拉麺歴史発掘館

淺草・來々軒の本当の姿、各地ご当地ラーメン誕生の別解釈等、あまり今まで触れられなかっらラーメンの歴史を発掘しています。

【追記】旭川<百年>ラーメン物語 ~それは小樽から始まった

2021年09月02日 | ラーメン
【上】旭川<百年>ラーメン物語 ~それは小樽から始まった の『日本蕎麦屋はいつからラーメンを出したのか』の項から続く

※2021年9月2日追記 本稿をWEB上にUPしたのち、本稿内容の確認をお願いした近代食文化研究会様より、日本蕎麦屋がラーメンを出した時期などについて、同会の著書「お好み焼きの物語」(*1)に記述があるとの指摘がございました。同書はボクも所持して拝読させていただいたおりましたが、当該部分の記憶が欠落していたようです。引用させていただきます。

『中華料理の中でもこと支那そばに限っていえば、その普及にもっとも貢献した外食店は、蕎麦屋であったろう』
 
 『作家の平山蘆江(*2)の「東京おぼえ帳」(*3)において、大正時代に蕎麦屋に支那料理が広がっていったさまを次のように描写している』

 『>東村山の貯水池のほとりに一軒、すばらしいそばやふが出来たのは、東京市中のそばやがあら方焼売とチヤアシウ麺に占領されかけた大正末期のことだからすばらしい』

 ということなので、旭川の蕎麦屋で、昭和の初めからラーメンを出したことには何ら違和感はない、ということである。


(*1)「お好み焼きの物語 執念の調査が解き明かす新戦前史」 近代食文化研究会・著、新紀元社。2019年1月刊。 Kindle版にて「お好み焼きの戦前史 第二版」もあり。
(*2)平山 蘆江(ひらやま ろこう) 1882(明治15)年~1953(昭和28)年。
(*3)「東京おぼえ帳」 平山 蘆江・著、住吉書店。初版は1952(昭和27)年刊。2009年、ウェッジ文庫より復刊。







【下】 旭川<百年>ラーメン物語 ~それは小樽から始まった

2021年09月01日 | ラーメン

旭川芳蘭と「は満長本店」の位置図

☆と☆に囲まれた箇所は、事実に基にしたボクの創作である。

竹家食堂から百年の歳月が過ぎて・・・

 ・・・今日は中国からの船が小樽の港に入った。だから客はそれなりに来た。しかし、中国から船が来る日以外は、文字通り店は閑古鳥が啼く日々。「もう限界ダロウカ?」。

 王文彩は先---八月のことだ---札幌から竹家の主人である大久昌治が来て、話したことをふと思い出していた。

 「竹家に戻る気になったらいつでも来たらいい。また一緒に暮らそうや」。昌治はそう言った。王は、相変わらず日本語はあまり話せないが、聞いて理解することは随分と上達したのだ。昌治ははっきりそう言ってくれた。不覚にも涙が目に浮かび、思わずかつての主人の手を握り返していた王文彩であった。

 ・・・時は1920(大正9)年。ロシア革命後に起きたロシア内戦。そしてそのさなかに起きたのが尼港(にこう)事件、別名ニコラエフスク事件であった。王文彩も当時ニコラエフスクに住み、中国料理の調理人をしていたが事件に巻き込まれ、命からがら樺太を経て札幌にたどり着いたのは1921(大正10)年のことであった。

 一方、小樽から札幌に出てきた大久昌治・タツ夫妻は、写真屋がうまくいかず竹家食堂を開いていたのだが、雇った中国人の作る料理の評判が良くなかった。ある日、室蘭から来た男に王文彩を紹介された。腕のいい中国人コック、という触れ込みだったので昌治は採用を決めた。山東省出身で、名を王文彩といった。そして、これが当たった。北大前の支那料理・竹家は瞬く間に繁盛していった。1922(大正11)年のことである。

 しかし1924(大正13)年5月、王文彩は自分の店を持ちたいと決め、竹家を離れ小樽に向かったのだ。昌治・タツ夫妻は、竹家をここまで大きくしてくれたのは王文彩だという思いがある。だから随分と心配した。王の店は大丈夫だろうか・・・と。

 それは昌治・タツ夫妻が札幌に竹家支店芳蘭を出し、横浜の南京町から調理人・徐徳東を招いて料理全体をブラッシュアップした以降も変わらなかった。だから昌治は、かつて自分が小判焼きを売っていた懐かしい小樽の町の、王の店を訪れたのだった。

 王の店は中国から港に中国から船が入るかどうかで客入りが左右された。つまり、経営は不安定であったのだ。おまけに相変わらず日本人は中国人のことを馬鹿にする。いや、差別する。日本語が喋れなくたって、聞けば大体のことは分かる王である。もう限界だ、かつての主人はまだ私のことを思ってくれる、ならば札幌に戻ろう。

 王文彩は決意し、札幌の竹家に戻ることにした。すでに、かつての自分の地位にはほかの中国人コックが就いていたが、昌治もタツも、ほかの調理人たちも復帰を歓迎してくれた。それは1925(大正14)年11月のことであった。

 ・・・大正天皇が崩御し、年号が変わって間もなくのこと。昌治は旭川にたびたび行くようになっていた。旭川は明治31年には鉄道が開通、明治33年には旭川村から旭川町に改称され、札幌から第七師団が移駐するなど、産業・経済の基盤が成立し、道北の要としての使命を担ってきたのである。

 とりわけ発展の要となったのは札幌~旭川間の鉄道開通である。1898(明治31)年7月に空知太(そらちふと。廃駅。現在の砂川市)〜旭川間が開通した。既に札幌~岩見沢〜空知太の間が開通していたことで、旭川と札幌は鉄路でつながったのである。また第七師団移転は1899(明治32)年に決定され3年後の1902(明治35)年に完了した。このことで旭川は“軍都”とよばれるようになり、明治末期には相当規模の町となっていたのである。

 
 旭川は軍服を着た男たちがべらぼうに増えた。当然、飲食店も増える。昌治が考えたのはまず、駅で弁当を売ることだ。そこで昌治は、かつて勤務していた旭川駅の知り合いを訪ねた。知り合いはもう駅助役までになっていた。昌治は駅での立ち売り許可を求め、それが認可されることになった。そのため昌治は、旭川駅前、四条七丁目に小さな店を借りて弁当を作るが、同時にその一角で中国料理も出すことにした。小さな店だが丁度いい、流行るかどうか分からないのだから。

 昌治はふと思いついた。そうだ、どんな店にしようか王文彩に相談しよう。あいつの腕は確かだ。もう調理人は決まっているが、助言を頼もうではないか・・・。昌治が王に打診すると二つ返事で快諾してくれた。王もまた、旭川にたびたび出向くようになったのだ。

 王の助言もあって、1929(昭和4)年、旭川駅近くの三条七丁目左三号に「芳蘭」を移転させ、本格的に中国料理店としてスタートすることになる。蒋義深という男が厨房を任されることになっていたのだが、王はいろいろ助言をした。特に麺類に関しては王の腕前は確かであった。

 旭川芳蘭は、当時の旭川では唯一の料亭的に使える中国料理店であった。引戸の格子、丸テーブル、椅子の背もたれなどはすべて朱に塗られ、いかにも“中国”的な内装であった。夜ともなれば酔った軍の将校たちの歓声が連日響く。また、壁には“ラーメン二十銭”と貼られていて、多くの客がそのラーメン、いや、ほとんどの客がそれでも支那蕎麦と言って注文をし、舌鼓を打っていたのだ。

 移転新規開店して間もなくのこと。王は、軍服姿の男たちに混じって、店を毎日のように訪れ、ラーメンばかりを食べている二人の男がいることに気付いた。注意してみていると、料理を味わうというよりは、味を確かめるような様子で、時折二人でこそこそと話をしているのだ。ただ、商売の邪魔をするわけでなし、気にはなったが、そのままにしておいた。

 旭川芳蘭が開店して二週間ほど経ったころのことだ。王は仲間と買い出しに出かけた帰り、隣の街区に新しい店が開店準備をしているのを見かけた。看板からしてどうやら日本蕎麦屋らしい。競合はしないだろうとホッとしたのだが、その店から二人の男が出てきた。おや、彼らは・・・そう、毎日のようにラーメンを食べにくるあの男たちである。王は、仲間に頼んで通訳してもらい、毎日芳蘭に来てラーメンを食べる理由など、いろいろと話を聞くことができた。男たちはこんなふうに話したのである。

 男たちの名は、店主が今井、調理人というか蕎麦打ち職人が千葉といった。もうすぐ日本蕎麦店「は満長(のちの「本店」)」を開店するのだが、不安が大きいという。要因の一つに、明治の初めに小樽から始まった北海道一の「のれん会・東家」の存在がある。釧路では相当規模の店をいくつか構えており、函館などにも関連の店があるという。まだ規模はそれほど大きくはないが、味が良いとどこの店も評判で、もし此処旭川に出店されたら、は満長の大変な脅威になるかも知れぬ。いや、東家が出てこなくても、商売というのは店を開けてみないと分からない。蕎麦が当たらなかったときのことを考え、代わりのものも考えておかないといけない。

 そういえば東京の浅草あたりでは、同じ蕎麦でも“支那蕎麦”がたいそう人気らしい。五十番や來々軒という店が大繁盛だそうだ。それを見た日本蕎麦屋も支那蕎麦を出す店が増えたそうである。今井と千葉は、もしものときのために、ウチでも支那蕎麦を出そうかと相談していた折も折、札幌で旨いと評判の竹家の支店がすぐ目と鼻の先に開店したことを知り、研究のために毎日のように芳蘭に通っているのだという。

 王は、我が身を振り返った。そして今井と千葉にこう話したのだ。「私は王という中国人のコックだ。実は昨年まで、小樽で店を出していた。けれど経営が不安定で、店を畳んで札幌に来て、今は旭川の店に手伝いに来ている。経営が厳しいと本当に辛いということは骨身に沁みている。本格的に中華料理を始めるのではなく、日本蕎麦を出す片手間にラーメンを作るんだったら、私が作り方を教えようじゃないか。毎日食べに来てくれているお礼だよ」。

 今井と千葉はたいそう喜んだ。「それはとてもありがたいことです。あなたの名は王さんというのですか。小樽で店を出していたのですか・・・」。

 ほどなくして「は満長」は新規開店を果たし、結構な客で賑わった。ただ、至近距離の旭川芳蘭との競合を避けるため、王に教わったラーメンは品書きには載せず、店の賄や常連に限ってラーメンを出していた。

 時は流れ、昭和十一年。「は満長」から蕎麦職人・千葉力衛は独立する。「は満長」から約七百メートルほどの場所、八条通に「八條は満長」を開業することになった。本店との違いを出すために、は満長本店の今井店主の了解を得て、品書きにラーメンを載せることにした。旭川は相変わらず軍人たちが多い街でまだまだ栄は衰えない。両店との距離もそれなりに離れているし、まだラーメンを出す店が少ないこともあって旭川芳蘭と競合するということもなく、店は繁盛したのだが、時代は、日本をひたすら戦争へと突き動かしていた。

 ・・・昭和十一年二月二十六日、いわゆる二.二六事件発生。1,500人近くの将校・兵らが引き起こしたクーデター未遂事件である。翌1937(昭和12)年7月には盧溝橋事件が起きた。やがて支那事変、つまり日中戦争の引き金となった事件であった。食糧事情も悪化していく中で、千葉力衛は、近所の飲食店の経営者たちに請われてラーメンの作り方を教えるようになっていた。教えられる側の中には、のちの「蜂屋」を開業した加藤某、「天金」を創業した信田某もいた。

 太平洋戦争末期の1945(昭和20)年7月14日、15日。アメリカ海軍第38任務部隊は、北海道の南部から登別市の沖合へと展開していた航空母艦13隻から延べ3,000機以上もの艦載機を発進させ、無差別に爆撃や砲撃を北海道の主要都市に浴びせた。結果、
 室蘭市、艦砲射撃等で死者525人[1]
 釧路市、空襲等により死者229人
 根室市、空襲などで死者393人
 旭川(死者3人)、札幌(同1人)などでは大規模な被害はなかった。いわゆる「北海道空襲」であった。
 それから一月後、あまりに愚かで、理不尽な、そして悲惨極まる、戦争が終わった。


東室蘭駅前(2021年8月)

 1947(昭和22)年、旭川で「蜂屋」、「青葉」が開業を果たして、何年か経ったある日のこと。旭川のラーメン店の店主たちが酒を交わしていた店ではこんな会話があった。

「そういやあ、この町でさ、最初にラーメンを出した店ってさ、どこだっけかな?」
「ああ、八條の『は満長』じゃあないか? あそこのご主人、千葉さんだよな、あん人に作り方教えてもらったって人、多いもの。確か、蜂屋の先代の加藤さんも、そうだったはずだよ」
「いや、芳蘭が先じゃあねえの? 確か昭和4年ごろって聞いているけどさ」
「そうかねえ? 三条通りの『は満長』の本店もその頃だったはずだよ。千葉さんってそこにいてさ、小樽から来た人ラーメンの作り方をに教わったって」
「まあ、いいんじゃないの。『は満長』の千葉さんの店、芳蘭、どっちも最初ってことで」。


 さて、「は満長」の今井と加藤にラーメンの作り方を伝授した王。旭川芳蘭も軌道に乗り札幌の竹家に戻ったのだが、若手の調理人が育って来ていた店で王の居場所は次第になくなっていった。

 1931(昭和6)年、王は札幌の南三条西七丁目角、常盤湯という銭湯の二階に住んでいた。相変わらず独り身であった。そして翌1932(昭和7)年、その場所で生涯を終えた。ラーメンという当時としては珍しい食べ物を、札幌に、そして旭川に広めた功労者としてはあまりに寂しい最期であった。


札幌駅(2021年8月)


 ・・・札幌・竹家。太平洋戦争での日本の敗色が濃厚となった頃、1943(昭和18)年、廃業。

 竹家創業者、大久タツ。1961(昭和36)年12月、旭川にて没。68歳。
同じく、大久昌治。1963(昭和38)年12月、札幌にて没。78歳。
大久昌治・タツ夫妻の長男、大久陞(のぼる)。戦後、大阪で店を開くも1988(昭和63)年に他界、75歳。

 竹家を繁盛させた功労者、李宏業。札幌竹家廃業を見届けたのち、戦後の1946(昭和21)年、西宮市甲子園口3丁目15-12にて北京料理店「桃源閣」開業。1985(昭和60)年、没。この店の詳細は不明である。

 大久陞の長男・武。1993(平成5)、神戸市灘区下河原通3丁目に「竹家ラーメン」開業。いっとき灘区稗原町2丁目に支店があった。屋号はいっとき「中華そば元味や」としていたが、やがてまた「竹家」に戻したものの、今はもう、ない。2001年夏頃閉店したようである。
ただ、河原通の「竹家ラーメン」は、中断期間はあるもののれっきとした札幌・竹家の正統な後継店で、今なお、暖簾を出している。

 ・・・大久昌治夫妻が札幌北大前に「竹家食堂」を開いたのが1921(大正10)年のこと。2021年でちょうど百年。


 旭川ラーメンの次の一世紀は、まだ始まったばかり、である。



◇旭川の人気ラーメン店◇
◆蜂 屋 1947(昭和22)年創業。
◆青 葉 1947(昭和22)年創業。
◆特一番 1950(昭和25)年創業。
◆天 金 1952(昭和27)年創業。
◆みづの 1967(昭和42)年創業。
◆よし乃 (1968)昭和42年創業。
◆梅光軒 1969(昭和44)年創業。
◆つるや 1972(昭和47)年創業。
◆味 徳 1978(昭和53)年創業。
◆ふるき 1982(昭和57)年創業。
◆ひまわり 1987(昭和62)年創業。
◆山頭火 1988(昭和63)年創業。

◇旭川のラーメン店が使用する製麺所◇

(「今日も旭ラー」より、グラフ化したもの。
加藤ラーメンは蜂屋創業者の兄弟が開く。昭和22年創業。
藤原製麺と須藤製麺はともには昭和23年の創業、
佐藤製麺は昭和30年、旭川製麺は昭和40年の、それぞれ創業である)


あとがきにかえて

 浅草新畑町にあった「淺草來々軒」。日本初のラーメン専門店ではない、と主張することを主眼とした物語を書き、続いて(主にスープ味を継承している)後継店を探して「明治の味を紡ぐ店 ~謎めく淺草來々軒の物語 最終章~」も書いた。

 二つの物語を書く過程で、郡山、高山、岐阜、尼崎、神戸にも関連する店があるのを知って出かけて、食べた。旭川にもある、とは知っていたがラーメンを食うためだけに行けるか、という思いもあった。しかし、またまた事情が変わった。

 何度か書いたのだが、2018年暮れ、激しい腹痛に見舞われた。結果、ステージⅢbの大腸がんで即手術(2019年1月)。2020年夏には両肺転移が発覚、また手術。帰宅したはいいが気胸でまた入院。また転移はあるだろうな、と思ってビクビクしながら仕事をしていたが、2021年夏、また転移が発覚。これを書いている時点ではどこに転移しているかはっきりしてはいないのだが、再転移した場合、仮に手術ができてもまた再々転移の可能性が高いことは知っている。もしかすると、もう旅行には行けないかもしれないという恐怖感、焦燥感がボクを支配した。だから慌てて、函館~室蘭~小樽~札幌を経由して旭川に向かったのだった。後悔はある。もう少し早く、この原稿を書き出していれば、小樽の蕎麦屋、竹家の跡地なども廻れたのに。かえすがえすも残念至極。まあ、また行ける、と信じるほかはない。

 37歳で大腸がんの手術をし、以後合わせて6回の手術をしてなお健在という人がいることも知ってはいるが、それは相当幸運な方。ボクは楽観することも、悲観することも、もう、やめにした。

 中日ドラゴンズで選手として活躍、日ハムで監督も務めた大島康徳氏がブログに書き残した短い文章(一部)を書いて、ボクの原稿を締めくくろうと思う。氏は2016年10月にステージⅣの大腸がんであることを告知された。以後肝臓、肺に転移し、今年6月30日に鬼籍に入られた。最初のがん告知で「余命1年」と言われたそうだが、結果としてがん告知から4年8か月、この世に足跡を残し続けた。

楽しいこと
やりたいことは片っ端からやってきた。
楽しかったなぁ…

これ以上何を望む?
もう何もないよ。

幸せな人生だった

命には必ず終わりがある
自分にもいつかその時は訪れる
その時が俺の寿命
それが俺に与えられた運命

病気に負けたんじゃない
俺の寿命を
生ききったということだ

その時が来るまで俺はいつも通りに
普通に生きて
自分の人生を、命をしっかり生ききるよ

(「この道 大島康徳公式ブログ By Ameba」2021年7月5日付 より)

 この文章、ほぼ、今のボクの気持ちを代弁している。一つだけ違うことが、望むことがある。


 ボクはもう少し、美味しいものを食べに、あちこち旅をしたいのだが。



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 ※本日(2021年9月1日)、ボクは、残念ながら がん のオペはできないことが分かりました。いわゆる「多発性転移」で、大きい がん を取ったところで、今は微小な がん が必ず大きくなり、オペしたところで、という状態です。何も治療しなければ「あと半年もたない」との宣告でした。化学療法、ま、ケモともいいますが、抗がん剤治療の選択肢はありますが、抗がん剤では「がんは治せない」ことは分かっていますので、あまりきつい治療の選択はしないと、担当医にも伝えました。覚悟はある程度できていたので、ショックはそれほど大きくはありませんでしたが、正直、恐怖と不安で胸が潰れそうな感覚はあります。あとは、後悔のないよう、好きなことだけする毎日をしばらく続けようと思います。なので、また来週からふらっと逃避行旅行をしてきます。いつまで体が動くかは分かりませんが、その日が来るまで、しっかり生きていこうと思っています。
 また機会があればどこかで報告することがあるでしょう。いや、ラーメンの歴史にまつわる物語は、身体が動くうちは、書きたいと考てえいます。

 皆さん、それまで、しばしの間、お元気で。



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主要参考書籍
◆「竹家食堂物語 北のラーメン誕生秘話」大久昌巳・杉野邦彦・著、TOKIMEKIパブリッシング・発行。2004年2月刊。
◆「さっぽろラーメンの本」北海道新聞社・編、北海道新聞社・発行。1986年1月刊。
◆「にっぽんラーメン物語 中華ソバはいつどこで生まれたか」 小菅桂子・著、駸々堂。1987年10月刊(単行本)。



主要参考Webサイト 
◆近代食文化研究会の“note”  札幌ラーメン誕生の経緯を書いた七冊の本をレビュー 読むべき本は『「竹家食堂」ものがたり』2021年1月11日 よりhttps://note.com/ksk18681912/n/nb2465b559a43
◆同じく 『札幌ラーメン誕生の経緯はわからずじまいで迷宮入り しかしそのルーツは関東のラーメン(支那そば)にある』2021年1月12日 よりhttps://note.com/ksk18681912/n/nb8f588fb22fd
◆同じく 『竹家食堂神話の虚構性 上・下』2021年1月13日 よりhttps://note.com/ksk18681912/n/nea56a429b7cc 等
◆札幌市北区ホームページ『78.札幌の味、そのふる里をたずねて-竹家のラーメン』より
https://www.city.sapporo.jp/kitaku/syoukai/rekishi/episode/078.html

◆函館市史通説編第3巻第5編「大函館 その光と影」より
函館市史デジタル版http://archives.c.fun.ac.jp/hakodateshishi/shishi_mokuji/tsuusetsu03-05_mokuji.htm

◆函館市公式観光情報はこぶら公式サイト『函館に歴史を刻んだ偉人6・柳川熊吉』より
https://www.hakobura.jp/deep/2010/08/post-138.html
◆中高生のための幕末・明治の日本の歴史辞典人物編『榎本武揚』より
https://www.kodomo.go.jp/yareki/person/person_06.html
◆公益財団法人 函館市文化・スポーツ振興財団公式サイト『函館ゆかりの人物伝 大山マキ』より
http://www.zaidan-hakodate.com/jimbutsu/01_a/01-ooyama.html

◆株式会社竹光園東家総本店公式サイト『竹老園の歴史』より
https://chikurouen.com/history/
◆おたる・蕎麦屋・藪半 麺遊倶楽部公式サイト https://yabuhan.co.jp
◆函館大門商店街公式サイト『丸南本店』より
https://hakodate-daimon.com/shopinfo/maruminamihonten/

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[1] 北海道爆撃の死者 いしかり市民カレッジ公式サイト講座7 「今年は、戦後70年~歴史の記憶を風化させないために~」第1回 「あの日のいのち~北海道空襲の犠牲者たち~」 2015年7月18日 http://www.ishikari-c-college.com/topics/2015/07/7-70.html



【中】 旭川<百年>ラーメン物語 ~それは小樽から始まった

2021年09月01日 | 來々軒
「八條は満長」発祥説は ? なのだが

 「八條は満長」に話を戻す。まず、ラーメン博物館の公式サイト「旭川ラーメン」の項からを引用する。
 
 『戦前に、もうひとつの情報として、八条にある「はま長」という蕎麦店で昭和10年からラーメンをメニューに入れていたという「はま長」創業者千葉力衛氏(故人)の話も残っている。もり・かけそばが10銭の時代にラーメンは20~25銭で売っていた。千葉氏は小樽から来た職人にその作り方を教わったという。「はま長」は今も立派な蕎麦店として八条で営業しており・・・』(原文ママ)。

 この記述、例によってこのサイトの記述はメンテナンスがされていない、検証されていない、出典などが記載されていない等、引用するにはまったく相応しくないが、これを読んだ方が出かけてしまないように書いておく。冒頭脚注でも書いたのだが、この店は2015年5月6日に閉店しているから、もう行っても食べることはできない。ちなみに正式な屋号は「はま長」ではなく「八條は満長」。さらに言えば「は満長」の創業者は千葉力衛氏ではないし(「八條は満長」の創業者は千葉氏)、またラーメンを出した年は1935(昭和10)年ではなく、翌年の昭和11年という説が正しいと思われる。

 屋号については補足しておく。まだ営業中だったころの写真が多数ネット上にあって、そこには「おそば 八條は満長」と書いた看板が掛かっているのが見て取れる。旭川市内には今も営業中の「は満長(本店)」がある。「は満長(本店)」と「八條は満長」は距離的にも近い。

  さて、ここで「おかしいぞ」と思った方はおいでにならないであろうか? 
 
 「八條は満長」がラーメンを出した年は昭和10年でも11年でもいいのだが、「支那料理広東軒」はともかく、旭川芳蘭は昭和3年若しくは翌4年にはラーメンを出しているというかなり信憑性の高い記録がある。「八條は満長」に関して言えば、「旭川で初めてラーメンという品書きでラーメンを出した店」という記述があるが、それもおかしい。旭川芳蘭は、日本で初めて(これは異論あり)ラーメンという名を付けて売ったとされる札幌竹家の支店である。札幌でラーメンとして売って、旭川でその名で売らないなどというのはおかしな話である。

 整理してみよう。年表形式にすると分かりやすい。

◆1921(大正10)年12月 大久昌治・タツ夫妻、札幌・北大前にて「竹家食堂」開業
◆1922(大正11)年 春 王文彩、竹家食堂に勤務。「支那料理竹家」創業
◆1924(大正13)年4月 竹家、改装して店を広げる
◆   〃    年5月 王文彩、竹家を辞めて小樽で中華料理店を出す
◆1925(大正14)3月 南三条西三丁目に竹家支店「芳蘭」開業。調理人は神戸から呼び寄せた 李 宏業 。のち、西宮で「桃源閣」開業。
◆ 〃  この年、昌治は横浜南京町に出向き調理人・徐徳東をスカウト。
◆ 〃     11月 王文彩、竹家に復帰。
◆1928(昭和3)年 秋 旭川駅の弁当立ち売り営業が許可される。昌治、旭川駅前通り四条七丁目に小さな店を借りて弁当を作るが、同時に中国料理店「芳蘭」もこの地にて開業。
◆1929(昭和4)年 旭川駅近くの三条七丁目左三号に「芳蘭」を移転させ、本格的に中国料理店としてスタート。
◆ 〃   この年、旭川芳蘭にて蒋義深によりラーメンが提供される(芳蘭移転前か後かは不明)
◆ 〃       旭川駅近くの三条六 に「は満長 本店」開業。
◆1936(昭和11)  旭川市八条七に千葉力衛が「八條は満長」を開店

 ちなみに、移転後の旭川芳蘭とは満長本店とは目と鼻の先の距離で、八條は満長でも移転後の旭川芳蘭とは700メートル弱である。また旭川芳蘭は相当流行ったとの記述がある。

 此処で当時の旭川の様子を記しておく。現在、北海道第二の都市として知られるが、旭川市の公式サイトによれば『明治31年には鉄道が開通、明治33年には旭川村から旭川町に改称され、札幌から第7師団が移駐するなど、産業・経済の基盤が成立し、道北の要としての使命を担ってきた』とある。


旭川陸軍第七師団司令部

旧旭川市役所
(2枚とも「旭川寫眞帳」より。
中村正夫・著、民衆社出版部。1928年7月刊。国立国会図書館デジタルコレクション)

 旭川の発展はこの記載通り、鉄道開通と、札幌にあった陸軍第七師団の旭川移転があった。札幌~旭川間の鉄道は、1898(明治31)年7月に空知太(そらちふと。廃駅。現在の砂川市)〜旭川間が開通した。既に札幌~岩見沢〜空知太の間が開通していたことで、旭川と札幌は鉄路でつながったのである。また第七師団移転は1899(明治32)年に決定され3年後の1902(明治35)年に完了したという。このことで旭川は“軍都”とよばれるようになり、明治末期には相当規模の町となっていく。

 このような町全体の発展は、ラーメンがこの地に根付いたこととは無関係ではないだろう。「FOOD DICTIONARY ラーメン」[13]では『陸軍第七師団・別名「北鎮部隊」が置かれたことから、街は軍隊とともに発展し、北海道北部の物流拠点として多くの人や物資が往来した』『北方警備を担った第七師団の存在抜きに旭川の歴史は語れない。早くから橋や発電所などのインフラが整備され、酒造・醤油醸造業も発展。旭川ラーメンにも影響を及ぼしたと言える』と書いている。




 

 とはいえ、北海道の主要都市の大正後期の人口を見れば旭川は5.5万人弱で、人口規模でみれば14万超の函館の三分の一、10万超の小樽や札幌の半分程度であった(グラフ参照)。だから、ということでもないのだが、新横浜ラーメン博物館(ラー博)公式サイトでも

 『札幌ラーメン文化の元祖である「竹家食堂」が、旭川に「芳蘭」という支店の中華料理店を出したことや、札幌の「丸井今井」[14]で流行った中華そばが、旭川の同店に店を出すなど、戦前は札幌の亜流的な位置づけであった』
と記述されている。ただしこのサイト、先ほども書いたが、ボクは淺草來々軒や高山の「まさごそば」を調べて以降、ラー博のサイト記述は誤りが多いと知り、今ではほとんど信用していない。しかし、この記述に関してはおそらくそういうことであろうと思う。

 『竹家食堂の旭川支店 芳蘭(以下「旭川芳蘭」という)』について書いておく。旭川ラーメンの源流の一つになり得るからである。まず旭川芳蘭の出店時期であるが、いろいろなサイトや書籍によると昭和3年、4年、8年と諸説ある。1928(昭和3)年説を見てみるが引用は「『竹家食堂』ものがたり 北の『ラーメン』誕生秘話」(以下「竹家ものがたり」という)(巻末参照)である。

 まず、芳蘭。屋号自体は、竹家の札幌支店として1925(大正14)年3月、南三条西3丁目として開業した。二番目の支店なぜが旭川なのか。書によると、大久昌治はかつて旭川駅に勤務していたそうで、その当時の同僚であり、駅助役をしていた男を頼り、まず旭川駅での弁当立ち売り販売の許可を取ったという。先に書いたが、旭川は道北の要として発展しつつあり、商売を始めるのには好立地であった。


現在の旭川駅前(2021年8月)

 1928(昭和3)年初秋、昌治は旭川駅前に小さな店を借り、弁当を作りながら、ホールで中国料理も出すことにした。翌1929(昭和4)年には料亭を買い取り「北京料理 芳蘭」を開業、ラーメンを出して、これが大当たりした。冬の旭川はことのほか寒さが厳しく、温かなラーメンは有難がられたという。旭川ラーメン発祥は=昭和3年もしくは4年というのはこのことを指すのであろう。ところが別の本、北海道新聞社発行の「さっぽろラーメンの本」は異なる記述をしていて、複数のサイトではここから引用しているのかも、と想像できる。
 
 『(竹家食堂初代店主の)大久昌治はまた(中略)昭和八年には旭川に出て「芳蘭」を開店した。旭川の店は割烹と弁当、ラーメンと手広くやっていて評判を取ったが、札幌と旭川の往復は体にこたえるから昭和十六年、旭川の店を閉店、(札幌の)竹家の経営に専念した』。  
 しかし、「竹家ものがたり」では巻頭で昭和4年当時の写真などを掲載していることから、此処では「竹家ものがたり」の記述を正しいとしたい。

 昭和4年以降昭和10年ごろまで、旭川芳蘭でラーメンを食べた人は多かろう。なのに人々は昭和11年に開業した八条は満長が、最初にラーメンを出したとなぜ言い出したのか? 八條は満長と旭川芳蘭の両店の距離もそれほど離れているわけではない。

 すると、こういう可能性はなかろうか。八條は満長が昭和11年にラーメンを初めて出した、というのは明確な誤り、というよりは多くの人の勘違い。千葉力衛は、戦前、のちの「蜂屋」「天金」など、のち旭川のラーメン店の代表格となる店の店主になる人々にラーメンの作り方を教えた、と家族の証言がある[15]。つまり、戦前から千葉氏は、旭川のラーメン界にかかわりを持ち、戦後も強い影響力を持っていたと思われる。その千葉氏が在籍していた(修行していた)、は満長本店で昭和4年の創業時からラーメンを出していたのだ。ただし、それは本格的に品書きに乗せるようなものではなく、もしかすると賄い的な性格のもので、物好きな常連客のリクエストによってのみ、提供されていた。

 そして昭和11年、千葉氏がは満長本店近くに独立した際に、好評だったラーメンを品書きに載せて売った。だから「千葉氏による八條は満長発祥説」が残ったのである。ところが実際は旭川楼蘭ラーメンを出した時期すなわち昭和4年に、同年に開業した「は満長本店」が際(あまり表立ってではないにしても)ラーメンを提供した。だからこそ、昭和4年という同時期に提供を始めたからこそ、旭川芳蘭という”中華料理店発祥説”と、は満長という”日本蕎麦屋発祥説”が残ったのだ。

 そしていつの間に、ラーメン界に影響力を戦後も持ち続けた千葉氏が独立した『昭和11年の八條は満長発祥説』に、話が変わってしまった。そう考えれば、「はま長=日本蕎麦屋発祥説」「旭川芳蘭=中華料理店発祥説」が並んで残ったとしてもおかしくはない。

 もちろんこれは、残された資料や証言などを基にしたボクの想像にすぎない。しかし、可能性の一つとしては十分考えられるのではないか。

 ここで今まで明らかにして来なかった二つの疑問、というか、不明な点を整理しておきたい。

 一つ目。「は満長本店」と「八條は満長」は暖簾分けなどの関係はあったのか? 八條創業者・千葉力衛氏が本店に在籍していなかったのなら、ボクの推論は成立しない。

 二つ目。「は満長本店」にせよ「八條は満長」においてにせよ、千葉力衛氏がラーメン提供に関わったのは確かだ。それでは千葉氏はいつ頃、だれにラーメンの作り方を教わったのか? 先にも書いたのだがラー博のサイトでは教わったのは「小樽から来た職人」とあるが、その根拠は何だろうか?

 それでは一つ目。これを探すのにはちょっと苦労した。ネット上では「八條は満長」は「は満長本店」から暖簾分け「されたようだ」程度の記述がわずかに残るのみ。しかし、「ようだ」では根拠に何らならない。そしてボクはようやく、以下のような記録を見つけた。


旭川「は満長本店」の店舗。2021年8月撮影

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■函館:函館麺飲食店組長「巴屋・下町倉蔵」氏、「やぶ源本店・小野源吾」氏
■小樽:小樽蕎麦商組合長「一福・森田哲央」氏
「籔半・小川原昇」氏、「更科・加藤三郎」氏、「三マス支店・宮村一郎」氏
■札幌:札幌麺業組合長「三河屋・平野一三」氏
札幌食堂組合長「八天庵・村田義雄」氏
■旭川:旭川そば組合長「はま長本店・千葉力衛」氏
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 これは、”おたる・蕎麦屋・藪半 麺遊倶楽部”のサイト『小樽蕎麦屋ルーツ探訪 小樽の蕎麦屋百年(八) 北海道麺類飲食業環境衛生同業組合』[16]からの引用であり、内容は1967年(昭和42)10月、第14回日本麺類業団体連合会(日麺連)・全麺環連東北北海道ブロック大会に先立って開催された理事会に集まった人々、だそうである。さらに以下へと続く。これは同年同月、『「北海道麺類飲食業環境衛生同業組合」設立について全道各地の代表のもと、協議がもたれた』際の発起人たち、だそうだ。

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■発起人代表 札幌麺業組合長「三河屋・平野一三」氏
■小樽蕎麦商組合「一福・森田哲央」組合長、「籔半・小川原昇」氏
■旭川そば組長「はま長・千葉力衛」氏
■函館麺飲食店組長「巴屋・下町倉蔵」氏
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 さらに続ける。翌1968(昭和43)年1月25日、札幌市ローヤルホテルにおいて「北海道麺類飲食業環境衛生同業組合設立総会」が開催され、「はま長・千葉力衛氏 副理事長」に選出された、とある。またこの際、『全道の発起人77人のリストを「北海道麺類飲食業環境衛生同業組合設立趣意書」から抜粋し』た中には、

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46 旭川市そば組合 千葉力衛   旭川市8ノ7        
47 旭川市そば組合 今井 正   旭川市3ノ6 はま長本店
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 の名が見えるのである。此処に書かれた店舗所在地は、そう、千葉氏の店は「八條は満長」であり、通称「サン・ロク」角にある今井氏の店は「は満長本店」なのである。

 この記録では、千葉氏は「は満長本店」所属ともあり、また今井正氏の店「は満長本店」とは別の所属ともある。しかし、屋号自体はあまり聞かないものであり、両店の所在地が同じ市内で、しかし適度な距離(700メートルほど)ということからして、本店から八條店が暖簾分けされ、かつ千葉氏は昭和42年ごろまでは「は満長本店」にも関わっていたと推測できるのである。

 千葉力衛氏は誰に教わったのか
 
 二つ目。千葉力衛氏はだれに、いつ、ラーメンの作り方を教わったのか。先に書いたが、千葉氏は「小樽から来た職人」に教わったそうだ。

 具体的には誰なのか? それが分かるのか?

 冒頭紹介した旭川大雪観光文化検定公式テキストブックにこんな記載がある。『千葉は開業前にラーメンの作り方を小樽出身の職人により伝授され』た。このテキストブックの紹介記事があるブログには千葉氏の娘さんの敏子氏のインタヴューも掲載されているので、小樽から云々は千葉力衛から敏子氏に伝えられたと解釈していいだろう。

 テキストブックには時期も書かれている。「開業前」だ。文脈からして「八條は満長の開業前」だろうが、具体的にいつ、とは書かれていない。「は満長」開業前と捉えるなら昭和3年あるいは4年と考えてもおかしくはない。

 ただ、「小樽から来た職人に、昭和の初めに教わった」としたら、それには小樽にはそれ以前からラーメンを出していた店があるはずである。残念ながら、そういう店は見つけられなかった。

 小樽では名物の麺料理がある。あんかけ焼きそば、である。調べると昭和30年代に広く認知されるようになったが、遡ると戦前から始まったという説も見れる。小樽はもともと、札幌などより早く開けた街である。函館~小樽間の鉄道も1903(明治35)年から着工され1905(明治37)年8月には開通している(「函館市史」などによる)。ならば、北海道で最も早く開けた函館から、かなり早い時期に小樽へとラーメンは伝わったのではないかと思って調べたのだが、その記録は、ない。

 ただし、蕎麦屋だったら、ある。先に長々と書いたが小樽こそ、北海道の蕎麦屋発祥の地であった。そして、函館は北海道のラーメン発祥の地でもあったと推測されている。大正時代にはもう、函館~小樽間は鉄道が敷設されている。ラーメンがその当時に、函館から小樽に「運ばれて」いたとして、何ら不思議はない。まして、蕎麦屋で出していたというなら、それは相当信憑性が高い。

 その店は「は満長」同様、蕎麦屋である。そして大正時代からラーメンを出していたというのだ。しかもその店は現存している。

 ヤマカそば、という。

 小樽市錦町にある日本蕎麦屋である。ネット上の記述をまとめると『夜鷹(よたか)蕎麦屋で、当初からラーメンを販売していた大正年間の創業(1922=大正11年創業説もあり)という』。夜鷹そばは、「コトバンク」によれば『市民にとっても親しい存在で、とくに秋、冬の夜の景物として歌舞伎や文芸にも広く出てくる。この流行は江戸末期からだが、明治になっても引き継がれ、中華そば売りになった』とある。この店が最初からラーメンの引き売りをしていたとしても何らおかしいことはない。

 しかし裏付けが必要だ。見つけたのは、先に触れた”おたる・蕎麦屋・藪半 麺遊倶楽部”の公式サイトである。

 この中、「小樽の蕎麦屋百年 04.小樽蕎麥商組合の設立」の項に、業愛会という組織に触れ、『この会は大正中期、「小樽蕎麦商組合」に対抗する組合として組織され、会長は稲穂町・岩崎製粉所の裏手に営業していた屋号「入船」の前田氏という。屋台そば(夜鷹そば)を営む蕎麦屋が中心でヤマ安、ヤマカ、カネ作等が加入していた』とある。大正中期からラーメンを出していたかどうかはともかく、創業はその頃として間違いない。また、同じ項には『三〼(マス) 〇〇(支店名?)』という屋号が盛んに出てくる。現在は1950(昭和25)年創業の「三〼 入船店」のみが現存し、ラーメンを出している。ミ〼自体は明治末期の創業のようであるが、ラーメンをいつ頃から出しているのかは不明だ。

 ヤマカそば に戻る。この店が何らかの形で「は満長」に関わったのだろうか? たった一つ、手掛かりがある。「食べログ」などに映った写真と、「は満長本店」で写したボクの写真を見比べてほしい。

 太いピンクの外枠、そして緑の「の」の字。そう、ナルト、である。それほど珍しいものではないにせよ、いろいろなラーメン店でよく見かけるということでもない。偶然、ということなのかもしれないが。


「は満長本店」のラーメン。ナルトの色に注目

 ここで想像を膨らまそうか。いや、想像というよりボクの妄想、あるいは与太話のようなものかもしれない。

 此処からはボクが作ったフィクションである。本稿で書いてきた中でたった一人、小樽、そして旭川というこの二つの都市を行き来した、ラーメンの職人がいることをおぼえているだろうか?



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[13] 「FOOD DICTIONARY ラーメン」 編集協力・薮田朋子、枻出版。2017年5月刊。

[14] 「丸井今井」 今井藤七が1872(明治5)年5月に創成川畔で雑貨商を開店した後、1874(明治7)年5月、南一条西一丁目に呉服店を開業したのが始まり。1897(明治30)年には旭川に出店。最盛期には道内7店舗を展開し、北海道随一の百貨店グループに成長するも2009(平成21)年に倒産。現在は三越伊勢丹ホールディングス傘下となっている(三越伊勢丹ホールディングス公式サイトなどより)。

[15] 八條は満長の家族の証言 (1)千葉力衛氏の娘・敏子氏の話『ご当地ラーメンブームにより旭川の老舗ラーメン店も脚光をあびることとなりましが、それら老舗ラーメン店の主人らが戦後初めてラーメンの作り方を学んだのも八条はま長の創業者 千葉力衛さんからだった』(旭川市にある学生向けフリースポット「まちこみゅ」のブログ。2011年12月7日付。このブログは現在は更新されていない)。

https://machicommu.blogspot.com/2011/12/blog-post_07.html

(2)2代目の奥さん(注・娘の敏子氏)の話『ラーメンをメニューに加えたのが昭和11年の事。戦後の統制で飲食店が区域認可制となり、食うのに困った飲食店主らにラーメンの作り方を伝授したそうで、教わった店主らの中に天金や蜂屋も含まれていた』(2008年3月2日付)。http://funfunfun409.blog82.fc2.com/blog-entry-4.html

[16] ”おたる・蕎麦屋・藪半 麺遊倶楽部”のサイト 株式会社籔半が経営する蕎麦店「籔半(やぶはん)」の公式サイト。藪半は1954年(昭和29年)12月、小河原昇(あきら)が開業した。公式サイトhttps://yabuhan.co.jp