核・戦争のない世界!!

2024-06-05 12:04:51 | Weblog
「戦後50周年の終戦記念日にあたって」(いわゆる村山談話)
                             1995年8月15日

 敗戦の日から50周年を迎えた今日、わが国は、深い反省に立ち、独善的なナショナリズムを排し、責任ある国際社会の一員として国際協調を促進し、それを通じて、平和の理念と民主主義とを押し広めていかなければなりません。同時に、わが国は、唯一の被爆国としての体験を踏まえて、核兵器の究極の廃絶を目指し、核不拡散体制の強化など、国際的な軍縮を積極的に推進していくことが肝要であります。これこそ、過去に対するつぐないとなり、犠牲となられた方々の御霊を鎮めるゆえんとなると、私は信じております。

 「杖るは信に如くは莫し」と申します。この記念すべき時に当たり、信義を施政の根幹とすることを内外に表明し、私の誓いの言葉といたします。

 

 
南京大虐殺 
 
南京大虐殺(マギーフィルム) パネー号撃沈






 重慶爆撃               
原爆投下や東京大空襲ばかり取り上げて、 日本のテレビや教科書が重慶爆撃を取り上げないのは問題だと思います。 (視聴者のコメント)

    

731部隊展




 原爆    

 

ナガサキの歩みと平和活動
ナガサキで起きたこと
長崎原爆の翌日に爆心地から1キロ地点撮られた母と子の写真を見ると、やけどで体の一部が黒くなっていて、当時の被害の大きさなどを知ることができます。

広島への原爆投下から3日後の8月9日午前11時2分、長崎にアメリカ軍B-29爆撃機から2発目の原子爆弾が投下されました。この原爆は、広島に投下されたウラン235を原料としたものとは異なり、プルトニウム239が原料である、より強力な原子爆弾でした。
その威力は広島の1.5倍であり、甚大な被害を及ぼしました。9日朝は警戒警報が出ていましたが、午前10時には解除され、多くの市民が仕事や学校へ赴き生活している中で、突如起きた悲劇でした。
 
 
日航123便の怪(1985年8月12日)
 
     
 
●東京帝国大学伝染病研究所
   伝染病研究所の写真は、『傳染病研究所』小高健著より
 ●東京帝国大学伝染病研究所『実験医学雑報』
・東大伝研とは戦前、どんなことをやっていた機関なのか?
・1934年6月、宮川米次と阿部俊男は何をしに満洲国へ行ったのか?
・満洲衛生技術廠とは、一体何をやっていたところなのか??
・東大伝研は731部隊と連携を図っていなかったのか??
・伝研で毒ガスの講演?毒ガスへの対処法も考えることになるのか??
・小島三郎の渡満では、満洲衛生技術廠や大連衛生研究所にもいったのだろうか?
・1933年頃から細菌兵器開発の一環として、「満洲」の背蔭河では人体実験が行なわれているが、そこでも赤痢菌の研究が行なわれていたのだろうか?35年の川崎市の爆発赤痢は、人為的に行なわれたものなのか?それとも自然流行なのか?
・1936年5月に浜松一中で大福餅事件、37年9月に大牟田で爆発赤痢事件が起きているが、これなども細菌兵器・研究の一環として軍医学校や伝研の関与による仕掛けられたものか、自然に発生したものか究明する必要がある。
・1936年5月と37年9月の両事件に、小島三郎が出張しているが、果たして何をやったのであるか??
・河本禎助も毒ガスの研究をしていた。
・1938年6月1日の伝染病研究所で石井の厚意によって上映された映画には、731部隊の生体解剖でも映っていたのでであろうか? 精神的緊張裡とは、何のことだろうか?
 ・実験医学雑報20巻 第7号(1936年) 本所職制改正 この度本所では職制を次の如くに改正し7月より実施することとなった。 *特別研究室とは何だ??
・中込亘は、731部隊で細菌に感染して死んだのだろうか?
 
雑報6号(23巻、1939年)
伝染病研究所創立41周年記念日に当り医学界を展望して所感を述ぶ
                     宮川米次
 
2、昭和13年度に於ける人事異動
 昨年度は本所の事業は画期的に多忙でありまして、所員の数も著しく増加し一躍600名有余名、となっているのであります。主任級の異動人事としては、昨年6月内野豊生拍が長崎医科大学に転任なられ、その後任として同年12月淺野三千三博士が金沢の薬学専門学校より栄転せられ、東京帝国大学教授となり、本所の化学部を主宰せられることとなったのである。昨年3月退職せられた城井尚義博士の後任として、奉天の獣疫研究所より山極三郎博士が同年11月栄転せられ、本所は同君を迎えるに新たに獣疫研究室を設けたのであります。本年1月加藤源三兼任技師の急逝によって、南崎雄七博士が厚生省防疫課長として、その後を受けて、兼任技師となれました。又本年3月東京市衛生課長酒井菊雄君が台湾に転任せられ、その後任西尾憲三君が本所の嘱託となられました。
 
 
 
 
●昭和天皇(ハーバード・ピックス著『昭和天皇』より) 吉田裕監修  
2001年ピュリッツァー賞受賞 
※昭和天皇は、平和主義者でもなんでもなかった。
 
好戦的であり、常に軍部に色々と指示を出していた!!
 戦後補償問題に国家無答責という天皇主権の明治憲法下の原則を適用するな!!   
 
第3部   陛下の戦争
1931(昭和6)年―1945 (昭和20)年  
 
第7章 満州事変
 
 犬養の就任当初、陸軍は、宇垣派の中心メンバーである金谷参謀総長を追い出して、皇族の長老である閑院宮〔載仁(ことひと)〕を参謀総長に推戴することで、軍と皇室のつながりを強化した。海軍は、ロンドン海軍条約の支持者の追放を主導した伏見宮博恭を軍令部総長とすることで、これに呼応した。ふたりの強硬派の任命は、陸海軍大臣の権威の衰退を意味していた。対立する陸海軍は、いまや天皇に影響力を持ち、アジア大陸に展開した軍隊を統制するために高貴な皇族の「権威ある人物」を利用することが可能となった。
 
 
 
 
 
 
 

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