●今の情報を公開しない姿勢は、戦前からずっと続いている!!
秘密保護法施行・・・何を政府はたくらんでいる?
防衛の名のもとに、軍事力は増強されている!!
特定秘密保護法はジャーナリズムに何をもたらすか(ラジオフォーラム#158)
ちょっと古いが、参考になる本なので紹介します。1972(昭和47)年10月9日初版藤井治夫著『日本の国家機密』より
第二章国家機密の構造
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国家機密と軍事機密
戦前の国家機密
軍機保護法は1937(昭和12)年に大改悪され、その第1条に 「本法二於テ軍事上ノ秘密卜称スルハ作戦、用兵、動員、出師其ノ他軍事上ノ秘密ヲ要スル事項又ハ図書物件ヲ謂フ」(第1項)と定義されるにいたり、その種類範囲は陸海軍大臣が命令を以て定めることとされた 。これにより陸軍省令は「宮闕守衛」「国防、作戦又ハ用兵」「編成、装備又ハ動員」「国土防衛」「諜報、防諜又ハ調査」「運輸通信」「演習、教育又ハ訓練」「資材」「軍事施設」「図書物件」に関する事項を50項目にわたり指定したのである。このうち資材、図書物件に付する標記は、「軍事機密」「軍事極秘」「軍事秘密」の3段階に区分されている。海軍省令もほぼ同様であるが、軍事上の秘密に属する図書物件には「軍機」「軍極秘」の標記を付すことになっていた。海軍の場合、ほかに「秘」があったが、これは軍事機密に含まれていない。軍機保護法によって保護された軍事機密は一応、統帥事項であったが、それと関連あるものも「其ノ他軍事上ノ秘密フ要スル事項」であるとされ、無限に拡大されたのである(軍機保護法については日高巳雄『軍機保護法』参照)
南京大虐殺があったことは国民に知らせず、陥落を喜ぶニュース映像!
南京陥落 東京の風景
●南京大虐殺
・証言
1937年の12月12日のお昼に、日本軍が城内に大砲を撃ってきて、中山路では人がたくさん死にました。夜になって日本軍が入って来始めたのですが、その時私は寧海路の陰陽営難民区の筵小屋に住まっていました。入って来た明くる日、私は様子を見に家に戻ろうと思って、寧海路まで来たら、日本軍が寧海路の角に機関銃をたくさん据え付けていて、通れませんでした。3日目の午前中に難民区で戸別捜査をし、およそ頭を刈ったばかりの人は、中央軍とみなして一律に捕まえました。家では2人捕まって行きましたが、1人は父の見習いの張小年で、もう1人は従兄の蘇慶源でした。午後2時前後に、丁家橋から鼓楼にかけて、日本軍の機関銃が何時間も響き、撃ち殺された中国人は数えられませんでした。
12月18日、私は難民区で日本軍に捕まりましたが、その時日本軍は物をいっぱい略奪していて、物を背負わせるのに私を捕まえて行きました。(明日に続く:陳家栄が記録)
南京大虐殺 世界記憶遺産登録で世界の教科書に掲載可能性も
●日本や中国各地に毒ガスが遺棄されている!!生活に支障をきたさないのか?
相模海軍工廠・寒川と平塚にあった秘密毒ガス工場
北宏一朗
自衛隊は防護のためと称して昭和20年代後半から毒ガスの研究をし、1964年にはサリンを合成し、VXガス、タブンも作った。最新の無能力化ガスBZは1973年に成功している。1970年日本政府ジュネーブ議定書締約、1993年化学兵器禁止条約日本署名、1994年6月松本サリン事件、1995年3月地下鉄サリン事件発生、自衛隊とオウムの関係は?
2013年度の「核・生物・化学兵器対処関連事業」費71億8200万円。何に使っているのだろうか?
週間金曜日 2013年6月28日号
自衛隊とサリン 第6回
死者13人、約6300人の被害者を出した地下鉄サリン事件(1995年3月20日発生)
・サリン合成に成功したのは東京オリンピック(1964年)の年だった。
※国威発揚のオリンピックと戦争は大いに関係した。(1940年の東京オリンピック、日中戦争の影響等から日本政府が開催権を返上、実現には至らなかった。この年皇紀2600年の記念行事として準備が進められていた。)
・1973年、当時最新の毒ガスBZガスの合成に成功。
「大宮駐屯地グランドに毒物入り一斗缶10缶を埋めた」
・「われわれはモルモットかよ!」-新型防護マスクの“人体実験”
・環境汚染の恐れは無いか、近くに民家や学校も
・「今も続く毒ガス製造と遺棄の解明が必要」
・防衛大臣、化学学校ともに事実上の取材拒否
サリンなどの毒ガス製造が「防護目的」であれば、つまり兵器として使用しなければその製造が許されるとしたら、同じ理屈で核兵器の「防護研究」も可能ということになる。
日本は国内外にも約44トンのプルトニウムを保有している(2012年9月、日本政府発表)。核兵器1発に使用されるプルトニウムの量は約4キログラム(IAEA=国際原子力機関によると倍の8キログラム)とされるので、数字上は5500~1万1000発の原子爆弾を作ることが可能だ。
陸上自衛隊の毒ガスは、どこまでが「防護研究」なのかを明確にしないまま、極秘裏に開発が進められた。そのため、国民(国会)のチェックはおろか、その事実さえ知られずに半世紀にわたりサリンが作られ続けてきたのである。
戦争前は「防護目的」、戦争になったら大量生産?毒ガス兵器、核兵器!!こんな構図か?
・非核3原則も嘘!!
本来、アメリカが出すべきお金を、日本政府が肩代わりして出していた現実!!
こんな問題もあった!!沖縄密約
沖縄毒ガス
日本軍の毒ガス被害
昭和天皇の“沖縄メッセージ”
●731問題
・「ABC企画NEWS第100号」より
―写真で学ぶ『高知と戦争』展―
関心を集めた「731部隊と高知」
平和資料館・草の家 副館長:岡村啓佐
・・・・
・四国4県出身兵士が731部隊を支えた事実に衝撃
『731部隊と高知』では、731部隊で安達(アンダー)での野外実験など様々な生体実験に関わった(故)尾原竹善さんの証言は参加者に衝撃となって、改めて戦争とは何かを感じ取っていただいたようです。尾原さんの証言をまとめた資料は追加印刷しその数は800セットを超えました。
また731部隊には6つの中心支隊・機関が存在し、その支隊に高知県人で編成されたハイラル支部(543部隊)があり、4名の部隊員の「ネズミを捕まえ、飼育する」「ネズミを入れる籠を作り、この籠にペスト菌を注射したネズミを入れて731部隊に送った」との証言も熱心に読んでいました。
そして、林口に「162部隊」(香川県出身)、孫呉に「673部隊」(徳島県出身)、海林に「643部隊」(愛媛県出身)などの各支部があり、731部隊が四国4県の兵士らによって支えられていた事実に皆一様に衝撃的に受け止められたようです。
終戦50周年731部隊1
終戦50周年731部隊2
・731部隊→ABCC(被爆者は治療もされずに、原爆の影響を調べられた。・・・731部隊員の協力)→放影研→重松逸造・・チェルノブイリ原発事故について・・・汚染地帯の住民には放射能による健康影響は認められない。→福島原発事故・・原子力を進めてきた人たちは、福島で今、甲状腺がんが多発しているけれども、それは被曝との因果関係はないと主張している。
朝枝繁春の証言
なぜ、日本政府は、731部隊の生体実験、細菌戦を認め、謝罪しないのか?
731部隊のドキュメンタリー
アメリカは、将来の戦争で毒ガスや細菌兵器を有効な手段として使うかもしれないということで、東京裁判では、毒ガス・細菌戦などは追及しなかった!!
毒ガス戦はなぜさばかれなかったのか?
※しかし、これは、アメリカにとって「後日、深刻な問題をもたらす」ことになるのではないか?
・但是,如果这是不是成为“在以后的日子,造成了严重的问题”的事情对美国?
・그러나 이것은 미국에게 "나중에 심각한 문제를 초래"하게되는 것은 아닐까?
・However, if this is not to become "at a later date, resulting in a serious problem"thing for the United States?
・Однако, если это не становится "на более поздний срок, в результате чего серьезные проблемы" вещь для Соединенных Штатов?
・Jednakże, jeśli nie jest to, aby stać się "w późniejszym terminie, w wyniku poważnych problemów" rzecz dla Stanów Zjednoczonych?
・Wenn dies jedoch nicht, sich "zu einem späteren Zeitpunkt, was zu einem ernsten Problem", was für die Vereinigten Staaten?
・Toutefois, si cela ne veut pas devenir ≪à une date ultérieure, résultant en un problème grave" chose pour les États-Unis?
アメリカは、ハルピンの731部隊に於ける人体実験、生体解剖、奉天の捕虜収容所における731部隊員による米兵らに対する人体実験、また、化学戦部隊516、526部隊等と組んで行った悲惨極まりない毒ガスの人体実験を、東京裁判で裁くことなく見逃してしまったからだ!!
ドイツのニュルンベルクの裁判では、人体実験に加担した医学者が厳しく裁かれた。ところが、東京では、戦犯免責だ!!このダブルスタンダード!!
「結局、ワシントンは「国家の安全」を理由に731部隊の免責を是認した。免責付与是非を論じる米軍高官の覚書の中にはこんな一文がある。
彼(石井)らの人体実験は、本政府が目下ニュルンベルクで、ドイツの科学者および医学者をそれゆえに訴追している人体実験とはそう違わないものである」
(『731免責の系譜』太田昌克著より)
・日本政府・医学界は731問題を真剣に反省し、国立の「731・細菌戦資料センター」を作ったらどうか?
医の倫理は、向上すると思う!!
中国の虚空を日本人に慰霊されない多くの犠牲者の霊がさまよっている!!
夏草をふみしめ遺跡の前に跪(ひざまず)く
オバケ煙突の下、不気味に笑う悪魔の目鼻
ここで焼却されたマルタは虚空に消えた
その無念の粒子を今なお人々は呼吸する
この空間には癒されぬ死の怨霊がくすぶり続ける
だが誰もそのことを声高に語ろうとしない
【「哈爾濱(ハルビン)残照「731」の記憶 田中寛著】より
日本人よ、血の債務をあがなえ!終戦から70年、いまだ消えぬ731部隊の傷跡―仏メディア
混声合唱組曲「悪魔の飽食」(池辺晋一郎指揮)
・「特殊部隊731」
秋山 浩著 (三一書房 1956年6月30日 発行)
第2部
うずもれた青春
ところが、部屋の前に立った途端に、近江属のとげとげしい声が聞こえた。
浜中もまだ帰っていず、森島と来住野が床の上に膝を折って神妙な顔付でかしこまっている。
「どこへ行っていたのか?」
近江属は、なめるように私の全身を見回した。
「散歩に行って参りました」
と、私は答えた。
「浜中のまねをしてるんじゃあるまいな?」
「浜中が、何かしたのでありますか?」
「官舎のまわりをうろつくんじゃないといってるのだ。さかりのついた犬みたいにな」
浜中が頻繁に今戸嬢とあっているのを、私も気付いていた。近江属はいつかのことを根にもっていて、浜中をとっちめようとしてやって来たものらしい。
「浜中はどこへ行ったのか?」
十分承知の上での質問であった。
(参考)
イレッサ訴訟
子宮頸がんワクチンの危険性 - Thinker
子宮頸がんワクチン接種、通学できぬ少女 推奨中断2年
ワクチンについて シェリー・テンペニー博士
厚生省・国民健康保険について(消えた細菌戦部隊より:常石敬一著より)
医務局長としての小泉の実績は、確かに先の、「意欲・鋭さ・執拗さ」という言葉に見合ったものとなっている。すなわち今日の厚生省及び国民健康保険法を作ったのが小泉であった。
※小泉親彦(ちかひこ)・・・陸軍軍医学校校長、陸軍軍医総監、陸軍医務局長、厚生大臣を歴任、毒ガス戦、細菌戦を積極的に推し進めた人物
1945年9月、自決。
・・・・・・
健兵対策の一環として厚生省は設立されたのだった。こうした設立の経緯が、今日の厚生省の弱者に冷たく、福祉行政に消極的な理由となっているのかもしれない。
真実を知ろう!!(権力側が流す情報にだまされるな!!)
黒い太陽№15
ガン治療のウラ 7/8
「電磁波に近づいてはいけない」船瀬俊介の船瀬塾
医学革命!
軍陣医学(戦場医学)から「活人医学」へ
「悪魔の飽食」から「小食へ」(体質改善への道)
医師 甲田光雄3/6 ラジオ深夜便
●ハーバード・ピックス著『昭和天皇』(下)より
第12章
大元帥の試練
V
アメリカの報道は、硫黄島を技術、火力、戦術から生身の敢闘精神まで、すべての点でアメリカが優越していることを示す象徴とした。硫黄島の摺鉢(すりばち)山の山頂に勝利の星条旗を掲げたアメリカ海兵隊の写真は、事実を一部歪めたものであったが、〔この写真は、実際には2度目の星条旗掲揚の場面を撮影したものである〕、ひたすら勝利を追求する勇敢な海兵隊を称えるものであった。東京の大本営防空壕のなかで、昭和天皇もまた「皇軍」の敢闘精神、死をいとわない戦闘意欲について硫黄島を見つめていた。天皇は、最後の本土決戦に向け準備を整える時間稼ぎのために、すべての島々の守備隊に外堀となることを命じていた。守備隊の使命は、できる限り米軍に出血を強いることであった。硫黄島守備隊の司令官、栗林忠道中将は、これを忠実に実行した。事実、約2万名の日本守備隊は玉砕するまで戦い、アメリカ軍は約7000名が戦死し、1万9000名が負傷した。昭和天皇は、必死の守備隊がアメリカ海兵隊の侵攻を苦しめ、日本軍を上回る損害を与えたことに満足していた。ガダルカナルがそうであったよように、硫黄島も試金石だった。そして、天皇は日本の敗北を認め、これに対処することを頑なに拒むことで、このような将兵たちの死に拍車をかけたのだった。
瀋陽軍事裁判 「731榊原、満州国次長古海、皇帝溥儀等の証言、アヘン政策、三光作戦鈴木啓久 」
●『天皇の陰謀』
天皇裕仁はかく日本を対西洋戦争に導いた
ディビット・バーガミニ 著
松崎 元 訳より
第三章
敗戦
(その1)
受諾内閣
木戸の召喚に応じ、平沼は直ちに、彼が勤務する枢密院事務所より宮内省舎へ徒歩でやってきた。平沼は、木戸の事務所に入ると、「今朝、入れ歯が家とともに焼けてしまってね。これでは、家とともに、入れ歯も新調せねばなるまい」と、口をもぐつかせて言った。
一時間もしないうちに、平沼と木戸は、天皇の叔父である東久邇宮を首班とする推薦閣僚名簿を作成した。東久邇というのは、皇居外の橋の上に立ち、「来たいなら来てみろ」と、アメリカ人に向って大声で叫んだとされる、その人物であった。人々は、皇室が敗戦の責任をいさぎよく引き受けていると理解しようとしていた。そしてアメリカ人は、日本が皇室を平和を望む人々と理解しようとしていると考えていた。
全文は「ノブのノート」で!!
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