goo blog サービス終了のお知らせ 

シンガポール&美浜 発信 文左衛門の部屋

写真集★シンガポール&美浜の海・景色・街・食
私小説★男女・愛・起業・歴史・外国・人生
コラム★心の梅雨を飛ばす気

人生海図 第3章 (5) (No.30)

2015年02月12日 07時54分14秒 | 小説
第3章 (5)


1時間早い日本の六本木では、仕込が一段落した頃を見計らって、由布子が小野厳一の店『小野』を訪ねていた。

今夜の客が渡一樹と聞けば、厳一もその意味を理解できた。

由布子が心に突き動かされるようにフランスに逃げ、その後一樹に婚約破棄を送ったことを厳一は知っていた。

由布子にそうさせた当の本人だった。

しかし、それは厳一が命じたり、頼んだのではなく由布子が衝動的にしてしまったことだった。

逆に、厳一はもうすこし心が落ち着いてから判断するように説得したぐらいだった。

その頃の由布子は箱庭から飛び出せた自由さを満喫するには、過去を何でもかんでも否定してこそ、自分を見出せるとしか考えられなかった。

厳一は自分が職を捨て、家族をある意味捨て、そしてシャンパーニュで働きながら自分の心に眠る魔物のようなエネルギーの存在に気付いた。

だから、見かけは京人形のような由布子にもそれに似たエネルギーがふつふつと湧いてきており、フランスに来させられたのもそのエネルギーのなせる技と理解できた。

厳一自身、当時、恐らく今も、ひとたびこのエネルギーが動き出せば自分ではどうすることもできないくらいに荒れ狂うと言うか、すべてを吹き飛ばしてしまうことを止められなかった。

厳一が浦瀬なしで渡と由布子が自分の店で会うことに同意したのは、渡の研究の成果を使えば自分の荒れ狂うエネルギーをもっとうまくときに応じて使えるようになるのではと考えたからだった。

それは同時に、由布子、とりわけ、宝田淳之介にとっても必要だと直感していた。

「厳一はん、お世話さんどす。昨日はえらいすんまへん。おーきにどすえ。ところで、今晩のことで、うち、どないしたらええかわからへんのどす。
一樹はんがいったいどんなおとこはんになってはるかも分からんし、厳一はんがあの時のおひとやということも、うすうすご存知やろうし。お姉ちゃんは、
厳一はんとあんじょう話したらええんやとしか言わへんし。うち、困ってしもうて、開店前の忙しいとき、おじゃましましてん。」

厳一は仕込みに熱中して渋みのある淡い紫の着物姿の由布子がそこにいることにも気付かなかった。

由布子もそんな厳一を知っていたので、何も言わずに座って言葉が出るのを待っていた。

お互いの間合いを取る呼吸だけはさすがに合っていた。

かつて愛し合ったことがあるのだから当然かもしれなかった。

どのくらい時間がたったかわからなかった。

5分かもしれなかった。あるいは30分かもしれなかった。

ようやく顔を上げた厳一はそこに由布子の笑顔があるのに少し驚いた風だった。

「どうしたの?予約はもっと遅いと思ったけれど?」

「はい、うち、さっき、お電話しましてん。今夜のお客はん、一樹はんやし、どないしてええか、」

「由布子。今夜のお前の役割は何だ?」

「へえ、浦瀬はんの代わりにお話をお聞きして、大切なとこは録音して、書き物いただいて、お気持ちよう過ごしていただくことでっせ。
ほんで、それを宝田はんにもお渡ししてええか、お聞きすることどす。」

「それでいいじゃないか。それ以外に何かあるのか?」

「へえ、つまり、その。」

「由布子が拘っているだけじゃないのか?」

「はあ、うち、」

「婚約破棄もその時の横にいた男が俺であることも歴史的事実だ。それをどう繕っても仕方がない。それよりも、その事実を踏まえて、
これから一樹さんに浦瀬さん、とりわけ宝田さんが再生できるための協力者になってもらうにはどうするのがいいか、それを考えてみればいいんじゃないか。
何も難しいことなんかない。」

「そやけど、」

「由布子、難しくしようとしているのはお前の我儘だ。あるいは、お前が一樹さんを下に見ているからだ。かわいそうだとか何とか理由をつけて、
一番整理できてないのはお前だ。しっかりしなはれ、ゆうこはん。」

「・・・」

「六本木でフランス風バー アンド ダイニング『oui』をやっている加茂由布子です。本日は、浦瀬さんの代理を務めさせていただきます。
よろしくお願いします。これだけでいいんだ。あとは、一樹さんが決めることだ。お前ならきっとこの区別ができる。今のお前なら。な、分かったら、
俺は仕込みするから、そこに気のすむまでいるのも、自分の店に戻るのも勝手だ。ただ、話はこれで終わりだ。料理と飲み物は任せろ。
浦瀬さんから直近の好みは聞いているから。もう、いいかな。」
 
厳一は言い終わると、今まで以上に真剣に仕込みにはいった。

由布子は置物扱いだった。

しばらく厳一の仕込みを眺めていた由布子は、何も言わずに頭を下げて『小野』を出て行った。

「がんばれ、由布子。今日はお前の人生の決着をつけるときだ。お前ならできる。俺が応援するから。逃げるな、正面から向かっていけ。」

厳一の呟きが由布子に聞こえたかどうかは分からない。 

なす術もなく『oui』に戻った由布子は、呆然としていた。

事情を知って早出している総支配人やチーフが話しかけても、いつもと違って、由布子は返事をしなかった、いや、できなかった。

厳一のあまりに明快な言葉は、実は由布子は分かっていた。

しかしそう立ち回ることで、一樹が惨めになるのではないかと勝手に思い込んでいたのを厳一に見透かされたのがショックだった。

そうだ、事態を難しくするのはいつも自分。

2015年2月12日
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

人生海図 第3章 (4) (No.29)

2015年02月07日 10時40分45秒 | 小説
第3章 (4) (No.29)

真っ直ぐ帰るには気持ちが重いので、とりあえず顔見知りのフィリピン人や中国人ウエイトレスたちがいるラウンジに行った。

久しぶりだったのでどの娘もウエルカムバックと言ってくれた。

日本人より、地元人やアジア人の方が心にしっくりくるのはなぜだろう。

多分、異国で働いていることを理解できる素地が日本人より広いのか?人生の知恵なのか分からない。

「ミスター タカラダ、何飲みますか?とりあえずアイスウォーターお持ちします。」

携帯電話を取り出して、由布子にグラハム博士の会食が成功裏に終わったこと。

酔鯨を3本も飲んだこと、今日の分を貸しとしたので、由布子が来た時、飛び切りのオーストラリアワインをご馳走してくれる旨をメールした。

「ジュンはん、よかったどす。これで一段落どすな。あとはお家で飲んでるなりなんなりして待っとっておくれやす。うち、これから厳一はんに会うてこうと思いますねん。
今晩のセンセ、ちょっと手ごわそうと浦瀬はんからお聞きしているので、作戦会議してくるんどす。ほな、また。のんびりしとってね。メールも見るだけで、返事はせんといて。
よろしゅう、お頼み、でっせ。」

メールを読んだ由布子からのいきなりの一方的な電話だったけれど、何かが終わった感じがした。

何に向かって突っ張ってきたのか分からない。

しのぶとの生活に不満があったわけではないが、海外で収入も不安定な中での個人事業主は、相当な孤独感と絶え間ないプレッシャーにさらされた。

そんな中に、しのぶを無期限で置くことは不憫だった。

周りは保証された駐在員の奥様たちばかりで、およそ、我が家とは買い物する場所すら違っていた。

週1回の買い物も必要最低限だった。

それでも、仕事を優先した。

優先してきた結果がこれだ。

成田に向かう時に由布子が、「うちとお仕事とどっちが好き?」と聞いたとき、躊躇なく由布子と言えた私をしのぶが見たらなんというだろう。

あの時、彼女も同じ質問をした。

その時、仕事を取って、彼女は去った。

結局振り出しに戻ったのか、由布子を手に入れるための紆余曲折だったのか、分からなかった。

今考えると、昔は由布子のように身をもって色々と立ち回ってくれる女性はそんなに珍しくなかった。

しかし、現代では、ほとんど見られなくなり、由布子は稀有な存在と見られていることが不満だった。

2015年2月7日
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

人生海図 第3章 (3) (No.28)

2015年01月31日 13時03分04秒 | 小説
第3章(3) 

「ドクター グラハム、今日は無理なお願いを聞いてもらってありがたいです。さっそくレストランに向かいましょう。」

「おー、タカラダサン、それを言うのはこちらのほうです。ゴメンナサイ。私、ジャパニーズ・クラブ 初めてです。
今日の用件でなかったら、もっと楽しかったです。でも今日のようなときこそ、こんなワクワクする場所がいいですね。
こんないいところを選んでくれてありがとう。」

私が先導する形で、少し館内を案内しながら4階のレストランの個室にたどり着いた。

本来は、板前がいるカウンターですしを握るのをみながら、あれこれと解説しての楽しみ方もあったが、今日は趣旨が違うので諦めた。

メニューから、刺身の好きなグラハムのために、刺身とすしを頼んだ。

「ドクター グラハム、少し飲めますか?ランチではありますが、刺身とすしは、酒のある方が更に味を楽しめます。」

「おー、そうですね。私が本来はディナーにお誘いしなければいけなかったのですが、幸い今日は、午後は自宅で仕事するようにしてありますので、
折角の本場の日本の味を楽しみましょうか?オーケーです。」

「では、高知県の酔鯨(すいげい)はいかがでしょうか?」

「ジュンと呼んでいいですか?」

「勿論です。」

「ジュンのセレクションに任せます。土佐は、本で読んだのですが、徳川ショーグンを倒した人の出身地ですね?確か、ドラゴンのような名前?」

「ドラゴンホース。龍馬。坂本龍馬。その藩主は、山内容堂、又の名を鯨酔公(げいすいこう)。いつも鯨のようにお酒を飲んでいたのでそう呼ばれています。
その名前をひっくり返したのが、このお酒。さらに、明治コンスチチューションの原案となった龍馬の船中八策、船の中で考えた八つの策だったそうです。
土佐鶴をベースにしたお酒に、この船中八策の名前が使われています。アイディアに困った時など、この船中八策を飲むと縦横無尽に策がでてきそうですね。
私も幾度か助けられたことがあります。」

「ニホンゴは面白いですね。こんな面白い国で思い切りあの製品をジュンと広めたかった。私は、自分の力が及ばないことがとても残念です。
今まで長い間働いてきて、これほど悔しいことはありません。もう勝利は目前なのに、わずかのお金のことで、それができないとは。よくそんな決定をできる、」

「ドクター グラハム、いやジム、もう十分だよ。君がこうしてここに来てくれて、一緒に日本酒を交わしながら刺身を味わえる。それだけで十分すぎる。
組織人には、組織の不合理な結論でも従わなくてはいけない代わりに、生活はある程度守られている。我慢するのはその保証に対するある意味の税金かもしれない。
どうか、そんな思いは、この酔鯨で洗い流して欲しい。そして又どこかで一緒に仕事できるときがあれば、その時こそ、今回の分まで取り戻せるくらい思い切りやろうじゃないか。」

「オー、ジュンに先に言われてしまいました。私が言うつもりのせりふだったのです。ジュンは自由だけれど、何の保障もない。だから、今回のダメージをどう解決していけるのか、とても心配しています。推薦状ならいくらでも書きます。あるいは、レファレンス(照会)の一番に書いてください。私、MD、医学博士と、Phd歴史博士と持っています。シンガポールではドクターとても信頼されています。どちらでも使えますから、遠慮なく連絡してください。でも、ダメージコントロールどうするのですか?」

「推薦状とレファレンスありがとう。ジム、感謝です。ダメージコントロールは、土曜日に日本から京人形のような天使が来てやってくれます。ご心配なく。でも、心配してくれてありがとう。今回のランチとお酒を飲む設定は、そのエンジェルのアイディアです。」

「ビューティフル!ラブリー エンジェル。ジュンにはそんな人生の切り札があったのですね。私もその京人形にお会いしたいですね、もし許されるなら。」

「今回は分かりませんが、必ず機会を見つけて、3人で日本食をオーストラリアワインで楽しみましょう。」

寒ブリに始まるこの季節特有の品揃えに、グラハム博士は驚嘆しながら杯を重ねた。

これは終わりではなく、新しい出発にしたいという博士の気持ちを私はありがたく受け取った。

勘定を払う段になり、会員しか払えないことを説明すると、必ず由布子が来た時に飛び切りのワインをご馳走するから、借りにしておいて欲しいということになり、タクシーで帰って行った。

2015年1月31日
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

人生海図 第3章 (2) (No.27) 

2015年01月22日 10時45分46秒 | 小説
第3章(2)

私は、この時浦瀬の騒動がとりあえず解決してみんなで乾杯していることなど知るよしもない。

その浦瀬が研究者に会わずに翌日シンガポールに戻って来ることなど思いもよらなかった。

今は、由布子に言われたように今日のランチをつつがなくやり遂げ、買掛金、未払い、CPF(シンガポールの社会保険)、などの6ヶ月分と、
個人のクレジットカード、航空機代金など、会社へ請求する予定だった分の総額を調べておくこと以外は、何もしないで、ひたすら由布子が来るまで
待つことに決めた。

恐らく今日日本人会へ行った時に図書館で、読みたかったけれど、読めなかった小説でもがっさり借りて、読書三昧することにして、無理やり寝た。

朝10時ごろになって、日本の携帯が鳴っていた。表示は由布子だった。

「おはようさんどす。淳はん、よう眠れはった?うち、昨日大変なこと起こしてしもうて、そやけど、みなはんのおかげで、あんじょうなったんどすえ。
詳しゅうはメールを午後にしますよって、ランチ、博士社長はん、責めたらあきまへんえ。それより、言わはること聞かはったら、乾杯でもしてあっさりお帰りどすえ。
おんなが口出ししてすんまへんけど、今、淳はん考えたらあかんのどす。まして、そんなんで行動してしもたらもっとあかんのどす。差し出がましいの分かってますけど、
これ、えろう大事やさかい。癇に障ったら、堪忍どっせ。うち、こんばん、浦瀬はんのセンセに会うてきまっさかい。詳しゅうは、浦瀬はんからそっちで聞いとくなはれ。
待ってて。行きまっさかい。ほな、これで、ごめんどす。」

一方的に用件だけを伝えた由布子の声は心なしかかすれていたが、私を気遣う一途な気持ちは伝わった。

シャワーを浴びて、早めにバスで日本人会へ行くことにした。

浦瀬に関わることが何か起きているのが気がかりだが、明日にでもシンガポールで会える可能性もあるので、今は忘れておくことにした。

シンガポールの日本人会は、日本の有名デパートのあるオーチャード通りの北東部に位置して、高速道路PIEのアダム・ロード出口のそばにあった。

隣がオランダ・クラブになっていて、一部の施設は、日本人会会員であれば使える。

日本人会館は、家族向けレストラン、コミックルーム、イベントルーム、シアター、エクササイズスタジオ、ラウンジ、カラオケ、売店、図書館、診療所、
そして今日私が向かっている日本食レストランの各施設があった。

それら施設を利用した各種クラブ活動や同好会も盛んだった。

受付で、グラハム博士の名前をゲスト登録して、セキュリティーをパスできる手配をしてから、まだ時間があったので、2階の図書館へ行ってみた。

この時間はまだ空いていたし、平日の昼間にうろつく男性の姿はまばらだった。

初めてだったので、とりあえずどんな作家の著作があるのかだけを見回った。時代物から、現代物まで、豊富だったし、新刊の配本ペースも悪くないように思えた。

成田で見たばっかりの本もすでに並べてあった。

時間になったので、1階でグラハム博士を待つことにした。

車の渋滞で少し送れる旨のSMSが予定時刻前に入った。

律儀だった。

この律儀さが、過去に日本の大手商社ともうまくやれた秘訣の一つだっただろう。

オーストラリア生まれの英国人だと聞いていた。

いつもメールの文面は真摯で、丁寧だった。

こちらの乱暴さばかりが目立ったが、それでも、何も言わず、うまくまとめたオファーレターをくれた。

そんな彼との刺激のあった付き合いも今日で終わるのがなんとも寂しかった。

そんな回顧をしていると、グラハム博士が汗を拭き拭き小走りで送りの車を降りてくるのが見えたので、玄関へ向かった。

2015年1月22日
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

人生海図 第3章 (1) (No.26)

2015年01月14日 10時16分57秒 | 小説
第3章(1)

約6時間半の飛行を終え、赤道の北160kmに位置するシンガポールのホーランド・ビレッジ近くのコンドミニアムに私が戻ったのは、
シンガポール現地時間水曜日の午前2時半ごろだった。

日本時間同日午前3時半ごろで、浦瀬たちが乾杯を終わり、そろそろ帰り支度をしている頃だった。

私は、改めて部屋の中を見渡し、今までの10数年のシンガポール生活を振り返った。ワインセラーから、シャンパーニュ レコルタン・マニュピランを取り出して、以前由布子にもらった、バカラのシャンパーニュ・グラスに注いだ。

シャンパーニュの泡の一つ一つが、思い出に結びついていった。

初めて、独立して、シンガポールへ女房のしのぶと恐る恐る来て、トタン屋根の年金アパートで見様見真似で、仕事を始めた。

当時、知り合いの伝で、昔の経験を話すだけで、いくらかの金をもらった時の感動。それから持参資金の残が少なくなった頃、実家の遺産相続でいくばくかの資金ができた。

遠距離教育で、英国の経営大学院を卒業し、1年毎更新のビザが3年出たのを機に、永住権を申請して、即許可になった。

少しづついいほうへ向かいかけたので、大学院卒論に書いた自説を体系化して、出版し、それが縁でラジオ番組をレギュラーで持つことになった。

シンガポールの日本語放送だけでなく、日本の経済専門局でも数年番組を持った。
 
東京の夜も華やかだったし、色々な人物が近づいてきたけれど、どれも興味本位で仕事に結びつかなかった。

そんな仕事と遊びが混在した楽しく充実していると思っていた時期が過ぎると、試練の波が数年続けておき、不確定収入の割に支出が先立つ生活に見切りをつけたしのぶと
離婚した。

シンガポールの法律では、離婚は裁判所が判定するので、当人同士が離婚に同意しても、別居してから3年たたないと、認められない。

財産分与などの関係もあるが、もう一度頭を冷やして考え直せという習慣らしかった。

我々は日本国籍だったので、日本の法律が適用された。

それも、2年前に成立した。

その頃、英国の19世紀アジア関係政治セミナーに興味本位で行ったのがきっかけで、麻子に出会い、東京で由布子の店を紹介された。

それから何度かお互いが仕事にかこつけて東京とシンガポールで会うことになり、いつしか惹かれあうようになっていた。

その由布子とのつながりが強まるに反比例して、仕事は低迷をし始め、昨年は、とうとう資金ゼロまで行った。

すでに上場を遂げた起業家が昔の縁を頼って、シンガポールで仕事を依頼してくれたおかげで、危機は脱することができた。

それが呼び水となって、数社、仕事の依頼が来たが、今回の恐らくディールキャンセルで、息の根が止められることになる予測はできた。

すべてを使い果たすことになってしまう中で、今までの人生はなんだったのかを考えざるを得なかった。

由布子にシンガポール到着のメールを送ったが、まだ返事がなかった。

暮れの稼ぎ時なので仕方がなかったが、こんなうつろな時には、傍にいて欲しかった。

あの京都弁を聞いているだけでどれほど心が休まるか分からなかった

2015年1月14日
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする