拉麺歴史発掘館

淺草・來々軒の本当の姿、各地ご当地ラーメン誕生の別解釈等、あまり今まで触れられなかっらラーメンの歴史を発掘しています。

淺草來々軒 偉大なる『町中華』 【3】

2020年04月06日 | 來々軒

【昭和初期までの來々軒】
 明治43年に誕生したとされる來々軒だが、大正昭和初期の時代には、どんな店だったのだろうか。それまでの中華料理店と違い、大衆向けの、ラーメン専門あるいはラーメンに重きを置いたラーメン店だったのだろうか。

  來々軒二代目・尾崎新一氏の人物像に触れている本がある。「淺草経済学」である。ここで引用するには別の意図もあるのだが。
 『殊に(注・尾崎貫一氏の子)尾崎新一君が太つ腹で宣傳と言ふことには。金銭を度外視して、徹底的に断行したものである。だから震災直後と雖(いえど)も、昔賣りこんだ看板を益々光輝あらしめ、人氣の焦點となつてゐたものだつた。新一君は早稲田の商科出身で、頭腦もよし、商賣にひどく熱心でもあつかたから、将來愈々(いよいよ)發展の可能性を持つていたものだが、しかし、昭和の御代に這入ると間もなく、他界の人となつて終つた。全く惜しむべき人物の一人であつた』。

 このように、人柄にも触れ、既に亡くなったことなども書かれていることからして、この著者はおそらく新一氏に会っているのではと推測される。この本の内容についての信頼性・信ぴょう性を疑問視することもあるかも知れないが、少なくとも当時の浅草界隈の、支那料理店事情には精通していたのではないかと、私は考えている。

 さて、「ラーメン物語」ではいくつかの書籍から引用しそれを紹介しているが、そこには紹介されていない、次の記録がもっとも端的に大正時代の來々軒を表していると思う。1918(大正七)年に書かれた「三府及近郊名所名物案内」[59]の一節である。
『來來軒の支那料理は天下一品
 浅草公園程見世物でも飲食店でも多い處(ところ)は三府に言ふに及ばず、東洋随一澤(たく)山であろう その浅草公園での名物は支那料理で名高い來々軒である、電車仲町停留場から公園瓢箪池への近道で新畑町の角店だが、同じ支那料理でもよくあヽ繁昌したものだ、二階でも下でもいつも客が一杯で中々寄り付けない様で、此の繁昌するのを研究して見ると尤(もっと)もと思われる、客が入るとすぐとお茶としうまい、を出す そこで料理が、わんたんでも、そばでも頗(すこぶ)るおいしい その上に値が極めて安い 何しろ支那料理として開業されたのは此の店が東京で元祖であつて勉強する事は驚く様である 慥(たしか)に東京名物である事を保證する。』

  まさに大繁盛で、東京名物と保証する、とまで書かれている。これを読む限りは、シューマイなどを提供している東京の支那料理店の元祖、なのだが、先に書いたように、東京にはすでにいくつかの支那料理店があったし、後述するが千束にあった「中華樓」は來々軒創業以前に同じ品書きで営業していたのだ。著者が何をもって、此処で“元祖”としたのか分からない。ただ、來々軒は支那料理店であることは確かである。

次に1932(昭和七)年刊の「三都食べある記」[60]。これは「ラーメン物語」でも一部紹介[61]されている。
『一四、支那料理屋めぐり
  東京には有名な支那料理屋が、大きな支那料理屋が、堂々たる支那料理屋が、美味しい支那料理屋が、有餘(ありあま)るほどその店舗を構へて居た。「安くて美味しい支那料理」と云うことで、東京生活の大衆に、強く呼びかけて居ると共に、東京の味覺人も、「安くて美味しい支那料理」に、無条件に傾倒して居るらしかつた。
  北島町の偕樂園とか、日比谷の山水樓とか、虎ノ門の晩翠軒とか、麹町と神田と新宿の寶亭とか、芝の雅叙園とか、上野の翠松園とか、日本橋の濱のやとか、香蘭亭とか、牛込の陶々亭とか、銀座の上海亭とか、小石川の不二とか、浅草の五十番とか、來々軒とか、神田の第一中華樓とか、赤坂のもみぢとか、築地の芳蘭亭とか、ちょっと思ひ起したゞけでも、相當に知られた支那料理店は、十指に餘るほど存在して居た。(略)
一五、北京廣東上海の味
  支那料理の大衆的普及と云ふことでは、浅草の來々軒が、腰掛式の簡易な構へであり、安價専一であるだけに、それぞれ一般に呼びかける力が大きかつた。「支那料理は安くて美味く、腹一杯になる」と云ふことを、街頭に進出して宣傳したのは、來々軒の大きな業績であると共に、大きな成功であつた。
今、東京の各區や、場末や、隣接郊外地の賑やかな町で、狭くて小さい構へながらも、支那料理を看板にして居る店は、多く此の來々軒の系統らしかつた。(略)  堂々たる偕樂園、數奇を盡した雅叙園、脂粉の香の漂ふもみぢ、支那式の翠松園、民衆的の來々軒、日本風の陶々亭と云つた風に、その機構の上に異動を見せて居るのも。支那料理の奔放性の反映として、面白いことに眺められた。」

 來々軒は他の支那料理店とともに列記されているが、注目すべきは「安くて美味しく腹一杯になる」と支那料理を宣伝した來々軒の功績で、その結果「民衆的」な支那料理店は当時爆発的に増加し始めた、ということであろう。來々軒は、來々軒以降東京に誕生した支那料理店に相当な影響を与えたということが分かる。「ラーメン物語」では來々軒の繁盛振りを見て、同じ浅草で中華料理店を始めた人の話も記されている。ただしこの本には來々軒以前に創業した“支那そば専門店”「中華樓」(後述)のことが一切書かれていない。その理由は今となっては誰も解き明かすことは出来ないが。

 先ほど「爆発的に増加」と書いたが、関東大震災以降、浅草では一旦ブームは落ち着いたようである。しかし、「ラーメン物語」では、増加した証拠として『昭和三年四月には「支那製造卸組合」が発足している』と書き『それまでのようにそれぞれの店が自分のところで麺を製造していたのでは到底間に合わなくなり、急増した需要に応じるため専門の製麺業者が必要になり作られ組合までできたというわけである』と記している。

  「最新東京案内」では明治末期、支那料理店一覧の紹介は僅か三店に留まっている。三店、というのが正確ではないだろうが、それほど多くないことは容易に想像できる。しかし、昭和8年に編纂された浅草区史によれば[62]、『浅草区内関係重要物産同業準則組合(注・同業者の組織)』の中に『東京支那料理業 田島町[63]86 平井理 886人』の記載が見える。組合長もまた浅草の方であるが、明治末期に3店、昭和八年には886店というのは、かなりの増加の勢いではないか。

 参考まで。「三都食べある記」で記された支那料理店のうち、現存するのは雅叙園と「日比谷の山水樓」だけではなかろうか。
  雅叙園は都内に在住していればご存じであろう。芝浦で開業したのが1928(昭和3)年のこと。公式サイトから引用すれば『ホテル雅叙園東京の前身の目黒雅叙園のルーツは、創業者・細川力蔵[64]が、東京 芝浦にあった自宅を改築した純日本式料亭「芝浦雅叙園」。 創業当時は、日本料理に加えて北京料理メインとし、お客様に本物の味を提供することにとことんこだわった高級料亭』だった。『料理の味はもちろん、お客様に目でも楽しんでいただきたいと考え、芸術家たちに描かせた壁画や天井画、彫刻などで館内の装飾を施しました。豪華絢爛な東洋一の美術の殿堂はこうして誕生』し、その様は昭和の竜宮城とも称された。

「日比谷の山水樓」。日比谷にあった店はとうに閉めてしまっているが、現在、山梨の小淵沢にて営業している。店の餃子を販売している、過去に発行された店の案内によれば、広島県出身の宮田武義という人が、勤めていた外務省を辞めて、日比谷の山勘横丁(現在の有楽町一丁目8番あたり[65])に開いた広東料理店で、大正11年に広東に渡り料理人を連れ帰って開業した、とある。

  來々軒の記録を続けよう。1929(昭和4)年発行の「東京名物 食べある記」[66] 。來々軒は『淺草味覺極樂』のなかでこう記されている。
  『來々軒 區割整理を終わつて相不變(あいかわらず)未覺神経と嗅覺神経が交錯して混沌として押すなヽと来る客に混沌たる支那料理を食べさせてゐる』。ちなみに『五十番』は『少女給の無作法さを賣物と考へてゐるのは考へ物だ』と手厳しい。
  ちなみにこの本の中には「丸ビル丸菱食堂」の項に、「支那ランチは甲乙」があって、その構成は『シューマイ五個に肉団子七個、豚の肉切れ一個、青豆五個の汁椀、ごはんつき。まづ汁椀はスープの積りだそうだが評する価値はない」と書かれている。さらに『北京料理 晩翠軒 東京市芝區琴平町・・・』と、誌面一面全面を使って広告が出されている。昭和初期には東京のあちこちで中華料理を食べさせる店があったことの証である。
  しかし、この頃の本は、表現が良く分からない。混沌たる支那料理ってどんな味なのか? それに五十番や丸ビル食堂以外にもキツイ評価を結構している。今読む分には面白いとは思うが。
 また、喜劇俳優の古川ロッパ氏の食べある記「悲食記」[67]では『十二階があったころの浅草といえば震災前のこと(中略)。中学生だった僕は(中略)はじめて『來來軒』のチャーシュウウワンタンメン(叉焼雲吞麺)というのを喰って、ああ、なんたる美味だ、と驚嘆した』とある。

 もう一点、紹介しておこう。「大東京うまいもの食べある記 昭八年版」[68]である。『八 浅草公園界隈』の中で浅草界隈の中華料理店を紹介している。
  雷門付近、では「サリーレストラント、たしか元は ちんや食堂 といったところで、堂々たる構へで西洋料理、支那料理もあります」。 
仲店通り、では「支那料理新京 新築三階建ての堂々たる、この辺での高級支那料理屋」
  区役所通り以西六区まで では、「上海亭 銀座の支店で浅草でも相当古い存在になり、浅草でやや高級な支那料理を手軽に食べるには、ここらが一番相応しいので、相変わらず繁盛しております。定食一圓、一圓五十銭」。
  「支那料理 五十番」の名も見える。『安いとうまいとで、すっかり売り込みましたが』などとある。
  さて、来々軒。『寿司屋横丁の二つ目右側角店。支那蕎麦で売り込んだ古い店で五十番、上海亭のなかったころ、いや支那料理が今日のように普及せず、珍しかった自分から評判だった家(うち)です』とある。
  ほかに「赤い小田原提灯を軒に沢山吊るした支那料理 榮樂」、「六区池の端付近 弥生亭 西支料理」といった記載がある。
  このあたりまでは「ラーメン物語」でも一部引用されているが、最終ページに近い「補遺」の項目にこんな記載があった。非常に興味深い記載である。なお、補遺(ほい)とは補足、といった意味合いである。

『補遺 支那料理一瞥
大衆的な一品支那料理は日本橋八重洲口の珍満、それから浅草、上野の五十番、淺草日本館前の來々軒等はむしろ支那そばが有名ですが(略)』
これは「大衆的な一品料理は八重洲口の珍満が有名だ。上野・浅草の五十番と來々軒などは大衆一品料理もあるけれど、むしろ支那そばが知られている」というように解釈できる。

 
(『三府及近郊名所名物案内』に掲載された來々軒の広告)

【昭和初期にして「昔の面影がなくなった」?來々軒】
  來々軒を肯定的に表現するものばかりではない。1930(昭和5)年に書かれた「淺草底流記」[69]の中、これは「ベスト オブ ラーメン」にも一部記載があるのだが、「4・舌端をゆくもの 食ひ物屋」の項を見てみよう。この頃の浅草の様子を興味深く表現しているので、少々長くなるが引用してみる。

  『飲食店の多いことは、全市[70]を通じて淺草が第一位を占めてゐるが、まつたくどの小路を抜けて見ても、殆んど軒並飲食店である。そしてこれ等飲食店の新らしい傾向は、飲むこと食ふことが電光石火になつたことである。静かに食事を樂しむとか。氣分を味はふなどゝ言つた食ひ物屋は無くなつてしまつた。どこへ入つて見ても、みんな仕事のやうに、テキパキと箸を運んで、食ひ物を口の中へ投(ほう)り込んでゐる。飲食は、機械に油を差すこと以外を意味しないのである。これは一面に寂しいことではあるが、又一面に、淡い「氣分」の中に浸つてゐること容(ゆる)さない、そしてそんな人間を無くして行くところの「時代の動き」は、どうもこれを肯(うなづ)くより致し方がな
い』
『世を挙げて安にして直なるものに流れてゆく。(中略)多くの飲食店が皆簡單に腰を掛けて食べられる食堂を作る。一寸下駄を脱ぐのも億劫である。靴の紐を解くのは尚更のことだ。テンポ、テンポ、めまぐるしいテンポ。近代人の神経のキザミ。(中略)飲食店の著しい盛衰と變化(へんか)とは、明らかに高い代価を拂ったり、長く待たされることを喜ぶやうな種類の客の無くなつたことを雄弁に物語つてゐる。(中略)民衆は唯うまいといふ事の外に手輕と安價と迅速とを要求して止まない。そして味覺堕地獄。機械的に貪り食ふ、投り込む、詰め込むのである。
此の民衆の慌ただしい氣持に逆らはないやうに努めて行く店が繁昌するのである。來々軒より五十番へ、三角より須田町食堂へ、と繁昌の中心激しく移動しいてゐる』

  浅草の飲食店の多さ、そして人々は食事を楽しむというよりただ急いで口の中に入れている。それはその当時の時代の動きで、安直の方向へと流れていく。飲食店はその要求に応えようと、簡便な店にしようとし、そしてその客の気持ちに逆らわないようにしている店こそが繁昌する。だから來々軒より五十番へと客は流れていくのだ----まるで現代の我々ではないか。繁盛店の中心は今でいうファストフードのようである。

時代の流れに乗れない來々軒は客を奪われたのだ、と著者は書いた。そしてこう続ける。
  『支那料理「五十番」の猛烈な繁盛振りはどうだ。安くてうまい・こゝは何でも分量が多い。二階の座敷が好きだつたが、どうも此頃は扱ひが惡くなつた。ちとお値段は張るが、その點(てん)では筋向かひの「上海亭」の方がよろしい。「來々軒」は昔の繁盛をしのぶよすがもない。流行の犠牲、氣の毒である』。
  何とも、という感じである。創業して二十年、來々軒は昭和の初めにはもう「昔の繁盛ぶりは面影もない」とまで書かれている。これについて「ベスト オブ ラーメン」は『年長者が口をそろえて古き良き時代と懐かしむ昭和初期にして早くも、今日と同様の“流行→大衆化→味の堕落”の図式が見られるのだ』と書いている。後述する「淺草経済学」でもあるように、昭和の初めごろには、浅草の支那料理人気店は、來々軒から五十番へと移っていたようである。

  またこの頃は「簡易食堂」が全盛、とも書かれている。簡易食堂は『何れもシナビタがま口を握つて大威張りで入れる』、今でいう大衆食堂のようなものだろう。『公園劇場前の「須田町食堂。舊(注・旧)淺草公園入口の「三友軒」。帝京座並びの「巴バー」。仲見世横の「辰巳食堂。何れも同じタチの食堂である。西洋料理、支那料理、日本料理、鮨、何でも出来るのである』とあり、いわゆる何でもアリの食堂だったことが分かるし、当時、中華料理店のみならず、中華料理が広く庶民の口に入っていたことが窺える。

 もう一冊。また「淺草経済学」である。「(四)淺草に於ける支那料理店」、の項には次のような記述がある。
  まず、当時、『淺草に於ける支那料理店は、大小合わせて數什軒の多き達して』いた。そして代表的なものとして『淺草の支那料理中で、高級を標榜し、自らを第一流を以って任ずる店は、震災直後に出来た上海亭』だとする。さらに『新仲見世通りの五十番、上野公園前の五十番、それは何人もはつきり知るであらう。それ程、五十番は積極的で、賣名的に成功してゐる』のだ。さらに著者は浅草、上野に来た人が支那料理をたべようとすればまずは五十番が浮かぶ、と書いた。そして來々軒は『震災前來々軒が、恰(こう)もかうした力強さを持つてゐた。「淺草へ行けば來々軒だ」と朝出る時に既に心の準備を整へて来る者が數限りなくあつたものだ』と書かれている。ここでも來々軒は全盛期を過ぎたような書かれぶりである。ちなみに五十番は大正12年12月に開業したとある。來々軒より10年以上も後の開業であるが『其の淺い日にも拘わらず名實共に、人気の中心となり、如何なる日でも千人内外の客を入れてゐる』のだそうだ。

 さらに著者はこう続ける。『廣小路[71]の有田ドラツクの横町を這入つた處の右側にある「榮樂」』という店についてであるが、『「榮樂」は大衆的な支那料理屋で、どちらかと言ふと、支那そば屋式な家である。夜明かしの店ではないが、大衆的な支那そば式の家としては、公園劇場前に、東亭と言ふのがあり、ちんや横町を更らに横に曲ると、八州亭があり、昭和座横には三昭がある。が、しかし、此の種の家は、他にも無數にある。ちんやの洋食部が、支那料理を始めたのは昭和二年頃・・・』。

 ここでも注目したいのは、著者が「支那料理屋」と「支那そば屋式」(注・「屋式」ではなく「支那そば屋・式」)を区別して書いていることである。來々軒はあくまで「支那料理屋」なのだが、榮樂なる店は「支那そば屋・式な家(うち)」である。さらに大衆的な支那そば式の店として八州亭、三昭という店を挙げている。しかも支那そば屋・式の店は、他に無数にあるというのだ。流石に無数は言い過ぎだろうが、もし当時、來々軒が支那そばを大々的に売り出していて、支那そばのほかにシュウマイや饅頭、ワンタン以外を品書きに加えていなかったら、著者は來々軒を「支那そば屋・式」と書いていたろう。先に触れた「大東京うまいもの食べある記」の「補遺」も併せて読めば、來々軒は支那そば屋、ではなく支那料理屋であったことは確かである。來々軒は、残された写真の看板どおり、支那料理・広東料理を標榜する中華料理店であった。
 
【20世紀末から21世紀の來々軒】
 來々軒創業から70年、廃業からも10年以上経った1980年代。間もなく21世紀になろうとするこの頃、來々軒と、明治後期の浅草(東京)のラーメン事情はどのように表現されているのだろうか。20世紀末と21世紀に分けて簡単に見てみよう。

◆1974年刊「起源のナゾ」 『ラーメンが東京にお目見えしたのは大正時代で、冬の夜チャルメラを吹きながら屋台を引いて歩いた、当時のいわゆる支那そば屋がその始まりである』。

◆1982年刊(1967年刊)「中国伝来物語」[72] 『日本の中華ソバ屋のはしりは明治末期、浅草に開業した来々軒だそうで、当時、十銭から十五銭で"支那ソバ"として大いに受けた。』
 ここでは『だそうで』という表現を用いているので、とこからかの引用で書いたものだろう。

◆1988年刊「江戸のあじ東京の味」[73] “ラーメンのスープと具”の中『東京で初めてラーメンを売った店は、どこで、それはいつだったかは、はっきり分からない。ただし、中華料理店ではかならずラーメンを売っていたから、東京に最初に中華料理店ができたときが、東京での最初のラーメンの販売ということになるのだろう。
 東京の浅草が日本一の盛り場になったのは明治末の、日本が農業国から工業国になったときからだった。浅草に大衆的な中華料理―当時は支那料理と言いラーメンは支那ソバといった―を食べさせる店ができたのは明治末と推定できる。別に浅草の田原町のところから雷門の前を通る浅草寺寄りの片側に様々な立ち食いの店が出現した。(中略)洋食、餅菓子、ラーメン、ワンタンその他の軽い中華料理を売る店も夕刻から出店した。そのほか明治末期あたりから、夜になると屋台車を引いてラーメンとワンタンとシューマイを食べさせる屋台の支那ソバ屋もできた。』

◆1987年刊「ラーメン物語」 『東京のラーメンの史は明治四十三年、浅草公園に開店した中華料理屋「來々軒」なくしては語れない』。
『それまで一人名を馳せていた永和齋や偕楽園と違って、はじめから庶民相手のラーメン、ワンタン、焼売を売り物にした本当に下町の中国の一品料理店であった。それでいて調理場では、横浜の南京町から来た中国人のコックが大勢腕をふるい本場の味を看板にしていた。來々軒が開店するとその気安さと未知の味である本物の味にまず浅草っ子がとびついた』。
『来々軒はそうした(注・賑わいをみせる)人気急上昇の浅草にできた浅草で初めての中華料理屋であった』。

◆1989年刊「ベスト オブ ラーメン」 『豚骨でとつた南京そばのスープは塩味であつたといふ。だからエスニック・フードにとどまつてゐたのだ。日本人にも食べて貰ひたいのなら、古来慣れ親しんだ関東風の醤油味にして、獣臭さを消さなくてはならない。この考へに考へたアレンジが横浜人の支持を得たことに気を良くした彼らは、より広い市場を求めて東京へ進出する。そして〈明治も日露戦争を終わった頃から、東京の夜の町にはチャルメラの音が哀しく響きはじめた〉(平山蘆江『東京おぼえ帳』昭和二十七年・住吉書店)のであつた。時に明治三十八(1905)年。ラーメン八十年の歴史はここに始まつたのである』『すし屋横丁の「來々軒」は、東京ラーメンの元祖として、しばしば語り草になるほどの大繁盛店だった』

◆1991年刊「日本史総合辞典」 『シナそば (前略)東京では明治43(1910)に浅草公園に開業した「来来軒」が一番古い。創業時からシナチクも焼豚も入っていたというから今日のラーメンの原風景はすでに完成していたわけである。開店当初から来来軒では「ラーメン」と呼んでいる。もり、かけそばが3銭か4銭、しるこが10銭の頃、ラーメンは7銭だった(後略)』。

 これらが、当時來々軒を表したすべての本である、ということではないと思う。しかし、複数の本においてこのように、來々軒に関してただの一言も「日本最初のラーメン(専門)店」とは書かれてはいない。「江戸のあじ東京の味」では東京で初めてラーメンを売った店は分からない、としながら次の行で浅草のラーメン事情に言及する。著者の加太こうじ氏は、1918(大正7)年、浅草に産まれ、紙芝居の黄金バットの生みの親として知られる[74]。東京の下町文化を伝える作家である。この書が発刊された1988年当時、著者は來々軒の存在を知らなかったのか、それとも敢えて触れなかったのかはともかく、浅草がラーメンの町としても明治後期から栄えていたことを記している。

 「ベスト オブ ラーメン」では、別の項目で『チャルメラを吹く中華そば(支那そば)屋台が東京でさかんになったのは大正時代』としながら、日露戦争が終結した1905(明治38)年を「ラーメンの八十年の歴史が始まった」年、としている。
 「ラーメン物語」では、來々軒は東京でラーメン史に欠かせない存在としたが、一方で「一品料理店」「中華料理店」と紹介しているのだ。

 つまり、1980年代後半までは、來々軒は日本最初のラーメン(専門)店としては認識されてはいなかったのである。さらに言えば、後述する本も含めて、「ラーメン物語」発刊以前に來々軒の創業時期は“明治末期”としか書かれていないのだ。もちろん、このほかにも当時刊行されたラーメンの歴史に関する書籍はあるだろうし、そこには來々軒=最初のラーメン店という記述や1910年創業を示した根拠があるのかも知れない。しかし、この頃には來々軒=最初のラーメン店ということは認知されていない、というように考えるのが妥当ではないか。

【21世紀の來々軒】
 次に來々軒は21世紀になって、どのように表現されたのか見てみよう。來々軒を“日本初のラーメン店もしくはラーメン専門店”とした記述があるもの、または來々軒創業を1910年として2010年を“ラーメン(誕生)100年”などとするものは以下の通りである。

◆2008年刊「東京ノスタルジックラーメン」[75]  『「来々軒」は我が国初のラーメン専門店としてラーメン史にその名を刻む店。それまで高級だった中華料理店とは違い、ラーメンやワンタンなどを中心に揃えた庶民向けの店として大流行した。來々軒の支那ソバは醤油味で、塩味だったそれまでの「汁そば」を日本人が好む醤油味の「ラーメン」に変えた』

◆2009年刊「ラーメン発見伝 第26巻」[76] 『日本のラーメンの始まりはいつなのか? 諸説ありますけど、明治43年、東京は浅草に「来々軒」というお店が創業したこともって、それとする説が有力です』『「来々軒」は中華料理とは一線を画す、醤油味のラーメンを初めて出したと言われているからなんですよ』。

◆2010年刊「ラーメンがなくなる日」[77] 『諸説はあるものの、日本最初の店舗を構えたラーメン店とされている浅草の「来々軒」は、1910(明治43)年に尾崎貫一氏が浅草で創業しましたが、このときも横浜中華街の中国人12人を招いて開業しています。尾崎氏は塩味しかなかった「中華そば」に醤油味を加えて、チャーシューやメンマをのせるという今のラーメンの礎をつくっていきました。今年は2010年ですから1910年に尾崎氏がラーメンを開発してからちょうど100年ということになります』。

◆2011年刊「日本ラーメン秘史」[78] 『東京にラーメンが誕生して100年、來々軒がその始まりだ』とし、屋台ラーメンが主流であったのだが、『店舗を構えたラーメン専門店として來々軒』『1910年はラーメン元年、近代ラーメン文化の幕開けといっていいだろう』。

◆2014年刊「ラーメン最強うんちく」[79] 日本に最初のラーメン店が登場してから100年あまり』とし、折り込みの“年表で見るラーメンの勢力図”のなかで『東京に初のラーメン店・来々軒がオープン』。

◆2018年刊「中華料理進化論」 『1894年(明治27年)に日清戦争が起きると、日本にいる華僑が激減した。このため、日本人を含む一般客向けの中華料理店が増えるようになる。1910年(明治43年)には日本初のラーメン店と言われる東京・浅草の「来々軒」が創業。』

  「來々軒=日本初のラーメン専門店」と断定的に書いているもの、「・・・とされている」「・・・と言われている」とやや曖昧に表現している本、あるいは微妙に言い回しを変えている等、さまざまではある。
  このように、2000年代に入ると、來々軒=日本初のラーメン(専門)店」「ラーメン100周年」という記述が出始める。私が考えるに、おそらく1980年代と2001年以降の間に、つまり1990年代に、來々軒を表す、ある断定的な言葉が新たに生まれて、登場したばかりのインターネット[80]によって広がって行った、そしてそれが様々な書物にも使われ、今日「來々軒=日本最初のラーメン(専門)店」とされているのではないか。
 しかしながら、一方では、同時期に書かれながらも來々軒=日本最初のラーメン(専門)店という記述はせず、1910年に來々軒が誕生したという事実(?)を淡々と述べているものもあるのだ。

◆2002年刊「ラーメンの誕生」[81] 『浅草六区の来々軒 一九一〇(明治四三)になると、浅草公園に、大衆的な来々軒が開店し、シナそば・ワンタン・しゅうまいが売り出される。大衆シナそば屋の元祖と称し、店内は腰掛式の簡素なものであった。シナ食は安くて美味しく、腹一杯になると宣伝したという』『その浅草に、横浜の南京街から来た広東省の料理人が、日本人好みのめん料理の試作を繰り返す。そして、トンコツにトリガラを加えて、コクはあるが、あっさりしたスープを考案し、塩味から関東の濃口醤油の味にして、従来の刻みネギだけに、シナチク・チャーシュー・ネギを加える。』『そして、東京ラーメンのルーツになる「シナそば」を創作したのである』。

◆2009年刊「日本めん食文化の一三〇〇年」[82] 『日露戦争後東京には雨後のタケノコのごとく中国料理店ができる。その中に浅草の「來來軒」があった。中国大衆料理の「來來軒」が支那そばを売り出すのは明治四十三年(1910)のことである』。

◆2010年刊「夜食の文化誌」[83] 『そもそも浅草の飲食街が東京のラーメン普及の先進地区であったことはすでに知られる部分である。その嚆矢たる来々軒の開店(浅草公園)は一九一〇年のこと、あるルポルタージュを信頼するならば、同じ年の千束町ではすでに「支那料理屋」が十軒以上並び、中華料理の匂いに満ちていたという』。

◆2015年刊「ラーメンの語られざる歴史」 『最後の三つ目の起源物語(注・別項で記述する)の中心は、日本人が所有し営んでいた最初の中華料理店、〈来々軒〉の誕生だ。』『〈来々軒〉が作ったのは、一八八〇年代と一八九〇年代に南京町(現在の中華街)で出されていたネギだけの簡単な汁麺と違って、醤油ダレを使った汁そばで「支那そば」と呼ばれ、「叉焼」と「ナルト」(かまぼこ)、ゆでたほうれん草、海苔がのっていた――このすべての具が揃うと真正な東京ラーメンの典型になる。〈来々軒〉はすぐに安くてうまくて早い「支那そば」だけでなく、「焼売」や「ワンタン」(スープワンタン)などの、日本人の舌に合わせた中華料理で評判になった』。

◆2018年刊「ラーメンの歴史学」[84] 『一九一〇(明治四三)年、東京の浅草に「来々軒」という名の店が開店した。店では支那ソバのほか、ワンタンやシューマイを出し、これらは安くて一品で十分に満腹になった。店主の尾崎貫一は、五二歳で横浜税関を退職してこの店を開いたが、尾崎が横浜出身であることには大きな意味があった。横浜には外国人居留区があるので中国料理を食す機会があったはずだし、支那ソバの人気を目の当たりにしていただろう』。

 來々軒=日本最初のラーメン(専門)店とするもの、そうでないもの、2000年代に入ってもその捉え方はさまざまではある。しかし、共通するのは來々軒が、東京という都市にラーメンという新しい食べ物が広がっていく過程の中で、最も初期に象徴的な店としてその役割を果たしていたということだろう。それは、今まで記述して来たとおり、大正半ばから昭和の初期に書かれた本からも明らかだ。


[59] 「三府及近郊名所名物案内下巻」兒島新平・発行兼編纂、日本名所案内社。1918年8月刊。国立国会図書館デジタルコレクション。
[60] 「三都食べある記」松崎天民・著。誠文堂、1932年9月刊。国立国会図書館デジタルコレクション
[61] 「ラーメン物語」では「二都食べある記」とあるが、「三都」の誤りと思われる。
[62] 「浅草区史 産業編」 浅草区史編纂委員会 1933(昭和8)年9月刊
[63] 田島町 現在の西浅草二丁目
[64] 細川力蔵 1889~1945、石川県出身。1928(昭和3)年、自邸を改装した高級料亭「芝浦雅叙園」を開業
[65] 山翠樓の創業地 餃子の過去の販売パンフレットによれば「日比谷の山勘横丁一画(現:日比谷パークビルの一画)」とある。
[66] 「東京名物 食べある記」 時事新報家庭部・編、正和堂書房 1929(昭和4)年12月刊。国立国会図書館デジタルコレクション
[67] 「非食記」 古川緑波・著、学風書院。「日本の百人全集」第3巻として1959年8月刊。
[68]「大東京うまいもの食べある記 昭八年版」白木正光・編、丸の内出版社 1933(昭和8)年4月刊。ただし、「コレクション・モダン都市文化 第1期 第13巻 グルメ案内記」近藤裕子編、ゆまに書房。2005年11月刊から。松崎天民「東京食べある記」(1931年刊、誠文堂)との合本。
[69] 「浅草底流記」 添田唖蟬坊・著、近代生活社。1930年10月刊。国立国会図書館デジタルコレクション。
[70] 全市 東京では1889(明治22)年から1943年(昭和18)まで東京府の中に東京市を置いていた。1930年当時の東京市内の区は浅草区、下谷区など15区で、1932年からは品川区などが加わり35区に編成された。
[71] 浅草の広小路 現在の雷門通り。
[72] 「中国伝来物語」寺尾善雄・著、河出書房新社、1982年2月刊。ただし秋田書店版が1967年に出版されている。
[73]「江戸のあじ東京の味」 加太こうじ・著、立風書房。1988年10月刊。
[74] 「黄金バットの生みの親」 NHK人×物×録 https://www2.nhk.or.jp/archives/jinbutsu/detail.cgi?das_id=D0016010435_00000
[75] 「東京ノスタルジックラーメン」山路力哉・著。幹書房、2008年6月刊。
[76] 「ラーメン発見伝 第26巻」久部縁郎・作、河合単・画、石神秀幸・協力、小学館。2009年10月刊。「ラーメン発見伝」はビックコミックスペリオール(月2回刊)1999年23号から2009年15号まで連載された。第26巻は最終巻である。
[77] 「ラーメンがなくなる日-新横浜ラーメン博物館館長が語る“ラーメンの未来”」 岩岡洋志・著、主婦の友社。2010年12月刊。
[78] 「日本ラーメン秘史」大崎裕史・著、日本経済新聞社、2011年10月刊。
[79] 「ラーメン最強うんちく」[1] 石神秀幸・著、普遊社。2014年7月刊。
[80] インターネットの普及 総務省の情報通信白書などによれば、1994年に日本で初めてダイヤルアップIP接続サービスが開始され、翌1995年にWindows95が発売、1996年には日本のインターネット人口普及率が3.3%になった。人口普及率は1997年9.2%、1998年に13.4%、1999年に21.4%、2000年には37.1%となった
[81] 「ラーメンの誕生」 岡田哲・著、ちくま新書。2002年1月刊。
[82] 「日本めん食文化の一三〇〇年」 奥村彪生・著、農山漁村文化協会。2009年9月刊。
[83] 「夜食の文化誌」西村大志・著、青弓社。2010年1月刊。
[84] 「ラーメンの歴史学 ホットな国民食からクールな世界食へ」 バラク・クシュナー(Barak Kushner)・著、幾島幸子・訳、明石書店。2018年6月刊。


淺草來々軒 偉大なる『町中華』 【2】

2020年04月06日 | 來々軒

【昭和初期までの支那料理事情 東京以外】
 この項は來々軒とは直接関係がない。しかし、「日本で初めてラーメンを出したのは來々軒」「全国のラーメンに影響をもたらした來々軒」なのか否かを明らかにするために記述する。

 開港場、もしくは条約港という言葉がある。1858(安政5)年『日米修好通商条約を初めとする安政五カ国条約により、貿易を前提とした』もので、『開港場として、箱館・神奈川(横浜)・新潟・兵庫(神戸)・長崎の5港が決められ、「開港五港」と呼ばれた(Wikipedia)。また、外国人居留地が設定された地域でもある。こうした地区では中国や欧米の様々な文化がいち早く伝わる。横浜・神戸(南京町)・長崎新地のそれぞれの「中華街」を見れば中華料理もまた、これらの地域から伝わっていくことになったことが分かる。

 日本で最初に中華料理店が創業したのは、ラーメン博物館[23](以下「ラー博」)公式サイトによれば『1870年 横浜の居留地』となっている。
横浜開港資料館が発行した「開港のひろば」第46号では『明治の初年(注・1868年)には会芳楼と關帝廟が存在した』[24]とある。横浜中華街公式サイト[25]によれば会芳楼(かいほうろう)とは、劇場と料理屋を兼ねた総合娯楽施設である[26]。しかし、そこには中華料理云々の記載はない。
  同じ中華街公式サイトでは、こうも書いている。『中華料理店の記述が出てくるのは明治3年度版の人名録。49番地「ウォン・チャラー」、81番地「アー・ルン」の2軒が“チャイニーズ・イーティング・ハウス”として登場』とあるから、ラー博の言う『1870年 横浜の居留地』とはこのことであろう。
 
  当時、今の中華街を南京町と呼んだ。ではその南京町では「ラーメン」「支那そば」をいつ頃から出し始めたのか。
 「ラーメン物語」にも記述があるが、「横浜市史稿 風俗編[27] 第二節南京町 三、生業の種々相」に次のような記載がある。
『されば彼等の多數は各地各所の日本人町に進出して、理髪店或いは支那そばやを営業して居るのは明治末期からの事ではあるが、可成り根強い職業として潤ひを収めて居る』。
 「ラーメン物語」では、ラーメンの誕生時期に関して來々軒以前とし、南京町では『遅くとも、(明治)四十年代の頭には日本のラーメンの原風景は完成していたのである』とも書いている。

 さらに「日本めん食文化の一三〇〇年」[28]を見てみよう。「第九章・明治以降に伝来しためん食文化 一、文明開化と支那そば」の項によると、
『明治二十年ごろ、横浜の南京街には中国料理店は二十軒はあった。屋台もあり、そこではめん専門店もあった。その屋台のめんを日本人は南京そばと呼んでいた。この屋台の文化を模倣する者が東京にいて、夜ごとチャルメラを吹きながら街を流して売り歩いた。と、“てんやわんや”の代表作を持つ劇作家の獅子文六氏は記述している。(中略)
 大正時代は大衆文化が発展する時代である。と同時に安くておいしい中国庶民料理がブームになる。そのさきがけを作ったのは、明治二十四年に東京の上野で開催された内国勧業博覧会である。その会場にできた台湾料理がやすくておいしいという評判が立ち、ぼつぼつ中国料理が知られるようになった。この博覧会の跡地に台湾料理店が残ったようだが、その店名は分からない。横浜には多くの中国人が住んでおり、明治中頃には、中国料理店は二十軒近くあり、有名な店には「永梁菜館」や「北京楼」、「祖記」があった。(中略)
 日露戦争後東京には雨後のタケノコのごとく中国料理店ができる。その中に浅草の「來來軒」があった。中国大衆料理の「來來軒」が支那そばを売り出すのは明治四十三年(1910)のことである』。

 このように、横浜では明治初めから中国料理店が存在し、1890年代には屋台ながら“めん”の専門店があった。明治中頃から後期にかけては相当数の中国料理店が営業し、明治末期には支那そばを提供する店が誕生していたのである。横浜では開港時から麺の食文化が進んで来たわけだ。
 ちなみに「明治二十四年に東京の上野で開催された内国勧業博覧会」という記述であるが、「麺の歴史 ラーメンはどこから来たか」[29](以下「麺の歴史」)では、その当時のメニューは分からないとしながらも、明治36(1903)年、大阪で開かれた第五回内国勧業博覧会の会場に台湾菜館が出店、『今日でも通用するメニューで客をもてなして』いる。そのメニューが書籍には掲載されており、麺類は以下の四種類であった。
◆肉絲白麺(ロウスーパイミエン、豚のそば、五銭)
◆火腿白麺(ホートパイミエン、ハムのそば、八銭)
◆鶏絲白麺(チースパイミエン、鶏のそば、十銭)
◆炒蝦白麺(チャオシャパイミエン、蝦のそば、十二銭)

 次に長崎である。長崎と言えばちゃんぽんだが、「ラーメンの誕生」[30]などによる1887年(明治20)年頃に福建省から長崎にやって来た陳平順(チンピュンシュン)が支那料理の四海楼を開店した。陳平順氏は残った食材など手近な具材を混ぜ合わせ、安くて、うまくて、栄養豊富で、ボリュームのある麺料理をやがて創作する。ちゃんぽんの誕生、1899年(明治32)のことであった。残った材料を使って料理を作ったことで、陳平順氏は「ケチ」だったとされる話もあるくらいだ。
 四海楼のめん料理はすぐさま大評判になり、「シナうどん」と呼ばれ、大正時代になると「ちゃんぽん」と称されるようになっていった。「ラーメンの誕生」では『この長崎ちゃんぽんの祖型は、湯肉絲麺(トンニイシイミエン)、炒肉絲麺(チャンニイシイミエン)ともいわれる。前者はスープめん、後者は焼きうどんである』とある。また、1907(明治40)年の『長崎県紀要』から引用があり、ちゃんぽん提供店は当時市内十数か所あったとしている。このように長崎もまた、開港以降独自の麺の食文化を形成していたのだ。
 
 神戸はどうだろう。「神戸南京町の形成と変容」[31]では、1886(明治元)年の神戸開港ののち、『在留清国人は外国人居留地の境界西隣で元町南(海岸栄町通1、2丁目辺 )に集中して住居を構えた』。『この辺りは外国人居留地ではなく雑居地』のところに明治10年ごろ、南京町が生まれたという。このあたりでは雑貨商などと並んで飲食店が出来たそうだ。
 1890年代に南京町の南側、現在の中央区栄町通1丁目で開店した広東料理『杏香樓』が神戸最初の本格的中華料理店と言われている。なお前掲の「南京町の形成と変容」によれば、明治末期から大正初めにかけて、総店舗数は100余りあり、うち中華料理店は6店と記されている。また1912(大正元)年には尼崎の「大寛 本店」が、『当時の居留地に於いて日本人初の中華そば店を浪花町66番館にオープン』した[32]。來々軒の味に影響を受け、杏香樓から調理人を招いたともある。
 なお、杏香樓に関しては、関西学院大学公式サイト[33]によれば1924(大13)年10月、高野山大学との第8回交換学術講演会が関西学院大学で開催された際、歓待の食事会を杏香樓で開いたと記録されている。

 さらに函館。よく知られた話と思うが、函館には「來々軒より先にラーメンを提供していた店があった」という話があって、ラー博の公式サイトでも記述がある。
 1884(明治17)年4月28日付函館新聞の掲載された、養和軒という当時は洋食の店の広告で、その中に「南京そむ」というのが見えるのだ。「南京そむ 一五銭」とかかれたものが、つまりは「南京そば=ラーメン」ではないかと解された。日本で最初に、ラーメンが宣伝された可能性があるが、この「南京そむ」が、現在のラーメンにつながる汁そばであるかどうかは不詳、などと紹介されている。
 しかし当時の記録はこの広告のみで、この南京そばが今でいうラーメンだったかはわからないのだ。第一、ラーメン一人前15銭というのが高すぎる。当時の日雇い労働者の賃金がおおよそ27銭(1日)、15銭というのはその半分である。現在の函館の最低賃金は861円/時間、であるから、今の価値にすれば3,000円~4,000円程度になるため、これは今のラーメンとはベツモノという可能性も十分あるのだ。

 函館市史[34]によれば、明治初期の函館に住む中国人はごく少数で、ほとんどが昆布などを買い付ける海産商だったという。その後日清戦争などを経て、明治34年に中国人による料理店が開業、さらに1910(明治43)年には中華会館が竣工した。この建物は現存しており、登録有形文化財にも指定されている。その用途は『寺でも神社でもなく日本で言えばまづ公会堂の様なもの』と記されているが、1953(昭和28)年創業・札幌の製麺所「西山製麺所」の公式サイト[35]によれば『明治43年に開館されたこの建物の中には、「蘭亭」という支那料理店があった』とされる。
 函館では今もラーメンと言えば、スープのベースは塩である。そこに「日本人の味覚に合わせた醤油ラーメン」の影響は見えない。前述の西山ラーメンのサイトではこうも記している。『函館ラーメンは、今の日本のラーメンの中で、最もそのモデルである中国の麺料理の形を残しているのではないだろうか。古くは江戸時代から長崎を通じて中国との貿易を行い、明治時代から昆布や海産物の買い付けに華僑が多く訪れた函館。この地ならではのラーメンだ』。
 
 なお、蘭亭に関してはWEBサイト「函館ラーメン天国」にも記載があって[36]『明治43年に開館された中華会館と同時にオープンしたのが支那料理「蘭亭」という店。北洋漁業で景気がよかった当時の函館で大繁盛していたという』との記述がある。
 ただ、函館市文化・スポーツ振興財団の公式サイト[37]では、『蓬莱町で蘭亭という料理屋』という表現が見える。蓬莱町というのは現在の「宝来町」で、蘭亭があったのは、現在のホテルWBFグランデ函館(注・旧函館グランドホテル、それ以前はチサンホテル)のあたりということを記したブログ[38]を見つけた。この両者、距離的には1.1㎞ほど離れており、別の建物である。本稿では蘭亭の場所を特定することを目的としていないので、此処では明治末期に函館に中華料理店が存在していたという事実にとどめておく。参考まで、蘭亭の初代主人の子は、歌手・瀬川英子氏の父君とのことである。

 函館では昭和の初期にはもう、庶民の間に相当ラーメンが広まっていたことが分かる写真が残されている。「函館ラーメン天国」というWEBサイトにこんな記載と共に写真がUPされている[39]。『純喫茶「ミス潤」(現、宝来町22-19)に今も残る昭和7年のメニューには、ケーキやみつ豆と並んで“ラーメン(支那ソバ)/15銭”とある。当時のコーヒーの値段が10銭ほどだから、ほぼそれくらいの値段で、支那そばが味わえていた』。このミス潤、という喫茶店の隣には「支那そば 笑福」という店があったこと、そこの暖簾には『おそらく“専門食堂、支那そば”と表記されている』とも書かれている。なお、「ミス」であるが、引用では現在も営業されているように書かれているものの、2018年11月末を以って閉店されてしまったようだ[40]

 このほか、古くから開かれた港町や、現在ご当地ラーメンとして知られる町などの、その地域「初」の中華料理店・ラーメン店とされる店を記しておく。
◆札幌 竹家 1921(大正10)年創業。北海道大学正門前に大久昌治氏が開業。翌1922年からは、中国人・王文彩を雇い入れ、大久タツ氏命名の「ラーメン」という名でも提供している。複数の本では、王氏が『好丁!(ハオラ。いっちょう上がり)』と多用して言っていたのだが、札幌の人には「ハオラ―」と聞こえ、その「ラー」と「麺=メェン」をつないだ「ラーメン」という言葉がここで生まれた、漢字の「拉麺」を充てたが客は馴染めず、品書きにカタカナでラーメンと書いた、などと記されている。
◆新潟 保盛軒 1927(昭和2)年創業。県内初の中華料理店とされ、1942(昭和17)年当時の写真に写った看板に「支那そば」「わんたん」の文字が見える[41]
◆米沢 舞鶴 大正末期。同じころには市内に支那そばの屋台引く中国人が3~4人いたという[42]
◆喜多方 源来軒 1927(昭和2)年ごろの創業。1925年ごろ、浙江省出身の潘欽星氏が来日、屋台として始めた。今もなお、喜多方駅から数分の場所で路面店にて営業している。
◆佐野 エビス食堂 大正年間[43]。1916(大正5)年ともいわれる。エビス食堂に勤務していた小川利三郎氏が1930(昭和5)年に屋台を引きはじめ、その後現存する「宝来軒」を立ち上げたという記述もネット上で複数見える。
◆福岡 南京千両 1937(昭和12)年創業。うどんの屋台を営んでいた宮本時男氏が、東京と横浜で流行していた中華そばと出身地・長崎のちゃんぽんをヒントに、当時、鶏ガラより安価であった豚骨に着目し、豚骨ラーメン生み出したと言われている[44]
◆熊本 中華園=1933(昭和4)年創業。紅蘭亭=1934(昭和5)年創業。会楽園=1937(昭和8)年創業。熊本・長崎に伝来した福建省の郷土料理がさらに熊本で進化したのが太平燕(タイピーエン)で、その創業の店がこのいずれかではないかとされる[45]

【昭和初期までの支那料理店事情 東京(浅草以外)】
 それでは東京での昭和初期までの事情はどうか。

 「ラーメン物語」によれば、東京に中華料理店が開業したのは1872(明治12)年のことで、築地入船町の永和斎玉複安、という店だったという。その値段は、一人前一円二〇銭から七円だそうで、当時、そばの「もり」「かけ」が八厘だというから、この店は今なら庶民に手が届かない超高級中華料理店ということになろう。「起源のナゾ おもしろい話題」[46]では『(明治)一二年一月、築地入船町に王愓斎という人が中国料理店永和斎を開店し、「朝野新聞」にその広告を出した』と書かれている。
 その後、いくつかの料理店が開業している。1907(明治40)年に発行された「最新東京案内」[47]では、『●支那料理店一覧』として以下の店が記されている。
◆偕樂園(日本橋龜島町[48]一)
◆もみじ(赤坂田町三)
◆鳳樂園(牛込築土前町)
 「ラーメン物語」では、偕樂園の創業は1876(明治16)年とされている。ほかには聚豊園満館酒館が築地に開業したとある。なお、「食行脚 東京の巻」では“偕樂園”は明治17年創業で、店の所在地は小石川区表町[49]の傳通院、とあるため、別の店か、あるいは移転したものと思われる。“聚豊園満館酒館”は、「起源のナゾ」によれば明治18年7月に開業したと記されている。

 「麺の歴史」によれば、日清戦争(1894~1895)以降に會芳樓、廣東館(いずれも神田)、台湾樓(京橋)、紅葉(赤坂。注・上記の“もみじ”か)が開業、日露戦争(1904から1905)後には中国菜館、神田の現存する維新號(別項で詳細記述)、第一樓が創業。これに続いて來々軒、盛京亭、菜華などができたとある。
 
 大正14年発行の「食行脚 東京の巻」では当時の有楽町一丁目三番地[50]にあった、”陶々亭”を紹介する際にこう書かれている。『偕樂園が、只一軒の支那料理として、明治年代を押通し、夫れから大正に移ると、此處にも彼處(かしこ)にも、所謂中華御料理がウヨゝと急に增えて來た』。さらに「食行脚 東京の巻」では、小石川の明治17年創業・支那料理店”偕樂園”の紹介の中でこう記している。『(偕樂園が)明治年代を通じる日本唯一の、支那料理として、巖然頭角を現はすに至つたのは、眞に偉なりとせねばならぬ、此間(このかん)、明治二拾年の、第一回水産博覧會、同三拾年の第二回博覧會には、數拾種を出陳して、有効賞を受領したことは、當時、異數なりとせられたが、畢竟(ひっきょう)は倶樂部組織の精神を汲んで、支那料理の宣傳に、資せんが為にほかならなかつた』。そして明治の末期になり赤坂に”紅葉(もみじ)”が開業し、大正時代になると『雨後の筍のやうに、同業が增へて來た』。続けて支那弁当はそもそも偕樂園が元祖で、第一回帝国議会召集の際には、議員のために食堂に納めた、ともある。

  私が調べた限り、他にもいくつか明治期から昭和初期に創業しているのが見ることができる。私のブログを参照されたい[51]。そこでは現存する中華料理店他、現在ラーメンを提供している都内の店を一覧にしているが、店自体の創業は古くてもラーメンの提供時期がずっと後だったり不明だったりする店を除けば、明治期から大正初期の創業、つまり來々軒より以前か同時期に創業した現存店は次の通りである。

◆1899 明治32 維新號(神保町)[52] 
◆1906 明治39 揚子江菜館(神保町)
◆1911 明治44 漢陽楼(神保町)
◆1912 大正元 五十番=天府(神田)?[53] 
◆1912 大正元 福来軒(立川) *ラーメンの提供は少し後。
◆1914 大正3   新川大勝軒飯店(茅場町)
◆1916 大正5  のんきや(奥多摩)
 來々軒創業時より前に開業、その当時から中華料理を提供し、現在もなお営業を続ける店が二店、來々軒創業の翌年もしくは同年の、1911(明治44)年に創業した店が一店ある。いずれも神田神保町の所在(維新號は今は神保町にない)である。

 神田(神保町)に歴史ある中国料理店が多いのには訳がある。明治以降、神田界隈は駿河台上の明治大学のほか、たくさんの教育機関が開校、中国からの留学生も多数学んだ。明治以降、神田界隈には次のような学校が開校していった。
1869(明治2)年、開成学校、神田錦町、現・東京大学。
1872(明治5)年 師範学校、神田宮本町、現・筑波大学。
1874(明治7)年 東京女子師範 神田宮本町、現・お茶の水女子大学。
1877(明治10)年 学習院、神田錦町。
1880(明治13)年 東京法学舎、神田駿河台、現・法政大学。
1885(明治18)年 英吉利法律学校、神田錦町、現・中央大学。
1886(明治19)年 明治法律学校、神田駿河台、現・明治大学。
1896(明治29)年、日本法律学校、神田三崎町(麹町から移転)、現・日本大学。
 ほかにも英語や漢学、数学などを教える研精義塾、裁縫を教える裁縫正鵠女学校などがある。また嘉納治五郎は、1882年に講道館を開く一方、英語中心の学校「弘文館」を神田に設けている。
 日清戦争後、「日本に学べ」と中国から留学生が多数来日する。とりわけ神田神保町あたりは「チャイナタウン」と呼べるほど中国人留学生やその生活を支える人々が暮らす街となった。留学生の数は1899年に18名だったのが1903年には一千名を超え、1905(明治38)年には8,000名を超えていたという。留学生の中には、孫文、魯迅、周恩来などがいた。しかし、食べ物の違い等で帰国する人も多かったそうだ。
 その食の問題を解決するために、この店のような中国料理店があった。漢陽楼の創業は1911(明治44)年のことで、周恩来らが良く訪れていたそうだ。店の公式サイトなどでも“周恩来ゆかりの店”などの記述も見える。

 明治大学リバティアカデミーが2013年に開講した「神田神保町中華街 ―もう1つのチャイナタウン―」[54]の講座趣旨にはこうある。『日本におけるチャイナタウンといえば、横浜、神戸、長崎の3都市を多くの人は思い浮かべるでしょう。これらの町とは全く別の背景と発展過程を持つチャイナタウンが日本にはありました。日清戦争後、神田神保町は「チャイナタウン」と呼べるほど中国人留学生やその生活を支える人々がいました』。神田は一時中華街的な様相を呈していたのだ。もしも、であるが、浅草の中華樓・來々軒より前に「日本初のラーメン(専門)店」があったのだとしたら、この神田界隈、という可能性があるかも知れない。

 都内で現存する最も古い中華(中国)料理店が維新號、である。同店の公式サイト「維新號の歴史」[55]によれば、 『明治32年に外国人の居住地以外の内地雑居が可能になったのを機に、東京・神田地区の神田今川小路に清国(中国)の留学生を相手に簡単な “郷土料理店”を始めたのが維新號の始まりです。当時の日本で、中国料理を食べる機会のなかった彼等は、祖国の味を求め維新號に集まり、店は大変賑わっていたそうです。その中には後の中国で活躍する周恩来や蒋介石・魯迅の姿もあったようです。大正中期に至るまでは留学生相手の“故郷飯店”を運営していましたが、 時代の流れと共に留学生の数が激減したのを機に、日本人相手の“中国料理店”に大変身を遂げました』。
  これによると、大正半ばまではラーメン専門店どころか、中華・中国料理店とも呼べないかも知れないような記述である。

 「ラーメン物語」では、1930年発行の『支那料理通』なる本[56]を紹介している。その本の附録には全国規模に及ぶ店のガイドが掲載され、それを引用している。その中、東京の部に16店が掲載、來々軒・維新號の名が見えるので、その頃には一般の客にも中華料理を提供していたと思われる。一方、1906(明治39)年創業の「揚子江菜館」はどうか。これについては最後の項で記すとする。

【昭和初期までの支那料理店事情 東京(浅草以外)】
 次に浅草界隈の状況はどうであろうか。後述する部分もあるので重複を避けながら記述する。

 ここでも頼りになるのは、冒頭の「淺草経済学」である。“第二、淺草に於ける支那料理の變遷 (一)明治末期淺草に於ける淺草の支那料理” 内容を、長くなるのでかいつまんで記述する。
 『淺草の支那料理の變遷は、頗る多種多様に渉っている』そうで、特に明治末期から大正初期にかけて激しく『新たに開業したかと思ふと、間もなく廃業され、而(し)かも、廃業されたかと思ふと、又次のものが出來ると言ふ有様だった』。そのため、全部書くのは困難だとした。
 浅草公園界隈で古いのは金龍館[57]横町の「榮亭」という店で、創業は明治42年、三島という人の経営であったが、大正時代に入って廃業してしまった。明治末期になると、松竹座[58]の横町に「シンポール」という支那料理店が開業。中国の方の経営で、今は二代目となった。
 そのシンポールと前後して開業したのが來々軒と、その真向いにあった支那料理屋(注・店名不詳)であった。ただ、『こゝは支那料理と言ふよりも、支那ソバ屋と言つた格の店であつた』そうだ。ここも大正期に入ると廃業してしまった。また、「東勝軒」という店もあり、大正七年頃まで営業していた・・・などとある。

 浅草での支那料理の全盛期は『言ふまでもなく、大正初期から其の末期にかけた約十二 三年間であつた』そうである。特に小さな西洋料理店が支那料理を『兼業』しているそうで、これが当時の流行だとか。ことに関東大震災直後は『猫も杓子も西洋、支那料理を看板としてゐたものだった』そうである。しかし、その『西洋料理兼業のあいまいが、群小カフェーなどで、インチキ料理を食はされてことによつて、大衆の熟度は、徐(おもむ)ろに降低して行つ』ってしまった。結果的に浅草では兼業支那料理店は一軒も成功しなかった、とある。

 來々軒が創業して十年ちょっとで、浅草では西洋料理店やカフェが支那料理を兼業したおかげで質が低下、支那料理店は、はや衰退、ということなのだが、それでもこの本の著者はこうした状況を『支那料理の本質から言ふと、誠に喜ぶべきこと』で、それは『とりも直さず料理本位の返つたことを物語る』と書いている。結局、まともな料理を出さない店は続かない。それは今も昔も変わらない、ということだ。

(現在の浅草すし屋通り と かつて來々軒があったあたり)




[23] ラーメン博物館 横浜市港北区新横浜2-14-21。『世界初のフードアミューズメントパーク』として1994年に開館。
[24] 会芳楼と關帝廟が存在した 「開港のひろば」第46号。横浜開港資料館、平成6年11月刊。
[25] 横浜中華街公式サイト https://www.chinatown.or.jp/
[26] 会芳楼 横浜中華街公式サイト『横浜中華街はじまり語り、なるほど話。横浜開港150年企画 その2 135番地には何かがある!? 中華街の歴史を語る場所』から。https://www.chinatown.or.jp/feature/history/vol02/
[27] 「横浜市史稿・風俗編」 横浜市・編、横浜市。1931年8月刊。
[28] 「日本めん食文化の一三〇〇年」奥村彪生・著、一般社団法人農村漁村文化協会。2009年9月刊。
[29] 「麺の歴史 ラーメンはどこから来たか」 安藤百福・監修、奥村彪生・著、角川文庫。2018年11月刊。ただし、元は「進化する麺食文化 ラーメンのルーツを探る」 フーディアム・コミニュケーション。1998年6月刊 で、改題・加筆し文庫化したもの。
[30] 「ラーメンの誕生」 岡田哲・著、ちくま新書。2002年1月刊。
[31] 「神戸南京町の形成と変容」高橋 正明, 于 亜・著、大手前女子大学論集。1996年2月刊。
[32] 尼崎の『大寛 本店』公式サイト 「中華そばの歴史」から。https://www.daikan-honten.com/中華そばの歴史.html
[33] 関西学院大学公式サイト 「関学タイムトンネル」https://www.kwansei.ac.jp/yoshioka/yoshioka_003936_3.html
[34] 『函館市史』函館市史編纂室・編、1974~2006年刊。函館市史デジタル版 通説第三巻第五篇「函館の中国人の世界」より。
[35] 西山製麺所の公式サイト 「北海道のご当地ラーメン」https://www.ramen.jp/oyakudachi/gotouchi/hokkaido/?id=hakodate
[36] 函館ラーメン天国に記載のある蘭亭 「函館ラーメンのルーツ」https://www.hakodate.ne.jp/ramen/roots2.html
[37] 函館市文化・スポーツ振興財団の公式サイト 「函館ゆかりの人物伝 瀬川伸」
http://www.zaidan-hakodate.com/jimbutsu/03_sa/03-segawa.html
[38]蘭亭のあった場所に関するブログ 「癌春(がんばる)日記bysakag・大正ロマンの街並み 銀座通り界隈)  https://blog.goo.ne.jp/sakag8/e/46dad5d0f499655bc85ff8acc8be8e83
[39] 函館ラーメン天国WEBサイト 「函館ラーメンのルーツ」 https://www.hakodate.ne.jp/ramen/roots2.html#
[40] 純喫茶ミス潤の閉店 2018年11月8日付函館新聞 函館地域ニュースから。
[41] 新潟の「保盛軒」 WEBサイト「新潟文化物語 file108 新潟のラーメン文化(前篇)」
https://n-story.jp/topic/108/page1.php
[42] 米沢ラーメン 米沢麺業組合公式サイト「米沢そば・らーめんの歴史」から。http://0141men.com/histry/
[43] エビス食堂 ラー博「全国ご当地ラーメン 佐野ラーメン」から。https://www.raumen.co.jp/rapedia/study_japan/study_raumen_sano.html
[44] 南京千両 ウォーカープラスhttps://www.walkerplus.com/trend/matome/article/132797/ 【福岡】久留米豚骨ラーメンの生みの親「南京千両 本家」などから。
[45] 熊本県公式観光サイトhttps://kumamoto.guide 「もっと、もーっと!くまもっと。」などから。太平燕発祥の店としては、熊本市中央区桜町にあった「中華園」との記事がある(2015年2月11日付朝日新聞及び2018年10月8日付毎日新聞)。一方、熊本市観光政策課熊本市観光ガイドhttps://kumamoto-guide.jp/spots/detail/311 では「会楽園」、としている。
[46] 「起源のナゾ:おもしろい話題」樋口清之監修、光文書院。1974年5月刊。料理、政治、宗教、芸術、スポーツ等、日本のさまざまな「こと」「もの」の始まりを、その項目ごとに解説した書籍。
[47] 「最新東京案内」 東京倶楽部・編、綱島書店。1907年2月刊。国立国会図書館デジタルコレクション
[48] 日本橋龜島町 現在の日本橋茅場町二・三丁目
[49] 小石川区表町 傳通院は現在の文京区小石川三丁目。
[50] 大正時代の有楽町一丁目三番地 現在の数寄屋橋交差点斜向かい、銀座五丁目。
[51] 私のブログ 「ノスタルジックラーメンⅠ 東京都23区内 戦前の創業店」https://blog.goo.ne.jp/buruburuburuma/e/ea80328da5637419ffc3a09667009348
[52] 維新號 一旦閉店し。1947(昭和22)に銀座八丁目で営業再開(現在の「銀座維新號」。当時は中華饅頭専門店)。現在の本店は赤坂。
[53] 天府(神田) 「ラーメン物語」で『大正元年から暖簾を守って来た神田五十番が1987年に“天府”に屋号を変える』という記載がある。私が店に出向き、スタッフに「ラーメン物語」記載のオーナー名をあげたところ「そうだ。店の名は変わったがオーナーは変わっていない」とのことであった。
[54] 明治大学リバティアカデミーの講座 2013年4月~7月に駿河台キャンパスで「神田神保町中華街 ―もう1つのチャイナタウン―」を開いた。https://academy.meiji.jp/course/detail/1009/
[55] 維新號の公式サイト 維新號の歴史 http://www.ishingo.co.jp/ayumi.html
[56] 「支那料理通」 後藤朝太郎・著、四六書院。1930(昭和5)年刊。ただし、「ラーメン物語」では昭和4年、とある。
[57] 金龍館 所在は台東区浅草1丁目26番。1911年10月1日開業、1991年閉鎖。かつて浅草にあった劇場、映画館。大正期後半に「根岸大歌劇団」の根拠地となった。その後は松竹洋画系のフラッグシップ館として知られた。
[58] 松竹座 浅草公園六区に所在した劇場。1928年開業、1963年廃座。ボウリング場などとなったのち、1983年解体。現在は浅草ROXが建つ。

淺草來々軒 偉大なる『町中華』 【4】

2020年04月06日 | 來々軒

【中国の麺料理と日本の食文化の融合とは】
 ラー博の公式サイト「ラーメンの歴史(年表)」で來々軒のことを『中国の麺料理と日本の食文化の融合してできた』という表現がある。具体的に何を指しているのか、正直、私にはよく分からないのだ。「融合」とは一体、どういう行為を指すのか? それまでのラーメンは塩味であり、來々軒は醤油味、ということなのだろうか? ことはそう単純ではあるまい。「ラーメンの歴史学」では、『近代日本の食と味は明治末期から大正初期にかけて中国料理を取り込むことによって作り出されていった。その頂点にあるのが、今日ラーメンとして知られている食べ物である』、とした。『そこで重要な役割を果たしたのは、こってりとした食品を好む都市部の新たな労働者階級だった。一九二〇年代に起きた中国料理のブームの一因は、都市で暮らす賃金労働者の増加にある』と記している。中国、台湾、韓国など『異なる国籍が入り混じった労働者たちは、「伝統的」な日本料理とは異なり、見た目よりは味を重視する中国料理を自分たちプロレタリア階級にふさわしい料理として受け入れ』た、と続けている。従来あった日本の食文化とは異なる中国料理文化を受け入れたのは、まさに來々軒が誕生した時期と重なるのである。

 「ラーメンの語られざる歴史」では『「支那そば」が一九二〇年代と一九三〇年代に成功するためには、汁そばの消費者(ほとんどが農村出身の近代産業賃金労働者)を集め、食べようという意欲をそそる必要があった。』と記し、それは『日本が中国料理を取り入れたことは物語の半分に過ぎない』として、戦後、工業化が急速に進むにつれ、客層が変化したことに触れ、もう半分は『「支那そば」顧客基盤の創出』について書かれている。工業化は、支那そばを、たとえば『機械を使って大量につくられる日本で最初の食べ物のひとつ』とし、『新しい勤務形態や技術、都市の勤労大衆の商品選択、そして中国からの人々を含む労働者と学生の(注・都市部への)流入が直接的に反映され』た食べ物として『新しく生まれた大衆文化の象徴となった』のである。支那そばは『日本蕎麦に比べると食べでがあったし』、『都市労働者の食べ物のニーズと生活様式に適していた』という訳だ。

 また「ラーメンの歴史学」では、こんな表現を用いている。『ラーメンは謎めいた変遷を経て日本食になった。中国料理の派生物として始まったものが、一〇〇〇年近い歳月を経て、現代の日本を象徴する料理となったのだ。』。

 変遷は謎めき、千年にわたる年月を経てということになれば、私如きが本稿でこれ以上記述すべきことはない。もとより本稿では食文化の歴史を論じるつもりは毛頭ないので、この辺りで止めておくが、閉鎖的な日本人がいとも簡単に中国的な料理「支那そば」を受け入れていくのには、戦争や経済、労働といった背景のもと、日本という国の都市に住む人々の生活ぶりそのものを反映していたのである。こういう事象そのものを“日本の食文化”と呼ぶのなら、まさにラーメンは、中国の麺料理と融合した象徴的な食べ物なのだろう。來々軒は、日本初かどうかはともかく、その“融合の象徴”を広く東京に普及させた店として歴史に名を残した。

 日本人が中国料理を積極的に受け入れ、日本に古くからある麺料理と結び付けていくのには具体的にも理由と手法があった。それは栄養学的にも必要とされた肉食が進んだこと、八世紀には作られていたという醤油[85]の活用、であろうか。「ラーメンの誕生」では、明治38~39年頃の支那そば屋台に関し、横浜生まれの獅子文六の著書の一部『(シナ料理を)見るとムッとし、ウマいもまずいもあったものではない』を引用、『肉食や油料理を忌避し続けてきた日本人には、豚肉や豚脂の獣臭は、とても受入れられるものではなかった。そこで醤油好きの日本人向けに、関東風の醤油を取り込み、獣臭さを消そうとする試みが繰り返される。醤油仕立てによる、中華風めん汁の和風化が始まる。(中略)日本のめん食文化のなかに、南京そばも、少しずつ引き込まれていくのである。』と書いた。そしてその結果、小菅桂子氏は、『日本人向けのラーメンが初めて登場したのは八十四年前の明治四十三年、浅草に開店した「来々軒」と結論づけた』[86]のである。

 私もその結論は、全くその通りだと思う。しかし、中国の麺料理と日本の食文化の融合ということを、ごくごく単純に捉えるならば、來々軒より以前に実現した麺料理がある。長崎のチャンポンだ。チャンポンは豚脂で豚肉や野菜、海鮮類を炒め、圧倒的な豚骨と、鶏ガラでスープを取り、唐灰汁を加えた麺を煮込み、薄味の長崎醤油で味を調える。そしてそれは、明治の末には日本人にも大評判となった。『めん・スープ・具(トッピング)の三つが、渾然一体となっためん料理は、満足感や満腹感があり、ラーメンの祖型の一つともいえる。』(「ラーメンの誕生」)のである。

 また、函館では今もラーメンといえば塩味である。「北海道観光情報 たびらい」[87]では、明治の頃、『函館の人々は華僑を広東さんと呼び交流も深かったようで、華僑が函館に広東の湯麺を伝え塩ラーメンのルーツになったのではないかと言われている。』と書いている。「日本めん食文化の一三〇〇年」では、『広東風ゆえスープは鶏の清湯で塩味であった。現在函館駅近くにある「鳳蘭」の鶏糸麺はその系統であることは間違いない。』などと書いている。函館もまた、開港以来、中国の人々と交流を深め、中華料理を、自分たちの食文化の中に取り込んでいった。それは“養和軒”や明治34年に中国料理店が開業したことから見ても、來々軒創業以前からのことであった。

 アメリカ人歴史学者が書いた「ラーメンの語られざる歴史」では『日本でラーメン誕生の主な起源説三つ』あると前述した。一つ目は「ラーメンの誕生」という『ラーメン史の先駆的研究』であるが、『二つ目の起源物語が軸にしているのは、アメリカ帝国主義によって生じた日本の食習慣の結果としての、十九世紀のラーメンの到来』であると記している。詳細は省略するが、その中で著者は中国人が持ち込んだ技術のひとつに「拉麺(ラーミエン)」という汁麺があったとし、それは『藻塩に鶏スープに手延べ麺を加えてネギを添える』だけの簡素なもので、塩ラーメンのようなものだったとしている。そして函館の洋食店だった養和軒を引き合いに出し、『西洋式食堂で働いていた中国人料理人がつくった鶏汁そばは、論理的にはのちにラーメンと呼ばれるものの先駆けだと考えられるかも知れない』と書いた。明治末期、來々軒が南京町から中国人を雇い入れ開業したことからすれば、來々軒はラーメンを中国から“輸入”したものに対し、養和軒は自ら中国の“ラーメン的”なものをそのまま提供した店であったのかも知れない。「ラーメンの語られざる歴史」の三つ目の起源物語の中心は、その來々軒の誕生であったとしているのだ。

【1911(明治44)年が來々軒誕生の年か】
 さて、來々軒の創業年についてである。本稿を書き始めて2か月、來々軒に関する様々な書物を読んできたが、その時期を示したのは「銀座秘録」の一冊のみしか見つけられなかった。この書籍を引用して1911年説を唱えるのは私が初めてかもしれない。
ただ、來々軒の創業年次は1910年もしくは1911年であろうということは以下のことから推測できる。
 【來々軒の誕生から終焉まで】で「淺草繁盛記」に來々軒の記載がないと書いた。かなり詳細に当時の浅草を記してあるので、開店後すぐに繁盛し、人々の話題にも上ったであろう來々軒を書き漏らすとはちょっと考えにくい。だとすれば「銀座秘録」に書かれた“明治44年創業説”が正しいのではないかと考えるのだ。
 
   ただし、「淺草繁盛記」の発行は明治43年12月。取材、執筆、脱稿、校正、印刷、製本の過程を考えれば、数か月は要しただろう。当時の印刷製本技術が分からず、どのくらいの期間が必要だったかは推測にしか過ぎないが、1~2か月ということはあるまい。とすれば、脱稿は同年の夏ごろだろうか。來々軒が同年夏以降の開店なら掲載できなかったということは考えられる。もう一つは、尼崎の「大貫 本店」の開業時期である。「FOOD DICTIONARY ラーメン」[88]や「大寛 本店」の公式サイトなどによればこの店の創業は大正元年に神戸居留地で、とある。仙台出身の初代店主は來々軒の味に感銘を受けて創業、ともあるから、來々軒の創業は1910年、つまり明治43年の夏以降から1912年、大正元年にかけて、ということになる。
 
 これは私の推測であるが、「ラーメン物語」の著者は、來々軒三代目店主・尾崎一郎氏から1910年ということを直接聞き取ったのではないか。前述したように一郎氏にインタビューをしているので、その時であろう。であれば、どの書籍を見たところでその根拠(1910年創業説)は示されるはずがないのだ。

 『銀座秘録』の記述が誤りなのか、「ラーメン物語」が間違っているのか、これも今となっては誰にももう分からない。しかし、「ラーメン物語」でその根拠を示していないし、昭和の初めに書かれた記録と言う意味では、1911年、明治44年創業説を支持するのが妥当だろうと思う。


【來々軒創業以前のラーメン専門店 
浅草・中華樓と、神田・「支那そば」屋】
 さて、來々軒以前より支那そばを中心とする、つまり現代で「ラーメン(専門店)」と呼ばれるような店はなかったのか。実は、ある。

 先に触れた「淺草経済学」。“第二、淺草に於ける支那料理の變遷 (一)淺草に於ける支那料理の由來”の中でこう書いている。

 『支那料理の淺草への由來は、(中略)其の嚆矢ともみるべきものは、日露戦役前に、米久の筋向ひに當る現在下駄屋のある處へ、支那人の経営にかゝる支那料理屋が出來たのがそれである。』とある。ただ、この店は一年内外で廃業、その理由は当時の浅草の大衆が支那料理の価値を認めることができなかったからだ、と記している。その後、明治40年に平野洋食部が支那料理を始めたのだが、これも一年経つか経たないかで廃業した。ところが明治41年、平野が支那料理を廃業したあと、入れ替わりに『千束町の通りに、中華樓と言ふのが出來た。こゝは支那ソバ屋としての組織であったから、つまり此の意味に於ては淺草に於ける元祖である。』と記しているのだ。
 さらに続けて『即ちこれまでの支那料理と異なり、支那そば、シューマイ、ワンタンを看板とするそば屋であつたのだ』。『中華樓は現在も、開業當時と同じ営業をやつているので、淺草の支那料理では、こゝが元祖であり、老舗でもある。(中略)(経営者の)江尻君は氣さで、頗(すこぶ)る痛快な男でもあるから、千束町では誰れ一人知らぬ者もない。中華樓は開業當時から千束町二丁目[89]二百五十一番地で、開業當時から、支那人のコックを雇ひ、シューマイ一銭、ワンタン六銭、支那ソバ六銭で賣り始めたのだ』。
 浅草では來々軒以前に支那料理店はあったし、來々軒創業以前に「支那そば」専門店らしきは存在していたのだ。というより、この品書きは、來々軒の残された大正時代の写真に写る品書きと同じである。

 中華楼は明治41年から、少なくともこの本が書かれた昭和8年までは営業していた。ちなみに「中華樓」という屋号であるが、浅草の近く、蔵前、というか、浅草橋三丁目に、同じ屋号の店がある。ただ、場所が違うし、その店の公式サイトには「創業 大正12年」とある。また浅草の店の経営者は江尻某であり、浅草橋の店の創業者とは姓も異なるから、関連性はないだろうと思う。


(創業・大正12年の蔵前 中華樓の天井)

 もう一軒。こちらが正真正銘、日本で最初の「支那そば屋=ラーメン専門店」である可能性があるのだが・・・。

 先に書いた明治39年創業、神田にある現存店・揚子江菜館。冷やし中華発祥の店[90]ともいわれるこの店こそ、わが国初のラーメン専門店の可能性があるのである。
 NPO法人神田学会が運営するWEBサイト 「KANDAアーカイブ」の「百年企業のれん三代記・第26回揚子江菜館」[91]によれば、『揚子江菜館は明治39年(1906年)西神田で創業されました。神田に現存する中華料理店では最も古い店です。実は、「支那そば」という店名でそれ以前から営業をしていましたが、店名を改めた年号を創業年にしています』とある。すなわち、來々軒より数年前から支那そばを中心に提供していたということにならないか。
 
 残念ながら当時の記述はこれ以外になく、この「支那そば」店が“日本初のラーメン専門店”であることの証明はできない。NPO法人神田学会に問い合わせているのだが、2020年2月末現在、「当時取材した記者が退職してしまい、調べるのに時間がかかる」という回答をいただいた。私に出版社などのスポンサーが付いていたら、あるいはフードライターだったら、すぐにでも揚子江菜館に話を聞きに行くのだが。しかし、「支那そば」店が仮にラーメン専門店であっても、あるいは支那そばがウリの中華料理店であったにしても、その記録は残されていない。つまり、來々軒ほどの評判を取るには至らなかった、ということだろう。

(現在の揚子江菜館)

【終わりに ラーメンの誕生と進化は
「同時多発的」と「思いがけない偶然」】
 アメリカ人歴史学者が書いた「ラーメンの歴史学」では『ラーメンの発祥地がどこかも、ラーメンという名前の由来もはっきりしていない』としている。ただ、札幌の“竹家”を例にとり『ラーメン発祥の地を標榜する、店はこの竹家以外にもいくつもある』とし、來々軒、喜多方の源来軒を挙げている。そして『ラーメンの誕生に関するこれらの説はどれももっともらしく筋が通っており、ある意味すべてが本当なのかもしれない。あるいは全部合わせると真のルーツが明らかになるのかも知れない』、さらに『全国各地にほぼ同時期に同じ料理が出現したこととその名前の由来を、一つの説で説明するのは無理な話だ』と続けている。確かに、明治の始まりとともに日本に入って来た中国料理は、開港場を中心として徐々に広がりを見せ、明治末期に同時多発的にラーメンという食べ物に変化し、大衆の間に広がっていったのは今まで書いて来たとおりである。それは、当時の日本に起こった様々な事象の結果として、ある意味必然的な出来事だったように思う。

 「ラーメンの歴史学」ではこうも書いている。『ラーメンの進化は、驚くほど複雑な文化の伝播プロセスと農業の発達、日本人の食事形態の変化、そして思いがけない偶然が、それぞれほぼ同量で混ぜ合わさった結果だと言える』『日本でラーメンが作り出され、受け入れられるためには、日本人自身の食習慣と調理習慣に革命を起こす必要があった。それには何百年、いや一〇〇〇年近くもの年月がかかった』。

 來々軒は、今なお進行するその過程の中で誕生したものだ。來々軒は『日本で最初にラーメンを提供した店』でも、『日本初のラーメン専門店』でもない。中華樓なる店は來々軒に先んじて支那そば・ワンタン・シュウマイを品書きに掲げていたし、三代目店主一郎氏が話されているように、來々軒は一品料理を提供する中華料理店であったことは疑いようもない。確かに支那そばが看板メニューであったことは間違いないが、現在の“モノサシ”では、こうした店を“ラーメン専門店”とは呼ばないだろう。少なくとも私はそう呼ばない。中華料理店もしくは、店の造りやその価格帯からして、いまなら“町中華”と呼ぶのが妥当だろう。しかし、そうした記述をする本などには出会うことはなかった。

 のだが。書き始めて4か月、調べだすとキリがなく、もう2~3日で脱稿、というその日。私は新型コロナウイルスの影響で閑散とする上野の北京料理店で食事をしたあと、書店に寄った。そこで「散歩の達人 ベストオブ町中華」[93]なるMOOK本を見つけた。この種の本や雑誌は目に付くと買うのが、最早習性となっているので迷わず求め、家に持ち帰った。
 このMOOK本は、過去に「散歩の達人」で特集を組んだ際、取り上げた店などを再構成した内容になっていたので、目新しい記事はあまりなかったのだが。
 本の終わり近く、「はじまりの街、浅草」の項。浅草界隈の町中華を紹介する記事の冒頭にこう書かれていた。ようやくこんな本が出たと安堵したのである。

 『浅草は町中華の元祖「来々軒」が生まれた街』。

 そう、そうなのである。來々軒は、偉大なる町中華なのだ。ただし、元祖、と言えるかどうかは別である。神田神保町あたりでは來々軒創業以前から、中国人留学生を主要な客として、つまりは安い値段で中国料理を出していた店が複数存在していたからだ。

 そして記事はこう続ける。『東京ラーメンが生まれ、ワンタン、シューマイにビールを安く楽しむスタイルがここで形成されたのだ』。今、昭和生まれ世代が懐かしく、足繁く通う町中華は110年前、ここで生まれたのだ。東京ラーメンと言われるラーメンと、大衆的な一品料理を、他の店より安く、そして美味しく提供できた店ということなら、おそらくは來々軒が初めてだろう。少なくとも、來々軒創業以前にあった中華樓、維新號、揚子江菜館などは、広く大衆の間に知られることはなかった。

 來々軒が誕生してまだ100年余り。來々軒がラーメン店であろうと中華料理店であろうと、残した功績は偉大である。ただし、日本人がラーメンを、我が国を代表するような食べ物として愛すようになるまでのその長い歴史を考えれば、來々軒の存在は、ラーメンの歴史の後半の、たったひとつの過程に過ぎない、ということになろう。

 そしてラーメンは、いまなお、その進化の過程を歩み続け、歴史を刻み続けている。

(2020年3月 脱稿)

 

【執筆にあたって】
 この原稿を書き始めたのは2019年の暮れのこと。6冊ほどの本を取り寄せ、国立国会図書館のデジタルコレクションで数冊の本を読んで、大方書き終えの多のが2020年2月の半ばでした。私はラーメン特化した投稿WEBサイト「ラーメンデータベース」(RDB)[94]に投稿を続け、2020年3月現在、約2500杯、2120軒以上の店のレビューを上げてきました。この原稿をWEB上げる際にはRDB投稿と何らかの形でリンクさせようと思っていたので、本稿UPのタイミングを計っていたのです。そしてさあ、UPと思い推敲を重ねていたとき、「銀座秘録」という本を見つけたのです。そこには、來々軒の創業が明治44年であることが書かれていました。明治43年創業で書いてきた原稿をかなり手直しせざるを得ませんでした。
 その後も「散歩の達人」の新しいMOOK本や国立国会図書館デジタルコレクションで、新たな書籍を見つけては小さな修正を繰り返す羽目に陥りました。結果、取り寄せた書籍は30冊を超え、WEB上や図書館で読んだ本はもう数が分からなくなったほどです。それでも3月半ばにはWEB上の下書きまで終えたのですが・・・

 「銀座秘録」もそうですが、まさかそういう本に來々軒のことが載っているはずもないという先入観が邪魔をしたのでしょう。

 3月の末、ある書店で2019年発行の「お好み焼きの物語 執念の調査が解き明かす新戦前史」[95]という本を私は手に取っていました。戦前史だから何か参考になることはないか、くらいの軽い気持ちでページを繰っていたのですが、目次の終わりの方に來々軒の文字を見つけました。慌てて購入して家で読んだのですが、そこには正直びっくりするようなことが書かれていました。もちろん、同じような考えで、來々軒を調べた方がおいでになったことを素直に嬉しくは感じましたが。

 そこには、本稿で書いてきたことなどをさらに補強して書かれています。もちろん、この本のほうが先に書かれていますし、新しい発見も多々ありました。もちろん、この本はタイトル通り、つまりは「お好み焼きに関する歴史的な考察をした物語」です。

 來々軒はどういう店だったのか。 
 支那そばを発明したのは來々軒なのか? 否。
 來々軒は日本初のラーメン店なのか? 否。
 など、本稿でも触れた「淺草経済学」の中華樓のことのほか、まさに執念を感じさせるような調査をされ、本稿では触れていない書籍も引用してこれらの結論を導き出しています。なかでも私が膝を打ったのはこのくだりです。

 『横浜南京町にもおそらくは、中国から多くの麺料理が移入されたことだろう。支那そば=ラーメンは、横浜南京町の多くの麺料理の中から、日本人好み麺料理として次第に生まれていったと考えるのが妥当であろう。』

 本稿でも触れていますが、大正昭和の初めに書かれた本を何冊も読んでいると、どうしても來々軒が、広東の料理人を雇いながら、いきなり、唐突に、醤油味のラーメンを作り出したとは考えにくいと映るのです。ですから、南京町のどこかで、それは屋台だったかもしれませんが、來々軒創業より前に、あるいは中華樓が開業する前に、きっと日本人好みのラーメンは少しづつ改良を重ねて提供されていたのだと思っています。そして、この著者はこう書きました。仰る通りであろうと思っています。

 『来々軒は日本初の支那ソバ屋でもなければ日本初の大衆的中華料理店でもなかった。來々軒は明治30年代に横浜と東京で高まっていた中華料理への関心がいきついた帰結の一つであり、浅草においては中華楼をはじめとする、明治末期の開店した複数の中華料理店の一つに過ぎないのだ』。

 なのですが、確かに一つに過ぎないのですが、この本でも、あるいは昭和の初めに書かれた本でも触れているように、來々軒が相当な宣伝費を投入したことは確かなようです。当時は今とは比べられないほど宣伝の効果は大きかったということですが、それでも、こうも來々軒だけが多くの書物の記録に残されているということは、來々軒がそれだけインパクトのある存在だったのでしょう。多くの客で賑わったことも確かでしょう。安くて美味しいと評判を取った、最初の大衆的中華料理店だった、と私は考えています。

 気が付けば、本稿は単純な文字数だけで400字詰め原稿用紙120枚を超える分量となってしまいました。体裁を整えれば130枚とか140枚とかになっているでしょう。この本を、本稿に取り入れて書き直すのはもはや不可能です。もっと早くこの本の存在を知っていれば、膨大な時間を費やし、あれこれ調べずに済んで楽に書けたでしょう。あるいは、私は書くこと自体止めていたかもしれません。

 それでもこうして、來々軒の本当の姿を知ってもらう機会が増えればいいかなと思い、本日、WEBにUPいたします。

 冒頭書いたように、私は還暦間近にがんを患いました。ステージはⅢbでしたが、発見・オペから一年以上経った今でも、幸い転移は確認されておりません。しかし、がん細胞はとても小さく、CF(大腸内視鏡検査)、MRI、CTなどの検査で見つかったときには、相当大きくなってしまったときです。大腸がんは、主に肝臓・肺に転移します。肺はともかく、肝臓にがん細胞が飛んで大きくなったら、もう長くはありません。その覚悟はできています(多分)。どのみち、あと25年30年と生きていられるはずもありません。私がこの世に存在したこと、ラーメンが好きだったこと、そして來々軒のことを検証した人間がいたことの証とするため、本日、WEBにUPすることを記します。

 ここまでお読み頂きましたこと、深く感謝申し上げます。

 2020年4月


 ※誤りのご指摘や、新たな情報などはこのブログに書かず、WEBサイト「ラーメンデータベース(RDB)」の私のマイページからハンドルネームを読み取り「なんとかデータベース」からメッセージ機能(ページ上部にメールアイコンがあります)を利用してお寄せください。なお、根拠なき誹謗中傷の類はおことわりしますし、無視します。




[85] 八世紀には造られていた醤油 しょうゆ情報センター「しょうゆを知る 歴史」から。https://www.soysauce.or.jp/knowledge/history
[86] 『来々軒』と結論づけた 特許庁・2002年12月11日付[審決1998-17819号] より。審決の根拠は「1994年3月6日付読売新聞東京朝刊」などからである。
[87] 「北海道観光情報 たびらい」 2013年7月30日付『函館塩ラーメン/函館市』より。https://www.tabirai.net/sightseeing/column/0000774.aspx
[88] 「FOOD DICTIONARY ラーメン」 枻出版。2017年5月刊。
[89] 戦前の千束町二丁目 現在の浅草二丁目から五丁目にあたる。
[90] 冷やし中華発祥の店 サライ.jp「冷やし中華発祥の店!神田神保町『揚子江菜館』の五色涼拌麺」【下町の美味探訪7】から https://serai.jp/gourmet/200096
[91] 「KANDAアーカイブ 百年企業のれん三代記・第26回揚子江菜館」http://www.kandagakkai.org/noren/page.php?no=26
[92] 「散歩の達人 ベストオブ町中華」 交通新聞社、2020年4月刊。
[93] ラーメンデータベース(RDB)  運営・株式会社ラーメンデータバンク及び株式会社スープレックス。https://ramendb.supleks.jp
[94] 「お好み焼きの物語 執念の調査が解き明かす新戦前史」 近代食文化研究会・著、新紀元社。2019年1月刊。

淺草來々軒 偉大なる『町中華』 【1】

2020年04月06日 | 來々軒

※「來々軒「の表記 文中、浅草來々軒は大正時代に撮影されたとされる写真に写っている文字、「來々軒」と表記します。その他、引用文については原文のままとします。
※大正・昭和初期に刊行された書籍からの引用は旧仮名遣いを含めて、できるだけ原文のままとしました。また、引用した書籍等の発行年月は、奥付によります。
※(注・)とあるのは、筆者(私)の注意書きです。

‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐
 「わが国最初のラーメン(専門)店は、浅草六区、すし屋横丁にあった來々軒(以下「來々軒」という)で、創業は1910(明治43)年のことである」。

 そんな話を聞いたことがあろう。來々軒=日本初のラーメン(専門)店という話は最早定説となっているが、これは例えば、NHKの大河ドラマで放映中の「麒麟が来る」の主人公・明智光秀が「織田信長を本能寺で討った」などと同じようなもので、「教科書に書かれているから間違いない」と闇雲に信じて、その出典を自分では調べようとはしないものである。
 
 私は還暦を迎えた直後、がんを患い、手術と抗がん剤治療の後、自宅療養を余儀なくされた。つまり時間ができたのである。いい機会であるから、この来々軒=日本初のラーメン(専門)店であるか否かを、いままで出版された本などで検証してみることにしたのだ。
 
 まず、結論を書いておく。來々軒は、「日本初のラーメン(専門店)」ではない。まして「日本で初めてラーメンを出した」という店でも決してない。付け加えるなら創業は1910年ではなく、1911(明治44)年、というのが私の考えである。
 今で言うなら來々軒は“町中華”だろう。しかし偉大な町中華店であった、と思う。その根拠はいくつかあるが、三冊の本をここで挙げたい。一冊は1987年に発行された小菅桂子氏の著書「にっぽんラーメン物語 中華ソバはいつどこで生まれたか」[1](以下「ラーメン物語」)。それと、1933(昭和8)年に書かれた「淺草経済学」[2]と、1937(昭和12)年に発行された「銀座秘録」[3]である。その本の内容を含めて、私が結論を考えるまでに至ったかを記していく。

【ラーメン専門店のはずなのに 
写真に残る「広東・支那料理」の文字】
 私は來々軒=日本初のラーメン店という説には、以前からぼんやりと疑念を抱いていた。それは、來々軒より以前に創業していた中華(中国)料理店が多く存在していたという事実と、ネット上に出回っている1923(大正12)年頃撮影されたという來々軒の写真[4]を見たからだ。

 明治43年以前に創業された中華(中国)料理店は後述するとして、來々軒の写真について触れる。その写真はネット上にも公開されているから確認することは容易だ。そこには木造2階建ての『店の前で撮った家族(写真)』(キャプション)とともに、看板や一部品書きが写り込んでいる。ボクの手元にあるものでは「近代日本食文化年表」[5]の巻頭にある写真がもっとも鮮明であるのだが、その写真のキャプションには撮影年次が記されていない。
 その写真に写った看板には『支那御料理』『支那蕎麦』『廣東●●理來々軒』『●東御料理』『廣東●●支那蕎麦來々軒』などと描かれ、品書きには『シウマイ』「マンチウ」『支那蕎麦六銭』『ワンタン六銭』とある(●は判読不能)。また、「ラーメン物語」掲載写真では『廣東御料理來々軒』『滋養的支那料理 そば わんたん 七銭』と判読できる。つまり、写真を見る限り、來々軒は支那蕎麦を提供しているが、同時に支那料理店、広東料理店であることが分かる。なぜ「ラーメン(専門)店」が広東や支那料理を謳っているのだろう? 当時なら「支那蕎麦専門」とでも書けばいいのではないか。 
 私は本稿を書くにあたって、相当数の書籍を取り寄せたり図書館で行って古い本を読んだりしたのだが、その答えらしきはすぐに見つかった。最初に取り寄せた数十冊の本の中にそれはあったのだ。冒頭に書いた「三冊の本」のうちの一冊である。
 
 1987年に発行された小菅桂子氏の著書「にっぽんラーメン物語 中華ソバはいつどこで生まれたか」。

 この本の内容は、この後書かれた様々なラーメンの歴史などに関する書籍で多々引用あるいは参考文献とされていくのだが、アメリカの歴史学者であるジョージ・ソルト氏は自らの著書「ラーメンの語られざる歴史」の中で[6]この本をこう紹介している。『日本でのラーメン誕生についての主な起源説三つと、それらを提示した作家や組織を紹介していこう。ひとつ目のもっとも想像力豊かな話が最初に登場したのは、料理研究家・食物史研究家の小菅桂子による、1987年に出版されたラーメン史の先駆的研究だった』。この本抜きでは來々軒を語れない、と思う本である。なお、「ラーメンの語られざる歴史」で言う『主な起源説』の残り二つは後述する。

 さて、その本には何が書かれていたのか。また「淺草経済学」「銀座秘録」にはどう記されていたのだろうか。

【來々軒の誕生から終焉まで 創業は1910年か1911年か】
 本題に入る前に來々軒の歴史を簡単に記しておこう[7]
◆1857(安政4)年もしくは1858(安政5)年 創業者・尾崎貫一、下総舞鶴藩の武士の家に生まれる。明治の初め頃、横浜に転居。横浜税関に勤務する。
◆1892(明治25)年 十一月、貫一の長男、新一、誕生。のち、東京府立第三中学校、早稲田大学商科に進学。
◆1910(明治43)、もしくは1911(明治44)年 貫一、浅草新畑町三番地に来々軒を開業する。電話は浅草一九八八番であった(大正10年には「下谷四五七七番」)
◆1915(大正6) 貫一の孫、後の來々軒三代目店主・尾崎一郎、誕生。
◆1921(大正10)年 來々軒は繁盛し、この年には12人の中国人コックが働く。
◆1922(大正11)年 三月、貫一死去、享年65。長男・新一が経営を引き継ぐ。
◆1927(昭和2)年  三月、新一死去、享年36。妻・あさが経営を引き継ぐ。この時、堀田久助(義兄)および高橋武雄(義弟)の補佐により運営する。
◆1935(昭和10)年  20歳の一郎が家業継承。堀田久助は独立、上野來々軒を創業する。
◆1943(昭和18)年 一郎、出征のため、浅草の店を閉店する。
◆1954(昭和29)年 一郎、東京駅近く、八重洲四丁目に来々軒を新たに出店する。
◆1965(昭和40)年 八重洲の店がビル化されることに伴い。内神田二丁目に移転。
◆1976(昭和51)年 廃業

 冒頭に書いた「わが国最初のラーメン店は、浅草六区にあった來々軒で、創業は1910(明治43)年のことである」という一文には三つの事象が含まれている。それは、
一、來々軒の創業は1910年である。
二、來々軒は日本初のラーメン(専門)店である。
三、來々軒は中華(中国)料理店ではなく、創業当時からラーメン(専門)店であった。

 一、の創業年次に関しては、上記に揚げた書籍はもとより、本稿執筆時から私は相当な書籍等を見てきたが、どこにも1910年という根拠が記されていないのだ。また、ネット上でも調べてみた限り出典等を示した記述は見つけられなかった。
 おそらく來々軒=1910年創業と初めて書いた本であろう「ラーメン物語」でもそれについては触れず、ただ『明治43年、浅草新畑町三番地すし屋横丁の一角に開店した來々軒』などと書かれているだけである。浅草区史なども含めて調べたのだが、明治43年創業という事実を示す書籍等には出会えなかった。しかし、ようやく1937(昭和12)年に発行された「銀座秘録」の中に創業時期を示した記述を見つけた。
 それによると銀座にあった”上海亭”の様子を細かく書く中で『最も淺草の來々軒の如きは、明治四十四年(注・1911年)の開業であるから、極く安直な支那料理屋はないではないが、しかし、本格的な支那料理の大衆化は・・・』とある。一方、明治43年12月発行の「淺草繁盛記」[8]は、当時の浅草の様子を事細かく記した本で、中には地区別の飲食店、あるいは名物とする料理を多数紹介しているが、來々軒の名は記されていなかった。ただ、1910年にしても1911年にしても、本稿の執筆目的にそう大きく影響するものではないので、この稿では1910年創業として書いていくが、これについては後述することにしたい。

(「銀座秘録」に書かれた『來々軒創業年』)
 
【來々軒=日本初のラーメン(専門)店、とされた理由】
 後で触れるが、明治の終わり頃までの間、多くの中華・中国料理店は高級だったようだ。庶民店大衆的な店として來々軒を区別するのは、値段だったり、屋号や内装・外観で作られる雰囲気だったりのはずである。さらに提供品においても、中華料理店のように一品料理を何種類も置き、あるいは高級中国料理店のようにコース料理中心としたものではなく、あくまで汁そば、ラーメンを中心とした料理を提供する店だったからではないか。だからこそ、來々軒は「中華料理店」ではなく「ラーメン(専門)店」として日本初、とされたのだろう。

 中国料理店・中華料理店とラーメン専門店を区別する際、現代では料理の内容という観点からすればスープの存在が大きいといえる。ラーメン店ではそれこそラーメンしかスープを用いないからそれ専用に仕込めばいい。しかし中華(中国)料理店では汁そば以外にもさまざまな料理に用いる。
「東京ラーメン系譜学」[9]は、『同じラーメンという食べ物でも発展の歴史が違い、出されるラーメンも全く違う食べ物と言ってもいいくらい性質を異にした』と述べている。ただそれは、その本の指摘のように、100年以上にわたって発展した歴史がある現在だからこそ区別できるのであって、明治大正の頃にはその歴史もない。來々軒は「スープ」云々ではなく、日本人の嗜好に合った、庶民的大衆的な値段と店内内装などの雰囲気の中、汁そばを提供品のコアにしたから従来あった中華料理店と区別され、日本初の「ラーメン(専門)店」とされている・・・ということで良いのではないか。

 では、「ラーメン(専門)店」「中華料理店」「町中華」との違いはどこにあるか。無論、それぞれに定義があるなど聞いたことはない。しかし、例えば濃厚豚骨魚スープで、つけ麺・ラーメンが全国的にも評判の店があるとする。私たちはその店を中華料理店とも町中華ともいわない。けれど、その店には餃子やチャーシュー丼がある。横浜中華街の大通りに周囲を威圧するような外観を持ち、コース料理が数万円もするような高級中国料理店があったとしよう。そこを誰もラーメン店、町中華とは呼ばない。しかし、チャーシューメンやエビそばなどの汁そばは数十種類もある。私鉄の小さな駅前で、初老のオヤジが鉄鍋を振り、チャーハンやら酢豚定食やら中華丼、あるいはラーメンをつくる店を、町中華と人は呼ぶ。人によっては中華屋、ラーメン屋という。町中華、中華・中国料理店、ラーメン専門店・・・そこに明確な定義があるわけではないが、あやふやだけれど、確かな一線があるように思える。

 私はあまり意識することなく使っていたのだが、「中華料理店」と「中国料理店」も、あやふやではない、けれど、ある一線は引けるようである。西安市出身の中国人・徐航明氏が書いた「中華料理進化論」[10]では、おおむね次のような分類を示している。
◆中華料理店・・・庶民の店、値段は安い、ラーメンやチャーハンなどを提供、シェフは日本人、個人経営で小規模、テーブルは四角く繁華街や街角にある。
◆中国料理店・・・高級で値段は高い、フカヒレな北京ダックなども提供、シェフは中国人が多く会社経営で規模は大きい、テーブルは丸く高級ホテルなどに入っている。

 最近、「町中華」という表現が目立つようになった。雑誌で特集を組んだり、MOOK本が出版されたりと、随分と注目を集めている。「町中華」とはどんな店なのだろうか。「町中華とはなんだ 昭和の味を食べに行こう」[11]と、「町中華 探検隊がゆく!」[12]によると、おおむね次のような店のことである。なお、この二冊は著者が同じである(町中華探検隊)。
◆町中華・・・創業時期は主に昭和、安い料金で食べられる中華食堂、本場の中国料理でもなく単品料理主体やラーメンなどに特化した専門とも違う、オムライスやカレーライスなどを提供する店もある、殆どが個人経営、姻戚や弟子・同郷出身者への暖簾分けも多い、店主の人柄や味の傾向がはっきりでる。

 ラーメン専門店というのは、文字通りラーメンに特化した店であろう。ちなみに検索エンジンを用いて「ラーメン専門店」で検索、ランダムにその店の公式サイトでメニューを見ると、ほぼ全店で餃子を、幾つかの店でチャーハンやチャーシュー丼などの丼物を提供していた。唐揚げや韮レバ炒めなど一品ものを出している店も数店あったが、提供品数はいずれも2~3点以内であった。

【三代目が語る 來々軒は『シナの一品料理屋』】
 実は「ラーメン物語」では來々軒のことを、ラーメン専門店といった表現を一切使っていない。中国の一品料理店あるいは中華料理屋、なのである。そしてこの本には三代目店主・尾崎一郎氏の話が掲載されている。文脈から、著者がインタビューしたものと思われる。一郎氏はこう語っているのだ。
 
『来々軒は日本人が経営したはじめてのシナの一品料理屋だったと思いますよ。私の祖父がなぜ来々軒と名付けたのかは知りませんが、この来々軒という名前はうちが元祖です。看板はシナそばと焼売でした。』

 來々軒三代目店主・尾崎一郎氏が語る來々軒。それは『日本人が経営したはじめてのシナの一品料理屋』であった。これほど確かな話はあるまい。著者の小菅桂子氏は、この話を聞いたからこそ、著書の中で下町の中国の一品料理店あるいは中華料理屋という表現を用いているのではないだろうか。

 さらにこんな記述もあるのだ。「あとがきにかえて」の中、尾崎一郎氏の話。
 
 『昭和ヒトケタの頃です。当時は八時から浅草ではどこの映画館でも夜間割引というものがありましてね。ひと遊びしたお客様がうちの店で腹ごしらえして割引に入ろう、それにはゆっくりたべてる時間がない、面倒だから上に乗せてよ・・・そうしたお客様のニーズにこたえて天津丼と中華丼ができたわけですが(中略)、カニ玉も八宝菜も十二銭の頃です。五十銭あったら遊んでラーメンたべて、割引へ入れた時分の話です。天津丼と中華丼はお客さまのヒントで、來々軒が名付け親です』。

 1989年発行の「ベスト オブ ラーメン」[13]では昭和初期の來々軒の品書きの写真の一部を掲載している。そこにはこんな品があるのだ(単位は銭)。
◆肉もやしそば 三五
◆やきそば 三〇
◆ちやしゆめん 三〇
◆らうめん 一五
 
 つまり、來々軒は焼売だけでなく、カニ玉、八宝菜の一品料理、さらには天津丼、中華丼のご飯物、そして焼きそばまでも提供していたのである。果たして、これで「ラーメン専門店」と言えるのであろうか。また、「古川ロッパ昭和日記 戦中篇」[14]でも、來々軒で“五目そば”を食べ『うわー不味くなった』と書かれている。不味くなった、とはこの書が書かれたのがまさに太平洋戦争中で、食糧事情が極めて悪い時期だったからだろう。

 ちなみに、「東京今昔 街角散歩」[15]によれば、日本で最初に映画館ができたのはやはり浅草六区で『明治36年(注・10月2日)に日本初の常設映画館(活動写真館)、「電気館」がオープンした(現電気館ビル)。大正期には「活弁」が現れ』て、『六区ブロードウェイ商店街 映画専門の「電気館」の「電気」は当時、ハイカラなものに付けられた言葉。凌雲閣と並んで有名な、常設興業館、日本パノラマ館の跡地には、現在、複合商業施設「浅草ROX」が立っている」。この後も、当時あった見世物小屋が続々と活動写真館に鞍替え、「浅草六区活動写真街」が形成されていくことになる[16]

【來々軒の天津丼、中華丼】
 前項で書いた「天津丼・中華丼 來々軒発祥説」を詳しく見てみる。

 Wikipediaの來々軒の項目を見る『中華丼や天津飯の発祥店とも称されることがある[4][5]』という記載がある。[4][5]は脚注で、その引用元であったり出典であったりするのだが、念のため調べてみると面白いことが分かった。
 
 まず天津丼である。Wikiの引用は2009年発行の「中国の食文化研究 天津編」[17] 。読んでみると、その中、“天津飯のルーツを探る”でこう書かれている。
 『元祖をさらにたどると東京、大阪の二説[18]が浮かび上がってくる。東京説について私は天津飯の由来たる話をつなぎ合わせて、やっと目指すお店にたどり着いた。その店、来々軒(昭和三十三年に弟子入り)で修業して独立された宮葉進氏が千葉市稲毛区天台で進来軒を開店されていると聞き(中略)ご主人にお話をお聞かせ願った。明治末期の浅草に、豚骨と鶏ガラでスープを取り、醤油味のラーメンを始めた「来々軒」という中華料理店があったという。その三代目の主人が、戦地から復員して東京駅の八重洲口に来々軒を出店し、このとき銀座の中国料理店「萬寿苑」からコックを回してもらった(中略)“なにか早く食べるものを作って”という客の要望に応えて店にはない特別のメニューを作った。(中略)蟹玉(芙蓉蟹肉)を丼のご飯の上にのせ、酢豚の餡を応用した甘酸っぱい醤油味の餡をかけて「天津丼」と呼んだのである』。

 尾崎一郎氏が語る戦前説と、この戦後説が出てきたわけだ。これは考えるに、どちらかが思い違いをしていたということではなく、どちらも正しいのではないか。これはあくまで私の推測であるが、『料理の経験などなかった』(「トーキョーノスタルジックラーメン」[19]より)宮葉氏が、八重洲で再開したばかりの來々軒に勤め始めたころのこと、急(せ)いた感じの客から早く、と要望があり、萬寿苑から来ていたコックが、以前から尾崎一郎氏から聞いていた「かに玉を飯の上に乗せる」品を作った。もしくは一郎氏から指示があってそれを作った。メニューにはないものだから、宮葉氏がそれは何という名の料理かと聞くと、コックは天津丼と答えた。勤め始めたばかりの宮葉氏は初めて聞く品名で、それが天津丼の始まりと考えた・・・どうだろうか?

 次に中華丼である。Wikiの引用元は1991年発行の「日本史総合辞典」[20] である。一千ページを超える大型本で、なかなか該当する記述が見つからず往生したが、“近代の食生活”の中、“和洋折衷料理”のところに記述があった。『(前略)因みに「中華丼」と「天津丼」は明治43年(1910)から昭和16年(1941)まで浅草にあった「来来軒」の作。これまた客の注文から生まれたメニューである』。
 これだけでは断定できないが、中華丼・天津丼という考案と命名は來々軒ということのようである。ただし、1925(大正14)年発行の「食行脚 東京の巻」[21]の中、“支那料理 海嘩軒(かいようけん。日本橋本石町)” の紹介の中に、『麺類では・・・天津麵・・・』を提供していたとあるので、來々軒以前にかに玉を飯の上に乗せて食べられていたという可能性もあるかも知れない。
 
 來々軒の看板には廣東という文字が見える、と書いたが、「ラーメン物語」によれば、來々軒の初代店主・尾崎貫一氏は、開業にあたって当時に南京町から広東料理の料理人を招いた、とある。尾崎貫一氏が書き残した日記風ノートには、大正10年には中国人調理人は12人に上った、ともある。『コック十二人である。しかも來々軒の料理人は開店以来、南京町出身の広東料理のプロである。くどいようだが場所は浅草、それも町場の中華料理屋である。そこに十ニ人…』。小菅氏はそういう状況からして『来々軒がいかに本場の味を大事にし、いかに繁昌したか伝わってくるようだ。』と記した。
 此処で注目すべきは広東の本場の味を大切にした、“町場の中華店”という記述があることだ。ラーメンを中心にした店に広東の料理人12人は置かないだろう。ラーメン(支那そば)は確かに看板メニューではあったが、同時に三代目店主・尾崎一郎氏が話されていたように來々軒は、支那の一品料理屋だったのだ。看板に廣東、支那料理の文字が大書きされていたのには、それなりの理由があったということである。

 そしてもう一つの疑問が浮かぶ。來々軒のスープは、尾崎一郎氏によれば醤油味だった。いくつかの書籍によれば、それまでの塩味だった汁そばを來々軒が改良、醤油味にしたとされている。來々軒が創業し支那そばを提供するまで、支那そばは本当に全てが「塩味」だったのだろうか。これから紹介するが、明治末期には横浜では既に屋台で支那そばを提供していたとされている。中国の料理人が作った本場の味が評判だったというなら、支那そば(汁そば)もまたそれに合わせるべきではないか。なぜゆえ、支那そばだけを日本人向けに、つまり醤油味に改良したのだろうか。もしかすると、もう横浜では、醤油味の支那そばを提供している店・屋台があったのではないか。残念ながらそのあたりを記述している書籍には出会えなかった。もう100年以上も前のこと、当時の横浜にどれだけ支那そばを提供している店・屋台があったのかは分からないが、全部の店のスープの記録などあろうはずもなく、この疑問は解決されることはないだろう。

 なお、來々軒の中国人コックの件であるが、たとえば「ラーメンがなくなる日」[22]などでは開業時に南京町から12人の中国人調理人を招いた、といった記述がみられるが、「ラーメンの物語」の記述が尾崎貫一氏自身の日記風ノートに基づくものであるから、あくまで『大正十年には12人の中国人コックがいた』と考えるべきであろう。

 さて、ここからは、ラーメンが各地でどう創業されたのか、來々軒が残した功績はどんなものだったのか、大正昭和初期・20世紀末・21世紀にどう表現されたのか、などを見ていくとする。

[1] 「にっぽんラーメン物語 中華ソバはいつどこで生まれたか」 小菅桂子・著、駸々堂出版。1987年9月刊。ただしこの書籍はこの本は1987年9月刊の単行本と、1998年11月刊の改訂版・文庫版がある。本稿では単行本を指す。
[2] 「淺草経済学」 石角春之助・著、文人社。1933年6月刊。国立国会図書館デジタルコレクション。
[3] 「銀座秘録」石角春之助・著、東華書荘。1937年1月刊。国立国会図書館デジタルコレクション。
[4] 來々軒の大正12年ごろの写真 來々軒を背景にした家族写真。この写真はネット上にも相当出回っているが、書籍として刊行された中にも「大正12年ごろ」とされるものが多い。しかし、幾つかの本やネット上にある写真のキャプションには「大正2年ごろ」とされるものとある。
[5] 「近代日本食文化年表」 小菅桂子・著、雄山閣。1997年8月刊。
[6] ジョージ・ソルト(GEORGE SOLT)の著書 「ラーメンの語られざる歴史 世界的なラーメンブームは日本の政治危機から生まれた」 野下祥子・訳、国書刊行会。2015年9月刊
[7] 「ラーメン物語」などから作成。
[8] 「浅草繁盛記」 松山伝十郎・編、實力社。1910(明治43)年12月刊。
[9] 「東京ラーメン系譜学」刈部山本・著、辰巳出版。2019年11月刊。
[10] 「中華料理進化論」 徐航明・著、イースト・プレス。2018年9月刊。
[11] 「町中華とはなんだ 昭和の味を食べに行こう」 町中華探検隊・著、立東舎。2016年8月刊。
[12] 「町中華探検隊がゆく!」 町中華探検隊・著、交通新聞社。2019年2月刊。
[13] 「ベスト オブ ラーメン」 麺‘S CLUB編、文春文庫ビジュアル版。1989年10月刊。
[14] 「古川ロッパ昭和日記 戦中篇 昭和16年‐昭和20年」 古川ロッパ・著、晶文社、2007年3月刊。
[15] 「東京今昔 街角散歩」中「浅草② 六区・かっぱ橋道具街」から。井口悦男・監修、ジェイティビィパブリッシング。2012年10月刊。
[16] 浅草六区活動写真街 江戸東京博物館常設展5階 「T4 市民文化と娯楽 六区活動写真街」より。https://www.edo-tokyo-museum.or.jp/p-exhibition/5f
[17] 「中国の食文化研究 天津編」 横田文良・著、ジャパンクッキングセンター(辻学園デジタル出版事業部)。2009年3月刊行。
[18] 東京と大阪の二説 大阪説とは、大阪の「大正軒」という中華料理店で、山東省出身の店主が戦後の混乱期に芙蓉蟹蓋飯を考案したというもの。
[19] 「東京ノスタルジックラーメン」山路力哉・著。幹書房、2008年6月刊。宮葉進氏へのインタヴュー記事の中から。
[20] 「日本史総合辞典」 林陸朗、村上直、高橋正彦、鳥海靖・編、東京書籍。1991年11月刊。
[21] 「食行脚. 東京の巻」 奥田優曇華・著、協文館。1925年7月刊。
[22] 「ラーメンがなくなる日」岩岡洋志・著、主婦の友社。2010年12月刊。