもちろん、沖縄特有の気象状況である台風の多さにもあるそうだ。資料では『ソバは台風被害を受けやすく、台風直撃により大きく減収』すると記述されている。日本蕎麦は「(沖縄)県内では馴染みが薄く、また、特に必要な食材でもなく、これまで本格的な栽培が行われることはなかった(『沖縄県における新規品目ソバの普及上の問題点』より。注7)」。

 それでも近年では沖縄県でも蕎麦の収穫は増えているそうだ。2020年の統計では沖縄県の蕎麦生産量(乾燥子実ベース)は46トンとある(注8)。もっとも、同年の都道府県別生産量首位の北海道の19,300トン(国内生産量の43.1%)、2位の長野県3,960トン(同8.8%)などとは比べるべくもなく、沖縄の生産量比率は僅か0.1%ではあるが。ちなみに小麦の都道府県別生産量を見ると(注9)、首位・北海道の62万8千トンは別格として、2位福岡5万7千トン、3位佐賀3万9千トンの九州勢と比較して沖縄のそれは17トンに過ぎない。

 つまり、沖縄は小麦も蕎麦も自県内ではほとんど生産されてきておらず、結果的に明治期まで、なかなか麺の食文化は育たなかったのである。

 一方、沖縄と中華料理の関係はどうだろうか? 玉村豊男・著「食の地平線」(注10)では次のような要旨で書かれている。

 ~十四世紀以降、琉球王国には中国から“冊封使”(注11)の一行がたびたび訪れていた。その一行は数百名となり、一様に「うまい中華料理が食べたい」と注文する。一行はまた、中国の珍しい食品を持ち込んだほか、中国から調理人を同行させ、琉球の包丁人に中国料理の作り方を教えもしたのだ~

 このことを、沖縄県の公式サイトの「沖縄の伝統的な食文化データベース」では、“冊封使饗応料理”とし、

「首里王府は大宴(七宴)を催して冊封使一行を歓待し、料理を振る舞いました。この饗応料理は大部分が中国料理でした」

 と記している。さらに、同じ沖縄県の公式サイトの中、『沖縄の伝統的な食文化の保存・普及・継承について』の項には次のような記載がある。実に興味深い。

 『沖縄の伝統的な食文化とは、琉球料理という沖縄独自の料理文化に基盤をおき、食材や調理法、風俗習慣などの様々な要素を包含した生活文化です。その底流には、自然や気候風土の尊重、家族・親族や地域とのつながりを大切にする精神、日中両国をはじめ各国との交流による影響などがあります』。
そして琉球料理とは、『沖縄で発展・継承されてきた伝統的料理で、以下の双方を源流として現在に受け継がれています。
1.琉球王朝時代に中国の冊封使や薩摩の在番奉行等を饗応するための料理が生まれ、調理技術や作法等を洗練させて宮廷料理として確立し、それが上流階級に伝わり、明治以降は一般家庭にも広がってさらに発展したもの、
2.亜熱帯・島嶼(とうしょ)の自然環境のもとで育まれてきた庶民料理』。

 さらに、その琉球料理の「各要素ごとの特徴 3.味わい(だし)」というのが、
『豚のだし(肉・骨)とかつおだしをベース(以下略)』
とされているのである。

 沖縄には麺の食文化は育たなかったものの、古くから中国との交流は盛んで、沖縄の人々は中国料理の作り方も教わっていた。やがてそれは饗応料理を生み出し、さらに宮廷料理へと変化し、しばらく時代が進んでも上流階級の者の口にしか入らなかったけれども、やがて琉球料理となって庶民の間に広がっていった。とりわけ、琉球料理の味わいを醸し出す“出汁”は、『豚と鰹節がベース』であり、まさに沖縄そばの出汁そのものになっていったわけである。

後編へ続く)



(注1)ラーメン・データ・ベース⇒https://ramendb.supleks.jp。2006年からWEB公開されている。運営会社は株式会社スープレックス。
(注2)近代食文化研究会が否定していた⇒「お好み焼きの物語 執念の調査が解き明かす新戦前史」にて触れられている。同書は、新紀元社、2019年1月刊。第二版「お好み焼きの戦前史(第二版 Kindle版)」が電子書籍で発行されている。
(注3)ボクのブログ『明治の味を紡ぐ店 ~謎めく淺草來々軒の物語 最終章~ 5』⇒https://blog.goo.ne.jp/buruburuburuma/e/bc1653883d33bc34e93f732b678fa9c8
(注4)杏香楼の創業時期等⇒神戸商工会議所/2007年『第1回 神戸学検定 初級』問題より。1930=昭和5=年5月8日付大阪朝日新聞記事内で同店の記述があることから、その頃までは存在していた。
(注5)「日本めん百景」⇒安藤百福・編著、フーディアム・コミュニケーション。1991(平成3)年9月刊。
(注6)農研機構の研究資料『ソバ新品種の普及について』⇒九州沖縄農研農業経営研究資料第16号、原 貴洋(農研機構 九州沖縄農業研究センター)・著、2018年5月刊。
(注7)『沖縄県における新規品目ソバの普及上の問題点』⇒注6と同じ資料集より。山城梢(沖縄県農業研究センター名護支所)ほか・著。
(注8)2020年沖縄県の蕎麦生産量⇒農林水産省「令和2年産そば(乾燥子実)の田畑別作付面積、10a当たり収量及び収穫量」より
(注9)小麦の国内都道府県別生産量⇒注8と出典は同じ。
(注10)玉村豊男・著「食の地平線」⇒文藝春秋、1988年1月刊。
(注11)冊封使⇒冊封(さくほう)とは、各国の有力者が、中国皇帝から国王として承認を受けること。新国王の即位式をとりおこなうために、中国皇帝の命をうけた冊封使が特定の国々へ派遣された。冊封使が琉球にはじめて訪れたのは、1396年の北山王・攀安知(はんあんち)の時とも、1404年の武寧(ぶねい)王の時ともいわれている。(沖縄県立総合教育センター「琉球文化アーカイブ」より)