拉麺歴史発掘館

淺草・來々軒の本当の姿、各地ご当地ラーメン誕生の別解釈等、あまり今まで触れられなかっらラーメンの歴史を発掘しています。

支那そばは この国からいつ消え、いつ戻って来たのかな? 甲府の拉麺屋にて

2022年07月20日 | ラーメン
 のっけから失礼する。以下、答えよ。
  1. 冷やし中華発祥の店はどこか?
  2. 生碼麺(サンマーメン)を最初に出した店はどこか?
  3. ラーメンに「半熟玉子(味玉)」を最初に乗せた店はどこか?
  4. 「冷麺」を最初に提供した店はどこの都道府県にあるか?
  5. 戦後、最初に「餃子」を売り出したのはどこの店か?
 さあ、この5問を正確に答えられる人はいるだろうか? 「私は全問正解に自信がある」などと宣う方は申し訳ない、ボクは貴方のことをまったく信用しない。

 と書けば少し過激か。まあ少なくとも、ボクは上記5問の答えを知らない。いや、知ってはいるが、それが正解かどうかは確信がない。なぜならボクは、その答えと思しきものが複数あると知っていて、そのどれかが正解だという根拠を持ち合わせていないから。

 なぜこんなことを書き出したのか? それは2021年暮れ、山梨の増冨温泉郷から東京に戻る途中、甲府で下車して立ち寄った店の公式サイトを見たからである。いや、それは逆で、公式サイトを以前見て気になったので、増冨温泉郷の帰りに無理やり立ち寄ったのだが。

 その店は「蓬来軒」という。そしてその店の公式サイト、あるいは店の看板、さらにはWEB上にこういう記載があるのだ。

・「支那そば」を復活させた店
・消えた支那そばを全国で初めて復元させた店

(店の袖看板。2021年12月)

 淺草來々軒のことを調べていて見つけたこの記述、気になってはいたが淺草來々軒と直接の繋がりはなく放置していたのだが、そのままにしてボクがこの世から消えてしまうのだとしたら、それは心残りというもの。全国有数のラジウム含有量を誇る増冨温泉3泊4日旅行の帰りに立ち寄った。味などについてはWEBサイト「ラーメンデータベース(RDB)」を参照頂くこととし、“支那そば復活発祥店”なる件を書いておく。

WEB上記載の多くは「勘違い」「読み間違い」

 まずWEBに多く残るこのような記述を見てみよう。『支那そば→戦争の影響で我が国からその名前も、料理も消えてしまったものの、それではいけないと先代の店主が復活させた』。この店の品書きの先頭、デフォルト位置に並ぶ品、「支那そば」は、“消えた支那そばを復元させた”そうだ。さて、その真偽であるが。

 それはない。100%ない。この店、ネット上に見かけるこんな類の記述は勘違い、読み間違い。

 どういうこと? 店の公式サイトをさっと読んだらどうもよく分からない。何度か読み直すうちに、こういうことだと理解した。

 それは後述する。此処でちょっとお店のことを。

(甲府駅。2021年12月) 

(店外観。2021年12月)

 ・・・甲府駅から歩いて20分ほどだろうか、メインの通りから少し入った場所。平日の11時過ぎに店に入ったが、もう20人ほどの客がいる。この店の正式な開店時刻は11時30分であるが、早開きしているようだ。ちなみにボクが店を出た12時過ぎには、まあなんと、10人ほどの行列だ。結構な大箱で70人~80人は呑みこむキャパがあろうというのに。

 頂いた一杯。これがかつて戦前に提供されていたという“支那そば”だとしたら、ボクが都内や横浜、あるいは飛騨高山等々で頂いてきた、“戦前から存在する店で食べた”支那そば”(あるいは中華そば、またはラーメン)とは何だろう? というのが食べたボクの感想。ずっとこちらのほうが洗練されているというか、現代の多くの店で提供されている“ラーメン”にずっと近いスープ、と感じる。鶏メインであろうスープは少し甘く、穏やかで、そして深い味。黄色い縮れ麺にさほどの特徴はないが、具はなかなかの個性派である。まずメンマ。ネットの写真を見ると紅い、のである。どうやら食紅使用らしい。実際に見るとそんな紅い訳ではない。ちょっと紅っぽいかなという程度だが、これは確かにインパクトがある。どうしてこんな色をしているのか・・・理由は分からない。

 インパクトといえば、チャーシューも凄い。分かっていたのでチャーシュー増しにはしなかった。ボクの今の状態ではこの一枚ですら持て余し気味だ。何しろデカい、そして厚い。硬いのが玉に瑕だが、若い人には嬉しいだろう。いや、店の客は年配の方も多いから、肉が嫌いという客でなければ有難い、ということか。

 客を呼ぶ理由。それは支那そばそのものだけでなく、スタッフの対応や店の造りにも間違いなくある。スタッフは若い女性が多いが、皆声は大きく、丁寧だ。店は天井がとても高い。吹き抜けである。木材を多用し、座敷や小上りもある和食店の趣。こりゃ、味も含めて老若男女に人気が出る、いや、ずっと人気を保てるわけだ。ただし。ボクにはあまり響かなかったけれど。



(店に飾られる店模型。2021年12月)

“支那そば”という「差別的?用語」

 『差別用語でもないのに差別用語として学術的な「支那そば」さえ消されたのである。歴史にあった物を消された事の方が問題である。蓬来軒は消えた支那そばを全国で初めて復元した発祥の店である』。
 
 さらに、この店の公式サイトにはこんな記載もある。その直前には『日本で生まれた支那そば・東京そばが誕生した。時は明治三十八年(西暦一九〇五年)、ラーメン百年の歴史が始まった』という一文もある。後段の箇所は後に回す。

 先ほど「WEB上の記述、この店が消えた支那そばを復活させたというのは勘違い、読み間違い」と書いた。これをきちんと読めばそうとわかる。先ほどの店の公式サイトの一文をもう一度読んでほしい。

 この店が言いたいのは「支那そば」という“戦後、消された用語での品を復活させた最初の店”ということで、何も“戦前にあちこちにあった支那そばの味を復元させたわけではない”のである。

 太平洋戦争前、たとえば淺草にあった「來々軒」でも『支那蕎麦』と呼ばれていたラーメンは、戦後『支那』という言葉が差別的だという風潮が広まったため、多くの店がその呼称を止めてしまった。それは逆に問題だと考えたこの店は、『支那そば』という“呼称”を、全国で初めて“復元”、すなわち消えてしまった“呼称”を戦後復活させた最初の店、ということに言っているのだ。その時期は明示されてはいないが、創業当時の1964(昭和39)年、ということになるらしい。

 しかし。勘違い、読み間違いを起こした原因は、実はやっぱりこの店の記述や看板の表現にあるようである。たとえば店の看板には「支那そば復元 発祥店」とあり、公式サイトの一部にも『蓬来軒は、消えた支那そばを全国で初めて復元した発祥の店である』と書いてある。よく読めば上記のような意味なのであるが、この二つだけを切り取って、そこの箇所だけを読んでしまえば、勘違いを起こす。すなわち、この店こそ戦前にあった“「支那そば」の味を復元した“ことになる。

 きちんと公式サイトを読めばそうでないことが理解できるし、ちょっと考えれば“戦前の支那そばの味を復元する”ことなぞ到底あり得ないことだと気が付くのだが。

「支那そば」が差別用語でなく「支那」、という言葉が差別用語?

 さて、一体それはなぜなのか? その根拠はあるのか?

 もう時効だし、もう少し先には、ボクはこの世界の住民でなくなるから書いてもいいだろう。

 ボクは20歳代のころ、都内の、相当人口の多い区の行政機関に属し、広報というセクションに在籍していた。主要業務は行政広報誌や行政パンフレット類の企画・編集・発行である。広報誌という性格上、発行物に間違っても差別的な用語を使ってはならない。編集作業はそこにも留意して進める必要があった。そこで、「支那」という言葉である。

 40年前と現代では、差別用語と言われる範囲も異なってきているが、40年ほど前は少なくとも「支那」という言葉は行政では避けられていた。その言葉の意味、あるいはどう使われてきたのかは此処では省く。差別は(いじめ、もそうだが)、「する側」がたとえそういう意図は全くなくとも「される側」が「差別」と感じればそれは「差別」になり得る。差別と行かないまでも、「不快」とされることもよくある。だからこの言葉が差別用語・不快用語かどうかは、此処で書くことは相応しくないと考えるし、何よりボクは歴史学者でも言語研究者でもない。書くには知識が足りないし、書いたらエライ長文になるし、書いた文章に自信が持てない。

 地方公務員が気にするのは、中央行政の動静だ。中央が発出した一枚の通達に長年拘束される地方行政がなんと多いことか。此処ではこの文書番号と標題及びその内容の概略のみを記載しておく。なお、公務員はこの手の文章に慣れているので抵抗はないが、一般の人には「なんじゃこりゃ?」となるのは承知している。

・昭和二十一年六月十三日付 
内閣外乙第二五號
内閣官房總務課長
内閣官房人事、会計兩課長(以下略)
 支那の呼稱を避けることに関する件
『標記の件について別紙のとほり外務次官より申越があつたから御参考のため通知する』

・昭和二十一年六月六日付
 文合第三五七號
 外務次官
 内閣書記官長殿
支那の呼稱を避けることに關する件
『本件に關し外務省總務局長から六月六日附で都下の主な新聞雜誌社長に對し念のため寫のやうに申送つた。
 『(支那という文字を使うことは)今後は理屈を拔きにして先方の嫌がる文字を使はぬ樣にしたい・・・』

 この店のサイトにある「学術的な」という表現は、この通達の中にもこう書いているので転記する。

『唯歴史的地理的又は學術的の敍述などの場合は必しも右に據り得ない例へば東支那海とか日支事變とか云ふことはやむを得ぬと考へます』(ただ、歴史的地理的または学術的なことを時系列で書くこと、それはたとえば東シナ海や日支事変=日中事変=などと書く際はやむを得ないと考えます)

 (以上は 「支那の呼称を避けることに関する件」国立公文書館・アジア歴史資料センター 枢密院関係文書・枢密院文書 https://www.digital.archives.go.jp/das/image/M0000000000000780263 などより)



 まだ戦後1年も経過していない頃のこと、敗戦国日本はGHQ占領下で自らの政治行政を行うことが出来なかった。だから「理屈抜きに、相手が嫌がる表現は使うな」と、各都道府県にとどまらず、民間の新聞雑誌の経営者にまで通達した。しかし此処の経営者は、支那そばという言葉は「東シナ海」などと同様、学術的な用語であると同様に扱うべきで、使用はやむを得ないが使っていけないということではない、だから当店は「支那そば」として売り出す、と主張していたのである。


“戦前の支那そば”の味を“復元”することは出来るはずもない

 2020年11月、新横浜のラーメン博物館で淺草來々軒の支那そばを再現して提供する、という企画が実施されている。ボクもすぐ食べに行ったが、それが戦前の淺草來々軒の味の再現だ! と書けるはずもない。企画した側も「多分、そうだろう」的なことしか言えないはずだ。なぜなら、戦前の、もっと言えば大正時代中期の、淺草來々軒最盛期に提供した支那そばの味など、食べたことがある人間など、現代のこの世界に誰一人として存在しないのだ」から。

 翻って、この店でいう“戦前の支那そばの味”とはさて、どんな味なのだろうか? それもまた、別の意味で誰も答えることはできまい。それは、その“支那そば”とやらは、何時の時代の、どの店の“支那そば”なのであろうか? ということが定義されていないからだ。まさか明治初期あるいは中期に日本で現れ(当時は“南京そば”という呼称もあった)、提供店舗数は今よりははるかに少なかったろうが全国に存在した“支那そば”を一括りにした、あるいはそれは最大公約数的な“支那そば”なのかも知れないが、“支那そば”の味を復元などどう考えてもあり得ない。この店の先代はさて何年の生まれか知らぬが、一人の人間が明治のころから終戦の間際までの期間に、全国の支那そば提供店を巡って、昭和39年に再現を果たすなどというのは三流四流のSF小説のアイデアでも出てこないだろう。

 だから、この店のサイトでは支那そばの“味”ではなく“呼称”を復活させたということを書いてあるのだ。ただし、それはサッと読んだだけでは理解できないから、あちこちで勘違いを起こし、それを元に、ロクに検証もせずにネットでいろんな人が書くものだから、誤った記述がいつの間にかあたかも真実であるような事象に化ける。

 ネット社会の脆弱性は、こういうところに如実に表れる。今回、ボクが言いたいのはこれがメイン、であった。すみません・・・

戦後「支那そば」という呼称を復活させたのはこの店なのか

 ここまで書いたことで、ボクの書きたいことは終わり。しかし、この店の公式サイトの記述には二つ、疑義があることだけは書いておきたい。それは

  1. 蓬来軒本店が戦後初の『支那そば』という呼称を用いた店である。
  2. 日本で初めてラーメンが誕生したのは1905(明治38)年である。
 という二つの点。まず、

 1.については正しいとも言えるかもしれないが根拠はない

 正しいとする根拠も、そうでない根拠も、残念ながらボクには示すことが出来ない。というより、根拠となるモノが存在しないからである。この店の創業年、昭和39年という年を考えていただきたい。前回の東京オリンピックが開かれた年でもある。家電を例にとれば、カラーテレビ。NHKの放送史によれば、本格的なカラー放送が始まったのはその東京オリンピックからであり、この年、大河ドラマ「天と地と」がカラー放送されたとある。総合テレビ全時間カラー化され、一般家庭に広く普及したのは1970(昭和45)年以降のことだ。もちろんデジタル放送なんてことはない。

 ちなみにデジタル化の先端を行ったのは電卓であろうか。CASIOの公式サイトによれば、『電卓として初めてメモリー機能を搭載し、歴史へ新たな1ページを追加することになった001型という“電卓”が登場したのは『1965(昭和40)年』のこと。もちろんインターネットもパソコンも、携帯電話もワープロ専用機ですら登場していない昭和39年である。

 こんな時代に、一体どうしたらどこの店が最初に“支那そば”と名乗ったと分かるのであろうか? 何より、本当に戦後、「支那そば」という呼称は全国あらゆるところで使用しなかったのであろうか?

 アナログの時代に、いずれもそんな記録など公式に残っているはずもない。だからこの店が「うちが最初」と名乗ったところで、それを検証する術はない。ただ、他に「うちのほうが先だ」「いや、うちは戦前戦後を通じてずっと支那そばとして売っていた」という店が名乗り出て、その根拠を示さない限り、この店の公式サイトのとおりでよいのではないか、とボクは思っている。ただし、二番目はそうはいかない。ちゃんと記録があるからである。
 
支那そばという呼称は明治35年には使われていた

 2.については、明らかに過ちである
 
 サイトに記述のある『明治三十八年(西暦一九〇五年)』に、日本でラーメンの歴史が始まったという記述には根拠が示されていない。けれど、この一文、ボクはどうも読んだ記憶があった。少し考えると、ボクが淺草來々軒=日本初のラーメン専門店でない、ということを調べてブログに書いたとき、ある本に記述があったことを思い出した。

 その本とは、1989年発行の「ベスト オブ ラーメン」(麺’S CLUB編集、文藝春秋、1989年10月刊)。そこに、こう、ある。

 『日本人にも食べて貰ひたいのなら、古来慣れ親しんだ関東風の醤油味にして、獣臭さを消さなくてはならない。この考へに考へたアレンジが横浜人の支持を得たことに気を良くした彼らは、より広い市場を求めて東京へ進出する。そして〈明治も日露戦争を終わった頃から、東京の夜の町にはチャルメラの音が哀しく響きはじめた〉(平山蘆江『東京おぼえ帳』昭和二十七年・住吉書店)のであつた。時に明治三十八(1905)年。ラーメン八十年の歴史はここに始まつたのである』。
 

 前後の文章からして、この店の公式サイトの文面と照らせば、「ベスト オブ ラーメン」からの引用と考えて差し支えないであろう。そして「ベスト オブ ラーメン」にも、明治38年ラーメン発祥説の根拠は示されていない。もとより、日本のラーメン発祥についてはいつどこで提供され始めた、と明確に示されている資料(史料)は存在しないのである。しかしながら、横浜の南京街(中華街)では明治中期には「南京そば」「支那そば」という品が提供されたいたという記録がある。それはボクの過去のブログを参照されたい。

 なお、明治38年創業の店では、もう今はないが人形町系と呼ばれる大勝軒本店が屋台で営業を始めた、という記録がある。ただし、それは四代目のおかみさんがインタビューで答えたもので、正確に言えば『明治38年ごろ』ということであるのだ。また、ボクのブログで書いた中にこういうのもある。二つだけ引用する。

 “NPO法人神田学会が運営するWEBサイト 「KANDAアーカイブ」の「百年企業のれん三代記・第26回揚子江菜館」によれば、『(注・神田に現存する)揚子江菜館は明治39年(1906年)西神田で創業されました。神田に現存する中華料理店では最も古い店です。実は、「支那そば」という店名でそれ以前から営業をしていましたが、店名を改めた年号を創業年にしています』とある“。

 これからすると、この店が「支那そば」屋と名乗ったのは明治38年以前、ということになる。ただし、これもその根拠となる資料等の明示はない。

 もう一つ。連絡を取り合っていた、現代食文化研究会様から寄せられた情報で、1904年=明治37年9月18日の新聞記事が残っている。

『強盗傷を負ふて逃ぐ
 昨晩三時頃神田仲町二丁目三番地南京蕎麦屋青柳賢藏方へ一人の窃盗忍(しのび)入り店頭にありし銭箱の金三十銭と單衣(ひとへもの)一枚を窃取して二階に上り・・・』


行きたくないけど 沖縄に行かなくちゃ?

 最後に。今回見つけた史料である。明治35年の新聞広告なのだが、それは何と沖縄! の店だ。明治35年発行の琉球新報広告とされるもので、そこにはこう書かれている。

 『御披露
 一 支那そば●(判読不能)ニ支那料理數々
 右ハ今般清國ヨリ料理人ヲ招キ左ノ●(同)に●(同)テ開業(以下略)・・・
 那覇警察署下リ肥料會社裏
 四月九日 支那そばや
 各位 敬白』

 
 リンクを張りたいところだが、見つけたばかりでまだ検証していないため、後日確認が取れればこのブログを編集したい。なお、その店は3年後、屋号を変えて、今なお営業をしている現役店である。ただし、現在は当たり前だが「沖縄そば」の店だそうだ。(この段落、取り消し線の理由は下記注参照)

 「きしもと食堂」。

 だそうだ。ああ、これで沖縄に行かなくてはいかんのか・・・

注 2022年7月12日 この琉球新報広告店は「きしもと食堂」とは無関係です。私の勘違いであたかもこの「支那そばや」がのちの「きしもと食堂」になったような記述をしておりますが、間違いです。お詫びして訂正いたします。なお、「きしもと食堂」については2022年夏には別項にて記述する予定です⇒2022年7月20日 また入院してしまいましたので、8月中にはUPしたいと考えています)

あとがきにかえて
 
 ボクの病気のことは何度か書いていますが、近況を。興味のない方はすっ飛ばしてくださいませ。

 2019年1月初旬、がんと診断され、即入院翌日オペ。つまりそれからもう3年。いわゆる“3年生存率”向上に多少なりとも寄与したわけです。でも2020年夏には両杯転移で肺切除手術。今年夏には肝転移だけでなく腹膜転移(腹膜播種)、それどころか、なんとまあ予後が滅茶苦茶悪い胆管に原発性腫瘍発症で、胆管にステント挿入オペ。つまりボクのお腹の中はがんだらけ。

 今年の9月には人生初の(当たり前か)余命宣告まで受けましたわ。「最悪、半年持ちません」。そのあと、10月に鳩尾に激痛が走ってね、結果、原発性胆管がんの疑い、ですと・・・。
がんには「三大治療」というのが使われます。すなわち、
  1. 外科的切除
  2. 化学療法(抗がん剤治療)
  3. 放射線治療
 そして最近では「免疫療法」。だいぶ前に話題になった“丸山ワクチン”もこの部類です。ほかに健康保険適用では「温熱療法」なんてのもあります。
 ボクは2019年のがん発症から、外科的切除と化学療法を繰り返し、今年の夏以降、化学療法に加え、週2~3回の丸山ワクチン投与のほか、こんなことしてますよ。
  1. 温泉療法? 少量の放射線はむしろ体に良い、という「ホルシミス療法(効果)」に従い、勝手に玉川温泉やら増冨温泉に行った。ついでに近隣のスーパー銭湯(温泉)に週2ペースで通っているぜ。効果? さあね。きっと、いや、たぶん、ちょっとだけ、効果があるような気がする。
  2. 免疫活性化食品等摂取療法? ヤクルトの乳酸菌シロタ株や、キリンのプラズマ乳酸菌飲料やサプリを毎日摂取! 効果? カゼを引かなくなったぜ。いや、その・・・・
 まあでもね、この世にボクがいられるのは、最長で1年半、いやいや、もっとうまくいけば2年、くらいでしょうか。短ければ2022年の夏ごろまで、ですかね。

 でもね、3年かけて、泣いて喚いて叫んで絶望して辿り着いた心境は、それほど悪いものではありません。だって生の終わりは、地球上に生存する生物に必ず訪れるわけですから。ボクは医療介護福祉関連の仕事をずっとしていたので、自分で見たこと、ネット上で調べたことからして、多くのがん患者はこの世を去る一月前あたりまで通常の生活をしていることを知っています。きっとボクもそうなります。だから、まだ最低一月は死にませんって。運が良ければまだ1年くらいはダイジョウブでしょう。その時が来るまで、ボクはきちんと生きていきます。

 そんなことを考えながら、2021年の暮れを迎えました。皆さま、一年間ありがとうございました。幸多き新しい年をお迎えください。

 それではまた、いつかお会いできることを楽しみに。

 2021年の、大晦日の、晩にて


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