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シンガポール&美浜 発信 文左衛門の部屋

写真集★シンガポール&美浜の海・景色・街・食
私小説★男女・愛・起業・歴史・外国・人生
コラム★心の梅雨を飛ばす気

人生海図 第4章(3) (No.41)

2015年03月30日 07時41分11秒 | 小説
第4章(3)

私の気持ちが複雑ながら、少し上向きになっていた頃、浦瀬に東京から電話があった。

「あ、浦瀬君。シンガポールにいるんだね。ちょっと予期しないことが起きてしまった。今朝緊急役員会があって、
あの取締役が解任されたんだ。我々には関係なかったけれど、次期社長をめぐって役員の囲い込みがあったんだ。
あの取締役、ああ見えても、結構男でね、どちらの陣営にも属さないと公言していたんだ。そうしたら、副社長派が、
1票欲しいために、忠誠を誓った本部長と入れ替え動議を出したんだ。ところが専務派も同じことを考えていて、
空席を誰が埋めるかは年明けになったが、あの取締役は、どこから流れたか、直美さんがらみの中傷ニュースが流れ、
我々をねぎらってくれた領収書が、逆に私的流用ということになり解任されてしまったんだ。そして、取締役はその場で、辞職してしまった。」

「え、ほんまですか? ほんならあの時の約束は?」

「うん、そこは、あの時GINKOママの立会人署名があってよかったよ。何といってもうちの顧客の最大手の会社の会長の娘さんだから、
反故にできず形式的に適用されることにはなった。つまり、来年1月から6ヶ月に収まることになりかけたところ、それは半期の決算に間に合わないから、
3月末と何にも知らない経理担当取締役が言い出して、結局そのように決まってしまった。地元エージェントはそれでもいいと電話で回答してきたから、
変えようがないんだ。悪いがそれでやってくれないか?どんなに困難なことかは分かっている。旧正月が間にはいっているから実質1月しかないな。
今から言うことは僕と君だけの話だ。あの取締役と仕掛けた含み予算がある。それを使って、岡崎君と山下君を交互に1月と3月にシンガポールに送り込む。
これに関しては私がすべての責任を持つ。足りない分は、あの取締役が私財を提供するといっている。こんなばかげた役員人事はない。ぜひ浦瀬君に勝って
もらいたいと言ってくださっている。この件はこちら二人の念書を書留で送るから安心してくれたまえ。俺もふざけるなと言いたいが、まだ子供が小さいので、
取締役のようには行かない。浦瀬君頼むよ。細かいことは密かに山下君から連絡させる。よろしくな。」

「え、あ、はい、おおきに、わかりました。後は山下と。えろうお世話かけました。すんまへん。何とかがんばってみます。」

浦瀬は、無事だと思った首が又離れていきそうになる恐怖を覚えていた。

その頃、私は浦瀬の新しい事態の急変や覚悟は知らずに、少し前向きな気持ちで、タクシーに乗り、日本人会へ向かっていた。

しかし、重い足取りで日本人会へ入っていくと、先行投資で攻勢をかけていた日系会社の駐在員と出会った。

今は会いたくなかったが、望みがあることは分かっていたので、仕方なく歩み寄ると、

「あ、宝田さん。ちょうどよかった。内示があって、来年1月末に急遽上海へ転勤になってしまったんだ。それで、あの進めていた話、
後任に話してみたけれど、シンガポールもよく知らないのに、そんな話には乗れないと言われたよ。知らないからこそ、宝田さんだと言ったんだが、
本社の承認を取る苦労してまで必要かどうかわからないものに手を出して、評価を下げたくない。と拒否されてしまった。だから悪いけれど、
あの話無かったことにしてくれませんか?お忙しい宝田さんだから、一つくらいどうってことないでしょう。じゃ、そういう事で。お願いします。」

ほら来た。

お得意の食い逃げ。

何がそういうことだ。

今まで提案書や打ち合わせと称していくら時間と金を使わせたんだ。

せめてそれくらいは払えよ、ふざけるな。

遊んでいるんじゃないぞと言いたいのを歪んだ笑顔で、

「今からだと、引越しとかお忙しいですね?ご家族も行かれるのですか?」

「家族は子供の学校があるし、中国があんな状態なので、まだ、こちらに残るけれど、少し狭いところに引越しかな?しのぶさん、
あ、言っていいのかな?彼女が不動産屋で、結構女房とかに色々気を使ってくれるので、今度の後任にも紹介しといたよ。いい人だね?ところで、
どうして別れたの、ま、色々あるか夫婦のことは。うちも気を付けなくっちゃ。お、そろそろ行かなきゃ。じゃあ。また。」

しのぶは不動産屋をやって、まだシンガポールにいることが分かった。

皮肉なもんだった。

自分の仕事がなくなり、結果しのぶには2つ仕事が増えたことになった。

それも私のまいた種だから甘んじて受けていくしかなかった。

気持ちは更に落ち込んで、浦瀬に会わずに帰ろうかとさえ思えた頃、

「宝田。どうや。少しは落ち着いたか?」

「うん。取り敢えず4階へ行こう。」

浦瀬にも何か新しい事件が起きたようだった。

いつもの迫力が感じられない。どうしたのだろう。

メールでは薄皮一枚でつながったようだったのに。

4階の日本食レストランのこの間使ったのと同じ個室を予約していた。

改めてランチセットを頼んだ。

2015年3月30日
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人生海図 第4章(2) (NO.40)

2015年03月19日 09時09分17秒 | 小説
第4章(2)

あの頃は、何もたいしたこともできないし、知り合いも少なかった。

しかし、毎日が充実していた。

何かを新しく産み出せるかも知れないと考えていたからだった。

中古の車をびっくりするような金額で購入し、もっぱら、大学院の講座通学に使っていた。

それでも、ときたま訪ずれる日本からの友人との外食が楽しみだった。

エアコンのないリビングの生活は南国のシンガポールでは過酷であったが、それもまた、先に希望を持たせた。

シンガポールも今とは違って、少年のような稚拙さと誠実さが入り混じり、生活費も安く、和やかな感じだった。

私にとって、9ヶ月はのんびりできたが、あとの3ヶ月は1年毎更新のビザが許可されるかの戦いだった。

そんな中、日本の自宅が当時では破格で売れ、それを元手に今は売り払った中古のコンドミニアムを購入した。

ローンも組めた。

そんなことが作用したのか3年のビザが出たあたりから、生活がおかしくなってきた。

少し大きな仕事にも恵まれ、日本とシンガポールの往復が定期的になるにつれて、しのぶとののどかな生活が終わりかけて行ったと今は考えられた。

しかし、シンガポールに残るには永住権が必要で、そのためには、何とか売り上げを伸ばして、安定した会社にしていかねばならず、人脈も必要だとそのときは思っていた。

人脈は作るものではなく、広げるものでもなく信頼できる数人としっかりつながっていれば十分だと分かるまで、相当の時間と金を浪費していた。

当然気持ちもなぜか浮かれ、のどかな生活より、華々しさを追うことになっていった。

そんな生活をするには支出が先行し、不安定な収入の中、毎日がギャンブルのような生活になっていった。

しのぶは、日本人の間で頼りにされる存在にはなっていったが、生活の保証されている駐在員の奥様方とは違う環境の中で相当苦労していたようだった。

できる限り時間の許す限りバスで移動し、多少遅れてもタクシーを利用しなくなっていった。

我々が来た当初に比べて、青年になってきたシンガポールの生活費はタクシー代の値上がりを筆頭に、信じられないくらいに高騰していった。

それも生活圧迫に拍車を懸けていった。

そんな中でも自分だけを信じていた私は、仕事になるかも知れないということには手当たり次第に手を出して行った。

それがほとんど実ることはなかった。

世の中で究極の遊びは、会社を経営することだとさえ思ったくらいだった。

個人では小額でも、同じことを会社としてするには、桁の違う金額になる。

かと言ってもらえる金額は、個人に毛の生えたくらいだった。

更にシンガポールは、日本より30-40%低い金額でしか受注できなかった。

地元企業を相手にすると、それはゼロが一つ違うことも当たり前だった。

そんな中で立ち行くはずもなく、冗談で、「御殿を建ててくれると思っていた。」と言って付いて来てくれたしのぶとも、シンガポールで離婚することになってしまった。

そして、今はそれよりも更に悪い。

シンガポールでの拠点がなくなろうとしていた。

そんな回想をしている時、小野厳一からメールがあった。

“宝田さん。小野です。渡一樹先生との面談は終了しました。先生は、論文盗作の嫌疑で失職して個人事務所として研究所を運営しながら、
コンビニの仕事などで生計を立てています。実はこの先生は、由布子さんの元フィアンセでした。経歴は一部詐称していました。しかし、
指摘すると正直に話をしてくれました。まだ独身です。こんな身の上ですが、音吉プログラムは、本物のようです。研究者たちからは、
キワモノと思われて無視されたのが幸いでした。渡先生は、何とかこのプログラムで起死回生を図りたいとのことでした。私の見たところ、
まだ、由布子さんにお気持ちがあるようで、その意味では安心できるのではないでしょうか。詳しくは、由布子さんが土曜日にそちらに着いたら、
聞いてください。私は、先生の生活と研究が立ち行く方法を考えてみます。以上ご報告です。浦瀬さんは、渡先生の失職はご存じないかも知れません。
よろしくお伝えください。”

厳一の誠実な性格が文面に滲んでいた。

一樹はまだ由布子に気持ちがあるようなんだ。

もう何年経っているのか?私にしのぶへの気持ちがまだ残っている経験から、それは無理からぬことだと思った。

そのことが、私の由布子に対する気持ちに微妙に絡んでくるようだった。

音吉プログラムは本物という厳一の言葉は、この暗いシンガポールの現状に一筋の光を見出せた。

それを由布子が持ってきてくれるのだった。

2015年3月19日
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人生海図 第3章 (13) (No.38) 第4章(1) (No.39)

2015年03月15日 14時47分12秒 | 小説
第3章(12)


 日頃、暗い道しか歩いていない一樹は、六本木の華やかな雰囲気に気もそぞろだった。

前を行く由布子は、自分の記憶にある由布子でなく何十倍も成長したある意味成功した女性だった。

自分と比べることはしないが、そんな由布子をずっと好きでいられた自分は惨めどころか、一途にあの気持ちを貫けていたことに自信を持った。

由布子が先導する形で、一樹を『Oui』に案内した。

後ろを振り返って、

「一樹はん。ここがうちのお店どす。どない思いはりますか?」

後ろを振り返った視線の中に、一樹はいなかった。

慌てて探したが、いなかった。

由布子の携帯電話のメール着信を告げる音がした。

“由布子さん、今晩はありがとう。恥ずかしかったけれど、気持ちを話せてうれしかったです。今の私には、由布子さんのお店は眩しすぎます。いつか、盛大に音吉プログラムの完成を祝う時まで、楽しみを取っておきます。パソコンのアドレスに、プログラムの進捗を送らせていただきます。ありがとうございました。一樹”

「一樹はん。うち、又、失礼なことしたんやろか?あかんな、由布子はいくつになっても。」

 
第4章(1)
 
シンガポールに来てから十数年、特別な日を除いて、私は、朝は必ず7時前に起きる生活が身にしみていた。

それはしのぶと離婚後も変わらなかった。

そんな習慣すらも忘れたかのように、ベッドから起きることができなかった。

日本人会で浦瀬とランチをすることになっている。

今日の唯一のイベントだ。

それ以外は、1日1回だけメールをチェックして、通常電話はボイスメールに切り替え、緊急非常番号だけ開けておくようにした。
 
すべては由布子の指示通りに行動して、ひたすら彼女の来星を待つことだけが、私に今できることだった。

何もせずにベッドで天井を見ていると、扇風機が見えた。

シンガポールに来た時、トタン屋根の部屋で、古ぼけたエアコンより、その頼りげのない扇風機がちょうど良い風を送ってくれた。

それは、柳のような、しかし頼りがいのある由布子に重なった。

2015年3月15日<2つの章にまたがり申し訳ありません。内容的に切のいいところをアップしていました。>
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人生海図 第3章 (12) (No37)

2015年03月10日 07時47分32秒 | 小説
第3章(12)

由布子が過去のわだかまりと新たな出会いをしている時、シンガポールの私は、翌日のランチを浦瀬とすることのメールに返事をした。

その後、電気もつけない部屋で、ただ呆然としていた。

わずか数日前、日本へ向かう準備をしている時、これからビジネスがグラハム博士との協業で、大きく発展すると確信した華やかさの真逆にいる自分がとても惨めだった。

私は何をするためにシンガポールまで来て、金、時間、体力、信頼のすべてをつぎ込み、あれほど好きだった女房さえある意味つぎ込んだ。

残ったものは、このコンドミニアムとローンだけだった。

それなら日本で不自由でも、自分を騙し、騙しして、小さな幸せをしのぶと満喫して、老いていく道を選択するべきだったのか?

少なくとも、しのぶはその方が幸せだったかもしれなかった。

いや、分からない。外国暮らしは初めてなので、戸惑いはあったかも知れないが、日本では経験のできないことを沢山できたはずだと思うしかなかった。

しのぶは、私と一緒にいて幸せだったときがあるのか聞く機会もないまま別れてしまった。

確か再婚して、まだシンガポールにいるはずだった。

狭い国なのに不思議と会っていない。

私を避けているわけではない。

憎しみあったわけではないし、大きな言い争いをしたわけでもなかった。

ただ、寄り添っていく気力がないというのが最終的なお互いの一致した見解だった。

実際、しのぶと別れてからの仕事の落ち込みはひどかった。

コンドミニアムを担保に入れて、資金を調達できたので、まだ、シンガポールにいることができた。

あの時、コンドミニアムを売却して、清算しようという私の申し出を、しのぶがまだシンガポールに残るのなら、私には必要と言ってくれた。

一回り小さい中古をローンで購入し、売却益を裁判所の指示によりしのぶに渡した。

そこまでして、シンガポールに残る理由があるのかと自分に問い正しながら、結論を得ず現在までだらだらと来てしまったが、もうそれもできなくなりそうだった。

今後は、由布子と相談するしかないし、今は、何も考えないで土曜日が無事に早く来ることだけを念じる私でしかなかった。

2015年3月10日
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人生海図 第3章 (11) (No.36)

2015年03月04日 08時36分44秒 | 小説
第3章 (11)

「多分、以前の私ならその選択肢だったでしょう。今は少し違います。今回のプログラムは、理論先行ではなく、ある種の気持ちの方向があっていないとうまく行かないのです。
特に、由布子さんを経由して色々な方とつながり、広がるならなおさらです。あの手紙をもらった時、正直判断も何もできず、なぜだ、を半年くらい追いかけていました。その結果、研究もおろそかになり、学校に残ることも危うくなった頃、あの学部長に引導を渡されました。

麻子さんが歴史談義を通して、由布子さんがなぜフランスに出て行かざるをえなかったか話してくれました。その時に、あなたがあのポップスの帝王の映像を見て決心されたと
伺いました。わたしは、それを見ることで由布子さんを何とか理解できると思いました。それを探しに、京都の町をふらふらしている時、中古品のCDを売っている店で、
むかしのDVDをあさっていたところ、モニターに、アフリカの食うや食わずの人たちが何日も何も食べずに誰かのコンサートに行くシーンがふと、目にはいりました。

我々だって、誰かお気に入りのコンサートを学生時代に行くために食事を抜いたりして金を稼ぎ出しましたが、モニターに写るそれは、そんな不純な動機ではなく、
朝から晩までの時間を一食見つけるのに費やす人たちがそれを諦めても、なお誰かのコンサートに何日も歩いていこうとしている。彼らをしてそうさせている人物が
誰かというより、その人物がそうさせているのは何かを知りたくなり、その足でJICAのアフリカ希望で願書を出しました。現地で見る彼らの生活はモニターよりも
悲惨でしたが、その人物の話をするときの彼らの目は輝いていました。何日も歩いた結果見ることができたのかと聞くと、数十万人もいたので、音すら聞こえなかった。

しかし、存在を感じることができてつながることを確認できた。それだけで十分だったといわれた時、自分が研究者として本当にしなくてはいけない歴史からの抽出は、
これだと思いました。そして、任期が終わって帰ってみると、お姉さんの麻子さんから連絡があり、自分の研究グループに空きができているので、英国に来る気はないかと
言われました。思いもかけないことでした。競争率は高く、半ば諦めていたところ、誰かから聞きつけたあの学部長が、推薦状を送るだけでなく自分のヨーロッパ出張の時、
麻子さんと連絡を取り、麻子さんの主任教授に直談判してくれたそうです。私はすべてが決まって英国へ行って麻子さんからそれを聞いて、驚きました。そして、麻子さんに
教授があの男はアフリカまで行って始めて自分の中の魔物の存在に気付いたと思う。だから、思う存分こき使ってくれ。英国から逆輸入なら自分のつてで、又研究者に戻る術
もあるのでよろしく頼むと言い残したそうです。」

由布子は麻子からそんなことはひと事も聞いてはいないし、話してもくれなかった。

そして、ツインである自分たちは二人で一人前などと言っていたが、とても麻子の足元にも及ばない自分を見た。

麻子は外見が猛々しいが、決して人を見捨てない、優しい心根を持っていることを知る由布子であった。

が、自分があれほどの仕打ちをした男の行く末まで面倒を見ているとは、感謝というより母親のようだった。

ただ小さいことに引っ掛かりがあった。

由布子の行った店は、翌日に廃業していた。

まあ、同じ店は他にもあるだろうと黙っていた。

一口『グルニエ』を飲むと、
「長くなっていますが、もうすぐ終わります。我慢して聞いてください。英国では、19世紀のアジア政策を研究していく中で、山本音吉と出会いました。
研究すればするほど彼の境遇で国籍取得はありえないことが鮮明になってきました。歴史的事実をいくら調べても決定打がありません。当時は、
今よりももっとはっきりした階級社会です。漂流民で自らを日本人として証明するものも持たない音吉に国籍を渡すことはある意味で、
植民地シンガポールでは上流階級を構成していたであろうミニ英国社会へ入場を許可することになります。それは何かを突き詰めていくと、
あのアフリカのミュージシャンと同種の何かを持っていたとしか考えられなくなりました。それは従来の歴史研究とは全く違うかもしれないが、
もしこのことが例え不十分な形でも、出来上がれば、どれほどの発展というより、先人の足跡を後世の我々が先人の望んだ以上に有効に日本人、
アジア人の発展に貢献できるかもしれないと確信するようになってしまいました。それ以後は、先ほどの話しにつながります。長い話を聞いてくれてありがとう。
由布子さんと会っていなかったら、麻子さんとも会えず、そしてこのプログラム草案も到底存在できなかったと思うと、人のつながりの不思議さにただ驚くばかりです。」

「沢山のお話おおきにどす。うち、恥ずかしゅうて何も言えまへんが、そのお店は、もうあらしまへんけど、河原町ににあったところどすか?」

「え、よく知っていますね。え、その店のあった近くに小さな規模で、店長だった人が新たに開いていました。」

「一樹はんがお話してくれはったんで、うちも今やったら言えます。うち、フランスへ行くきっかけはそのお店で、同じモニターで、同じシーンを見たから。その時いきなり、殴られたように感じましてん。その時の流されてる自分でええんかて、心のもう一人が怒鳴りはりましてん。そやから、その声の命じるまんま、フランスヘ行ってしもうたんどす。えろうすんまへんどした。」

「うーーーん。そんなことってあるんですね。話に聞いたことはありますが、自分の身の上にそれが起きて、数年後こうやって真相が聞けて、それをベースに又新たな、リレーションが始まろうとしている。学者が言う言葉ではありませんが、音吉もそうやって、英国の中心部とつながって行ったかも知れませんね。いや、言い難いことを正直に聞かせてくれてありがとう。やっぱり由布子さんは、いい人だ。恨まなくてよかった。ありがとう。」

「そんなん言わはったら、うち困ってしまう。それより、食べまひょ。マスターに、ここは談話室やのうて、食事するとこだと怒られそう。」

首をすくめた由布子は、一樹の知っている由布子だった。

一樹は本当は由布子が来ると聞いて、浦瀬に表向きキャンセルすると言った。

しかし、一樹と由布子の関係を知らない浦瀬は、強引に承諾させた。

会いたかった。

自分がどんなに変わったかを見てもらいたかったし、正直まだ好きだった。

由布子がどうなっているかを見たかった。

そしてこうして鍋をつつける自分は幸せだと感じた。

由布子は、何故か一樹が自分と同じシーンを見て自分と同じように外国へ出かけていったことが無性にひっかかった。

恐らく彼は音吉を見つけプログラム化することが何か運命付けられているのかとしか思えなかった。

だから、アフリカで自分としての個を作り、人の縁で、英国に行き、ある意味準備のできた一樹に音吉が登場してくれた。

とさえ言えるのではないかと思えてきた。

「一樹はん。ここのねぎま鍋のマグロはそのままお刺身で食べられるトロどす。色が変わるくらいで十分どす。はい、これ、一樹はんの分。はよ食べなうち、皆、いただいてしまいますえ。ほら、はよう。」

娘時代に戻った由布子の声を聞いた厳一は、ホッとした。

一樹は、由布子が店に入ってきたときは、正直会いたい気持ちと逃げ出したい気持ちが綱引きをしていた。

由布子が来た。

自分が想像しているより、もっと素敵になっていた。

鍋の途中から、赤ワイン『ラ ルエ デ セント プリバット 2009』に切り替えて、雑炊になる頃、

「一樹はん、きょうはこれから、ご予定おますか? なんやったら、うちのお店ちょっとだけ寄って見はらへん?地下鉄の駅も近いし?どないどす?」

「そうですね。又の機会というといつになるか分からないので、お店の場所を知るという意味で、少しだけ寄らせてもらいます。」

「おーきに。うち、うれしいわ。今の一樹はんにお店見てもらえたら。マスター、お勘定どす。」

「あ、由布子さん、浦瀬さんに払ってもらってます。この予算と言われていましたので。ご心配なく、渡先生をお連れしてください。でも、その前に、渡先生は、何か隠していませんか?大きなことではないのですが、演説が用意してきたように立派だったので、ふと感じました。いまでも現役でおられるんですか?」

由布子は厳一が突然何を言い出すのかと

「マスター、そんなん言うたら失礼でっせ。」

しばらく沈黙していた一樹は、

「マスターの目は騙せませんね。私が書いた論文が盗作だと言いがかりを付けられて、教授会に取り上げられ解雇になりました。今は細々と自分で研究所を個人事業主の形でやっています。騙すつもりはなかったのですが、浦瀬さんにもお話していなかったので、驚かれると思いました。」

「ほんなら、あの河原町の店の話も?」

「はい。DVDは結局手に入れましたが、由布子さんの言われるように、うそです。」

そこには先ほどまで演説していた立派な一樹の姿はなく、肩を落した中年男の姿だった。

「ほんなら、音吉はんのプログラムも嘘どすか?」

「いえ、これだけはやっと持ち出すことができました。ある意味、研究と看做されていなかったので、見逃されたというか、無視されたというべきかもしれません。私は、このプログラムに賭けていることだけは真実で、逆に言えばそれ以外は創作、つまり、作り話です。アフリカは、なり手がいないと聞いて、応募しました。すぐに職に就きたかったからです。英国留学は、本当です。麻子さんの御尽力です。解雇されてからは、コンビニや、期間労働者として冬は雪国で除雪の仕事をしていました。夏は海の家とかで掃除夫とかもやっていました。母親が亡くなり、少しばかりの蓄えが遺産としてはいったのを機に、昔の仲のいい同僚の薦めもあり、自称研究所を起こしました。今でもコンビニの深夜シフトはやっています。今夜も入っています。」

「ほんなら、何でそれを最初に言うてくれはらかったんどすか?色々とご相談でけたと思いますねんけど?」 

 一樹は答えられなかった。

 沈黙の時間が過ぎた。

「一樹さん、失礼ですが、まだ、由布子さんのこと?」

由布子は驚きの視線で厳一と一樹を交互に見た。

「いい年をして、お恥ずかしい話ですが、正直言って、浦瀬さんから由布子さんが来られると聞いたとき、天にも昇る気持ちでした。表向き、浦瀬さんにはお断りしたのですが、浦瀬さんは聞いてくれないことは読んでいました。私の気持ちは、今も変わっていません。すみません。」

一樹はこれ以上小さくなれないという感じで体を縮めていた。

厳一がそんな一樹の手を取り、起こして、

「一樹さん、よく話していただけました。由布子さんも最初は驚きではあっても、うれしくない筈はありません。そのお気持ちは、大切にされて、ぜひ音吉プログラムは完成させてください。私も及ばずながら、お手伝いさせていただきます。」

一樹の目から涙がこぼれていた。

久しぶりに触れることのできた人の温かみだった。

「一樹はん、驚きましたけど、うち、嬉しおす。よかったら、うちのお店に寄っていかはらへんどすか?」

「そうするのがいい。せっかくだから、色々とお気持ちを話されていかれた方が、明日から音吉プログラムにも集中できるというものです。」

一樹はうなずくばかりだった。

「ほな、行きまひょ。すぐ近くどす。」

由布子は店を出る前に、厳一に会釈をすると、頷いてにっこりとした。目面しいことだ。

由布子は複雑な思いだった。

一途な一樹の気持ちはうれしかったが、自分の気ままな行動が人一人を転落させてしまった。

私には同じことをしてはいけないと心に誓った。


2015年3月4日
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