8月26日(水) かつての準備運動の必要

2009年11月11日 | 練習日記
 児童部については練習の中で、一列になって足の振り回しや馬跳びなどを行うようにした。これらの練習は現在のように練習時間が短縮する前に準備運動として行っていたもので、現在ではしばしば、といった頻度で取り入れていたものである。外の練習(裸足)でこれがしっかり行えるようになると、体育館での練習がより見事に行うことができる。
 こういったことを考えると、以前に30分間外で行っていた練習というのは、指導者の想像以上に効果のある練習であったと思う。
 一般部では支部間の交流大会へ向けての練習を行った。

8月22日(土) 足の踏み込み

2009年08月22日 | 練習日記
8月22日(土) 足の踏み込み

 今回、子ども達の練習では、おんぶをしながらの足の移動や、前蹴の練習を取り入れた。これは普段の立ち方が弱いから強くするために行ったのだが、結果として蹴技が力強く出る思いがけない結果になった。これは体重が増す分、ある程度足腰が安定したためと考えられる(その後おんぶをやめて前蹴をさせたら、おんぶの時より鋭くなくなってしまった)。
 一般部ではI先生より雑巾掛けの工夫したやり方を教わる。これは指先で雑巾を押しながら進めていくもので、普通の雑巾掛けが「量」とすれば、この雑巾掛けは「質」となろうか。意識の集中を指先に継続して集めなければ進むこともままならず、水分の汗が脂汗に変わるような練習であった。
 また、この日は茶帯中学生のMをI先生に見ていただいた(コメント参照)。踏み込みの練習の際に、後ろ足を膝上げするよう指導すると、その前段階である前足の踏み込みが、より強烈になるという実験結果であった。これは追突など他の練習にも転用ができる練習なので、応用していきたい。
 

8月19日(水) お盆明けの練習

2009年08月19日 | 練習日記
8月19日(水) お盆明けの練習

 お盆明けの練習である。休み明け初日なので帯の結びほどきを競わせたり、掛かり稽古をさせたりいつもとは違う練習を行った。また、合宿の反省として体力不足(土台力を含む)を感じたので、児童部、一般部共に雑巾がけの練習を行うことにした。

 雑巾がけは、連続してやらなければ意味がない。私の経験では体育館一往復程度は体力があってもなくても出来る範囲である。それほど疲労はない。だから持久力をつけるためにはある程度の量をこなす必要がある。
 
 他には匍匐前進や背這いなど、変わった練習もやってみた。自衛隊ではこれらを1㎞も荷物を背負ったり、銃を持ちながら行うのだから、私達の練習はピクニック程度のものなのだろう。
 とにかく体づくりの練習を主として行った。空手ができる体をつくって、空手の練習を行わないといけない。

8月8日(土) 尻に火がつかないと人間は動かない。

2009年08月08日 | 練習日記
8月8日(土) 尻に火がつかないと人間は動かない。
 
 児童部の練習は毎回体力づくりを重点的に練習しているが、今日は色帯の面子が揃ったので、約束組手をやらせてみることにした。
 攻撃側は当たらない距離で技を出すので、受け側は相手の技をしっかり見て受けるよう指導するが、目で見て当たらない距離でも少し頭が下がってしまう。これは仕方のないことだが、仕方がなくはない。つまり仕方(=下がらなくさせる練習)はある。それが指導ということで、できないことをできるようにするのが練習である。

 一般部は合宿を通して(より正確には合宿感想文を提出しなければならないため、原稿用紙を目の前にし、ない知恵を絞ってようやくに書き上げた感想文を通して)浦和根岸支部の課題が浮き彫りになってきたので、それを埋めるべく四人組手などを行った。連続して技を繰り出せる体力、土台の安定力が必要である。

8月5日(水)躊躇

2009年08月05日 | 練習日記
8月5日(水)躊躇

 夏合宿後の、練習開始日である。まだ体の奥に疲れがたまっているような感じであり、体が重かったことを覚えている。
 子ども達は元気に練習に参加している。早速合宿の感想文を提出した者もある。感想文というのは記憶が鮮明なうちの方が書ける。それをなにやら理由を付けて付き続けて日がたつと、「億劫」になる、という形に量質転化していく。空手も同じで、躊躇すると、躊躇するための練習をしていることになる。

 一般部の人数は少なかったので、ボディバーを使った棒術の練習を少し行った。練習人数が少ないというのも、とらえ方次第で、悪いことばかりではない。個別の課題に取り組むことが出来るという良い面もある。
 
 こういった、きちんと練習に参加している者こそ、上達させねばならないと私は思う。

7月29日(水) 空手への練習と空手の練習

2009年07月29日 | 練習日記
7月29日(水) 空手への練習と空手の練習

 今日は合宿が近いので型の練習をメインに据えて練習を行った。
 むずかしいのは、体づくりの練習とのバランスである。技は体が支えているので体づくりの練習もおろそかにはできない。創られた体のレベルで、技のレベルが決まるようなものである。
 
 一般部はかなり詰めて練習をしたせいか、短い時間内でも、密度の濃い練習ができたと思う。

7月25日(土)小休止について

2009年07月25日 | 練習日記
7月25日(土)小休止について

 夏真っ盛りといおうか、夏本番といおうか、暖かい日が続いている。以前ぶっ続けで練習をしたら子ども達がバテたということを書いた。そのことでの反省点は、一旦バテてしまうと練習に復帰させるのが難しくなるということであった。だからバテないように、かつ頑張って練習に取り組めるよう、気を配る必要がある。

 児童の場合だと、どうやらちょこちょこと小休止を入れた方が良いようだ。第一に、集中力がもたない。続けてしまうとだらりとしたペースになるので、集中すべき時としない時を分けることが大事だと思う。
 今日は児童部も一般部も足腰の鍛錬と型を行った。
 左右(とかく)いろいろな練習に目を奪われがちになるが、まずもって空手ができる体をつくることが大事である。そこをおろそかにすると、砂上の楼閣となってしまう。

7月22日(水) 押し並べて練習

2009年07月22日 | 練習日記
7月22日(水) 押し並べて練習

 先週の土曜日の練習は私は休ませてもらった。夏休みの陽気のせいか、子ども達の様子が1週間前とは大違いに元気に見えた。しかし!「好事魔多し」というように、こういう時が逆に危ない場合もある。先週の反省をふまえて、少しずつ休みを入れながら練習をするようにしたところ、今日は体調不良の者は出なかった。

 一般部ではまた新しい練習を取り入れた。
 いままでの私は、「人それぞれ個別に上達の課題があるのだから、一斉練習だけでなく、個別練習を行う必要がある」と考えていた。その練習方法は、有用である。しかしそれは指導者が充実してる組織でのみ有用な方法であり、細かく分ければ無限に分けていくことが可能だろう。
 個々の事実から共通する性質を論理として導き出すように、空手の指導の事実、例えば立ち方や手足がどうの、といった事実から共通する性質を導き出せれば、全体としての練習をしながら、全員が上手くなる練習ができるのではないか、と思う。ラジオ体操をわざわざグループ分けして練習する必要はないだろう。それは全員に共通する、体をほぐしたりする運動であるからだ。

7月11日(土)世界一の技が出せるようになる食事?

2009年07月11日 | 練習日記
7月11日(土)世界一の技が出せるようになる食事?

 我々の流派では食事について、体調管理ということもあり、玄米や野菜を食べるように指導(推奨)される。銀しゃりは栄養のある部分を取っているのであり、白米よりも玄米の方が栄養があり、良いというわけである。最近こそ健康ブームなどの影響か、玄米は近所のスーパーなどで見かけるようになったが、昔はなかったのである。
 

 食事指導というのはどんな分野であれ、一流を目指す人間は厳しく指導されているようである。考えてもみれば人間が外から取り入れるわかりやすいエネルギー源といえば、食べ物である。運動や睡眠によっても体は創られるが、その前提となるのはやはり食べ物であろう。

 食事指導を玄米や野菜にしている世界がある。それは「美」を求めるミス・ユニバースの世界である。『世界一の美人になれる食事』という本が発売されている。
 指導者Gがテレビでこれを紹介しているのを観たそうである。内容を要約すると、本の著者自身がこの食事法を学んだのは日本に留学した時の経験が元になっている。ステイ先のおばあちゃんの食事が、玄米や野菜を中心とした食生活だったそうで、著者自身の体調が悪かったのが、食事のおかげで改善していったという。

 美しさをつくる食事も、強さをつくる食事も、頭が良くなる食事も、全て同じだということだろうか?

 空手の練習については、2人組になり、当たらない間合いで一人が素早く突を出し、一人がそれに手を当てるという練習を行った。なぜか私は途中で「相手に触れる自身がない」と思うようになり、それが反映してか、触れることが全くできなくなってしまった。
 肩触り組手では「先の先」ともいうべき技がなんとも難しいということを実感した(もっとも私のは技というよりバクチ的なものであったが)。相打ち覚悟でやる必要がある。1度だけ半分失敗半分成功したが、私としてはきっかけのような感覚がつかめただけでも内心大成功であった。

7月8日(水) きちんと動ける体

2009年07月08日 | 練習日記
7月8日(水) きちんと動ける体

 私自身がランニング中にふくらはぎを痛めてしまい、今日は一緒に体を動かしながらの練習ができなかった。教えることにより、指導者自身も躍動感を持たないと、教わる者も何となくしょんぼりとしたものになってしまう。

 雨が降ったりしている日には、私はラジオ体操を練習に意識的に入れるようにしている。気温の変化というのは体の調子の変化につながっていくから、きちんと動ける体にしていく過程(運動)が必要になる。

 一般部では頻繁ではないものの、護身の練習もたまに行うようにしている。教えていて、教わる側から指摘されて気付いたが、(護身の)練習をする時には、拳を握ってもいない、構えてもいない、という状態から始めないといけない、ということである。相手がいきなり襲ってきた時に対処するのが護身であり、我々は24時間相手に対して身構えている状態ではない。そうでありながら、一旦何かあった時に見事に対処できるように訓練する必要がある。

7月4日(土) からだとこころを鍛える

2009年07月04日 | 練習日記
7月4日(土) からだとこころを鍛える


児童部の練習では、以前の「当てる練習、当てられる練習の不足」の現状をふまえて、段ボールを持っている人間を、両手で押す練習を行った。児童は押す練習はもちろんのこと、高学年は段ボールを持ち、押される練習も後ろに大人が控えて行う。これは技を食らう側の衝撃や、そういった衝撃の対処の仕方を学ぶためである。

 何でも最近の子どもは前に転んだ時に手をつかず、顔面から突っ込んで鼻骨を骨折するといったケースもあるらしい。この子どもはおそらく転んだ経験がなかったのだろう。

 「怪我をしない」というのが絶対的に正しいのではなく、小さな怪我をしながら大きな怪我をしないようになっていくというのが正しい。

 話がそれてしまったが、これも一つの体を鍛える練習である。
 一般部ではリズムに合わせながら、相手まで体を運ぶ練習を行った。これは体力のあるうちは意欲的に相手に飛び込んでいける。しかしバテてくると、だんだん攻める意欲よりも自分の体力を保持する方になってしまう。
 そこを「死中に活を求む」と、突っ込む精神が必要である。お互い自然成長的にやっているので、どうしても大人の方が有利になりがちであるが、受け手と攻め手を分けたり、受け方、攻め方を決めるなどして、段階的に上達できるようにしていきたい。

7月1日(水) 掛かり稽古所感、 焦点を定める練習

2009年07月01日 | 練習日記
7月1日(水)掛かり稽古所感、 焦点を定める練習

 今日の児童部の練習では、中学生相手に掛かり稽古をさせてみた(児童の攻撃技は何でもありで、受け手の中学生は攻撃せずにひたすら受け手である)。
 

 全員を見た所感としては、(毎度の如くしつこいようだが)足腰の強さが足りない。突技が多い。走って突進してパンチ!という感じだ。蹴技は初心者ほど出す頻度は少なく、「蹴も使え」と指導して初めて使用する。移動しながら攻撃しなければならないので、1本足の蹴は不安定さがモロに出て下段蹴になる。
 
 見ていて面白いことが2つあった。ひとつは猿臂(エンピ=肘打ち)を使う児童がいたことである。これは子どもから良いことを学んだ!しかしこれは組手で実用するには、間合いが狭いこともあり当てることは難しかった。使った児童にはアイデアとして良いことは認め、連続技として用いるのが実践的であるということを教えた。

 もうひとつはある小学生の男子Aの攻撃である。彼には姉がおり、その姉は以前ここで私が教えたこともあるのだが、Aの攻撃が姉の組手の仕方そっくりだったことである。

 これはどういうことなのだろうか?

 仮説

 ①姉弟なので、攻撃の仕方も遺伝する。
 ②姉が弟に闘い方を直伝した。
 ③同じ屋根の下で同じような生活をしていると、闘い方も似てくる。

 ①については「人間は教育されて初めて人間になる」という定義からはずれるので、それはない。

 ②可能性としてはありうる。「直伝」というのは冗談だが、姉弟ゲンカにおける闘い方が現れた、とも考えることはできる。

 ③①で「人間は教育されて初めて人間になる」と述べたが、成長過程で本人が記憶していようといまいと、環境によって人間は創り創られていく。

 私の考えとしては②と③、生活が似ていることが主な原因じゃないかと考える。食事、睡眠、運動の生活環境が似てくれば、性格も似て、攻撃技へとつながっていくのではないだろうか?



 一般部では突く位置や蹴る位置が定まるように木の棒を用意し、それに攻撃させるようにした。これはこれでそれなりの効果があった。しかしきちんと当てようとする意識、詳細に言えばきちんとあてないと怪我をするといった意識が先行し、蹴の勢いが弱い突き抜けるというよりも、触る練習に終始してしまった。もっと蹴を外しても怪我をしない、ピンポン球や鞠のような物であれば、勢いの弱まらない蹴が出せたかもしれない、と思った。

6月27日(土) 手の発展をふまえた指導

2009年06月27日 | 練習日記
6月27日(土)


 今日の練習では、足上げと相撲の練習をメインとして行った。
 高学年が練習を仲良しグループで行っているので、男女で相撲をさせる。
 しかし双方加減をしてしまってなかなか勝負がつかず、少し休んで再開したりしている。高学年ともなるとお互いに遠慮してしまうのだろう。お互いに加減せずに思い切りぶつかって練習できるような、上手い方法はないものだろうか。「体をぶつけたりすることになれていないのだから、まずはぶつけたりぶつけられたりといった、ぶつかる訓練から始めねばならないかな」と感じた。

 指導していて反省したのは闘う心があまり現れていないことである。闘う心を創るための挨拶であったり気合であったりするのだから、実際に闘うこと(方法は様々である)を通して、闘う心の使い方の練習もしないといけないな!と感じたことである。

 一般部では、拳が飛んでいくような形になっていない者への指導方法をI先生より教えていただいた。空手よりも、己の五体でない(剣道のような)武器の先端に意識を集中する方が、末端に意識を集中するレベルがより難しい。それに比べれば、空手の練習はeasyであるということだ。

 手は本来、物をつかんだりするために生まれたということを考えると、物をつかんだり、振り回したりする練習も、空手の練習のためには有用だと言うことができる。

6月24日(水) 上達は甘い認識では不可能

2009年06月24日 | 練習日記
6月24日(水) 

 浦和根岸支部では、水曜日は型の練習、土曜日は組手の練習をメインとして行うようにしている。
 型の練習というと、私としては組手の練習と比べておとなしい、もしくは実戦ではない分、格が劣るという印象を持っていたのだが、本来の型はそんなレベルの低いものではない!そうあってはならないのだ!ということを今日は教えながら教わった。
 
 気温が上がり夏に向けて体が動きやすくなった、ということもあろう。しかしなんと言っても気合を入れながらの、足の移動の練習で、型が皆上手になってきている。細かい点を上げれば注意点はあるが、まずは「型で闘う」ことである。

 上達とは、単に何回も繰り返せば良いというような、単純きわまるものではない。そこに目的意識があるかどうかである。
 私自身、体のほぐしを兼ねて行っているラジオ体操でも、同様の経験がある。毎日数回行っているのであるが、なぜかほぐれない日があった。なぜかと思い考えていたら、ふと気付いた。ただ回数をこなせば良い(=ほぐれるだろう)と考えていたのである。目的は体をほぐすことなのだから、その目的に沿って体を動かさなければ大した意味を持たないのである。
 これはラジオ体操のレベルであるが、いずれにせよ、上達するというのは一つの変化であるのだから、今までの自分を変える(=捨てる)必死さが要求されるのである。

6月20日(土)  気合

2009年06月20日 | 練習日記
6月20日(土)  

 今日は前回の反省もふまえて、四股踏みなどの練習を取り入れながら、足腰を鍛える練習を行った。
 子どもの時から大きく気合を出す練習はせねばならない。ビビる認識を闘う心に創り変える必要がある。その認識を創るための気合であり、挨拶である。ここをおろそかにすると、何のための練習であり、大きな声を出す練習であるのかわからないまま、空手を練習させられるハメ(?)になる。だから気合によっても、単に大きな声を出すのと、相手を倒す闘争心のある声とは性質が異なるものである。

 掛かり稽古を今回も行った所、蹴に対する警戒心が上がった。それは前回金的を食らったことによる防衛本能みたいなものであった。