「戦後50周年の終戦記念日にあたって」(いわゆる村山談話)
1995年8月15日
敗戦の日から50周年を迎えた今日、わが国は、深い反省に立ち、独善的なナショナリズムを排し、責任ある国際社会の一員として国際協調を促進し、それを通じて、平和の理念と民主主義とを押し広めていかなければなりません。同時に、わが国は、唯一の被爆国としての体験を踏まえて、核兵器の究極の廃絶を目指し、核不拡散体制の強化など、国際的な軍縮を積極的に推進していくことが肝要であります。これこそ、過去に対するつぐないとなり、犠牲となられた方々の御霊を鎮めるゆえんとなると、私は信じております。
「杖るは信に如くは莫し」と申します。この記念すべき時に当たり、信義を施政の根幹とすることを内外に表明し、私の誓いの言葉といたします。
南京大虐殺
原爆投下や東京大空襲ばかり取り上げて、 日本のテレビや教科書が重慶爆撃を取り上げないのは問題だと思います。 (視聴者のコメント)
731部隊
ニュース257号
長崎市への原子爆弾投下は、第二次世界大戦(太平洋戦争)末期の1945年(昭和20年)8月9日(木曜日)に、連合国のアメリカ合衆国が枢軸国の日本の長崎に対して原子爆弾「ファットマン」(以下原爆と記す)を投下し、午前11時02分に炸裂[1]した出来事である。この原子爆弾が人類史上において2回目かつ実戦で使用された、2024年時点では最後の核兵器である。
原爆の投下により、当時の長崎市の人口24万人(推定)のうち約7万4千人が死亡、建物は約36%が全焼または全半壊した。
長崎県、長崎市を指す「長崎」が「ナガサキ」と片仮名表記される場合は、長崎市への原子爆弾投下に関する言及である場合が多い。
日航123便の怪(1985年8月12日)
●東京帝国大学伝染病研究所
伝染病研究所の写真は、『傳染病研究所』小高健著より
●東京帝国大学伝染病研究所『実験医学雑報』
・東大伝研とは戦前、どんなことをやっていた機関なのか?
・1934年6月、宮川米次と阿部俊男は何をしに満洲国へ行ったのか?
・満洲衛生技術廠とは、一体何をやっていたところなのか??
・東大伝研は731部隊と連携を図っていなかったのか??
・伝研で毒ガスの講演?毒ガスへの対処法も考えることになるのか??
・小島三郎の渡満では、満洲衛生技術廠や大連衛生研究所にもいったのだろうか?
・1933年頃から細菌兵器開発の一環として、「満洲」の背蔭河では人体実験が行なわれているが、そこでも赤痢菌の研究が行なわれていたのだろうか?35年の川崎市の爆発赤痢は、人為的に行なわれたものなのか?それとも自然流行なのか?
・1936年5月に浜松一中で大福餅事件、37年9月に大牟田で爆発赤痢事件が起きているが、これなども細菌兵器・研究の一環として軍医学校や伝研の関与による仕掛けられたものか、自然に発生したものか究明する必要がある。
・1936年5月と37年9月の両事件に、小島三郎が出張しているが、果たして何をやったのであるか??
・河本禎助も毒ガスの研究をしていた。
・1938年6月1日の伝染病研究所で石井の厚意によって上映された映画には、731部隊の生体解剖でも映っていたのでであろうか?
精神的緊張裡とは、何のことだろうか?
・実験医学雑報20巻 第7号(1936年)
本所職制改正
この度本所では職制を次の如くに改正し7月より実施することとなった。
*特別研究室とは何だ??
・中込亘は、731部隊で細菌に感染して死んだのだろうか?
雑報4号(23巻、1939年)
人事異動報告
発令月日 辞令 官職 氏名
2.28 依願解嘱 酒井菊雄
〃 伝染病研究所業務を嘱託す 西尾憲三
3.8 研究生入学許可 廣瀬茂一
3.15 任陸軍軍医少尉
見習医官(技手) 神子謙
3.18 兼任伝染病研究所技師
叙高等官3等
厚生技師兼内務技師
傷兵保護院技師 正五勲五 南崎雄七
3.17 満期退学 (応召中) 高野正男
3.20 任陸軍軍医少尉
衛生軍曹(嘱託) 軽部彌生一
〃 〃 森藤靖夫
3.25 中華民国へ出張を命ず 技手 細井輝彦
3.31 伝染病研究所業務を嘱託す 大島皇吉、上条彰一、高橋秀雄
野上嘉雄、石井和夫
〃 依願免本官 技手 穂永茂夫
〃 伝染病研究所業務を嘱託す 穂永茂夫
●昭和天皇(ハーバード・ピックス著『昭和天皇』より)
吉田裕監修
吉田裕監修
2001年ピュリッツァー賞受賞
※昭和天皇は、平和主義者でもなんでもなかった。
好戦的であり、常に軍部に色々と指示を出していた!!
戦後補償問題に国家無答責という天皇主権の明治憲法下の原則を適用するな!!
第3部 陛下の戦争
第7章 満州事変
錦州事件を乗り切ると、宮中グループの関心は国内の政治危機に向けられた。参謀本部の急進派、橋本欣五郎大佐の秘密結社桜会は1931年3月、そして10月にもう一度、政権転覆により一挙に問題を解決することを決定した。橋本の3月の計画は露見し、共謀者は逮捕された。原田男爵は3月事件のことを知り、満州の危機は「陸軍のクーデタの序幕」であり、それは「一部の軍人に、満洲で成功したから必ずまた内地でもうまく行く、との確信を固めさせた」と語った。陸軍が10月の陰謀を隠蔽しようとしていたとき、奈良、鈴木そして金谷参謀総長は事件を天皇に奏上していた。11月2日、金谷は天皇にふたたび拝謁し、「支那事情及不軍紀事件の始末を奏上」した。しかし、天皇も、軍上層部も、陰謀者を罰することを求めなかった。結局、彼らは寛大に扱われ、拘禁を解かれると、その罪はすぐに忘れられたのである。
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