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シンガポール&美浜 発信 文左衛門の部屋

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コラム★心の梅雨を飛ばす気

人生海図 第5章(8) (No.56) 

2015年08月06日 08時30分27秒 | 小説


昨夜から音吉プログラムに没頭して寝ることも食べることも忘れていた一樹は、昨夜、由布子にもらった食べ物を温めて、軽くワインを飲んだ。

昼間ではあったが、一樹にとってそれは関心外だった。起きた時が朝で、寝ているときが夜。

うつらうつらしていると、音吉が浮かんできた。

何やら手紙を書いているようだった。はっとして起きた。

そうだ。マカオに帰ってきてやはり船員の道を選ぶとしたら、自分を助けてくれたハドソン湾会社に先ず手紙で職の有無を確かめるだろう。

とすればその相手は、ハドソン湾会社仲買人取締アーチボルド・マクドナルド、仲のよかったラナルドの父親の可能性は高かった。

そして、何らかのことで、英国で研修を受けて英語を磨き、ハドソン湾会社あるいは、どこかの会社で実践を積む。

一方、音吉の職の口を聞くことで、音吉とは繋がっていられるメリットが、ハドソン湾会社にはあったのだろう。

特に、フォート・バンクーバー総支配人、ジョン・マクラフリン博士は、この時同じ職にいるかどうか分からなかった。

が、音吉たちを助けたことは人道的に賞賛されたものの、英国政府の同意前に音吉たちを英国やマカオに送った費用については、会社の中で非難されていた。

アヘン戦争の動向次第では、日本との通商開始の案を再度出せる切り札を確保しておくことは、悪くなかった。

もしその方面で使えなくても、命を助けた人物に投資して、アジアでのハドソン湾会社あるいは、英国政府の活動の一端を担わせるのには格好の候補者であると考えなかったとは言えまい。

一樹は、もし、音吉が一樹の想像している範囲で英国に渡ったとしたら、どんな生活をしていたかを考えてみた。

恐らく、海図を作るための技術の習得と実践が基本だっただろう。

世界を支配していた英国にとって、より正確な海図は誰が作ろうとも、正確でありさえすればよかったとして、もし、その中心に英国政府や企業から投資さえすれば、
技術を覚えて実践してくれる東洋人がいれば、断る理由などなかっただろう。

その東洋人、音吉は、モリソン号に乗り組む時点で北京語はかなり理解できていたとするなら、その用途は大きく広がってくるだろう。

一定期間監視下において、研修と実践を繰り返した後、政府の息のかかった会社に送り込んで、アジアの秘密のエージェントのような仕事も可能であっただろう。

ここで一樹は、音吉の立場に立って想像してみた。岩吉、久吉と同様にイギリス植民地庁に就職できても、その後はいつどうなるのか分からない。

それよりもまだ若いうちにどこでも通用する船員としての技術と、広い世界を渡っていけるだけの語学力を身につける方が優先すると考えていたのではないだろうか。

そこまで、思いをめぐらせば、ラナルドの父親に手紙を書くのが一番確実だし、新たな一歩を踏み出すのに、自分を助けてくれた人達。

英語教育をしてくれた人たちのいる会社に先ず相談するのが筋ではないかと考えるのは、不合理でないだろう。

そうすると、やはり英国へ渡っていった公算は強くなる。

英国での暮らしに関して、麻子の力が必要だった。

麻子は政治史と当時のロンドンの生活に興味を持って、専門をどうするか悩んでいたくらいだった。

したがって、英国生活探求は、麻子と印をつけて、次に進むことにした。

1843年上海に戻ってきた音吉が就職したのは、アヘン売買を主にしていたデント商会だった。

宝順洋行と中国名の社名も列記されるのはこの直ぐ後だったらしい。

恐らく、その時点で音吉に資金提供者が現れ、少なくとも、上海のデント商会の共同経営者、今で言うパートナーシップ、のような地位にあったのではないだろうか?

デント商会と宝順洋行の名前を巧みに使い分けながら、中国人を装って、長崎に出入りすることは、音吉にとってそう困難なことではなかっただろう。

そんな上海での生活が始まってすぐの、1843年と1844年に摂津国の永住丸の漂流民を日本へ帰れるように手配している。

もし音吉が、一介の会社員であったとするなら、上海に現れて直ぐの時点でこれら漂流民を日本へ帰れるような手配ができただろうか?

自分の給与などたかが知れていただろうし、どうがんばっても正規ルートだけでは到底日本へたどり着けなかっただろうから、どうしても割高になっていたはずだ。

その資金はどこから捻出できたのか?

この後、救助したとされる漂流民達は1回で10人を超えている。

音吉が漂流民たちを探してきたわけではなく、救助した外国船あるいは、漂流民たちが音吉を頼ってきていたらしかった。

では、その外国船なり、漂流民たちは、音吉なる日本人らしき人物が上海にいることをどうして知りえたのか?

外国船に、先の英国の奴隷貿易禁止策の一環として、日本人漂流民の担当者が上海にいると告知してあれば、理論的に可能である。

当時、英国はこの施策に基づき解放した奴隷漂流民には報奨金を支払っていたとある。

それを受け取るためには、日本人担当の音吉にしっかりと受け渡す必要があったのかも知れない。

もしそうであったなら、音吉が政府の資金を管理していた可能性も否定できない。

2015年8月6日
コメント (2)
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人生海図 第5章(7) (No.55)

2015年07月31日 08時10分06秒 | 小説
第5章(7)

店に入ると麻子はまだ来ていなくて、件の紳士が予約された由布子のいつものお気に入りの席に座っていた。ツイードの上着だったが、シャツはなんと赤だった。

期せずしてお揃いのようになって、由布子は苦笑した。

それを紳士は笑顔だと解したようで、立ち上がって、由布子が座るまで待っていた。

「ミス・ユウコ。コンニチワ。」

 由布子は、フランス語で、

「ボンジュール」

紳士は、その一言で由布子が何も聞かされていず、不承不承来たことを理解した。

麻子が来るまでご機嫌を取ることは、大切だった。

「ミス・ユウコ。今日は着物とは違っていますが、又あでやかですね。赤がよくお似合いです。私も今日は、色々な色のシャツをベッドの上に並べて、
ミス 由布子が何を着てくるかを想像しながら、色合わせをして、結局赤を選びました。そうすると、偶然といいますか、私の直感通りといいますか、
赤を着てこられました。それも日本人があまり着ない赤ですね。よくお似合いです。私が描いていたイメージにぴったりです。」

「どんなイメージどすか?うち、何やら外見についてあれこれ言われるの、好きやおまへんのや。」

日本語で言っていれば、日頃由布子がめったに口にしないくらいの強い口調だった。 

「だいたい、お名前も知らんお人に、言われとうおへんのや。」

紳士、ジャン・ピエールは、それもそうだと思って、

「ミス・ユウコ。ミス・アサコから聞かれていると思っていました。スミマセン。わたしは、ジャン・ピエールといいます。他にも名前はありますが、
みんながジャン・ピエールと呼ぶので、そのまま使っています。」

「では、ジャン・ピエールはん、お姉ちゃんになんと言わはったかわかりまへんよって、うち、お姉ちゃん来るまで何にも言いとうおへん。」

おっとりとした前回とは打って変わった由布子の態度に、ジャン・ピエールはまた惚れてしまった。

自分が考えていることが実行に移されたら、国際ビジネスの真っ只中に放り込まれるだろう。

その時、今の由布子が自分に対する対応は、予想に外れて非常に評価すべきことだと更に興味が募ってきた。

国際ビジネスでは当たり前のけじめがしっかりと身についているのを見て取った。

「ミス・ユウコ。ランチではありますが、グラス・シャンパーニュなどいかがですか?」

由布子はちょっと言い過ぎたかなと思い、反省の色も込めて、

「へえ、おおきに。いただかしてもらいますえ。」

グラス・シャンパーニュが運ばれてきた時、由布子の携帯電話が鳴った。

表示は麻子だった。

 ジャン・ピエールに会釈して、電話に出た。

「あ、お姉ちゃん。なにしてはるん。今どこどすか?うち、どうしてええんかわからへん。さっさと済まして、早よ帰りたいんやけど?
え、来れないん?ほな、うちも帰るわ。え、直接話をせえて?そんなん困るわ。なに、私のためだけやのうて、音吉プログラムやら、
みんなが助かる可能性あるから?なんやのん、それ? え、ジャン・ピエールは本物。どういう意味?フランソワ?わかったし、ちょっと待って。」

「ミス・アサコが電話で話したいそうですねん。」

ジャン・ピエールも怪訝な表情で、

「ハロー、ミス・アサコ。どうしました?私たちあなたが来るのを待っています。え、昨日の話を直接ミス・ユウコに話すのですか?理由は聞きません。
わかりました。ミス・ユウコ、ミス・アサコが替わって欲しいと。」

「あ、うち、ほな話だけ聞かしてもらいますえ。お姉ちゃんがこんなんするん、初めてやし、何や考えてはるんや、思ときます。ほな夜はお願いしますえ。
そのときにまた。ほな。」

麻子から話してよいと許可が出たので、ジャン・ピエールはおもむろに話し始めた。

「ミス・ユウコ、率直に言います。あなたに私たちのグループの日本のシンボルになってもらいたいのです。現在のレストランビジネスはうちのグループで
サポートさせてもらいますし、今のやり方のままでいいです。それに海外への進出は思いのままです。私たちが世界で売り込んでいきたいのは、ミス・ユウコそのものです。
ミス・ユウコの存在がかもし出すオーラやイメージは、私たちが捜し求めていた日本の昔からの美なのです。これは決して外見だけを言っているのではなく、
内面にこそ世界の人たちに見てもらいたいものがあるのです。最初にお会いした時、我々のシンボル探しの旅が失敗に終わるようなので、善後策を立てる会議の
ブレークだったのでした。ミス・ アサコと話せて、更に昨日お会いできて、私が実在の人物であることをミス・ユウコのお友達のフランソワにミス・アサコの前で
確認してもらえました。私は、もうすぐ成田から、シンガポールに向けて旅立ちます。ミス・ アサコによるとミス・ユウコも今夜シンガポールに行かれるとのことですね。
是非、シンガポールで、あの彼も交えてお会いできることを切望します。私たちは、日本での活動を支えるためにシンガポールで大規模のロジスティックス基地や活動拠点の
アジア統括会社設立なども考えています。もし、彼がこの関係のお仕事であればなおうれしく思います。私は、ARTグループのオーナーです。
英国生まれフランス育ちの英国人です。いかがでしょうか?」

由布子はあまりの偶然に言葉を失った。

シャンパーニュを一気に飲み干して、

「ジャン・ピエールはん、堪忍どすえ。知らへんことや言うて。もう、うち、なんて言うたらええんか、分かりまへんさかい、
シンガポールでお返事さしてください。よろしおすか?」

「ええ、当然です。シンガポールでお会いできるなら、我々の仲間からもっと詳しいお話をさせていただけると思います。」

ジャン・ピエールの用件が分かったので、由布子はいつもの調子に戻り、にこやかにランチを終わって、ハンカチを出そうとしたとき、
直美に渡された古い写真が載った記事が床に落ちた。

ジャン・ピエールは、何気なく拾って渡そうとして、

「ミス・ユウコ。私の古い記事をお持ちだなんて光栄です。この真ん中のオトコは、私です。今とはぜんぜん違いますが。」

「え、ほんまどすか?うちの友達がこの人を探してますねん。このお人は、あんさんどすか?これはまた!」

「あ、でも、相手がどんな用件かを聞かないで私のことは言わないでくださいね。色々と面倒な話も多くて、ただ、ミス・ユウコがいい人と思えば、
いつでもお会いできます。よろしくお願いしますよ。」

最後に目がきらりと光り、国際社会に君臨するオトコの片鱗を由布子は見て取った。

「へえ、よう、分かりましたえ。ほな、シンガポールで。これうちの連絡先どす。同じように、守秘義務どすえ。お返事するまでは、お仲間はんにもどすえ。」

「それじゃ、うちの車で送らせますから。」

「あきまへん。まだお返事してまへんよって。お気持ち、ありがとさんどす。ほな、さいなら。」

「じゃ、シンガポールで。」

ジャン・ピエールの内心は、踊りだしたいばかりだった。

一方由布子は、関心はあったが、私の方が優先した。

2015年7月31日
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人生海図 第5章(6)  (No.54)

2015年07月24日 07時32分12秒 | 小説
第5章(6)

日本の中で行われている仕事の評価と海外のそれとは全く違うことを日本から出たことがない幹部は理解していないことが多かった。

不況といわれ、首切りの嵐が吹き荒れている今、仕事をしている振りをしていれば、何とか生き延びていける国内と違う。

上昇気流に乗っているアジアの出先では実のある仕事をたとえ本社でリスクがあると勝手に判断したとしても、それを実行することでしかその社会で生き残っていけなくなることを知らない。

私は色々な一般的なパターンを引き出してみた。

欧米での例とアジアでの例は分けて考えるべきだと思った。

欧米の場合は、出かける前から腰が引けているのが実情だろうと思った。

言葉にしても、英語であれ、フランス語であれ階級語であることを理解していない向きには、なんら評価に結びつく結果は出せなかっただろう。

判断を下せるレベルの相手に接触できていないからだ。

そういう相手には、階級語であることを理解した語学の持ち主しか自国で会う必要はなかった。

日本で、外国人が腰が引けて、ジャパニーズイングリッシュや、片言に慣れないと生活もできないから、妥協していたと理解できていなければ、その国、例えば、英国、米国に乗り込んで行って同じことができると判断している方が国際音痴だといえただろう。

ところがアジアの場合は、独特のアクセントや中国語や現地の言葉が混じったまさに国際ビジネス語としての英語であった。

が、日本からの訪問者たちが真面目に向き合っているとは言えなかった。

自分たちは堂々と日本語で話し、現地採用者に英語で訳させる。英国や米国でそんな態度を取っていたら、2度目のアポイントはマネージャーにも会えないことになって行っただろう。

従って、音吉プログラムはアジアをベースに考えるべきだと一樹に助言することに決めた。

事実、日本にとって今、そして、これから大切なのはアジアなのだった。

アジアがサポートしてくれなければ日本の将来はないと言えた。

次に、具体的な人物を検討することで、何か出てこないかに取り掛かった。


私が、具体的な人物例に取り掛かり始めた頃、日本ではランチタイムになっていた。由布子は今日麻子がセットしたランチに行くことには気が進まなかった。

外見で近づいてくる男性は数知れなかったし、そんな輩は相手にしてこなかった。

しかし、いつも無理を聞いてくれている麻子には逆らえなかった。

それに、忙しいことを知っているはずなのに、セットしているのには何か麻子なりの目論見があるのだと自分を宥めた。

いつも麻子とランチをするケヤキ坂のレストランへ向かった。

気乗りしない自分を励ますために、由布子は着物をやめて、真っ赤なパンツスーツにした。

相手がどう出てくるかはどうでもよかった。

今晩旅立つためには自分だけになって考えたいことが山積していたのに、断れないランチだった。

2015年7月24日 
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人生海図 第5章 (5) (No.53)

2015年07月21日 12時41分53秒 | 小説

第5章 (5)

音吉に当てはめてみると、現地採用者としてデント商会に入りながらも、会社のアヘン主導の経営方針に疑問を呈した時の安全弁として、自営業者という身軽さも考えていたのかも知れない。その時に誰が資金を出す可能性があったのかは、一樹の担当だ。

 次に浦瀬のような駐在員も二つに分かれてくる。ワンマンオフィスといわれるように、一人ですべてをこなしている場合と、現地採用者も含め複数の駐在員がいるのとでは違ってくることが多い。ワンマンの場合は、駐在員であることと、現地採用という二つの顔を使えないために、現地では矛盾する日本の判断を現地コミュニティーに持ち込んだ時、いい事も悪いこともすべて自分がかぶらなくてはならず、生活に支障をきたす可能性もある。収入が不安定でも、自営業者であれば、判断を調整できる余地もあったが、駐在員の場合は、それもできない。

 複数駐在員がいる場合、明確に年齢と地位が分かれている場合は現地採用や地元社員も理解と対応が楽であったが、年齢が近く、経験も同じである場合、語学のできる方の指示を聞く傾向があった。そうすると、二人の間で、本社への報告合戦となり、現実とは程遠い指示が飛んでくる原因を作ることが多い。これが年齢が上で語学ができないと厄介なことになる。若い駐在員の判断が経験者の年長者から見ると、どうにも不適切であっても、現地社員は、語学のできる方の指示に従うしか方法がないので、稚拙な展開が散逸され、同業者から疎んじられる原因を作ってしまう。

 音吉に当てはめると、後年中国語も、北京語、広東語、福建語ができるようになるに連れて、英国人たちからは煙たがられていったことは想像に難くなかった。まして、英語がネイティブたちが舌を巻くほどにできたとしたら、当然、英国人たちの本社への報告が、音吉にとって不利になるのが当然に思える。現代でも予想のつくそんな状況の中で、音吉が、マリナー号や日英和親条約に関わっていったことは、私にとって驚異的にしか思えない。

 浦瀬の上司のように日本にいて判断し、指示を出す側を見てみると、海外経験のあるなしが、影響してくるはずであったが、日本にいると、海外で磨いてきたセンスも経験もすべてはがれ落とされるのかというくらいに、差がない例が多い。

 例えば、浦瀬の上司の元取締役、名刺を探してみると高倉だった。シンガポール支店長も勤め、アジア統括の下馬評に上がったくらいの実力があっても、浦瀬に対して、現地の習慣である旧正月を考慮することを役員会で主張しきれていなかった。結局、競争させるという付帯条件を付けることでかろうじて浦瀬の首が繋がった。

 こんな例は当たり前である。日本からのスケジュールはクリスマスも無視してくるが、今はアジアの現地幹部は、休暇をとって不在ないことが多いし、欧米系のグローバルカンパニーでは誰も幹部がいないことは常識である。毎年、11月中に案件にめどが立たないと、旧正月明けまで決められないと事前に報告しても、全く無視して大挙してくる。そして道路が渋滞で、レストランが満員の頂点に達している時、ビジネス最優先だと押しかけて来て、移動すら時間通りに行かないのに腹を立て、だからアジアはまだまだなんだと知った振りをしている例は今も続いている。

 ある時、「怒った現地地元幹部が、年末30日や正月2日から大挙して行くから、対応してみろ。それができてこそ初めて、ビジネス最優先だと言えるとメールを打ったといううわさも出るほど、日本からの訪問者たちのスケジューリングは、本当に仕事をしにくるのかと首を傾げるよ。」と浦瀬たちが漏らしていた。

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人生海図 第5章 (4) (No52)

2015年06月20日 11時00分31秒 | 小説

その頃私は、由布子から送られた一樹作成の質問状を眺めていた。

一刻でも早く渡したいと、かなりの量になるプログラムのハイライトも同時にスキャンされて、PDFで送られて来ていた。

メールのチェックは由布子に言われていたため消極的だったが、メール着信を示す音がしたとき、何故か、由布子が肩を叩いてメールを見るように言った気がした。

メールを開いて、添付のファイルを見ていくにつれて、暗かった日々がようやく、夜明け前の暗さに変化していくのを感じた。

先が見えない暗さでなく、この新しいドアを開ければそこに光があると確信できる部屋の前に立った心境になった。

早速概要と質問を眺めていると一樹がいかにこのプログラムに懸けているかが一目瞭然だった。

これを発表すれば、研究者たちからはいっそうの罵倒を受けて無視が予想され、その研究者生命に終止符を打たれる可能性を感じた。

それでも、このプログラムを完成させるのは、音吉たち先人にめぐり会えた一樹の使命であるとハイライトの書き出しに記されていた。

私は自分に期待されていることを読み、私なりに整理してみた。

歴史的な背景から音吉を浮き立たせるのは一樹、現代のモデルから逆に音吉をイメージするのが私、環境などについては、一樹、麻子、私となっていた。

さらに、私の判断で、浦瀬に私のパートに関わってもらうのはお願いしたいとなっていた。

まず、身の回りから始めることにした。抽象化して概念を造るプロセス、無から有を生じる、は理解していた.

が、今回は共同作業であり、人の精神面に関するプログラムであることを考慮して、立場を決めて、具体的な人物を抽象化していく手法をとることを取り敢えず決めた。

作業者全員がイメージできる人物をサンプルにしておく方が、一樹が浮き出してくる音吉と重ね合わせやすいと考えた。

まず、人物たちの立場を明確にするところから着手することにした。

海外で個人で働く私のような立場、海外駐在員としての浦瀬の立場、日本にいる浦瀬の上司の部長のような立場でどんなことが考えられるか書き出すことにした。

海外で個人で働く場合は、私のような自営業と、現地採用により、日系である、なしを問わず、会社勤務。この場合、自営業者は、自由と独立があるが、収入は不安定である。

逆に、会社勤務は、自由と独立はないが、収入は保証されていた。

しかし、両方とも現地の商習慣と法律が優先するので、日本とは違った判断や行動を求められることがよくある。

しかし、駐在員とは違って、現地の商習慣や法律にのっとることは他人様の国で働かせてもらう以上、至極当然であり、矛盾はい。しかし、日本が絡んでくると大きく違ってくる。

例ば、会社勤務の場合、日系の現地採用は、どんなに仕事ができても、本社が決めたランクで来る駐在員を超えることはできない。

日本からの指示や日本式にのっとった行動、判断と現地コミュニティーとのいざこざ、後始末、調整は当然、現地採用者の担当になる。

逆に、現地採用者の優れた成果もそれを報告する駐在員によって、本社評価が大きく違ってくる。

これは会社として自営業をやっていた私にも同じことが言えた。

現地採用とは言え、会社に勤務しているのと違うのは、日本側にとって私のダメージなど考える必要すらない。

違う業者を見つければいいだけであった。

たとえ、私のような個人規模でなくもっと大きな規模でも、日本に本社を持たなければ、適当な扱いをされる例は、沢山聞いていた。

シンガポールに来てみての判断ではなく、日本側の判断が、日本で心が動揺している中で決定されていることの方が多かった。

現地の商慣習や盛り上がっていくアップストリームを無視したために、シンガポールの波に乗り損ねている企業は多いと聞いていた。

2015年6月20日
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