拉麺歴史発掘館

淺草・來々軒の本当の姿、各地ご当地ラーメン誕生の別解釈等、あまり今まで触れられなかっらラーメンの歴史を発掘しています。

辨麺 ~謎の愛すべき拉麺遺産 Ⅴ

2022年12月05日 | 老舗の中華料理


(実にウマそうである。横浜市内伊勢佐木町近くにあったコトブキ亭のバンメン。
此処も廃業してしまった。2016年12月)
 
 
■バンメン、長野に渡る
 これから長野に伝わったバンメンを、便宜上「長野系」と呼ぶが、長野の松本や上田へ「バンメン」は、どういう経路をたどって伝わったのだろうか? なによりそれは果たしてそれは分かるのだろうか?
 
 多分、こういうルートとではないか、いうのは案外、簡単に分かった。ただそれは、偶然が偶然を呼んだ、という以外にない。ちょっと脇道にそれるが、面白い話なのでお付き合いいただきたい。

 その前に。後で詳述するのだが、長野の松本と上田に伝わった経緯は、おそらく横浜が起点であり、その時期はまったく同じか、ほぼ同じころと考えている。ただ、それは確証があるわけではないし、有力な手掛かりというのがあるわけでもない。状況証拠、とでも書けばいいのだろうか、いくつかの傍証が重なった末のボクの推測、である。がしかし、伝わった時期は違ったとしてもそれほどの時間差はなかったはずだし、推測に大きな誤りはないはずと考えている。

 また、横浜から最初に伝わった時点では、少なくとも2人の料理人がかかわっていたことに間違いないと考えている。この2人、ボクが想像するに、同じ時期に横浜から長野に移った際、二手に分かれることになった。その理由は・・・現時点では分からない。

 その場所は松本市内と長野市権堂。ただし、権堂のほうの店はやがて上田に移るため、此処では便宜上「長野・松本系」と「長野・上田系」と表現し、二つに分けて記述する。

 先ほど、長野に伝わった経緯について案外簡単に分かった、ただそれは偶然が重なったおかげと書いた。まず長野に伝わったルートのうち松本系のほうなのだが、それはこういうことである。


 (上田「福昇亭」。2022年9月)

 偶然が重なった背景について簡単に書く。ボクのブログの他のタイトル項で何度か書いているが、ボクは2019年の正月、60歳を目前にして大腸がんが見つかった。発覚時、すでに相当進行しており、即入院即手術。その時点で遠隔転移はなかったものの、その可能性が今後は高くなるとされるステージⅢbということであった。案の定、その後、両肺転移を起こし両肺部分切除、さらに多発性肝転移、腹膜播種、おまけに原発性であろう胆管がんも見つかるという始末。胆管閉塞を繰り返したためステント挿入するも頻回に閉塞性胆管炎を起こして熱発を繰り返し、もはや外食・外出すらままならないという現状である。主治医からは、がんの進行は思ったほどでもないが、胆管の炎症の予測は難しい、開腹してオペができるという状況にはとうになく、黄疸が出て処置がうまく出来ないとか、胆管炎の症状が急速に悪化するなどすれば余命数か月、という宣告も受けている。初めてのがん診断・手術から4年近くになるが、入院7回オペ5回、病院で最期は嫌だと痛切に感じているため、今は訪問診療・訪問看護をお願いしている状況なので、正直なところもういいいや、という気持ちもないでない。

 で、ボクはこの4年間ずっと“終活”を続けており、その一環として蔵書を片っ端から処分してきた。おそらく千冊ははるかに超える蔵書のうち、小説などは古書店に売り払い、貴重・希少な新書や雑誌のバックナンバーなどはネットオークションにかけて売却などしたわけだが、残ったものの中に、こうしてブログを書く参考としているラーメン関係の書籍や雑誌があるのである。およそ70冊、中には入手困難なものだってあるのだよ。おそらくこの世を去る直前まで手元に残すことになるが、その先は? と考えたときに、同じ趣味を持つ方に貰ってもらうのがよろしいのかな、と考えていた。まあ、これが背景だ。
 
 話を変えて進める。2022年の初秋、ボクが調査(?)のため長野に向かう、ほんの数日前のことであった。ボクは、ボクの地元のファミレスで二人の男性と向かい合って話をしていた。一人は、このブログでのシリーズの一回目、淺草來々軒を書いて以降、随分とお世話になっている研究会の方。それまでメールなどでは連絡を取り合っていたのだが、実際にお会いするのは初めてであった。で、もう一人は研究会の方がお連れになった方で、ボクにお礼を言いたいと仰るのでお連れした、ということだ。

 連れの方のお名前は髙橋さんと仰る。まだお若い方で、勤務していたテレビ局を最近お辞めになり独立、起業されたそうだ。片足どころか両足の膝くらいまでは棺桶に足を突っ込んでいるボクにすれば、ただ若いということだけで羨ましく、そしてその若さで起業されるという才能と勇気に拍手し・・・そんな様々な感情が自分の中に交叉された状態で向き合っていた。

 なんてね。まあね、それは極めてシンプルに言えば、還暦過ぎの爺の愚痴ではなく、ただ単純に若さへの憧憬である、とご理解いただくとして、それはさておき、お礼というのは、淺草來々軒のことをボクがブログで書いたことへの、ということであった。そう、髙橋さんは淺草來々軒初代主(あるじ)、つまり創業者である尾崎寛一氏の玄孫(やしゃご)、孫の孫にあたる方である。

 ボクと研究会さん、髙橋さんの三人が会った場所。それは研究会さんがボクの体調に配慮くださって、ボクの地元にしていただいた。待ち合わせはボクの地元にある、小さな私鉄の駅前の、MKという昔ながらの喫茶店。ではなくて、店は定休日だったから、店の前、であった。
 
 ボクが先に着いていた。間もなく研究会さんがおいでになった。電車に乗っておいでだ。次に髙橋さん。なぜか駅とは反対方向からおいでになった。ボクは尋ねた。「どちらからおいでになりました?」。すると髙橋さんは悪戯っ子のように笑ってこう答えたのだ。

 「此処、ボクの地元なんですよ。今は別のところに住んでいますが、社会人になる前まではこの駅を使っていました。実家は(駅所在地近くの)●丁目。このMKという喫茶店もよく利用していました」。なんと!

 聞けば、ボクよりずっと後輩ではあるが、卒業した小・中学校も同じである。こんな偶然があるんかい、と正直、びっくり! だ。待ち合わせ場所を聞いたとき、彼もまた「嘘!」と思ったそうである。ちなみにボクは存じ上げなかったが(ボクの家と彼の実家は1kmちょっと離れているからか)、彼の実家は随分と長い間「淺草來々軒の人が住んでいる」と呼ばれていたそうな。


 (”終活“対象のボクの書籍の一部)

 会話の途中で、髙橋さんからこんな話が出てきた。

 淺草來々軒創業の地、浅草で“來々軒”をいずれ復活させたい、それもそんなに先ではなく、できれば2023年中。今はその準備を徐々に進めている・・・。ご存じの方も多かろうが、淺草來々軒は現在、新横浜所在のラーメン博物館(ラー博)において”復刻”出店されている。髙橋さんはラー博出店前にいろいろご助言をされたそうだが、実際の運営は、ラーメンの鬼の異名を取った故・佐野 実氏経営の『支那そばや』(注16)が担当されている。詳しいことはラー博・淺草來々軒の公式サイト

 淺草來々軒は、戦前にいったん営業を休止し、戦後に復興した。しかし再開の地は東京駅八重洲口であり、終業の地は西神田であった。だから創業の地・淺草で復活を成し遂げたなら、これほど嬉しい話はない。髙橋さんはご親族が経営されるという前提で、2023年秋以降の開業を目指しておいでだ。朗報を待ちたい、というところだが、ボクがそれまで持つかどうかはさて、相当な幸運を期待するほかないのだが(2022年12月、もはや絶望的である…)、とにかくこんな偶然を逃す手はない。

 何のこと? かと言えば終活途中の、ラーメン関係の書籍の、行く先だ。

 髙橋さんは、2023年の後半には、創業の地・浅草にて復活した來々軒というラーメン店の経営者になっているかもしれない方だ。ま、彼の実家はボクの自宅から歩いて行ける距離だから書籍も手渡しできる。この髙橋さん以外に、ボクの手持ちの資料を渡すに相応しい方はいない。できれば、ということで髙橋さんには伝えてあるが、“辨麺”の提供もお願いしたい、そんなことを頼めるのは髙橋さん以外にはなく、そして新たに辨麺を提供し得る店舗は明治期創業の淺草來々軒以外に存在しない、それならばボクの死後、資料・史料・書籍等は彼に託すのが最善・・・それで段取りを進めているのである。

 そして長野に向かい、東京に戻った2日か3日たった後、終活の続きを始めたボク、である。一応書籍等の中に挟んだものや紛れたものがないか確認をしていた時のこと、一冊の雑誌をパラパラとめくっていたら、こんなタイトルが目に入った。

【松本】うわさの〈驪山〉をたずねて 

 驪山。数日前、まさに長野・松本で訪れた店であった。ボクは驪山の店の基となった松本・竹之家と、横浜とのつながりを探していたのだったが、なかなか見つからないでいた。驪山を訪れた際に聞いておけばと後悔していたのだったのだが、雑誌にはボクが驪山で聞いて、こんな答えがあったらいいな、ということまで載っていた。


(「驪山」。2022年9月)

 松本・竹之家。その店と横浜とのつながりを示す箇所のみ抜粋する。

 『池波好みの「自家の窯で焼いた叉焼き」も、健在だ。「祖父が横浜中華街の〈聘珍楼〉や〈鴻昌〉(鴻昌はすでにないが)のコックさんたちから教わったようです」と佳代子さん』。

 「BRUTUS」、2016年10月15日号(注17)である。本号の特集は『町の中華 それは毎日のレストラン』、であった。


(左:「BRUTUS」、2016年10月15日号、右:「むかしの味」池波正太郎・著、新潮文庫)
 
 この記述は少し解説が必要だ。すなわち、
  • 『池波』、とあるのは作家の池波正太郎氏。
  • 『祖父』は「佳代子さん」の祖父で、竹之家の創業者、石田 華(か) 氏
  • 『佳代子さん』は松本・驪山の主の奥方、石田佳代子 氏。

 なぜ、池波正太郎がこの店と関りがあるのか。ご存じの方も多かろうが、池波正太郎は『鬼平犯科帳』などの著作がある歴史・時代小説家である。氏は著作『真田太平記』を書き上げるために足繁く上田市に通ったという。上田市には「池波正太郎真田太平記館」があり、その著作の資料が展示してある(注18)
 池波正太郎はまた大変な美食家であり、食に関するエッセイの著作も多いことで知られる。その中の一冊、『むかしの味』(注19)の中で、松本市大手にあった“竹乃家”に触れている。こんな感じである。

 ・・・「戦前、山歩きをしていた私は或る友人から松本の『竹乃家』を紹介され自家の竈で焼いたチャーシューを口にし忘れられぬ味となった」。「戦後松本を再び訪れた際に立ち寄ると健在だった」。そして「あらためてこの店の料理の旨さに驚いた。以降、松本へ立ち寄れば必ず竹乃家の料理を口にせずにはいられない」と書き、自家製の細打ち焼きそばが捨てがたい味、とした。

 そしてこの「竹乃家」から分かれたのが驪山。竹乃家の創業者のお孫さんに当たる方(石田佳代子さん=女将さん)と、そのご夫君(石田 治さん)によって開業された。

 その女将さんからボクは耳を疑うような話を聞いた。そう。本稿の、まさに冒頭の文章そのものである。「何でバンメンって言うのでしょう?」というボクの問いの答えは。

 「うちのはね、拌麺、なのね。そうよ、混ぜるとかいう意味の、バンメン」。

 食べたのは間違いなく“辨麺”なのに。まあそれは佳境の部分でもあるから、もう少し後に詳しく書こう。ごめん、引っ張りすぎだよね。

 さて、話を戻す。雑誌「BRUTUS」を書棚の奥から引っ張り出してその記事を見つけ出し、竹之家主人が横浜にいたことが分かった。それはまさに重なった偶然が教えてくれたことである。

 ボクが淺草來々軒のことを書かなければ研究会さんと知り合えなかったし、髙橋さんとの出会いがなければ、そして彼がボクの地元出身でなければ、さらにはボクがもう少しで鬼籍に入るようなことがなければ・・・この時期に、この雑誌を手に取ることはなかった。

 さておき、松本竹之家主・石田氏が横浜にいて、中華街所在の店でチャーシューの焼き方を教わった。まさか客として行ったついでに教わったわけではあるまい。おそらくは店で働いていて、その時に見て覚えた、そんなところであろう。ただし、「BRUTUS」の佳代子さんインタヴュー記事には一点、解せないところがある。横浜の店で教わったそうだが、聘珍楼は、分かる。創業は明治年間であるから。しかしもう一方の鴻昌、はというと。

 鴻昌、という店は、かつて横浜中華街の大通り中心にあった店。さほど大きな箱ではないけれど、ある意味、有名な店であった。エディ藩(ばん)、というギタリストをご存じの方は、還暦を3年前に過ぎたボクより年ちょっとだけ上の方なんだろう・・・なんて思う。こんな歌詞に記憶はないだろうか?

♪ひとり飲む酒 悲しくて 映るグラスはブルースの色
たとえばLong gone lonesome bluesなんて聞きたい夜は
横浜ホンキートンク・ブルース
ヘミングウェイなんかにかぶれちゃってさ 
Frozen Daiquiriなんかに酔いしれてた あんた知らないそんな女
横浜ホンキートンク・ブルース・・・
(「YOKOHAMA HONKY TONK BLUES」。作詞:藤竜也、作曲:エディ藩)

 ボクはこの歌、松田優作のカヴァーで聞いた覚えがある。ほかにも宇崎竜童や山崎ハコ、ゴダイゴ、原田芳雄等々がカヴァーしている。俳優の藤竜也氏の歌詞というのも凄いが、作曲がエディ藩氏、である。鴻昌は、『長い髪の少女』のヒットがある、1960年代後半に活躍したGS(グループサウンズ、だよ)「ザ・ゴールデンカップス」のメンバー、エディ藩 氏がオーナーであった。ただし、「あった」というのは、店のほうがもうないから、である。

 2006年2月26日付の、神奈川新聞はこう伝えている。

「~横浜中華街 名店「鴻昌」60年の歴史に幕
GSブーム火付け役 店主・エディ藩さん
自分らしく 音楽活動~
『横浜中華街の名店「鴻昌」が二十五日、六十年の歴史に幕を閉じた。店主は(中略)エディ藩さん。五十九歳となったエディさんは閉店後の第二の人生に、再びプロのミュージシャンとしてステージに立つことを選んだ。
鴻昌は終戦直後の(一九)四十六年に中華街大通りで創業した広東料理店。華僑である両親が築いてきた老舗の看板を守るため、エディさんは九九年に家業を継いでいた』(後略)」

 記事にあるとおりで、エディ氏は鴻昌の二代目。もともとはエディ氏の伯母さんとお父上が神戸で著名な同名の広東料理店を経営していたそうだが、終戦を機に、1946年に横浜に移転したとのことだ。エディ氏は店が移転したその翌年、1947年の生まれである。

 あまり関係のない話を書いた理由はただ一つ、鴻昌の横浜移転というか、開店の時期。1946(昭和21)年、である。雑誌のインタヴュー記事にあるとおり、『祖父が横浜中華街の〈聘珍楼〉や〈鴻昌〉で教わった』のなら、祖父=石田華 氏は、大正年間に創業した竹之家が開業してから20数年経って鴻昌を訪れたか、勤務した、ということになる。まあ、可能性としては神戸の店で教わった、教わった店の勘違いといった可能性もあるけれど、本稿では石田氏が叉焼の作り方を学び直した、というように解釈しておこう。なぜなら、池波は、戦後店を訪れたら叉焼の味は健在だった、と書いているからだ。つまり、石田氏は戦前に叉焼の味を”習得”したに他ならない。では、話を先に進める。

 ともあれ、竹之家と驪山、そして横浜はつながった。

 さて、次は初代福昇亭と、横浜、である。まあ多少は苦労したが、見つけることができた。そのことを書く前に、2022年初秋、上田所在の福昇亭にボクが伺って食べた時のことを書いておこう。同年9月26日に、RDBに投稿したボクのレヴューを基にしているが、店自体のことは「いたさん」から教わったのだ。



■百年中華福昇亭 実食レヴュー
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 ・・・この店、創業してもうすぐ百年(創業は1924=大正13=年、長野市権堂にて)という歴史を・・・まったく感じさせない内装だ。感じを言うなら、今風の和食のレストランで、確かに「ラーメン界のシーラカンス・辨麺(この店では「ばんめん」)が出てきそうもない。それに、この店がある一角、そうさね、昭和モダンというか、昭和30年代の新宿あたりの街並みってこんな感じ? で、とても雰囲気が宜しい。月並みな表現だが、この一角だけ時間は止まったまま、なのである。この店の前のカレー店や斜向かいの喫茶店は、ボクの生まれた頃の昭和30年代の街並みにポン、と置いてもすぐさま馴染んでしまうだろう。

 さて、この日の朝のことだ。乗車した列車の車内が結構、煩い。千葉発松本行の特急「あずさ」は、なんと満席である。船橋から乗車したボク、驚いた。今日は日曜であるから、それほど混雑はしないだろうという予測は大幅にハズレた。大勢の団体客はいないが、数人のグループ客が結構多い。だから、喋る。寝られないわ。もっとも、大半の客は甲府までに下車してしまったけれど。

 今日の目的地は上田、である。なら新幹線で行けばいい、のだが、味気ない新幹線に乗るより、やはり「あずさ」だよ。

 ♪明日私は旅に出ます~ 

 狩人の「あずさ2号」が流行ったのは今から45年前の1977年。ま、ボクが乗車したのは「あずさ3号」だけどね。

 昨日、台風が弱い勢力で静岡沖を通過した。翌日の関東は台風一過、とまではいかないまでもまずまずの青空が広がっていた。松本に着き、高速バスではないのだけれど、長距離路線バスで上田に向かう。フツーの路線バスの車体だ。1500円、60km、1.5時間の道程のバスだからそれなりのシートを使って欲しいわな。お尻が痛くて仕方ない。

 上田駅に着き、さらに10分ほど歩いて店へ。あらま、なんと外待ち4人かつ中待ち多数。エッ? 凄い人気店なんだな。20分ほど待って入店、さらに15分ほどで「お待ちどうさまでした」。で、頂いた一杯はというと。

 きっとスープは「薄い」のだろうと思っていた。当たりである。
 多分「粉っぽい」麺なのだろうと思っていた。これも当たり。
 ともに、他の方の投稿を読んで来た通り。

 スープの出汁、ちょっと変わった素材があるのだろうか。それが何だかは分からないが、ちょっとクセがあるが、全体的に薄味だからアクセントにはなっている。麺は細く、ちょっとボソボソ。ただ、この店のウリは「餡かけ焼きそば」。見ていると、ボク以外のすべての人がソレか、それがセットになったもの。だから、という訳でもないのだろうが、具、というか餡掛け肉野菜はしっかりしている。ちょっと対照的。

 そうそう、この店のばんめん、は。
 吊るしの焼き豚。
 錦糸玉子。
 これも、アイコン。

 混雑していて話を聞ける状況ではないのだが、此処で聞かなきゃ後悔する。

 まず、日昌亭。事前に聞いていたが、やはり親戚筋の経営だそうだ。次に「ばんめん」。女性スタッフでは分からず、ご主人(三代目、だそうだ)をわざわざ呼んでくれた。
 「ばんめん、ですけど、辨は分ける、とか言う意味があるそうですね。提供店が横浜に多い、というのは知っていますよ。そこから長野に伝わったどうかは ? ですけどね」。

 もっと時間があればなあ・・・
- - - - - 
 
  と、こんな感じである。店自体は和風中華レストランの趣ではあるが、店がある一角は書いた通り、なかなか趣がある。こういう立地であること、長野市権堂での創業から数えれば百年近くの歴史があること、そんなことを頭の隅に置いていただいたバンメンは、やっぱり横浜や東京で食べたものとは違う。味そのものが違うのは当然として、水、食材などもワンランクアップ、という感じなのだ。まあ、東京でいただく“ご当地ラーメン”が、その現地、すなわちまさに“ご当地ラーメン”をご当地でいただくのとではまるで違うことはままある話で、こういうのはまさに食べる“背景”が違うから、往々にして『美味しく』感じるものなのだが。

 何にしても、今では“信州のソウルフード”とさえ呼ばれる長野の焼きそば、その源流を辿っていくと、こんなふうになっている。

 『信州焼きそばの文化の源流となるのは、かつて長野市権堂にあった「福昇亭」。横浜で働いていたこの店の創業者・小松福平が長野市を訪れた際に、「信州で店を出したい」と移住し、大正13年に創業したのが始まり』。

 これは2012年11月6日、abn長野朝日放送が「おぉ!信州人!Vol.2」として放映した内容の一部をテキスト化したものだ。初代福昇亭と横浜のつながりを示すものである。

 ネット検索していると、この焼きそばで著名な店として結構出てくるのが、「味の道くさ いむらや」(注20)。そのヴォリュームは凄まじい(らしい)。そして、相当に、甘い(らしい)。これ、なんか引っかかる。後述するが、横浜・山手というか本牧「奇珍楼」のことを思い出す。あの店も、どれを食べても結構、甘い。その理由はいろいろあると言うが、本当のところ、分かっていない。

 ところで、今はないけれど「いむらや」は長野市権堂にも店があったそうだ。そう言えば「驪山」のある場所も「コマツプラザ」だったっけ。偶然に違いない、のだろうけど。

 え? 
何のことかって?
 
 初代福昇亭の創業の地は、長野市権堂だった。
 初代福昇亭創業者は小松(コマツ)福平氏、だった。

 さて、次なる疑問にまいろうか。

 竹之家の石田氏と福昇亭の小松氏、両氏の接点はなかったのか、あったのか? あったとしたらそれはいつのことなのか? 話は佳境に入る。




(横浜の山手本牧エリアにあった三渓楼の
辨麺。2022年10月末、ここも廃業)




(横浜の山手本牧エリアにある華香亭本店店内と辨麺。2016年11月)


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注16 支那そばや⇒横浜市戸塚区戸塚町4081-1所在。最寄り駅はJR東海道本線、横浜市営地下鉄「戸塚駅」。”ラーメンの鬼”と呼ばれた佐野 実 氏(1951年~ 2014年)が1986(昭和61)年に創業した)
注17 「BRUTUS」2016年10月15日号⇒株式会社マガジンハウス発行、第37巻19号、通算833号)。
注18 上田市所在 池波正太郎真田太平記館⇒上田市立。上田市中央3-7-3。北陸新幹線上田駅、しなの鉄道上田駅より徒歩約10分。『真田昌幸が築城した上田城、その城下町上田』にある池波正太郎真田太平記館は、『多くのファンを魅了しつづける作家、池波正太郎氏と戦国歴史浪漫”真田太平記”の魅力について紹介(記念館公式HP)』している)
注19 『むかしの味』⇒初版は新潮社より1984年1月刊。現在は新潮文庫より1988年11月刊)。
注20 味の道くさ いむらや⇒かつては長野市権堂などにも店はあったようであるが、現在は「石堂店」と呼ばれる店のみ。長野市大字南長野南石堂町所在。創業は1955=昭和30年、とされる)。



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1 コメント

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Unknown (arachan777z)
2023-02-05 19:26:42
高橋さんとの出会いは偶然では無いですよね。
何か不思議な力が働いていると思います。
ぢっちゃんさんが果たしたラーメン界への貢献もきっと運命だったんだなと思います。
高橋さんの出店。絶対行って来ます^ ^
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