6月27日(土) 手の発展をふまえた指導

2009年06月27日 | 練習日記
6月27日(土)


 今日の練習では、足上げと相撲の練習をメインとして行った。
 高学年が練習を仲良しグループで行っているので、男女で相撲をさせる。
 しかし双方加減をしてしまってなかなか勝負がつかず、少し休んで再開したりしている。高学年ともなるとお互いに遠慮してしまうのだろう。お互いに加減せずに思い切りぶつかって練習できるような、上手い方法はないものだろうか。「体をぶつけたりすることになれていないのだから、まずはぶつけたりぶつけられたりといった、ぶつかる訓練から始めねばならないかな」と感じた。

 指導していて反省したのは闘う心があまり現れていないことである。闘う心を創るための挨拶であったり気合であったりするのだから、実際に闘うこと(方法は様々である)を通して、闘う心の使い方の練習もしないといけないな!と感じたことである。

 一般部では、拳が飛んでいくような形になっていない者への指導方法をI先生より教えていただいた。空手よりも、己の五体でない(剣道のような)武器の先端に意識を集中する方が、末端に意識を集中するレベルがより難しい。それに比べれば、空手の練習はeasyであるということだ。

 手は本来、物をつかんだりするために生まれたということを考えると、物をつかんだり、振り回したりする練習も、空手の練習のためには有用だと言うことができる。

6月24日(水) 上達は甘い認識では不可能

2009年06月24日 | 練習日記
6月24日(水) 

 浦和根岸支部では、水曜日は型の練習、土曜日は組手の練習をメインとして行うようにしている。
 型の練習というと、私としては組手の練習と比べておとなしい、もしくは実戦ではない分、格が劣るという印象を持っていたのだが、本来の型はそんなレベルの低いものではない!そうあってはならないのだ!ということを今日は教えながら教わった。
 
 気温が上がり夏に向けて体が動きやすくなった、ということもあろう。しかしなんと言っても気合を入れながらの、足の移動の練習で、型が皆上手になってきている。細かい点を上げれば注意点はあるが、まずは「型で闘う」ことである。

 上達とは、単に何回も繰り返せば良いというような、単純きわまるものではない。そこに目的意識があるかどうかである。
 私自身、体のほぐしを兼ねて行っているラジオ体操でも、同様の経験がある。毎日数回行っているのであるが、なぜかほぐれない日があった。なぜかと思い考えていたら、ふと気付いた。ただ回数をこなせば良い(=ほぐれるだろう)と考えていたのである。目的は体をほぐすことなのだから、その目的に沿って体を動かさなければ大した意味を持たないのである。
 これはラジオ体操のレベルであるが、いずれにせよ、上達するというのは一つの変化であるのだから、今までの自分を変える(=捨てる)必死さが要求されるのである。

6月20日(土)  気合

2009年06月20日 | 練習日記
6月20日(土)  

 今日は前回の反省もふまえて、四股踏みなどの練習を取り入れながら、足腰を鍛える練習を行った。
 子どもの時から大きく気合を出す練習はせねばならない。ビビる認識を闘う心に創り変える必要がある。その認識を創るための気合であり、挨拶である。ここをおろそかにすると、何のための練習であり、大きな声を出す練習であるのかわからないまま、空手を練習させられるハメ(?)になる。だから気合によっても、単に大きな声を出すのと、相手を倒す闘争心のある声とは性質が異なるものである。

 掛かり稽古を今回も行った所、蹴に対する警戒心が上がった。それは前回金的を食らったことによる防衛本能みたいなものであった。

6月17日(水)  足の動きだけの練習ではない

2009年06月17日 | 練習日記
6月17日(水) 

 今日は私が用事で指導できる時間も少なかったので、空手の練習をメインに行った。ところがこれが結果的に失敗だった。みんな頑張って技の形をとろうとしているのだが、土台の方に注意がまず向いてしまう…。

 一般部でも、「空手を学ぶためにはまず、(空手ができる)人間としての体を創らなければならない」と指導されるが、児童部を教えているとこのことがよくわかる。端的には足腰の鍛錬である。 土台の強化と平行して空手の技を学んでいかないと砂上の楼閣で、成長期とあいまって簡単に崩れて言ってしまう。

 一般部もそういうわけで、足腰の練習ばかり行った。しかしそれだけで型が上手くなっているから驚きである。考えてみれば足腰の動きも気合いをいれて練習している。結果、その(意欲的な)認識でもって足を動かすのだから、自然と足を動かす時の認識も「足を前に出す」といった単調なものでなく、「ヨシ!行くぞ!」とでもいうような、勇猛果敢なものへと変わり、それがまた、足腰を強化していく……といった、認識の面をも指導している練習なのだ、と分析した。

6月13日(土) 白は汚れても白!

2009年06月13日 | 練習日記
6月13日(土) 白

 今日の練習では掌底で木に当てさせたり、段ボールを持って体当たりさせるなどの練習を行った。これは当たった時などの感覚を覚えたりする練習である。
 
 相撲もあえてこけるように、男女で組ませたりした。これは倒すのも練習であるが、こけるのもまた練習である。高学年になると胴着が汚れるからこけるのを嫌がるのは前もってわかっていたので、概略こんなお話をした。

 「白というのは汚れても白だ。胴着というのはちょっと汚れているくらいがかっこいい。話しは飛ぶけれど、瀬戸大橋という中国地方と四国地方を結ぶ橋がある。これを建てる時に、橋の色は何色にしようかという話になった。汚れが目立ちにくい色(おそらく灰色あたりかと思う)がいいんじゃないか……というところで、話しが決まりそうであった。けれどもある人(リーダー格の人と思われる)が白がいい、とこう言った。そうしたら「白では汚れが目立ちすぎる」と当たり前のよう批判された。これに対して「白は汚れても白である」と反論したそうだ。そういう話しがあって瀬戸大橋の色は白である。……最近は柔道でもカラー柔道着になったりしているが、もともとは白だった。白というのは日本人のきれいな心を表しているようなものなんだ。話は飛んでしまったが、白は汚れても白だ。だから相撲で胴着を汚しなさい」

 話の元は昔、夜中にチラッと見たプロジェクトXの再放送だったと記憶している。「白は汚れても白だ」は妙に心に残った言葉であった。会話として成立はしているが、この「白」というのは自然環境の豊かな、日本人の精神の象徴として挙げているのだと思う。言ってみれば単に橋を造るだけでなく、「日本を代表する橋を造るんだ!」という精神の高みとしての白なんだと思う。


 一般部ではファウルカップを付けずに掛かり稽古をしたところ、初めて金的をくらってしまった。痛みが継続するのでしんどいものである。痛みには、戦闘意欲が衰えない痛みと、戦闘意欲が激減する痛みとの2種類があるが、金的の痛みは後者である。
最近の健康状態がそれなりに良いと思っていたが、組手における0コンマ何秒に如何に像を描き、そしてそのレベルで体を動かすレベルには、オマエはまだ達していないのだ、「自惚れるな!」とお叱りを受けた気がした。