第3章 (5)
1時間早い日本の六本木では、仕込が一段落した頃を見計らって、由布子が小野厳一の店『小野』を訪ねていた。
今夜の客が渡一樹と聞けば、厳一もその意味を理解できた。
由布子が心に突き動かされるようにフランスに逃げ、その後一樹に婚約破棄を送ったことを厳一は知っていた。
由布子にそうさせた当の本人だった。
しかし、それは厳一が命じたり、頼んだのではなく由布子が衝動的にしてしまったことだった。
逆に、厳一はもうすこし心が落ち着いてから判断するように説得したぐらいだった。
その頃の由布子は箱庭から飛び出せた自由さを満喫するには、過去を何でもかんでも否定してこそ、自分を見出せるとしか考えられなかった。
厳一は自分が職を捨て、家族をある意味捨て、そしてシャンパーニュで働きながら自分の心に眠る魔物のようなエネルギーの存在に気付いた。
だから、見かけは京人形のような由布子にもそれに似たエネルギーがふつふつと湧いてきており、フランスに来させられたのもそのエネルギーのなせる技と理解できた。
厳一自身、当時、恐らく今も、ひとたびこのエネルギーが動き出せば自分ではどうすることもできないくらいに荒れ狂うと言うか、すべてを吹き飛ばしてしまうことを止められなかった。
厳一が浦瀬なしで渡と由布子が自分の店で会うことに同意したのは、渡の研究の成果を使えば自分の荒れ狂うエネルギーをもっとうまくときに応じて使えるようになるのではと考えたからだった。
それは同時に、由布子、とりわけ、宝田淳之介にとっても必要だと直感していた。
「厳一はん、お世話さんどす。昨日はえらいすんまへん。おーきにどすえ。ところで、今晩のことで、うち、どないしたらええかわからへんのどす。
一樹はんがいったいどんなおとこはんになってはるかも分からんし、厳一はんがあの時のおひとやということも、うすうすご存知やろうし。お姉ちゃんは、
厳一はんとあんじょう話したらええんやとしか言わへんし。うち、困ってしもうて、開店前の忙しいとき、おじゃましましてん。」
厳一は仕込みに熱中して渋みのある淡い紫の着物姿の由布子がそこにいることにも気付かなかった。
由布子もそんな厳一を知っていたので、何も言わずに座って言葉が出るのを待っていた。
お互いの間合いを取る呼吸だけはさすがに合っていた。
かつて愛し合ったことがあるのだから当然かもしれなかった。
どのくらい時間がたったかわからなかった。
5分かもしれなかった。あるいは30分かもしれなかった。
ようやく顔を上げた厳一はそこに由布子の笑顔があるのに少し驚いた風だった。
「どうしたの?予約はもっと遅いと思ったけれど?」
「はい、うち、さっき、お電話しましてん。今夜のお客はん、一樹はんやし、どないしてええか、」
「由布子。今夜のお前の役割は何だ?」
「へえ、浦瀬はんの代わりにお話をお聞きして、大切なとこは録音して、書き物いただいて、お気持ちよう過ごしていただくことでっせ。
ほんで、それを宝田はんにもお渡ししてええか、お聞きすることどす。」
「それでいいじゃないか。それ以外に何かあるのか?」
「へえ、つまり、その。」
「由布子が拘っているだけじゃないのか?」
「はあ、うち、」
「婚約破棄もその時の横にいた男が俺であることも歴史的事実だ。それをどう繕っても仕方がない。それよりも、その事実を踏まえて、
これから一樹さんに浦瀬さん、とりわけ宝田さんが再生できるための協力者になってもらうにはどうするのがいいか、それを考えてみればいいんじゃないか。
何も難しいことなんかない。」
「そやけど、」
「由布子、難しくしようとしているのはお前の我儘だ。あるいは、お前が一樹さんを下に見ているからだ。かわいそうだとか何とか理由をつけて、
一番整理できてないのはお前だ。しっかりしなはれ、ゆうこはん。」
「・・・」
「六本木でフランス風バー アンド ダイニング『oui』をやっている加茂由布子です。本日は、浦瀬さんの代理を務めさせていただきます。
よろしくお願いします。これだけでいいんだ。あとは、一樹さんが決めることだ。お前ならきっとこの区別ができる。今のお前なら。な、分かったら、
俺は仕込みするから、そこに気のすむまでいるのも、自分の店に戻るのも勝手だ。ただ、話はこれで終わりだ。料理と飲み物は任せろ。
浦瀬さんから直近の好みは聞いているから。もう、いいかな。」
厳一は言い終わると、今まで以上に真剣に仕込みにはいった。
由布子は置物扱いだった。
しばらく厳一の仕込みを眺めていた由布子は、何も言わずに頭を下げて『小野』を出て行った。
「がんばれ、由布子。今日はお前の人生の決着をつけるときだ。お前ならできる。俺が応援するから。逃げるな、正面から向かっていけ。」
厳一の呟きが由布子に聞こえたかどうかは分からない。
なす術もなく『oui』に戻った由布子は、呆然としていた。
事情を知って早出している総支配人やチーフが話しかけても、いつもと違って、由布子は返事をしなかった、いや、できなかった。
厳一のあまりに明快な言葉は、実は由布子は分かっていた。
しかしそう立ち回ることで、一樹が惨めになるのではないかと勝手に思い込んでいたのを厳一に見透かされたのがショックだった。
そうだ、事態を難しくするのはいつも自分。
2015年2月12日
1時間早い日本の六本木では、仕込が一段落した頃を見計らって、由布子が小野厳一の店『小野』を訪ねていた。
今夜の客が渡一樹と聞けば、厳一もその意味を理解できた。
由布子が心に突き動かされるようにフランスに逃げ、その後一樹に婚約破棄を送ったことを厳一は知っていた。
由布子にそうさせた当の本人だった。
しかし、それは厳一が命じたり、頼んだのではなく由布子が衝動的にしてしまったことだった。
逆に、厳一はもうすこし心が落ち着いてから判断するように説得したぐらいだった。
その頃の由布子は箱庭から飛び出せた自由さを満喫するには、過去を何でもかんでも否定してこそ、自分を見出せるとしか考えられなかった。
厳一は自分が職を捨て、家族をある意味捨て、そしてシャンパーニュで働きながら自分の心に眠る魔物のようなエネルギーの存在に気付いた。
だから、見かけは京人形のような由布子にもそれに似たエネルギーがふつふつと湧いてきており、フランスに来させられたのもそのエネルギーのなせる技と理解できた。
厳一自身、当時、恐らく今も、ひとたびこのエネルギーが動き出せば自分ではどうすることもできないくらいに荒れ狂うと言うか、すべてを吹き飛ばしてしまうことを止められなかった。
厳一が浦瀬なしで渡と由布子が自分の店で会うことに同意したのは、渡の研究の成果を使えば自分の荒れ狂うエネルギーをもっとうまくときに応じて使えるようになるのではと考えたからだった。
それは同時に、由布子、とりわけ、宝田淳之介にとっても必要だと直感していた。
「厳一はん、お世話さんどす。昨日はえらいすんまへん。おーきにどすえ。ところで、今晩のことで、うち、どないしたらええかわからへんのどす。
一樹はんがいったいどんなおとこはんになってはるかも分からんし、厳一はんがあの時のおひとやということも、うすうすご存知やろうし。お姉ちゃんは、
厳一はんとあんじょう話したらええんやとしか言わへんし。うち、困ってしもうて、開店前の忙しいとき、おじゃましましてん。」
厳一は仕込みに熱中して渋みのある淡い紫の着物姿の由布子がそこにいることにも気付かなかった。
由布子もそんな厳一を知っていたので、何も言わずに座って言葉が出るのを待っていた。
お互いの間合いを取る呼吸だけはさすがに合っていた。
かつて愛し合ったことがあるのだから当然かもしれなかった。
どのくらい時間がたったかわからなかった。
5分かもしれなかった。あるいは30分かもしれなかった。
ようやく顔を上げた厳一はそこに由布子の笑顔があるのに少し驚いた風だった。
「どうしたの?予約はもっと遅いと思ったけれど?」
「はい、うち、さっき、お電話しましてん。今夜のお客はん、一樹はんやし、どないしてええか、」
「由布子。今夜のお前の役割は何だ?」
「へえ、浦瀬はんの代わりにお話をお聞きして、大切なとこは録音して、書き物いただいて、お気持ちよう過ごしていただくことでっせ。
ほんで、それを宝田はんにもお渡ししてええか、お聞きすることどす。」
「それでいいじゃないか。それ以外に何かあるのか?」
「へえ、つまり、その。」
「由布子が拘っているだけじゃないのか?」
「はあ、うち、」
「婚約破棄もその時の横にいた男が俺であることも歴史的事実だ。それをどう繕っても仕方がない。それよりも、その事実を踏まえて、
これから一樹さんに浦瀬さん、とりわけ宝田さんが再生できるための協力者になってもらうにはどうするのがいいか、それを考えてみればいいんじゃないか。
何も難しいことなんかない。」
「そやけど、」
「由布子、難しくしようとしているのはお前の我儘だ。あるいは、お前が一樹さんを下に見ているからだ。かわいそうだとか何とか理由をつけて、
一番整理できてないのはお前だ。しっかりしなはれ、ゆうこはん。」
「・・・」
「六本木でフランス風バー アンド ダイニング『oui』をやっている加茂由布子です。本日は、浦瀬さんの代理を務めさせていただきます。
よろしくお願いします。これだけでいいんだ。あとは、一樹さんが決めることだ。お前ならきっとこの区別ができる。今のお前なら。な、分かったら、
俺は仕込みするから、そこに気のすむまでいるのも、自分の店に戻るのも勝手だ。ただ、話はこれで終わりだ。料理と飲み物は任せろ。
浦瀬さんから直近の好みは聞いているから。もう、いいかな。」
厳一は言い終わると、今まで以上に真剣に仕込みにはいった。
由布子は置物扱いだった。
しばらく厳一の仕込みを眺めていた由布子は、何も言わずに頭を下げて『小野』を出て行った。
「がんばれ、由布子。今日はお前の人生の決着をつけるときだ。お前ならできる。俺が応援するから。逃げるな、正面から向かっていけ。」
厳一の呟きが由布子に聞こえたかどうかは分からない。
なす術もなく『oui』に戻った由布子は、呆然としていた。
事情を知って早出している総支配人やチーフが話しかけても、いつもと違って、由布子は返事をしなかった、いや、できなかった。
厳一のあまりに明快な言葉は、実は由布子は分かっていた。
しかしそう立ち回ることで、一樹が惨めになるのではないかと勝手に思い込んでいたのを厳一に見透かされたのがショックだった。
そうだ、事態を難しくするのはいつも自分。
2015年2月12日