第4章(9)
地下鉄の六本木駅で降りて、『oui』に入ろうとすると、後ろから、
「一樹はん?よう、お越しどす。きんのは、びっくりしましたえ。後ろ見たらいてはらへんで。偉い失礼した思とったんどすえ。」
「え、あ、昨日は失礼しました。あまり久しぶりのことで、動転していました。ところで今日は、音吉プログラムのことでお願いに上がりました。」
「まあ、そんなん、立ったままで言うてはらんと、中入っておくれやす。」
由布子に背中を押されて、一樹は中に入った。
一瞬だが、由布子の手の柔らかさとぬくもりを感じられたことで、目的が半分終わったような気になっている自分を発見していた。
北村は、由布子の背中をすり抜けるようにして、店に入っていった。
由布子は、白ワインとチーズセットを持ってきた。
「どうぞ、楽しんでおくれやす。失礼どすが、これみんな試供品やよって、ただどす。ワインは、うちがおったワイナリーからどす。
飲みはったら、この紙に感想だけ書いておくれやす。遠慮せんといておくれやす。ちょっと飲んどってくれはりますか?うち、
奥へ行って来て、すぐ戻りますさかいに。」
一樹は、由布子が注いでくれたフランス・ワインを飲んだ。
こんな店で、ゆったりとワインを飲むなんて、もう何年もなかった。
それも手を伸ばせばつかめるところに、由布子が笑顔でいてくれるなんて、一気に、昔に戻った。
しばし、その回想に浸っていた頃に、由布子がピザを持ってきた。
本来はフランス料理にはないが、六本木というところで商売するには仕方がなかった。
いつか、英国の帰りに寄ったシンガポールのすし屋で、カツどんや、うどんが出ていて不思議に思って聞いたところ、
すしは、日本料理なので、かなり有名なところでも、どんぶり物や麺類を置いておかないとお客に叱られると、
築地で修行したことのある、板長が苦笑して言っていたのを思い出した。
「一樹はん、これもメニューにないんやけど、お客はんが作ってくれ言いはるから、今度出そう思てる試作品どす。気にせんといておくれやす。」
一樹は、由布子の言う試供品や、試作品が本当かどうかなど、どうでもよかった。
自分の経済状態を知っている由布子なりの優しさに触れているだけでよかった。
人心地が付いてきたとき、
「由布子さん、あの、これをその、シンガポールの宝田さんに渡してくれませんか?今日、急に、お邪魔したのは、現場の実践家でないと分からないところがあり、
それが解決できないと前に進めないことがわかったからなんです。小野さんでも、浦瀬さんでもできるかも知れないのですが。宝田さんに、これからのお仕事の種
としてお考えいただけないかと思い、昨夜、あんなメールを出しながら、やむにやまれずに、来てしまった訳です。どうでしょうか?」
由布子は、初めて一樹のこのプログラムにかける思いを見たような気がした。
研究者がここまで言うには、プライドなど沢山捨てないと言えないと、研究者の姉を知っている由布子は理解できた。
だからこそ、一樹がやろうとしていることは本物だと思えた。
「一樹はん。おおきに。昨日のお話しは、素晴らしかったんやけど、うちには、難しゅうて、宝田はんのお役にたつんやら、どうなんやらわからんで、
どないしょうと思もとったんどすえ。」
「そうですか?これは質問形式にしていますので、答えているうちに、実践家の方なら何を求めているのかお分かりになると思います。
もし何か分からないところがあれば、このアドレスにメールしてくだされば、直ぐにお返事できます。ところで、宝田さんにはそんなお時間は取って
いただけるのでしょうか?」
「はい、うち、向こうからメールしますよってに。うちはでけると思てますが、ご本人はんが、お答えするんが、筋どすさかい、待っとっておくれやす。」
「そうですか。じゃ、よろしくお願いします。私はこれで失礼します。」
「え、もう、お帰りどすか?」
「はい、この件に解決のめどができるとしたら、やることはたくさんあるので。」
「ほんなら、ちょっとだけ、待っとっておくなはれ。きんのみたいにどっか行ったらあきまへんえ?約束どすえ。」
「はい、わかりました。」
しばらくして、由布子が総支配人に大きな重そうな包みを持たせて、戻ってきた。
「一樹はん。気悪うせんと、受け取っておくなはれ。ちょっと早いけど、クリスマスプレゼントみたいなもんどす。長持ちするもんにさしてもろてます。
これからも、週1回、進み具合、ご報告どっせ。うち、試作品そろえときますさかい。約束どっせ。シンガポールから連絡させてもらいますさかいに。」
一樹の思いは複雑だったが、今は由布子の気持ちを受けることにした。
これから新たに始めるのに、ここで些細なプライドを振り回す愚は、もうしたくなかった。
「由布子さん、ありがとう。しっかりいただいて、研究のエネルギー源にします。週1回、報告、必ず来ます。よろしくお願いします。」
「はい。おおきに。うち、うれしおす。受け取ってくれはって。」
一樹は、入り口で振り返り、包みを振り上げて笑顔で由布子に答えた。
やはり無理して来てよかった。
由布子は早速携帯電話メールで、私に、質問状が手に入り、それが音吉プログラムの糸口になりそうだと送った。
私は、期待していると返事した。
2015年4月29日