拉麺歴史発掘館

淺草・來々軒の本当の姿、各地ご当地ラーメン誕生の別解釈等、あまり今まで触れられなかっらラーメンの歴史を発掘しています。

【中】 旭川<百年>ラーメン物語 ~それは小樽から始まった

2021年09月01日 | 來々軒
「八條は満長」発祥説は ? なのだが

 「八條は満長」に話を戻す。まず、ラーメン博物館の公式サイト「旭川ラーメン」の項からを引用する。
 
 『戦前に、もうひとつの情報として、八条にある「はま長」という蕎麦店で昭和10年からラーメンをメニューに入れていたという「はま長」創業者千葉力衛氏(故人)の話も残っている。もり・かけそばが10銭の時代にラーメンは20~25銭で売っていた。千葉氏は小樽から来た職人にその作り方を教わったという。「はま長」は今も立派な蕎麦店として八条で営業しており・・・』(原文ママ)。

 この記述、例によってこのサイトの記述はメンテナンスがされていない、検証されていない、出典などが記載されていない等、引用するにはまったく相応しくないが、これを読んだ方が出かけてしまないように書いておく。冒頭脚注でも書いたのだが、この店は2015年5月6日に閉店しているから、もう行っても食べることはできない。ちなみに正式な屋号は「はま長」ではなく「八條は満長」。さらに言えば「は満長」の創業者は千葉力衛氏ではないし(「八條は満長」の創業者は千葉氏)、またラーメンを出した年は1935(昭和10)年ではなく、翌年の昭和11年という説が正しいと思われる。

 屋号については補足しておく。まだ営業中だったころの写真が多数ネット上にあって、そこには「おそば 八條は満長」と書いた看板が掛かっているのが見て取れる。旭川市内には今も営業中の「は満長(本店)」がある。「は満長(本店)」と「八條は満長」は距離的にも近い。

  さて、ここで「おかしいぞ」と思った方はおいでにならないであろうか? 
 
 「八條は満長」がラーメンを出した年は昭和10年でも11年でもいいのだが、「支那料理広東軒」はともかく、旭川芳蘭は昭和3年若しくは翌4年にはラーメンを出しているというかなり信憑性の高い記録がある。「八條は満長」に関して言えば、「旭川で初めてラーメンという品書きでラーメンを出した店」という記述があるが、それもおかしい。旭川芳蘭は、日本で初めて(これは異論あり)ラーメンという名を付けて売ったとされる札幌竹家の支店である。札幌でラーメンとして売って、旭川でその名で売らないなどというのはおかしな話である。

 整理してみよう。年表形式にすると分かりやすい。

◆1921(大正10)年12月 大久昌治・タツ夫妻、札幌・北大前にて「竹家食堂」開業
◆1922(大正11)年 春 王文彩、竹家食堂に勤務。「支那料理竹家」創業
◆1924(大正13)年4月 竹家、改装して店を広げる
◆   〃    年5月 王文彩、竹家を辞めて小樽で中華料理店を出す
◆1925(大正14)3月 南三条西三丁目に竹家支店「芳蘭」開業。調理人は神戸から呼び寄せた 李 宏業 。のち、西宮で「桃源閣」開業。
◆ 〃  この年、昌治は横浜南京町に出向き調理人・徐徳東をスカウト。
◆ 〃     11月 王文彩、竹家に復帰。
◆1928(昭和3)年 秋 旭川駅の弁当立ち売り営業が許可される。昌治、旭川駅前通り四条七丁目に小さな店を借りて弁当を作るが、同時に中国料理店「芳蘭」もこの地にて開業。
◆1929(昭和4)年 旭川駅近くの三条七丁目左三号に「芳蘭」を移転させ、本格的に中国料理店としてスタート。
◆ 〃   この年、旭川芳蘭にて蒋義深によりラーメンが提供される(芳蘭移転前か後かは不明)
◆ 〃       旭川駅近くの三条六 に「は満長 本店」開業。
◆1936(昭和11)  旭川市八条七に千葉力衛が「八條は満長」を開店

 ちなみに、移転後の旭川芳蘭とは満長本店とは目と鼻の先の距離で、八條は満長でも移転後の旭川芳蘭とは700メートル弱である。また旭川芳蘭は相当流行ったとの記述がある。

 此処で当時の旭川の様子を記しておく。現在、北海道第二の都市として知られるが、旭川市の公式サイトによれば『明治31年には鉄道が開通、明治33年には旭川村から旭川町に改称され、札幌から第7師団が移駐するなど、産業・経済の基盤が成立し、道北の要としての使命を担ってきた』とある。


旭川陸軍第七師団司令部

旧旭川市役所
(2枚とも「旭川寫眞帳」より。
中村正夫・著、民衆社出版部。1928年7月刊。国立国会図書館デジタルコレクション)

 旭川の発展はこの記載通り、鉄道開通と、札幌にあった陸軍第七師団の旭川移転があった。札幌~旭川間の鉄道は、1898(明治31)年7月に空知太(そらちふと。廃駅。現在の砂川市)〜旭川間が開通した。既に札幌~岩見沢〜空知太の間が開通していたことで、旭川と札幌は鉄路でつながったのである。また第七師団移転は1899(明治32)年に決定され3年後の1902(明治35)年に完了したという。このことで旭川は“軍都”とよばれるようになり、明治末期には相当規模の町となっていく。

 このような町全体の発展は、ラーメンがこの地に根付いたこととは無関係ではないだろう。「FOOD DICTIONARY ラーメン」[13]では『陸軍第七師団・別名「北鎮部隊」が置かれたことから、街は軍隊とともに発展し、北海道北部の物流拠点として多くの人や物資が往来した』『北方警備を担った第七師団の存在抜きに旭川の歴史は語れない。早くから橋や発電所などのインフラが整備され、酒造・醤油醸造業も発展。旭川ラーメンにも影響を及ぼしたと言える』と書いている。




 

 とはいえ、北海道の主要都市の大正後期の人口を見れば旭川は5.5万人弱で、人口規模でみれば14万超の函館の三分の一、10万超の小樽や札幌の半分程度であった(グラフ参照)。だから、ということでもないのだが、新横浜ラーメン博物館(ラー博)公式サイトでも

 『札幌ラーメン文化の元祖である「竹家食堂」が、旭川に「芳蘭」という支店の中華料理店を出したことや、札幌の「丸井今井」[14]で流行った中華そばが、旭川の同店に店を出すなど、戦前は札幌の亜流的な位置づけであった』
と記述されている。ただしこのサイト、先ほども書いたが、ボクは淺草來々軒や高山の「まさごそば」を調べて以降、ラー博のサイト記述は誤りが多いと知り、今ではほとんど信用していない。しかし、この記述に関してはおそらくそういうことであろうと思う。

 『竹家食堂の旭川支店 芳蘭(以下「旭川芳蘭」という)』について書いておく。旭川ラーメンの源流の一つになり得るからである。まず旭川芳蘭の出店時期であるが、いろいろなサイトや書籍によると昭和3年、4年、8年と諸説ある。1928(昭和3)年説を見てみるが引用は「『竹家食堂』ものがたり 北の『ラーメン』誕生秘話」(以下「竹家ものがたり」という)(巻末参照)である。

 まず、芳蘭。屋号自体は、竹家の札幌支店として1925(大正14)年3月、南三条西3丁目として開業した。二番目の支店なぜが旭川なのか。書によると、大久昌治はかつて旭川駅に勤務していたそうで、その当時の同僚であり、駅助役をしていた男を頼り、まず旭川駅での弁当立ち売り販売の許可を取ったという。先に書いたが、旭川は道北の要として発展しつつあり、商売を始めるのには好立地であった。


現在の旭川駅前(2021年8月)

 1928(昭和3)年初秋、昌治は旭川駅前に小さな店を借り、弁当を作りながら、ホールで中国料理も出すことにした。翌1929(昭和4)年には料亭を買い取り「北京料理 芳蘭」を開業、ラーメンを出して、これが大当たりした。冬の旭川はことのほか寒さが厳しく、温かなラーメンは有難がられたという。旭川ラーメン発祥は=昭和3年もしくは4年というのはこのことを指すのであろう。ところが別の本、北海道新聞社発行の「さっぽろラーメンの本」は異なる記述をしていて、複数のサイトではここから引用しているのかも、と想像できる。
 
 『(竹家食堂初代店主の)大久昌治はまた(中略)昭和八年には旭川に出て「芳蘭」を開店した。旭川の店は割烹と弁当、ラーメンと手広くやっていて評判を取ったが、札幌と旭川の往復は体にこたえるから昭和十六年、旭川の店を閉店、(札幌の)竹家の経営に専念した』。  
 しかし、「竹家ものがたり」では巻頭で昭和4年当時の写真などを掲載していることから、此処では「竹家ものがたり」の記述を正しいとしたい。

 昭和4年以降昭和10年ごろまで、旭川芳蘭でラーメンを食べた人は多かろう。なのに人々は昭和11年に開業した八条は満長が、最初にラーメンを出したとなぜ言い出したのか? 八條は満長と旭川芳蘭の両店の距離もそれほど離れているわけではない。

 すると、こういう可能性はなかろうか。八條は満長が昭和11年にラーメンを初めて出した、というのは明確な誤り、というよりは多くの人の勘違い。千葉力衛は、戦前、のちの「蜂屋」「天金」など、のち旭川のラーメン店の代表格となる店の店主になる人々にラーメンの作り方を教えた、と家族の証言がある[15]。つまり、戦前から千葉氏は、旭川のラーメン界にかかわりを持ち、戦後も強い影響力を持っていたと思われる。その千葉氏が在籍していた(修行していた)、は満長本店で昭和4年の創業時からラーメンを出していたのだ。ただし、それは本格的に品書きに乗せるようなものではなく、もしかすると賄い的な性格のもので、物好きな常連客のリクエストによってのみ、提供されていた。

 そして昭和11年、千葉氏がは満長本店近くに独立した際に、好評だったラーメンを品書きに載せて売った。だから「千葉氏による八條は満長発祥説」が残ったのである。ところが実際は旭川楼蘭ラーメンを出した時期すなわち昭和4年に、同年に開業した「は満長本店」が際(あまり表立ってではないにしても)ラーメンを提供した。だからこそ、昭和4年という同時期に提供を始めたからこそ、旭川芳蘭という”中華料理店発祥説”と、は満長という”日本蕎麦屋発祥説”が残ったのだ。

 そしていつの間に、ラーメン界に影響力を戦後も持ち続けた千葉氏が独立した『昭和11年の八條は満長発祥説』に、話が変わってしまった。そう考えれば、「はま長=日本蕎麦屋発祥説」「旭川芳蘭=中華料理店発祥説」が並んで残ったとしてもおかしくはない。

 もちろんこれは、残された資料や証言などを基にしたボクの想像にすぎない。しかし、可能性の一つとしては十分考えられるのではないか。

 ここで今まで明らかにして来なかった二つの疑問、というか、不明な点を整理しておきたい。

 一つ目。「は満長本店」と「八條は満長」は暖簾分けなどの関係はあったのか? 八條創業者・千葉力衛氏が本店に在籍していなかったのなら、ボクの推論は成立しない。

 二つ目。「は満長本店」にせよ「八條は満長」においてにせよ、千葉力衛氏がラーメン提供に関わったのは確かだ。それでは千葉氏はいつ頃、だれにラーメンの作り方を教わったのか? 先にも書いたのだがラー博のサイトでは教わったのは「小樽から来た職人」とあるが、その根拠は何だろうか?

 それでは一つ目。これを探すのにはちょっと苦労した。ネット上では「八條は満長」は「は満長本店」から暖簾分け「されたようだ」程度の記述がわずかに残るのみ。しかし、「ようだ」では根拠に何らならない。そしてボクはようやく、以下のような記録を見つけた。


旭川「は満長本店」の店舗。2021年8月撮影

-----------------――-------――
■函館:函館麺飲食店組長「巴屋・下町倉蔵」氏、「やぶ源本店・小野源吾」氏
■小樽:小樽蕎麦商組合長「一福・森田哲央」氏
「籔半・小川原昇」氏、「更科・加藤三郎」氏、「三マス支店・宮村一郎」氏
■札幌:札幌麺業組合長「三河屋・平野一三」氏
札幌食堂組合長「八天庵・村田義雄」氏
■旭川:旭川そば組合長「はま長本店・千葉力衛」氏
------------------------------
 
 これは、”おたる・蕎麦屋・藪半 麺遊倶楽部”のサイト『小樽蕎麦屋ルーツ探訪 小樽の蕎麦屋百年(八) 北海道麺類飲食業環境衛生同業組合』[16]からの引用であり、内容は1967年(昭和42)10月、第14回日本麺類業団体連合会(日麺連)・全麺環連東北北海道ブロック大会に先立って開催された理事会に集まった人々、だそうである。さらに以下へと続く。これは同年同月、『「北海道麺類飲食業環境衛生同業組合」設立について全道各地の代表のもと、協議がもたれた』際の発起人たち、だそうだ。

------------------------------
■発起人代表 札幌麺業組合長「三河屋・平野一三」氏
■小樽蕎麦商組合「一福・森田哲央」組合長、「籔半・小川原昇」氏
■旭川そば組長「はま長・千葉力衛」氏
■函館麺飲食店組長「巴屋・下町倉蔵」氏
------------------------------

 さらに続ける。翌1968(昭和43)年1月25日、札幌市ローヤルホテルにおいて「北海道麺類飲食業環境衛生同業組合設立総会」が開催され、「はま長・千葉力衛氏 副理事長」に選出された、とある。またこの際、『全道の発起人77人のリストを「北海道麺類飲食業環境衛生同業組合設立趣意書」から抜粋し』た中には、

---------- ------------------
46 旭川市そば組合 千葉力衛   旭川市8ノ7        
47 旭川市そば組合 今井 正   旭川市3ノ6 はま長本店
---------- ------------------

 の名が見えるのである。此処に書かれた店舗所在地は、そう、千葉氏の店は「八條は満長」であり、通称「サン・ロク」角にある今井氏の店は「は満長本店」なのである。

 この記録では、千葉氏は「は満長本店」所属ともあり、また今井正氏の店「は満長本店」とは別の所属ともある。しかし、屋号自体はあまり聞かないものであり、両店の所在地が同じ市内で、しかし適度な距離(700メートルほど)ということからして、本店から八條店が暖簾分けされ、かつ千葉氏は昭和42年ごろまでは「は満長本店」にも関わっていたと推測できるのである。

 千葉力衛氏は誰に教わったのか
 
 二つ目。千葉力衛氏はだれに、いつ、ラーメンの作り方を教わったのか。先に書いたが、千葉氏は「小樽から来た職人」に教わったそうだ。

 具体的には誰なのか? それが分かるのか?

 冒頭紹介した旭川大雪観光文化検定公式テキストブックにこんな記載がある。『千葉は開業前にラーメンの作り方を小樽出身の職人により伝授され』た。このテキストブックの紹介記事があるブログには千葉氏の娘さんの敏子氏のインタヴューも掲載されているので、小樽から云々は千葉力衛から敏子氏に伝えられたと解釈していいだろう。

 テキストブックには時期も書かれている。「開業前」だ。文脈からして「八條は満長の開業前」だろうが、具体的にいつ、とは書かれていない。「は満長」開業前と捉えるなら昭和3年あるいは4年と考えてもおかしくはない。

 ただ、「小樽から来た職人に、昭和の初めに教わった」としたら、それには小樽にはそれ以前からラーメンを出していた店があるはずである。残念ながら、そういう店は見つけられなかった。

 小樽では名物の麺料理がある。あんかけ焼きそば、である。調べると昭和30年代に広く認知されるようになったが、遡ると戦前から始まったという説も見れる。小樽はもともと、札幌などより早く開けた街である。函館~小樽間の鉄道も1903(明治35)年から着工され1905(明治37)年8月には開通している(「函館市史」などによる)。ならば、北海道で最も早く開けた函館から、かなり早い時期に小樽へとラーメンは伝わったのではないかと思って調べたのだが、その記録は、ない。

 ただし、蕎麦屋だったら、ある。先に長々と書いたが小樽こそ、北海道の蕎麦屋発祥の地であった。そして、函館は北海道のラーメン発祥の地でもあったと推測されている。大正時代にはもう、函館~小樽間は鉄道が敷設されている。ラーメンがその当時に、函館から小樽に「運ばれて」いたとして、何ら不思議はない。まして、蕎麦屋で出していたというなら、それは相当信憑性が高い。

 その店は「は満長」同様、蕎麦屋である。そして大正時代からラーメンを出していたというのだ。しかもその店は現存している。

 ヤマカそば、という。

 小樽市錦町にある日本蕎麦屋である。ネット上の記述をまとめると『夜鷹(よたか)蕎麦屋で、当初からラーメンを販売していた大正年間の創業(1922=大正11年創業説もあり)という』。夜鷹そばは、「コトバンク」によれば『市民にとっても親しい存在で、とくに秋、冬の夜の景物として歌舞伎や文芸にも広く出てくる。この流行は江戸末期からだが、明治になっても引き継がれ、中華そば売りになった』とある。この店が最初からラーメンの引き売りをしていたとしても何らおかしいことはない。

 しかし裏付けが必要だ。見つけたのは、先に触れた”おたる・蕎麦屋・藪半 麺遊倶楽部”の公式サイトである。

 この中、「小樽の蕎麦屋百年 04.小樽蕎麥商組合の設立」の項に、業愛会という組織に触れ、『この会は大正中期、「小樽蕎麦商組合」に対抗する組合として組織され、会長は稲穂町・岩崎製粉所の裏手に営業していた屋号「入船」の前田氏という。屋台そば(夜鷹そば)を営む蕎麦屋が中心でヤマ安、ヤマカ、カネ作等が加入していた』とある。大正中期からラーメンを出していたかどうかはともかく、創業はその頃として間違いない。また、同じ項には『三〼(マス) 〇〇(支店名?)』という屋号が盛んに出てくる。現在は1950(昭和25)年創業の「三〼 入船店」のみが現存し、ラーメンを出している。ミ〼自体は明治末期の創業のようであるが、ラーメンをいつ頃から出しているのかは不明だ。

 ヤマカそば に戻る。この店が何らかの形で「は満長」に関わったのだろうか? たった一つ、手掛かりがある。「食べログ」などに映った写真と、「は満長本店」で写したボクの写真を見比べてほしい。

 太いピンクの外枠、そして緑の「の」の字。そう、ナルト、である。それほど珍しいものではないにせよ、いろいろなラーメン店でよく見かけるということでもない。偶然、ということなのかもしれないが。


「は満長本店」のラーメン。ナルトの色に注目

 ここで想像を膨らまそうか。いや、想像というよりボクの妄想、あるいは与太話のようなものかもしれない。

 此処からはボクが作ったフィクションである。本稿で書いてきた中でたった一人、小樽、そして旭川というこの二つの都市を行き来した、ラーメンの職人がいることをおぼえているだろうか?



- - - - - - - - - - - - - - - - - -


[13] 「FOOD DICTIONARY ラーメン」 編集協力・薮田朋子、枻出版。2017年5月刊。

[14] 「丸井今井」 今井藤七が1872(明治5)年5月に創成川畔で雑貨商を開店した後、1874(明治7)年5月、南一条西一丁目に呉服店を開業したのが始まり。1897(明治30)年には旭川に出店。最盛期には道内7店舗を展開し、北海道随一の百貨店グループに成長するも2009(平成21)年に倒産。現在は三越伊勢丹ホールディングス傘下となっている(三越伊勢丹ホールディングス公式サイトなどより)。

[15] 八條は満長の家族の証言 (1)千葉力衛氏の娘・敏子氏の話『ご当地ラーメンブームにより旭川の老舗ラーメン店も脚光をあびることとなりましが、それら老舗ラーメン店の主人らが戦後初めてラーメンの作り方を学んだのも八条はま長の創業者 千葉力衛さんからだった』(旭川市にある学生向けフリースポット「まちこみゅ」のブログ。2011年12月7日付。このブログは現在は更新されていない)。

https://machicommu.blogspot.com/2011/12/blog-post_07.html

(2)2代目の奥さん(注・娘の敏子氏)の話『ラーメンをメニューに加えたのが昭和11年の事。戦後の統制で飲食店が区域認可制となり、食うのに困った飲食店主らにラーメンの作り方を伝授したそうで、教わった店主らの中に天金や蜂屋も含まれていた』(2008年3月2日付)。http://funfunfun409.blog82.fc2.com/blog-entry-4.html

[16] ”おたる・蕎麦屋・藪半 麺遊倶楽部”のサイト 株式会社籔半が経営する蕎麦店「籔半(やぶはん)」の公式サイト。藪半は1954年(昭和29年)12月、小河原昇(あきら)が開業した。公式サイトhttps://yabuhan.co.jp



【3】明治の味を紡ぐ店 ~謎めく淺草來々軒の物語 最終章~ 

2021年08月01日 | 來々軒
※「來々軒」の表記 文中、浅草來々軒は大正時代に撮影されたとされる写真に写っている文字、「來々軒」と表記します。その他、引用文については原文のままとします。
※大正・昭和初期に刊行された書籍からの引用は旧仮名遣いを含めて、できるだけ原文のままとしました。また、引用した書籍等の発行年月は、奥付によります。
※他サイト引用は、原則として2021年6月または7月です。その後、更新されることがあった場合はご容赦ください。
※(注・)とあるのは、筆者(私)の注意書きです。振り仮名については、原則、筆者によります。
※☆と☆に囲まれた部分は、筆者(私)の想像によるものです。

3.淺草來々軒のスープは「ブタ臭くて脂っこい?」
 
 さて、ここからが本題である。
 創業当時の淺草來々軒のスープとは、一体どんな味だったのだろう? 少なくともボクが新横浜のラー博で食べた「來々軒」のものとはまったく異なる、と思っている。淺草來々軒三代目店主尾崎一郎氏はこう述べている。

『スープは鶏ガラ、豚骨に野菜で毎朝六時、七時ごろから準備にかかります』。タレは醤油であった(「ラーメン物語」)。
 
 ただし、三代目の一郎氏が厨房に立ち始めたのは1935(昭和10)年のことである[27]。であるから、一郎氏の述懐はそれ以降のものであると推測できる。  
 ではそれ以前、つまり淺草來々軒創業当時はどんなスープであったのか。創業以来昭和10年まで同じスープで支那そばを提供していたのだろうか。答えは分からない。創業当時の記録がないからである。しかし、その手掛かりはある。なお、ラー博公式サイトでは、ラー博の来々軒で提供しているスープについてこんな記述をしている。
 
 「証言に伴い、国産の豚、鶏、野菜に、昭和初期ごろから加えられた煮干も使用」。「煮干しに関しては証言によるとオーナーの尾崎氏より『日本人の口に合うように』と昭和初期頃から煮干しが加えられたとのこと」

 とある。さて、煮干しを使ったとは尾崎氏の証言なのだというが、さて? ボクにはそう語ったという根拠(証言)を見つけることができなかった。これは単純にボクが見つけることができなかったの可能性があるので、その証言がどこに記載されているのか、どなたかご教示いただければ幸いである。ちなみに後述するが、淺草來々軒三代目・尾崎一郎氏の八重洲時代身で店で10年の勤務経験のある「進来軒」(千葉)の店主・宮葉進氏によれば、八重洲時代には「豚足と鶏ガラ」しか使っていないと証言している。

 それはさておき、手掛かりのまず一つ目。「研究会」よりもたらされた情報、で、その書籍を紹介しておく。書籍のタイトルは『食の地平線』[28]、著者は玉村豊男[29]氏である。引用してみよう。

 「浅草には『来々軒』という支那ソバ屋ができて繁昌しはじめた。風俗評論家の植原路郎[30]氏によると、大正七、八年頃の『来々軒』のラーメンは豚の骨を煮出して取った濃厚なスープに醤油味をつけた汁の中に、太目のちりちりした、上質の梘水を使った麺が入っていて、その麺のほかには何も具がのっていないものだったという。なにも具ののっていない麺! ラーメンどんぶりも真っ白で模様がなく、わずかに内側に細い青い線が入っていただけである、と植原氏は回想している」。

 これは、研究会のnote(配信サイト)[31]でも記述がある。また同サイトには『食の地平線』の一文からも引用がある。それは明治30年代の横浜南京町(現・横浜中華街)の柳麺(ラオミン)を食べた中国人の古老へのインタビューである。それによれば当時の南京町の柳麺のスープは

『豚の骨から取った澄んだスープで塩味のみ』である。

さらに前述した植原路郎の著作「明治語録」[32]からも引用があり、それによれば

『大釜で豚の骨をグラグラわかせたスープの素は天下一品だった』

という。さらに続ける。東宝映画の副社長も務めた森岩雄の大正10年頃の証言[33]として、
”有名なシナそば屋に「来々軒」があった。ここで生まれて初めて「シナそば」を喰べたが、物凄いあぶら臭いのに驚いたことがある。”

と記している。
 このように、明治末期の南京町で提供されていたラーメンのスープは豚骨スープで塩味、大正7年から10年ごろの淺草來々軒のスープも脂っこい豚出汁のスープであったことが窺える。

獣臭い。
脂っこい。
これが大正7年頃からの淺草來々軒のスープだ・・・?

 ただし。注意してほしい。これが正しいとして、それでもボクたちは、この表現を“動物系の出汁素材を使った脂っこいスープのラーメンを食べ慣れている” 、かつ“現代の感覚”で、まともに受け取ってはいけないのである。間違っても現在の日本人が大方思っているであろう感覚でこのスープの味を想像してはならないのである。
 なぜなら。
 この当時、こうしたスープは他所にはなかった。

 そう。当時の人々は、豚くさい脂っこいスープなんぞ誰も飲んだことがなかった。普段食べるものにこんな豚くさい脂っこいものはなかったからこそ、人々の記憶に残り、淺草來々軒は店を繁盛させたのだ。しかし現代の人々がこのスープを飲んだのなら、おそらく、結構あっさりしたラーメンのスープと感じるのではないか、とボクは思うのだ。ここが、今回の話の”キモ“の一つでもである。

 一方研究会ではこんな記述もしているのだ。
・・・“『にっぽんラーメン物語』(小菅桂子)の文庫版には明治44年生まれ、小学校2,3年の時から来々軒に通っていた板野比呂志さんの以下の証言が載っています。(私が所有しているハードカバー版『にっぽんラーメン物語』には載っていません。)『”坂野さんは大人になってからも足繁く来々軒へ通っている。””「来々軒のラーメンは麺が太くてあっさりした味だったよ」 ” ただし、いつ頃の来々軒の味なのか、子供の頃から味は変わらないのか、についての情報はありません。・・・
 
 ついでながら、ボクも所有しているのはハードカバー版である。さておき、小学校2年なら、それは大正6年から7年にかけてである。もしこの頃の記憶が残っているとしたら・・・。先に書いた植原路郎氏の証言は大正7年から8年だという。ならば、この間に味が変わったという可能性はあるのだろうか。
ボクは、確証はないが、そういうことがあった、と以前から思っていた。そして、今は「きっと、あった」という思いを強くした。

 ただ、これらで一つだけはっきりしていることがある。三代目店主尾崎一郎氏という造り手の証言以外は、ほぼ人の記憶によるものだということだ。これほど細部まで調べ上げている研究会の調査力は改めて実に驚異的であると感じる。がしかし、人の「記憶」とは当てにはならない。まして、味覚というかなり抽象的なものを言葉、文字に置き換えているのである。

先のブログで書いた通り、伝承料理研究家の奥村彪生氏[34]は、著書の中でこう書いている[35]

 『(淺草來々軒の)支那そばのスープは鶏や豚の骨からとり、醤油味をつけ、そばだしに似ていた』。
 
 著書ではこう続ける。実に興味深い記述である。
『中国風の麺条[36]をなぜ支那そばと呼んだのでしょうか。そば粉をいっさい使わない小麦粉の麺条を中国風に肉のスープに泳がせて食べるやり方を支那そばというのは、スープは鰹節入りで、そのうえ味付けに醤油を使い、その味はそばだしのような感じだったのでそう命名したのでしょう』。

そして著者は、旭川の 旭川らぅめん青葉 本店[37]で初めて食べた際、スープについては

「こりゃそばだしだと即座に思」ったそうで、『飛騨高山の 豆天狗 本店[38]や まさごそば[39]のスープもそばだしそのもの』で、『このそばだし系のスープは東京の支那そばがルーツなのです』

 と書いている。ただし、この著作では『そばだし系スープ=東京の支那そばがルーツ』の根拠を示してはいない。

 飛騨高山ラーメンの発祥店は「まさごそば」と言われている。2017年12月18日付朝日新聞の記事「高山の『そば』 厳守の75秒」などによれば、『1938(昭和13)年創業で高山ラーメン発祥とされる「まさごそば」の店主(注・初代店主は坂口時宗氏)が、東京で料理修業中に中国人がつくる中華そばを学び、高山で屋台を開いたという説が有力』で、東京の修業先は「ラーメンがなくなる日」などでは、現在、東京・目黒にある「雅叙園」だという。さらにラー博のサイトでは「坂口時宗氏は、東京は芝浦にあった雅叙園で修行をしている時、中国人の作る麺料理を見て、見よう見まねで中華麺の打ち方を覚えたという」。この記述、類似のものを含めればネット上の様々なサイトで見かけるので[40]、さて一体どれが「元ネタ」なのか分からない。

 またラー博の記述の誤りの指摘で恐縮であるが、ラー博のサイト『全国ご当地ラーメン 高山ラーメン』から引用すると

 『坂口氏は今も健在。屋台時代からの屋号を引き継ぐ「まさごそば」は二代目に任せているが、麺打ち場には今も顔を出している』とある。朝日新聞2010年3月12日付[41]『往来の名物、熱々の中華そば 鍛冶橋(岐阜県)』によれば『(19)38年に先代の故・坂口時宗さんが屋台を引いて鍛冶橋周辺を流したのが始まりだ』とあるから、初代坂口時宗氏は、今からもう10年以上も前に鬼籍に入られたことになる。ラー博は公式サイトをあまりメンテナンスしていないということなのだろうが、10年以上放置というのは如何なものか。ともあれ坂口時宗氏は1914(大正3)年前後の生まれということのようだ。

 また、同じサイト・同じページに、時宗氏は高山に移った際の、こんな記述がある。

『昼は高級料亭の金亀館で腕を振るう一流の板前』。

 一流云々はともかく、この記述も疑問符が付く。現在、金亀館という料亭はない。しかし、『飛騨高山の駅弁屋「金亀館」』という店はある。この店のサイトを見ると

『明治6年 割烹旅館「金亀楼」が営業を開始。現在の「金亀館(きんきかん)」の前身』
『昭和9年10月 高山線が開通。社長以下7名の従業員にて営業開始。当時、幕の内弁当30銭、寿司20銭で販売』とある。

 また、「飛騨高山カフェ」というブログ[42]、これを拝読させていただくとブログ主はどうやら金亀館の関係者(実家という表現を用いている)で、こう紹介している。

 『金亀館(きんきかん)は、明治6年の現在の「金亀館」の前身である割烹旅館「金亀楼」にはじまります。高山城主金森家の下屋敷で料亭を営んでいらっしゃった歴史と格式のあるお店でしたが、現在は、昭和9年の高山本線が開通したときにはじめられた駅弁のお店を続けられています』。

 何が言いたいか。時宗氏が高山に移って中華そばの屋台を引き始めたのが昭和13年。料亭「金亀楼」が仕出し弁当屋に衣替えをしたのは昭和9年である。従い、時宗氏は「金亀館という料亭では働いていない」ことになる。ほかに高級料亭金亀館が存在したかも知れないから誤りとは断定しないが、金亀館の所在地(高山市河原町)と、時宗氏がよく屋台を出していた鍜治橋(付近)とは、500mほどしか離れていないことを書いておく。

 ついでながら、このサイトには『高山ラーメン 人口:6.5万人/軒数:27軒』と記しておきながら、すぐ下に『古い街並みに100軒も』と見出しを付けている。ちなみに、高山市観光協会サイトなどには軒数の記載もなく、ボクが調べたところ、“食べログ74軒”・“RDB 53軒”(いずれも高山市内のラーメン店で検索)であった。

 さて、雅叙園が芝浦にあったのは1928(昭和3)年からである。雅叙園の公式サイトによれば、当時は『本物の味を提供することにとことんこだわった高級料亭』『純日本式料亭「芝浦雅叙園」』であった。基本は日本料理を中心とした、北京料理も出す高級料亭であったのだ。そして『より多くの人々に本格的な料理を気軽に食べていただくため、1931年(昭和6年)庶民や家族連れのお客様が気軽に入れる料亭として目黒の地に誕生しました』。ボクはこの文脈からして、当初は、雅叙園は芝浦の店を閉じて目黒の移ったものと解釈していた。だから坂口時宗氏が麺打ちを覚えたのは、超高級料亭だった“芝浦時代”ではなく、多少なりとも庶民向けとなった“目黒時代”ではないかと思っていたのだ。しかし、そうではなかったことに最近気づいた。というより、調べて分かった。

 まずは”目黒雅叙園“である。これによれば目黒での開業当時は”支那料理屋“であったことは間違いない。
 
 一、1934(昭和9)年発行の「團十郎の芝居」[43]中、江戸時代の正徳年間から享保年間にかけて活躍した歌舞伎役者・市川栢莚(はくえん。二代目市川團十郎)が住んでいた場所として『今の支那料理の雅叙園のある處』という記載がある。
 二、1937(昭和12)年12月発行の「東京・城南職業別電話名鑑. 昭和12年10月現在」[44]に『支那料理業 雅叙園 細川力蔵」の記載がある。
三、1938(昭和13)年発行の「財界闘將傳」[45]によれば、雅叙園の創業者細川力蔵について『細川力藏氏とは、新聞界に於ける正力松太郎[46]、賣藥界(注・製薬業界)長尾欽彌[47]に比すべき、割烹界に於ける、脅威的存在』であり、『數千坪の豪華を極めたる料理店を建築し、雅叙園を人呼んで目黒御殿と稱(しょう)する程の家をブツ建てゝ居る』と紹介している。芝浦の旧雅叙園については『廣茫十六萬坪』という面積の『埋立地」であって、1919(大正8)に払い下げを受けた。また、当時石油王と呼ばれた中野寛一[48]から『相當の大金を貰ひ、併せてこの十六萬坪のマネヂャーを委された』。9年後の1928(昭和3)年に『空けておくのも勿體無い』として『支那料理屋を始めることになつた』と記されている。


1939(昭和14)12月30日発行「第七回東京商工名鑑」(東京市役所・編集発行)
掲載の雅叙園広告 

 実は雅叙園は、目黒で開業した後も “北京料理店”として芝浦に残っていたことが分かった。写真を残しておく(上の写真)。芝浦の店を閉じた時期は不明なるも、『少なくとも1940(昭和15)年までは営業していた』[49]ようである。

 話を戻そう。飛騨高山ラーメンのルーツは確かに奥村彪生氏の言うように東京にあった。がしかし、それが氏の指摘する『東京の支那そばのスープ』であるというのは本当だろうか? 
 
 坂口時宗氏のことを調べると、氏は富山の出身で、東京以外でも京都などで料理人をしていたが、その後富山に戻った。1937(昭和12)年に高山に移住、金亀館という料亭に昼間は勤務しながら、いや、その料亭は当時すでになかったから、弁当屋金亀館か、もしくは別の料亭で働きながら、翌1938(昭和13)年に支那そばの屋台を引き始めた。戦争中は軍人であったというから、「東京の支那そば」との接点は雅叙園にしかないのである。
 
 ただ芝浦にしても目黒にしても、雅叙園は「北京料理」「支那料理」「日本料理」の店である。創業初期よりは大衆的になったとはいえ、そこで庶民が気軽に淺草來々軒が出していたような「支那そば」を提供していたというのはちょっと考えにくい。いずれ戦前の雅叙園についてはもっと調べる機会があるだろう。
 
 ところで、「まさごそば」のスープは出汁素材が豚骨、野菜、鰹。それにチャーシューの煮汁を加えたタレを一緒に混ぜて煮込んでいるという。また「豆天狗」スープは豚骨、鶏ガラ、野菜、削り節、煮干を長時間釜で炊き出す(豆天狗公式サイトより)という。

 多分、こういうことだろう。

 淺草來々軒開業当初は、蕎麦出汁のような感じのスープであった。そして、大正6年から7年頃にかけて、スープの味を変えた。そう、豚を使い始めたのだ。当時の人々にはおそろしく獣臭く脂っこいスープに感じた。しかしそれは、現代の人々が同じスープを飲んだら、おそらく結構あっさりしたラーメンのスープと感じるだろうほどのもの・・・。

 これはボクの想像ではある。しかし、そう書く理由は十分にある。それをこれから書いていくが、淺草來々軒ゆかりの全国の店を周って、食べて、確信までは至らないが、「きっとこうだろう」という気持ちには十分なっているのである。


4.南京町の支那蕎麦の味
 
 さて、少し脇道にそれよう。横浜の南京町やその周辺ではいつごろから大衆が気軽に支那料理を楽しむようになったのか、そしてそれはどんな味だったのか、軽く触れることにする。

 明治初期、横浜にやって来た中国の人々が就いた職業は、いわゆる“三把刀”だと言われる。しかしやがて、中国出身の方々は自らの出身国の料理を提供することを生業とするようになっていく。南京町を中心として発展していく中華料理店であるが、ここで二冊の書籍を紹介しよう。

 まず一冊目。発行は1903(明治36)年タイトルは『横濱繁盛記』[50]。この頃の南京町を以下のように表している。

 まず「遠芳樓」が「有名な料理店」として紹介され、『小料理屋では各色炒麵(やきそば)海鮮炒賈(焼肴)銀絲細麵(南京そば)牛肉大麵(牛そうめん)などヽ(など)云ふ色々のビラが出て居る』。
 『又南京料理店は南京町に遠芳樓、聘珍楼、永樂樓、成昌樓などあつて、伊勢佐木町邊(注・あたり)には博雅亭を始め二三軒(注・23ではなく2~3と思われる[51])もある。是等は一寸飲食する丈(だけ)には頗(すこぶ)る御手輕に出來て居るから面白く錺(かざ)り立てた椅子によつて支那人の御給仕を受けて來るのも奇(めづ)らしからう[52]』。

 つまり、明治36年頃には、南京町と、そこからほど近い伊勢佐木町では、支那料理はちょっと飲食するだけならお手軽な存在になっていたのだ。なお、当時の伊勢佐木町あたりは、この著作によれば
『伊勢佐木町の賑ひは蓋(けだ)し日本第一で流石に東京の淺草でも、大阪の千日前でも、京都の京極でも遥かに此處(ここ)には及ばない』
という大繁華街であったそうだ。

 次に『聞き書き 横濱中華街物語』[53]から紹介する。
 語り手の「林 兼正[54]」氏は、中華街で現存する店では二番目の老舗「萬珍楼」の現社長である。彼はこの本の中でこう語っている。
『中国に出張に行った人が、「本場の中華料理はもっとおいしいだろうと期待して食べたら、まずかった」というのがよくわかるでしょ。僕に言わせれば、当たり前だっていう話です。ある友だちがやって来て「うちの料理は、お前のところと違って、中国の本場の四川料理だぞ。コックも向こうから呼んだ。とても本場にこだわった」って威張っていたから、言ってあげました。「売れない」って。結局一年半で、先日店をたたみました。横浜中華街の料理は、日本人向けだって言いましたけど、うちの親父も日本人向けの中華料理を開発したひとりです』。
 さらに『「中国本場のおいしい料理」なんていうのも、ウソ。いや、ウソというか、本場の料理が日本人においしいわけがない』とも。

 萬珍楼の現社長の親父、というのは書によると「龐 柱琛」氏[55]。広東省出身で、関東大震災ののち、横浜にやって来たという。実は「龐 柱琛」氏は、中華街で現存する最古の料理店(中華街最古というより、日本最古の現存する中国料理店)・聘珍楼の経営を、戦後に引き継いだ人でもある。ちなみに現在の聘珍樓代表「林 康弘」氏は、萬珍樓の「林 兼正」氏とは兄弟だそうで、明治期創業の二大店舗は兄弟の経営ということになる。
 とにかく「林 兼正」氏は、父親である「龐 柱琛」氏が成功を収めたのは『日本人が食べる中華料理を出したこと』『香港や台湾から、一流の料理人をわざわざ呼んで、日本人のための中華料理を研究させて、メニューを揃えさせた』ことなどによる、と語っている。

 このことから、中国料理は南京町、伊勢佐木町あたりでは、明治末には日本人でも気軽に食せるものになっていたし、昭和の初めごろから横浜南京町(中華街)の、少なくとも一部の中国料理店では日本人の好みにあった味になっていたということになる。


- - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - -


[27] 一郎氏が厨房に立ち始めた年 「ラーメン物語」から、おそらく一郎氏のインタビューより。

[28] 『食の地平線』 玉村豊男・著、文春文庫。1988年1月刊。

[29] 玉村豊男 1945(昭和20)年東京都杉並区生まれ。エッセイスト、画家。東京大学文学部仏文学科卒業。著書『日本ふーど記 』(1988年9月刊、中公文庫) 、『グルメの食法 』(1995年10月刊、中公文庫)、 『食客旅行』 (1996年9月刊、中公文庫) など多数。(以上、Wikipediaなどより)

[30] 植原路郎 1894(明治27)年12月生まれ。1918年早稲田大学政経学部卒業。東京新聞科学部長などを経て、出版研究春夏秋冬倶楽部主宰、麺業界並びに食品界、映画界に関係し、風俗評論を発表。1983年没。(以上、「蕎麦辞典」=著者・植原路郎 などより)

[31] 研究会のnote(発信サイト) 『明治末期から大正時代の来々軒の「らうめん」とは(上)』https://note.com/ksk18681912/n/na8a2ad9f0226

『明治末期から大正時代の来々軒の「らうめん」とは(下)』

https://note.com/ksk18681912/n/nd65f26de7e61

[32] 『明治語録』 植原路郎・著、明治書院。 1978年10月刊。

[33] 大正10年頃の森岩雄の証言 『大正・雑司ヶ谷〈シリーズ大正っ子〉』 森 岩雄・著、青蛙房。1978年4月刊。

[34] 奥村彪生氏 略歴は此方を参照。農林水産省https://www.maff.go.jp/j/pr/aff/1103/interview.html

[35] 奥村彪生氏の著書 「進化する麺食文化 ラーメンのルーツを探る」。安藤百福・監修、フーディアム・コミニュケーション。1998年6月刊。のち加筆の上改題。「麺の歴史 ラーメンはどこから来たか」。角川ソフィア文庫、2017年11月刊。

[36] 麺条 もしくは麺條。中国語で日本語における麺類を指す。

[37] 旭川らぅめん青葉 昭和22年、初代村山吉弥氏が屋台で創業。スープは豚骨、鶏ガラの他に利尻昆布、鰹節、煮干し、各種野菜、だそうである。

[38] 豆天狗(本店) 岐阜県高山市下一之町3-3。昭和23年創業。

[39] まさごそば 岐阜県高山市有楽町31-3。昭和13年屋台で創業。

[40] いろいろなサイトで見かける 例えば1998(平成10)年5月4日付「日本食糧新聞 ご当地ラーメン徹底研究 飛騨高山の中華そば、醤油オンリーの和風」の記事中にある「坂口氏は、東京は芝浦にあった雅叙園で修業をしている時・・・」の一文はラー博の文章のまんまコピーである。

[41] 朝日新聞2010年3月12日付 http://www.asahi.com/travel/bridge/TKY201003110245.html

[42] 「飛騨高山カフェ」というブログ 2010年12月31日に更新されたブログで、http://hidatakayamacafe.blog103.fc2.com/blog-entry-2.html 

[43] 「團十郎の芝居」 伊原敏郎・著、早稲田大学出版部。1934(昭和9)年12月刊。国立国会図書館デジタルコレクション。

[44] 「東京・城南職業別電話名鑑 昭和12年10月現在」大東京通信社、1939(昭和12)年12月刊。国立国会図書館デジタルコレクション。

[45] 「財界闘將傳」 人物評論社編集部・著、人物評論社。1938(昭和13)年2月刊。国立国会図書館デジタルコレクション。

[46] 正力松太郎 1885(明治18)生まれ、1969(昭和44)年没。讀賣新聞社社長、大日本東京野球倶楽部(東京読売ジャインアンツ)創設者。”大正力”とも呼ばれた。

[47] 長尾欽彌 1892(明治25)生まれ、1980(昭和55)年没。製薬会社「わかもと」創業者。

[48] 中野寛一 1846(弘化3)年生まれ、1928(昭和3)年没。1903年、新潟にて商業規模の油田を掘り当てる。1910年の最盛期には新津油田は年産高約17万klに達したという。

[49] 芝浦雅叙園の閉業時期 『少なくとも1940(昭和15)年までは営業していたようである』とは、三井住友トラスト不動産公式サイト「写真でひもとく街のなりたち 東京都 芝(田

[50] 『横濱繁盛記』 横濱新報社著作部・著、発行。明治36年4月刊。ちなみに横濱新報は、1890(明治23)年2月に創刊した「横濱貿易新聞」を前身とし、のち、現在の「神奈川新聞」となる。

[51] 2~3と思われる 同書籍「伊勢佐木町」の項に、「明治三十六年二月廿五日現在のもの」として「南京料理店 三」の記述がある。

[52] 奇らしい 此処での意味は「価値がある。珍重に価する」といったところ。

[53] 『聞き書き 横濱中華街物語』 聞き書き・小田豊二、語り・林兼正、集英社、2009年3月刊。

[54] 林兼正 横浜中華街「街づくり」団体連合協議会会長で、「萬珍樓」社長。1941年生まれ。インターナショナル・スクール卒業後、跡継ぎとして萬珍樓入社。1975年から同社社長を務める傍ら、横浜中華街発展会協同組合理事長を19年間務め、2012年退任した。同年の横浜文化賞を受賞。

[55] 龐柱琛(パンチュウシン) 1972年に帰化し日本人名・林達雄。1976年11月没、出身:中国廣東省高明県(現佛山市高明区)生まれ。1969年2月に勲五等瑞宝章。聘珍楼は第二次大戦で荒れ果て、当時の経営者・鮑金鉅は再建する意欲を失う。その時友人であった龐柱琛氏が「聘珍樓の過去の栄華を考えると忍びない」として1960年頃に鮑金鉅から聘珍樓ののれんと土地建物を買い受けた。



【6】 明治の味を紡ぐ店 ~謎めく淺草來々軒の物語 最終章~ 

2021年07月30日 | 來々軒
※「來々軒」の表記 文中、浅草來々軒は大正時代に撮影されたとされる写真に写っている文字、「來々軒」と表記します。その他、引用文については原文のままとします。
※大正・昭和初期に刊行された書籍からの引用は旧仮名遣いを含めて、できるだけ原文のままとしました。また、引用した書籍等の発行年月は、奥付によります。
※他サイト引用は、原則として2021年6月または7月です。その後、更新されることがあった場合はご容赦ください。
※(注・)とあるのは、筆者(私)の注意書きです。振り仮名については、原則、筆者によります。
※☆と☆に囲まれた部分は、筆者(私)の想像によるものです。



5.明治の味を紡ぐ店
 
 今まで書いてきたように、淺草來々軒のスープは、大正7・8年ごろ一度大幅な“改良”をされていたのではなかろうか。そうでも考えない限り、今まで書いてきたことへの説明が難しい。特に丸デブの存在自体、あるいは丸デブのスープの味の説明ができないのである。

 明治末期、淺草新畑町に開業した來々軒。支那蕎麦スープは、大正7年ごろを境におそらく大きく変わった。
 
 当初は、淺草來々軒のスープはあくまで日本蕎麦の「つゆ」を意識したものだった。そしてそれは大正6年まで淺草來々軒に在籍していた神谷房治氏の手により岐阜「丸デブ」に引き継がれて今に至る。さらに言えば丸デブの現在の店主が語るように「創業以来、何一つ味を変えていない」と。


丸デブ(岐阜市内)外観と中華そば。2021年6月撮影

 そして、おそらく1918(大正7)年前後に今までの、蕎麦つゆに似ていたスープをガラリと変えた。豚(おそらくは豚足中心)メインの、脂っぽいスープは、今まで日本人が食べたことのない、「本物の支那蕎麦」の味と感じさせるものだった。けれどそれは、穴川の進来軒のスープを飲んでみれば分かるように現代であれば「ちょっと豚の主張が強いな」程度に過ぎないもの。当時は豚出汁のスープなぞ他所では味わえないものであったから、淺草來々軒の支那蕎麦のスープは、動物系の出汁が突出して感じたことであろう。

 もちろん、これはボクのあくまで想像であるから、声高に「これが絶対正しい」などと言うつもりなぞさらさらない。けれど、もしかすると正しいかも知れない。

 淺草來々軒誕生からもう百年以上。内神田に移って店を閉じてからだって45年も経過したのである。もう、だれも、だれ一人として真実を知るものはいない。謎は謎のまま置いておいて、さまざま想像して、想いを巡らすのも、いいものだと思う。

 前章ほどではないが、今回の分量はそれでも400字詰め原稿用紙110枚超に及ぶ。体裁を整えれば130枚から140枚ほど、といったところか。前章と併せれば費やした時間はさて、いかほどだろうか。

 冒頭、ボクはがんサバイバーであることを書いた。2021年6月現在、大腸から肺に転移したがん細胞は、今のところCTなどでは見つかっていない(注・続きがある)。しかし、腫瘍マーカーの値は肺の手術前とさほど変わらず、ちょっと高いまま。おそらくは、CTにも映らない小さながん細胞がたくさんあるのだろう。ボクの免疫力が高ければ、がん細胞は死滅する。けれど逆であれば、いずれまたどこかの場所で現れ、正常細胞を破壊していく。あと何年、この世にいられるのだろうか。だからこそ、こうした文章を残して置きたいと思うのである。

 研究会には心からの敬意を表し、大崎裕史氏に改めて感謝申し上げ、ボクの、長かった淺草來々軒の物語を締めくくろう。

 皆様、ここまでお読みいただき、ありがとうございました。

 また、いつか、どこかで。



※これを書いてUPしたあとの、2021年7月下旬、ボクは先に受けた血液検査の結果、「腫瘍マーカー(CEA。大腸がんなどがあると値が高く出る)」の値が4月に受けた検査結果より8倍の数値を示している、それは強くがんが疑われる数値であり、おそらく再発・再転移だろうと主治医から告知された。8月中旬からまた数種の検査を受け、9月初旬にはどこの部位にあるか分かる。三度目の告知であるから、諦めはしないが、覚悟を決めている。またどこかで報告することがあるかも知れないが、これが最後の原稿になるかも知れない。

 - - - - - - - - - - - - - - - - - - -


 ・・・ほう、便利になったもんだ。高山本線が全線開通してから僅か二か月後に快速列車が走るんだものな。岐阜まで行って、そこからは東海道線で東京でも岡山でも、いやいや山陽本線の下関までも行けるんだから。俺は今日、これから、ここ富山から岐阜まで行ってな、あの店で中華そばを食うんだ。なんでもアノ店は、東京の有名な支那そば屋で修業した主人が開いたそうだ。そうそう、淺草の來々軒っていう店で修業したんだってな。
 東京か・・・懐かしいなあ。俺が東京で働いていたのは、支那そば屋ではないけど、北京料理を出していたからな、麺料理だってあった店さ。芝浦、だったんだよな、店の場所は。東京って言っても広いけどな、淺草は東京一の大繁華街だからな、俺だって何度か行ったんだ。もちろん、來々軒の支那そばも喰ったが、正直、來々軒より五十番とか、淺草大勝軒のほうが客は入っていたよな。
 俺はもうすぐな、高山に移ってさ、割烹で働く予定だけど、夜になると芸妓が腹を空かせて困っているそうって聞いているんだ。その娘(こ)たちのためにさ、そのうち中華そばの屋台を引こうかな、なんて思ってるんだ。その参考にしようという訳さ。それには大正末期まで大繁盛した淺草來々軒で修業したオヤジの店で喰うのがいいかなって思ってるんだ。
 ・・・おお。来た来た。この汽車だ。まずは高山まで行って、それから快速列車に乗り換えて岐阜駅に行くんだ。駅弁も買ったしな。さあ、出発と行こうじゃないか・・・

 ・・・2.26事件が勃発し世間は揺れ、安倍定事件で人々はざわつき、ベルリン五輪の「前畑ガンバレ」実況に皆ラヂヲにかじりついたこの時は、1936(昭和11)年、である。こう呟いた男の名は、坂口 某。数年のち、飛騨高山で開いた中華そば屋を大繁盛させた男である。

- - ‐ - -
 
 ・・・坂口 某 が、富山駅でつぶやいた頃から遡ること20年弱。
 
 そう、時は1917(大正6)年である。場所は、のちに日本の表玄関というべき駅に成長する東京駅。ただし、この時点ではまだ開業して2年しか経っていないのである。

 「旦那様、どうぞお元気で。お店の更なるご繁盛、心から祈っております」「おう。お前も人の店の心配なんぞするより、自分のことを心配せい。くれぐれも身体だけは気を付けろ。支那蕎麦の店をやるのには、身体もキツイからな」。

 ・・・この日、淺草來々軒の店主・尾崎貫一は、従業員であった神谷房治を見送りのために東京駅に来ていた。神谷は数年に渡る淺草來々軒の修業を終え、故郷の岐阜に帰るのである。
 
 「ありがとうございます。最初は屋台を引きますが、きっと短い数年で店を構えます。旦那様から教わった來々軒の味、必ず守っていきます」「おう、それはありがたいことだ。そうそう、屋号はな、客の皆が『丸デブ』ってお前さんのことを呼んでいたから、それにしたらどうだ」「ハハハ。それはないでしょう。でも考えておきます」「達者でな」「旦那様も」。

 尾崎は店の者に作らせたシウマイを取り出し、神谷に渡す。「いくら特別急行列車と言え、岐阜までは10時間以上の長旅だ。汽車の中では腹も減るだろう。これでも喰えや。お前の好物、シウマイだ」「ありがとうございます。來々軒のシウマイは絶品ですもんね」。

 ポオーッツ! 東海道線・東京駅発下関行の特別急行列車の汽笛が響き渡り、車輪が鉄路の上をゆるりと走りだした。神谷は窓から身を乗り出し、ちぎれるばかりに手を振った。もちろん貫一も、である。ただ、貫一の頭の中の半分は、そこそこ繁昌している自分の店、つまりは淺草來々軒をどうやって常に客で満杯にするか、で占められていたのだった・・・

 ・・・神谷房治を東京駅で見送った尾崎貫一は、やがて自身の店、淺草來々軒の支那蕎麦のスープの改良を手掛けた。今までのスープは、日本人の味覚に合うよう、あくまで蕎麦出汁の延長線にあった。しかしそれでは、横濱の南京町の支那蕎麦より食べたときの印象が薄い。ならば、と貫一が以前から素材にと秘かに考えていたものがある。

 きっと、これだ! これを使えば「ホンモノの支那蕎麦と思ってもらえる」と。

 そう、それは豚、である。元々、中国料理では豚肉が多く使われているのだが、貫一が特に注目したのは、中国人には一般的な食の部位であるもの、あまり日本人は食べない足の部分、つまり豚足であった。そして豚骨もだ。これを出汁に使ってはどうか。少々脂っこくなるかもしれないが、きっと強い印象を客に残してくれるだろう。それに豚足や豚骨は仕入れ値も安いのである。

 試行錯誤の末、大正7年の初めにはこの豚足を使ったスープが完成した。そしてそのスープを使った淺草來々軒の支那蕎麦は、一部の客から臭い、脂がキツイなどの声も上がったが、多くの客は「これが本格的な支那蕎麦だ」と言い、高い評判を取ったのである。ある随筆家の目(舌?)にもとまり、本にも紹介されるようになった(『三府及近郊名所名物案内』)。すぐに連日、客で押すな押すなの大盛況。客が客を呼ぶとはこのことだ。もちろん、宣伝することも怠らなかった。

 一方、岐阜に戻った神谷房治は最初のうちは屋台を引いていたが、商売は順調で、間もなく岐阜市内に店を構えたのである。屋号は「丸デブ」。神谷房治は丸々と太っていて、淺草來々軒の勤務時代から「丸デブ」という渾名がついていたのだ。

 競合店が多かった東京と違い、岐阜ではまだ支那蕎麦は一般的ではなかったこともあり、蕎麦つゆの出汁に似た材料で取ったスープはたちまち噂となり、丸デブは人気店となったのである。もちろん、そのスープの味は、明治末期から大正7年頃までに淺草來々軒が客に提供していた支那蕎麦の味スープの味、そのものであった

現在の高山本線を走る特急・ワイドヴューひだ号。
2021年7月撮影

 そしてそのスープと、麺の食感は、開通して間もない高山本線を経由して、とりわけ岐阜~高山間を3時間で結んだ快速列車に坂口時宗が何度か乗り込んで丸デブに通い、飛騨高山に伝わった。そう、それこそが今日の高山ラーメンの礎となったのである。

 支那そばという、新しいジャンルの料理を東京に広めた立役者・淺草來々軒であるが、三代目尾崎一郎の出征に伴い一旦店を閉じた。終戦後、一郎が東京に戻った時、浅草や日本橋一帯は焦土と化していた。自分の家が、店が、一体何処にあったのかさえ判別できない状況であった。そしてようやく見つけた淺草の店のあったあたりは、まったく見知らぬ人たちが住み着いていたのだった。争っても無駄だった。家や店は跡形もなく焼け、土地だって誰のものなのか分からなくなっていたのだ。とにかく浅草区や下谷区は、区域の9割が燃えてしまったのだ。空襲によって10万人が焼け死に、焼け出された人間も1万や2万ではない。100万の単位であったのである。やむなく一郎は千葉の幕張に一家で移り住むことにした。それでも、中華そば店復活を何とか果たしたかった一郎は、昭和29年、東京駅八重洲口にて店を再開させた。

 『もはや戦後ではない』--経済企画庁は経済白書でこう書いたのは1956(昭和31)年のことである。一郎が店を再開させた八重洲は、いち早く復興が進み、日本経済成長のシンボルのようなところになっていた。次々とビルが建ち、サラリーマンが朝早くから夜遅くまで働く街で、八重洲來々軒はサラリーマンたちに重宝される店となった。雀荘にだって1日何十回も出前した。人が足らず、幕張の自宅の隣に住んでいた宮葉進に声を掛け、店を手伝ってもらうこうとになった。

 時は移り1975(昭和40)年。順風満帆だった一郎の八重洲の店も建て替えが必要になり、内神田に移ることになる。その店も繁盛したのだが、還暦を過ぎた頃、一郎は決断した。息子は二人いたが、店を継ぐことはなかった。幕張から通うことも辛くなり、そろそろ限界か、と。

 内神田、來々軒、閉店。

1976(昭和51)年のことである。一郎61歳。淺草新畑町で産声を上げた來々軒の、75年にわたる生涯の幕引きであった。

 引退後、一郎は八重洲來々軒で働いて、のち進来軒という店を開業した宮葉進の店に通っていたという。

2021年夏


進来軒外観とワンタンメン(千葉・穴川。2021年5月撮影)



【5】明治の味を紡ぐ店 ~謎めく淺草來々軒の物語 最終章~ 

2021年07月30日 | 來々軒
※「來々軒」の表記 文中、浅草來々軒は大正時代に撮影されたとされる写真に写っている文字、「來々軒」と表記します。その他、引用文については原文のままとします。
※大正・昭和初期に刊行された書籍からの引用は旧仮名遣いを含めて、できるだけ原文のままとしました。また、引用した書籍等の発行年月は、奥付によります。
※他サイト引用は、原則として2021年6月または7月です。その後、更新されることがあった場合はご容赦ください。
※(注・)とあるのは、筆者(私)の注意書きです。振り仮名については、原則、筆者によります。
※☆と☆に囲まれた部分は、筆者(私)の想像によるものです。



【Ⅳ たちばな家 檜原村】
 この店は大変行き辛い場所にある。東京には「村」がいくつかあるが、檜原村を除けばあとは島嶼である。つまり、東京の本州では此処だけが「村」である。電車で行くと、JR武蔵五日市駅南口からバスで約20分、秋川渓谷というか、渓流の真上にある店である。車で行かないと正直大変である。
ボクは若い頃、仕事でこの辺りを車でしょっちゅう通ったので、土地勘もあるし一度食べたことがあった。また、2018年2月にも食べに行った。
 二度目のとき、すなわち2018年の冬に訪れ食べたとき、ボクはRDBにこう書いている(抜粋)。

 『「手つかずの東京ラーメン」
 この一杯を一言で表現するならそういうこと。とても懐かしい。これこそ、正真正銘の「昔懐かしい、東京あっさり醤油ラーメン」だ。それもそのはず。この店は「我が国初のラーメン専門店」と言われる浅草「来々軒」の流れを汲む店だから。
 (スープは)鶏、豚骨などの出汁感はさほどではないが、とても優しく懐かしい。昭和のラーメンをリアルに食べていた人なら、その感じは分かるだろう。だから、平成生まれの人にはちょっと物足りないかも知れない。麺は自家製。いわゆる中華麺などではない。しっかりした、柔らかい麺。
いやあ、これはイイ。凄くイイ。檜原は東京で、本州唯一の「村」であり、都心からも結構離れているが、東京ラーメンはしっかり受け継がれているんだな。
 さて、この店、冒頭に書いたように、日本最初のラーメン「専門店」と言われる来々軒の系譜。「日本初のラーメン専門店」には異論もあるが(後略)この店、創業は昭和二十一年。公式サイトを読むと(以下略)』。

 以下略、のあと、つまり『公式サイトを読むと』の後に続く文章だが、今回は詳しく書かずにおく。実は、何時の頃からか、この店の公式サイトは閉じられてしまっているのだ。何らかの意図があったかどうかも含めて、理由は分からない。
 ボクはサイトに掲載されていた文言を記録しているので、全文を読みたい方はお手数だが、ネットで探していただきたい。

 いずれにせよ、この店が淺草來々軒と関係があったか否か、もはや真偽のほどはまったく分からない。これまた謎めいた話なのである。
 
 ただ、「こういことがあったのかも知れない」、という想像は出来る。先に書いたが、ヒントは人形町大勝軒四代目のインタヴューと、郡山のトクちゃんらーめんの公式サイトに記述がある。そして、次項に記す太平洋戦争終結直後の東京の状況を思えば、何があっても不思議ではなく、現代なら眉をひそめる話であっても、当時はそれが日常茶飯、常態化していて、仮にトクちゃんらーめん公式サイトなどの記述が真実だったとして、乗っ取ったとされる店が一概に責めを負うようなことではなかったのではないか、とも思うのである。
 
 追記しておく。トクちゃんらーめんの記述だが、店主の小島氏は一体だれから聞いたのだろうか? 関係性からすれば千葉の進来軒の店主・宮葉氏だろう。宮葉氏はたぶん、淺草來々軒三代目の尾崎一郎氏から聞いた?
 
 なんにせよ、もう75年以上も前の話である。もはや真実は、だれの口からも語られることはない。


たちばな家と「らぁめん」。2018年2月撮影


【Ⅳ-2 東京大空襲における東京東部の被害】
 ここで人形町大勝軒四代目の話を補強しておこう。それには、1945(昭和20)年3月10日と、その前後の、いわゆる東京大空襲に触れなければならない。そして以下の事実があったから、終戦直後の大混乱期には今なら想像もできないことが起きたとしてもまったく不思議ではないと思えるのだ。

 それどころか、トクちゃんらーめんの公式サイトでいう“不法占拠”とか、日本橋人形町四代目が話す“乗っ取り”とかいう言葉はむしろ適当ではないほどに、それらが常態化して起きていたであろうことを、容易に想像させるのである。

 その前に尾崎一郎氏の一家について。
 先に紹介した『トーキョーノスタルジックラーメン』の中で、千葉の進来軒の宮葉店主にインタビューで、宮葉氏はこう話しておいでだ。

「三代目の尾崎一郎さんの家が戦争で(注・宮葉氏の住む幕張の)隣に越して来て仲良くさせて頂いた」「マスター(注・尾崎一郎氏)も歳を取られたのに毎日(注・八重洲や内神田の店に)毎日幕張から通ってましたから」。

 つまり、終戦後、尾崎一家は浅草を離れ幕張に移住、以後、おそらく晩年までそこに住み続けた。もう浅草には住む場所が無くなっていたと考えるべきだ。

 次に、太平洋戦争時の浅草について。総務省公式サイトの『台東区における戦災の状況(東京都)』[66]によれば、
「浅草区及び下谷区[67]は昭和15(1940)年当時、下谷区と浅草区に分かれていたこの地域は、101,273世帯、460,254人の人が住んでいる地域であったが、昭和20(1945)年の6月には僅かその1割5分にしかあたらない17,144世帯、69,932人になった。このことからも分かるように、東京の中でも戦争の被害を最も多く受けた地区の一つであった」。

 そして、昭和20(1945)年3月10日の、いわゆる東京大空襲では
『現在の台東・墨田・江東区のいわゆる下町地区は、米軍の爆撃機B29による空襲を受け、死者およそ10万人、負傷者4万人、罹災者100万人という未曾有(みぞう)の大被害を被った』。『夜間に住宅の密集地を目標にして、約1700トンもの焼夷弾を投下し、根こそぎ焼き尽くすというものであった』。『当時浅草区は、旧35区内でもっとも人口密度が高かったが、この日の空襲は、この浅草区全域と下谷区の東側半分、本所区・日本橋区の全域、神田区の大部、深川区の北側半分を攻撃目標としたものであったと言われている』。
 
 結果として、浅草区は、なんと区域の89.4%が焼失した。一体、この当時の浅草の状況はどれほど悲惨なものだったろうか。

 一方、日本橋界隈はどうであったか。公益財団法人[68]政治経済研究所付属博物館「東京大空襲・戦災資料センター」の『東京大空襲とは』[69]によれば、アメリカ軍は住宅が密集し人口密度が高い東京の市街地を「焼夷地区1号」としていた。その地区は具体的には、深川区北部・本所区・浅草区・日本橋区であった。昭和20年3月10日の東京大空襲では、これらの地区を集中的に爆撃し、先に書いた浅草区・下谷区のほか『本所区、深川区、城東区の全域、神田区、日本橋区の大部分、荒川区南部、向島区南部、江戸川区の荒川放水路より西の部分など、下町の大部分を焼き尽くし』、罹災家屋は約27万戸、罹災者約100万人、死者約9万5千人を数えた凄惨なものであった。この大空襲を中心とした同年3月から5月にかけての東京の空襲で死者は約9万8千人、そのうち身元が判明し個別に埋葬できたのは僅か8千人であったという。

 つまり、浅草区や下谷区だけでなく、日本橋区もその周辺も焼き尽くされ、10万に上る死者のほとんどが身元すら分からないという極めて悲惨な状況であったわけである。

 となれば、人形町大勝軒四代目店主の話は現実味を増し、「トクちゃんらーめん」の公式サイトの一文は真実であっても何ら不思議なことはない。ただ、それらが真実だったとしても、「たちばな家」のラーメン(スープ)は、尾崎一郎氏の手によるものが伝わったということではないようである。
 
 しかしいずれにせよ、謎めいた淺草來々軒の物語の真実は、もはやだれの口からも語られることはない。

【Ⅴ 大貫 本店 尼崎】
 淺草來々軒の謎めいた物語。そして明治の味を紡ぐ店があるとしたら・・・その答えを導き出すための、ボクにとっての最後のピース。それがこの店だ。結論から書けば、最後のピースは100%嵌まらないと思っていたし、行って食べて、ああやっぱり嵌まらないと確信した。嵌まらないピースであることを確かめたのである。


尼崎「大貫」と中華そば。看板には『中華料理』とある。2021年6月撮影

 まず、この店の公式サイト[70]から、歴史を引用してみよう。

 '日本初の中華そば屋『来々軒』が浅草で一大ブームを巻き起こした2年後、「中華そば」の味に感激した仙台出身の一人の若者が神戸にやって来ました。名前は千坂長治(ちさかちょうじ/1889~1944)浅草『来々軒』の味が忘れられない長治は、大正元年(1912)神戸外国人居留地初の中華料理店・『杏香楼』[71]から中国人シェフの周氏を招きます。そして当時の居留地に於いて日本人初の中華そば店を浪花町66番館にオープンします'
 
 つまり尼崎大貫は、初代店主となる千坂長治氏が淺草來々軒で食しただけで、店に勤務したわけではない。したがい、当然レシピなどは渡されていない可能性が高く、淺草來々軒の後継店とは言えないと考えている。
 
 とはいえ、やはり実食してみないと分からない。ボクは兵庫県の緊急事態宣言がようやく明けた2021年7月、飛騨高山の帰りに寄ることにした。

 まず余談から。尼崎駅からすぐ、という立地なのですぐ分かるだろうと高を括っていたのだが。まあこれがとんでもない勘違いで、土地勘のない場合、注意しないといけないということをまたまた思い知った。簡単に書けば、東京で言うなら「JR大森駅と京急大森駅」「東京メトロほか浅草駅とつくばEXP(TX)浅草駅」「JR小岩駅と京成線小岩駅」・・・まあ、どれも同じ駅名なのに距離がある。今回の場合、私鉄の駅があることすら知らなかったのだ。つまり、JR尼崎駅しかないと思い込み、店の最寄り駅が阪神であることなど思いもよらなかった。まあともかく何とか辿り着いた。

 大正時代の創業というから、ソレナリの店構えかと思って来たが、そんなこともなく、入りやすい店だ。看板には「中華料理」という文字も見える。はて、中華料理店、なのか此処は? これは覚えていて欲しい。

 正午過ぎに到着の予定であったが、前述の通りのヘマをして、もう14時近い時間であったので、客もまばら。そしていただいた一杯は。

 見事に予想通りである。このスープの味は、千葉・穴川、東京・祐天寺など淺草來々軒直系の店とは質が全く違う。もちろん、飛騨高山などで食べた「和出汁」的なテイストでもない。と言うか、東京圏でこういうスープを出している店をボクは知らない。

 酸味がある、ということは承知していた。しかし、見た目は案外、豚骨がしっかり主張する濃いように見えるスープは、ことのほか軽く、まあライト豚骨的な味わいである。100年継ぎ足しているということだが、ま、それはおいておく。

 麺は噛み応えのあるしっかりしたもの。この店の公式サイトを見れば分かるが、自家製かつ足踏みだというから、相当こだわりがあるのだろう。ただ、ボク的にはスープより、そして麺より、印象が強いのがチャーシューである。

 断っておくが、決してネガティブに書くつもりはない。けれど、ボクは還暦を過ぎていて、もう量は喰えない。だから、この、分厚く、脂身がやたら多く、ましてそれが3枚(3切れ?)もあるとなると、正直持て余す。

 そして、このチャーシューこそが、“古き良き、懐かしい、昭和の中華そば”のイメージを大きく損なうアイテムであることを、ボクは感じざるを得ないのである。少なくとも、都内で戦前より営業している店で、こうしたチャーシューを載せてラーメンを提供している店は、ボクが知る限り、ない。

 ところで、ネット上ではこの大貫のことを「日本で最古の中華そば」なるフレーズが用いられていることが多い。しかしながら、店の公式サイトでは『一番古いか否かかは当店自体が把握していません。ですので当店が看板や名刺、その他の印刷物やメディアに「一番古い」と自ら発信した事は一度もありません。ですので事実確認が定かではございませんので誤解のない様』に、と記載されている。
 
 だれが最初に用いたのかは定かではないが、この言葉の意図するところは、「日本の現役店(現在営業中、の意)で、中華そばを提供している、最も古い歴史がある店の中華そば。ただし、あくまでいわゆる中華そば店・ラーメン店であって、中華料理店ではない」ということであろう。

 私のブログでも営業開始時期が1975(昭和50)年以前のラーメン提供店一覧を掲載[72]させていただいているが、日本の現役店で最古参はもちろん横浜中華街の聘珍楼である。創業は1884(明治17)年。次いで同じく中華街の萬珍樓で、1892(明治25)年の創業だ。

 聘珍楼には「中華そば」はないが、「生碼麺(サンマーメン)」「叉焼湯麺」などがメニューに載る。萬珍樓にはラーメンセットや生碼麺セットなどがある。
 また、横浜山手の一角には古い中華料理店が並ぶが、店の規模はさほど大きくなく、東京の町中にあるいわゆる町中華とさほど変わらない。だから1908(明治41、一説には1912)年創業の華香亭本店では、ラーメンやワンタンメンがある。
 
 都内ではどうだろうか? 現役で最古参の部類、維新號銀座本店のメニューをみれば叉焼雲吞麺、鶏絲湯麺といった汁そばが提供されているし、神田の揚子江菜館にしても、鶏絲湯麺、広東湯麺があり、駿河台の漢陽楼でも広東麺や鶏絲湯麺は提供しているのだ。
 
 「日本で最古の中華そば」とは、これらの店があくまで「中華・中国料理店」であって、大貫は屋台引きから始まった、純粋な「“町場”(これは強調すべきか)の中華料理店」という意からすれば「最古の中華そば」ということなのかもしれないが、ボクにはまったく説得力を感じない。


【Ⅵ 丸デブ 岐阜】
 最後の6店目は、岐阜の丸デブである。最後にした理由はもうお分かりだろう。

 店の場所はJR岐阜駅から大通り(金華橋通=県道54号線)を北へまっすぐ進み、右手に高島屋が見えた先を左に折れたところ。駅から12分程度である。創業は1917(大正6)年のことでだ。
 ここのラーメンを初めて食べたボクの記録を簡潔に書いておく。[73]

「これは日本蕎麦かラーメンか 
 『浅草の来々軒の系譜』 『初代店主が太っていた故の屋号』 『ラーメンと思うな、日本蕎麦を喰うと思え』 『開店定刻前から満席になる』 ・・・そんな逸話を持つこの店は、特急「ひだ号」を降り、岐阜駅で途中下車する価値はきっとある。
 小さい丼に、決壊寸前まで入れられたスープ・・・出て来た一杯は、なるほど、「ラーメンと思うな、日本蕎麦を喰うと思え」は納得。今までも日本蕎麦チックなラーメンは何度か喰ったが、此処は皆さんが書かれているように「日本蕎麦若しくは温かい冷や麦」だ。
 が。イイ。この麺、凄くイイ。柔くて、ツルツルで、ズズッツと啜る蕎麦、いや、ラーメン。当然、つゆ、いや、スープは、やっぱり「そばつゆ」である。鰹節メインで醤油の立った甘味のある、つゆ。
 蒲鉾が鮮やかに彩る。緑のネギも綺麗だ。チャーシューは煮豚。薄味。コレ、合鴨肉にしたら、まんま「鴨南蛮」に変わるだろう。こういう味で、値段なら、年配客が常食としても違和感はない。と言うより、週に二・三度は店の暖簾をくぐりたくなるのも頷ける。
 店の奥に掲げられる「中華蕎麦 大正六年創業」の看板。まさに「中華的」な「日本蕎麦」が此処にある。というか、百年以上もの間、ずっとこの味を出しているのかと思うと、そしてこれが四百円というのは、もう奇跡のレベルだ。一言で言えば、「進化した化石」ラーメン。良いものをいただいた」。
 これを書いた(食べた)のは2018年の3月の事である。
 ネットでの情報をまとめると、スープの出汁は鶏ガラメインで生姜を加えたものにチャーシューの煮汁を加えたもので、タレには溜まり醬油を使っているとのことである。

 ボクは、つい最近、飛騨高山に向かう前にこの店にまた立ち寄った。どうしてももう一度、味を確かめたかったからだ。

 株式会社KADOKAWAが運営するWEBサイト『ウォーカープラス2017年9月23日更新版 【第25回】2017年で創業100周年!大正時代から変わらぬ味の中華そばが食べられる「丸デブ 総本店」』[74]では、「丸デブ」の三代目のインタヴューが掲載されていて、三代目はこう語っている。

「大正時代の岐阜の人間が、なぜ東京の浅草に行ったのか。そのあたりの経緯はよくわからないのですが、ともかく『来々軒』で習った味を地元に持ち帰ってきた。それが当店の始まりだと聞いています」。鶏ガラでダシをとった昔ながらの醤油味で、「うちは創業のときからこの味。まったく何1つ変えていません」。
 
 淺草來々軒で習った=覚えた味を岐阜に持ち帰った、そしてその味はまったく変えていない。これを素直に信じれば、この岐阜・丸デブこそ明治末期から大正初期に淺草來々軒で提供されていた‘支那そば’に最も近いものではなかろうか。となれば、奥村彪生氏が主張する”そばだし系のスープは東京の支那そばがルーツ”とは、淺草來々軒から始まりこの丸デブにこそ受け継がれているのではなかろうか? 

 奥村彪生氏が指摘した「まさごそば」や「豆天狗」も同じ岐阜県内の高山にある。もしかすると、高山ラーメンの元祖「まさごそば」の初代店主・坂口時宗氏は、高山本線の快速電車に乗って[75]何度か岐阜市内まで出掛け、この丸デブで食べてその影響を受けたのではないか? 

 坂口時宗氏は東京・雅叙園で麺の打ち方を覚えたとあるが、スープの記述はないし、また昭和初期に雅叙園で支那そばを提供していたという記録もないし、当然味についても言及した書籍等は見つけられない。だから坂口氏が丸デブの影響を受けてスープを完成させたと考えてもおかしくはない。
 
 ちなみに高山ラーメンは、ラー博によれば『ご当地ラーメンには珍しく、戦前からの古い歴史がある』とあるのだが、ご当地ラーメンが戦前からあるのは特段珍しいことではない。例を挙げよう。

◆久留米ラーメン(豚骨ラーメン) 1937(昭和12)年、久留米に「南京千両」が開業。また、1941(昭和16)もしくは1942(昭和17)年、屋台「三馬路」が開業している。
◆函館ラーメン 「笑福」は1935(昭和10)年にはすでに「支那そば」を提供していた。
◆佐野ラーメン 1935年(昭和10年)エビス食堂 大正年間。1916(大正5)年ともいわれる。エビス食堂に勤務していた小川利三郎氏が1930(昭和5)年に屋台を引きはじめ、その後現存する「宝来軒」を立ち上げたという記述もネット上で複数見える。
◆燕三条(背脂)ラーメン 1933(昭和8)年、福来亭(現在の杭州飯店)が屋台で創業。
◆喜多方ラーメン 1927(昭和2)年、「源来軒」創業者の潘欽星氏[76]が、屋台を引いたのが原点である。潘欽星氏に直接インタヴューした記録が書籍で残っている。書籍の発行年は1991年、編者は、あの日清食品の創業者・安藤百福。「日本めん百景」という書籍の中で潘欽星氏の略歴はこう紹介されている。
 明治39(1906)年、中国浙江省温州で生誕。叔父を頼って19歳の時(1925、大正14年)単身長崎へ。以後、叔父を探して大阪、東京などに移ったのち、1927(昭和2)年、喜多方に移り住んだという。




- - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - -

[66] 総務省公式サイト「台東区における戦災の状況(東京都)」 https://www.soumu.go.jp/main_sosiki/daijinkanbou/sensai/situation/state/kanto_25.htm

[67] 下谷区(したやく) 昭和22年まで存在していた東京の区で、現在の上野駅、上野公園、谷中霊園、三ノ輪、入谷などの一帯。浅草は「浅草区」に属していた。

[68] 公益財団法人 「公益社団法人及び公益財団法人の認定等に関する法律」に基づいて設立され、公益事業を行う法人のこと。公益社団法人は、法律で定められた23の公益目的事業のうちいずれかを行うことが必須で、例えばそれは「学術及び科学技術の振興を目的とする事業」「文化及び芸術の振興を目的とする事業」などである。そのため、公益社団法人は法人としての社会的信用力が高いとされている。

[69]「東京大空襲・戦災資料センター」の『東京大空襲とは』 WEBサイト https://tokyo-sensai.net/about/tokyoraids/

[70] 尼崎「大貫」公式サイト https://www.daikan-honten.com

[71] 杏香楼 1890年代に南京町の南側、現在の中央区栄町通1丁目で開店した広東料理で、神戸最初の本格的中華料理店と言われている。

[72] 1975(昭和50)年以前創業のラーメン提供店一覧 ボクのブロ「グノスタルジックラーメンⅠ~Ⅳ」 

Ⅰはhttps://blog.goo.ne.jp/buruburuburuma/e/ea80328da5637419ffc3a09667009348

[73] 丸デブで食べたボクの記録 ラーメンデータベース(RDB)

https://ramendb.supleks.jp/review/1133707.html

[74] 『ウォーカープラス2017年9月23日更新版』https://www.walkerplus.com/trend/matome/article/120324/

[75] 高山本線の快速電車 富山県庁の公式サイトによれば、昭和9年10月に富山~岐阜間が全通した。また岐阜~高山間では快速電車が昭和9年12月から運行され、同駅間を3時間で結んだとある。

[76] 潘欽星氏 氏の「潘」という姓は「藩」と記している書籍等もあるが、本人に直接インタヴューした記述がある書籍「日本めん百景」(安藤百福・編、フーディアム・コミニュケーション。1991(平成3)年9月刊)に記載のある「潘」とした。




【4】明治の味を紡ぐ店 ~謎めく淺草來々軒の物語 最終章~ 

2021年07月30日 | 來々軒
※「來々軒」の表記 文中、浅草來々軒は大正時代に撮影されたとされる写真に写っている文字、「來々軒」と表記します。その他、引用文については原文のままとします。
※大正・昭和初期に刊行された書籍からの引用は旧仮名遣いを含めて、できるだけ原文のままとしました。また、引用した書籍等の発行年月は、奥付によります。
※他サイト引用は、原則として2021年6月または7月です。その後、更新されることがあった場合はご容赦ください。
※(注・)とあるのは、筆者(私)の注意書きです。振り仮名については、原則、筆者によります。
※☆と☆に囲まれた部分は、筆者(私)の想像によるものです



5.淺草來々軒はなぜ浅草を離れたのか? 
謎めいた物語のヒントは人形町大勝軒
 
 次も寄り道的なことに思えるかもしれないが、これぞ淺草來々軒の謎めいた物語なのである。

 大正末期、少なくとも関東大震災までは大繁盛店であった淺草來々軒。三代目・尾崎新一氏が戦地に赴いたことで、その歴史は一旦途絶えることになるのだが・・・。店の勢いは衰えたとはいえ、そして、東京大空襲で焼け野原になったとはいえ、なぜ復員した尾崎新一氏は創業の地・浅草を離れて、東京駅八重洲口に店を構えたのだろうか? 写真で見る限り、大震災後に建て替えた店は大そう立派に見えるが戦災で焼失したのだろうし、店の土地は借地、だったという可能性もある。そしてその明確な答えは分からない。ただ、おそらく、こういうことなのだろう、ということは想像はできる。それは、この「人形町大勝軒」四代目店主の話もヒントの一つとなっているのだ。

 2020年2月の末、一つの店がひっそりと暖簾を畳んだ。四つあると言われる「大勝軒」[56]系の最古参、それも創業店である人形町の「大勝軒」である(以下「人形町大勝軒本店」という)。ただし、人形町大勝軒はすでに中華店ではなく、「珈琲大勝軒」となっていたのではある。
 
 人形町大勝軒の創業年は諸説あるが、東急メディア・コミュニケーションズ株式会社が運営するWEBサイト「デイリーポータルZ」の2020年3月11日の記事[57]中、人形町大勝軒四代目渡辺千恵子氏へのインタヴューをまとめるとこういうことだ。

◆1905(明治38)年 林仁軒と渡辺半之助が屋台で創業。
◆1913(大正2)年 人形町に「支那御料理 大勝軒」を(路面店として)開業。
 
 屋台時代まで遡れば、淺草來々軒より5年も前の創業ということになる。なお、人形町大勝軒直系の「大勝軒」は、最早浅草橋に残る大勝軒のみとなってしまった。関係が取りざたされる茅場町の(新川)大勝軒(飯店)は、人形町大勝軒から独立した店ではあるが、経営者が変わってしまって、先に書いた人形町大勝軒四代目のインタヴューによれば、関係性は今はないようである。
 このインタヴュー記事には、淺草來々軒が浅草を離れた訳、かも知れないことに触れられている。この箇所である。
 
 昭和8年、人形町大勝軒は浅草に支店を出す。写真を見ると、実に立派な建物であるが時代が悪かった。四代目はこう語る。
 「食糧難でも、ヤミの商品をどうにか調達してお店を開けられたのね。でもさすがに戦争の末期は疎開して、帰ったらたまたまお店は焼けていなかったんだけど、その間にちょっと危ない人たちにお店を乗っ取られちゃったの」「もうそんなの、ザラだったのよ」。

 乗っ取り云々の話は文脈からして日本橋人形町本店ではあるが。そしてもう一つのヒントは、あとで触れる郡山の「トクちゃんラーメン」の公式サイトに記述があるのである。



日本橋横山町(馬喰町)にあった「大勝軒」(左)。右はかつての「人形町大勝軒本店」。のちの「珈琲大勝軒」。ともに閉店してしまった


6.淺草來々軒を巡る六つの現役店 正統な後継店はあるのか?

 いよいよ最終章である。
 2021年6月現在、ボクが調べた限りであるが、淺草來々軒と直接・間接にかかわりがあって、今なお‘現役’(営業中)の店は六つある。それは以下の店である。

(1)中国料理 進来軒 千葉・穴川。昭和43年創業。
(2)手打ち中華 トクちゃんらーめん 郡山。昭和56年喫茶店開業、平成7年(業態変更により)創業。
(3)来々軒 東京・祐天寺。昭和8年創業。
(4)たちばな家  東京・檜原村。昭和21年創業。
(5)大貫 本店 尼崎。大正元年創業。
(6)丸デブ 総本店 岐阜。大正6年創業。

 ‘来々軒’を名乗る店は全国に171軒あるそうである(ラー博による。2020年5月現在)。ちなみに「食べログ」で‘来々軒’、で調べると102軒(2021年6月現在。以下同じ)。都内には7軒見つかった。これらが何らかの形で淺草來々軒と関りがあったか否かは不明である。上記6店に関しては、関りのあったとする記述・記録が確認できたものである。

 それでは、その6店を個別に見ていくとする。

【Ⅰ 進来軒 千葉・穴川】
 まず進来軒、である。この店はご存じの方も多かろう。ボクは2010年と、2021年の5月に伺った。千葉都市モノレール「穴川駅」から徒歩5~6分だろうか、キレイなビルの1階にある。この店はノスタルジックラーメンのバイブル的存在『トーキョーノスタルジックラーメン』[58]で詳しく紹介されている。少し引用してみよう。

 「日本で最初のラーメン専門店として知られる伝説の店『来々軒』で修業し、その味を唯一受け継ぐ千葉市の老舗「進来軒」のご主人・・・」。
 
 このほか、紹介記事の中には『(淺草來々軒の)人気を博した「支那蕎麦」は醤油味。塩味だった中華の「汁そば」を日本人が好む醤油味の「ラーメン」に変えたこの店の功績は大きい』などといった記述もある。今までも書いてきたように、淺草來々軒は日本で最初のラーメン専門店でもないし、塩味だったラーメンを醤油味にしたという記録もない。さらに言えば進来軒が淺草來々軒の味を受け継ぐ唯一の店でももちろんない。ただ、この書籍は淺草來々軒にのみ焦点を当てて書かれたものではないし、紹介されているラーメン店を初めて知って食べ歩きをした人も多いのではないか。少なくともボクにとっては貴重な本であることは確かだ。

 進来軒のご主人・宮葉進氏は、淺草來々軒が東京駅近く、八重洲で店を再開(1954年=昭和29)した來々軒に1958(昭和33)年から10年間勤務した。八重洲の來々軒の店主は淺草來々軒三代目店主・尾崎一郎氏である。

 紹介記事の中で宮葉氏はインタヴューでこう話しておいでだ。「スープは豚足と鶏ガラだけをとことこ三時間半炊いた透明なスープ。味付けにはチャーシューだれは使わず生醤油に化学調味料を入れてね」。そしてこうも語っている。「今でも基本的な造り方と味は来々軒で教わったまま一切変えていません」。
 また、このインタヴューの中で宮葉氏は、昭和33年当時の来々軒のラーメンについて「麺は中細のストレート麺」「具は食紅で色を付けた煮豚にメンマと刻み葱。なるとは乗っていませんでした」とも語っている。

 2021年5月、11年振りに食べた感想。RDBでボクはこう書いた。
「ありがちなノス系の、あっさりとしたスープ、確かにそうなのだが。じっくりと味わうと、意外にも豚が強い、と感じるのだ。このスープ、豚足、鶏ガラがメイン。生醤油のタレ、そしておそらくは“味の●”。あとで触れるが、麺もそしてこのスープも、実は昭和30年代の、当時は東京駅八重洲口にあった(淺草)來々軒と同じ組み立てだそうである」。

 そう、意識してスープを味わえば、豚を結構強く感じるのだ。大正半ば以降の淺草來々軒と全く同じということではないだろうが、宮葉氏が仰る「基本的な造り方と味は来々軒で教わったまま一切変えて」いないとするなら、これぞ三代目・尾崎一郎氏が作ったスープなのであろう。ただし。淺草來々軒創業当時の、ではなく、敢えて「大正半ば以降の」と書いた理由が、ある。

 なお、宮葉氏は1942(昭和17)年の生まれで、2021年では80歳近いお歳である。進来軒はいっとき長期の休業を経て月現在営業中なるも、夜の営業を取りやめ、メニューも相当絞っておいでのようである。コロナ禍の中伺ったが、ご主人は元気に鉄鍋を振っておいでであった。ただ、後継者はおいでなのだろうか? もしおいでにならなければ、淺草來々軒に連なる店の一つがまた消えてしまうことになる。
 
【Ⅱ トクちゃんらーめん 郡山】

郡山・トクちゃんラーメン外観と「トクちゃんラーメン」。2021年5月撮影

 さて、次に郡山の「トクちゃんラーメン」である。店の公式サイト[59]によれば、店主・小島進氏は、1946(昭和21)年、浅草生まれ。宮葉氏は進来軒に通いつめ「来々軒の支那そばの仕込みを教えていただきました」。ただし、現在はそのラーメンの提供はしていないという。來公式サイトでは少々分かり辛い表現を用いているが、要はこういうことだ。

「今は亡き父と幼いころから浅草の支那そばを愛していました。当時はチャルメラなどの屋台も多かったのですが、味は恐らく来々軒に近付けていたような気がしてなりません」。

 つまり、小島氏は幼少のころから淺草で支那そばを食べていたが、多くは屋台であり、その味は來々軒の味に近かった、「気がしてならない」のである。それは、小島氏の想いであり、記憶なのである。従い、この店に関しては淺草時代の來々軒とは関連がない。それでもボクは実際に味を確かめたくて、2021年5月、郡山の店に出向いた。

 店の中には來々軒とつながりを示すものがいくつかあった。たとえば、メニュー表。そこには、大正の頃の淺草來々軒の写真が添えられている。

 『懐かしき、かつ進化した正統派。旨い東京ラーメンは郡山にあり』。ある雑誌の記事の拡大コピーが掲示されていた。ボクにはこの店の味を懐かしいとも思わなかった。だから「進化した正統派」とも感じない。誤解を招く書き方をしてはならないから付け足しておく。決して不味いのではない。「塩は『土佐の塩丸』、昆布は『日高昆布』、鰹は最高級の『本がつお』、静岡産の『煮干し』、豚はゲンコツのみで、比内鶏をはじめとする厳選した地鶏を三種使用」とあるので素材にも拘っておいでである。けれど、いや、だからこそ「懐かしい」とは感じないのである。それは、例えば先に書いた千葉の進来軒の店主の話を思い出してほしい。素材の組み立てが全然違うのである。

 余談になるが、そしてそれは後述するが、ボクが都内の店で「ああ、なんて懐かしい味だ」と感じたのは、唯一、東銀座の「萬福」、それも今の店ではなく、昭和から平成に変わるころの、まだ木造の建物だったころの「萬福」だけである。


東銀座「萬福」外観とワンタンメン。2021年5月撮影

【Ⅲ 来々軒 祐天寺】
 東急東横線の祐天寺駅からほど近い場所にあるこの店、創業は1933(昭和8)年のことである。この店には公式サイトがないが、Webサイト「駅と旅のガイド Webka.jp」で現在の三代目店主の写真と共に紹介記事が掲載されている[60]ほか、東京都中華料理生活衛生同業組合のサイトでも紹介されている[61]。また、店にも「元祖東京ラーメン」「全国来々軒のルーツ」といったポスターが掲示されている。確かに、この店こそ、はっきりとした記録が残る「初代・淺草來々軒」の正統なつながりを持つ店である。ただ、いろいろなサイトによれば、現在三代目の店主は東京會舘の出身だそうである。東京會舘は系列に上海料理店を持つが[62]、ルーツは大正期に創業した魚介料理店で、今のレストラン部門はフレンチと日本料理が中心である。従い、現在の祐天寺来々軒は、淺草來々軒と“味”という点での繋がりはないようである。これは大崎裕史氏のブログ[63]にも記載があって、インタビューが掲載されたサイトの話[64]をまとめると「今の店主(ここでは三代目)はおじいちゃん(創業者)の味をかなり変えてしまった」とある。ただし、店のメニュー表のデフォルト(先頭)の位置には「老麺 元祖東京ラーメン 650円」とあるのだ。

 創業者は傅興雷(フ・コウライ)という中国の方だそうだ。当初大森で創業、翌年、現在の祐天寺に移転したという。ネット情報では傅興雷氏は「淺草來々軒や上野來々軒で料理長をしていた」といった記述も多く見られる。たとえばWikipediaによれば、「1935年(昭和10年) (尾崎)一郎が商業学校を卒業して家業を継ぐ。堀田久助[65]は独立して上野来々軒を創業する」とある。
 要はこういうことになる。

・祐天寺来々軒の創業 昭和8年(大森で創業、翌年祐天寺に移転)。
・上野來々軒の創業 昭和10年。
・祐天寺来々軒の初代店主は、上野來々軒の料理長をしていた???。

 となればおかしな話で、淺草來々軒三代目店主・尾崎一郎氏が1935(昭和10)年に店を継ぎ、堀田久助氏が上野來々軒を開業したのが同年とすると、傅興雷氏が上野來々軒の料理長を勤めることは事実上不可能である。昭和8年に大森に開いたということが事実であれば、上野來々軒の出店年次が違うか、あるいは上野来々軒で料理長云々ということが誤り、のどちらかとなる。淺草來々軒を巡っては真偽が不明なネット記述が多いが、これもその一つであり、また次項で記す「たちばな家」の成り立ちについても同様である。
 
 それはさておき、ボクはこの店に都合三度伺った。2回目までは調理麺(最初が蝦仁湯麺=塩味の海老そば、二度目が什景湯麺=餡かけ五目そば)だったので、この6月にまた食べに伺った。もちろん、食べたのは元祖東京ラーメンである。お味の方は、そう、やっぱり町中華よりは上品なのである。とりわけチャーシューは、煮豚ではなく、吊るしで食紅使用の本格的なモノ。ボクが昭和30年代終わりに食べたラーメンを正常進化させるとこんな味、という感覚であった。


祐天寺来々軒と「老麺」。2021年6月撮影。



- - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - -

[56]大勝軒の三つの系列 いわゆる人形町大勝軒系列のほか

(1)1947(昭和22)青木勝治ほか5人の共同経営で開業した「(荻窪)丸長」から坂口正安が独立、山岸一雄とともに「(中野)大勝軒」を創業、さらに1961(昭和36)年、山岸が独立して開いた「東池袋大勝軒」の系列。「丸長・大勝軒」系列とも呼ばれる。

(2)1955(昭和35)年、草村賢治が永福町にて開業した「(永福町)大勝軒」系。なお、銀座と葛西にある「この記述、類似のものを含めればネット上の様々なサイトで見かけるので 、さて一体どれが「元ネタ」なのか分からない。余計なことだが、ラー博のサイトの「高山ラーメン」の記述は誤りが多く、まあ誤りというよりはメンテナンスがされていないということではあるけれど、あまりに信用できない。」はいずれにも属さない。

[57] 2020年3月11日の記事 「デイリーポータルZ」の人形町大勝軒の特集記事。https://dailyportalz.jp/kiji/coffee-taishoken

[58] 『トーキョーノスタルジックラーメン 懐かしの東京ラーメン完全ガイド』 山路力哉・編著、幹書房。2008年6月刊。

[59] トクちゃんらーめん公式サイト http://tokuchan-rahmen.jp/index.html

[60] 「駅と旅のガイド Webka.jp」の来々軒の記事 http://webka.jp/s/a2g1404000008.html

[61] 東京都中華料理生活衛生同業組合・来々軒の紹介サイト 

http://www.cyukaryouri-tokyo.or.jp/shops/t23ku/meguro/rairaiken/index.html

[62] 東京會舘の系列上海料理店 千代田区大手町2-2-2 アーバンネット大手町ビル21Fにある「東苑」。

[63] 大崎裕史氏のブログ 2012年12月8日のブログ“日本初のラーメン専門店「浅草来々軒」の流れを汲む店”。https://ameblo.jp/oosaki-tora3/entry-11436599228.html

[64] インタビューが掲載されたサイト 2021年6月現在、大崎裕史氏のブログに貼られたリンク先URLは、NOT FOUNDとなっている。

[65] 堀田久助氏 Wikipediaによれば「義兄」とあるが、主語がないため「誰の」義兄かは不明。文脈からすると、淺草來々軒二代目店主・尾崎新一氏の妻である「あさ」の義兄ということのようであるが、確証はない。