細菌戦の系譜!!

2021-10-12 11:16:36 | Weblog

  日本は、日中戦争で国際法に違反して、細菌戦、毒ガス戦、無差別爆撃を行った。日本政府は、この事実をきちんと認めていない!!

 ●『細菌戦部隊』

731研究会編   1996年9月(核時代51年)初版発行

Ⅱ 関連部隊・支部

ネズミを集め、ノミの飼育

フンドシ一丁の体にノミが・・・・

 

伊藤影明(いとうかげあき)

1855部隊

(略歴)

1924年生まれ

1943年 北支那派遣軍甲第1855部隊部隊配属

1944年 発疹チフスで入院

1946年 帰国

■この証言は1992年3月の戦争体験を語り継ぐ会(横浜)、731研究会の学習会での発言(94年11月)をもとに本人がまとめたもの。

 

解説ー甲1855部隊  西野瑠美子

伊藤氏が第3課建物内部に監禁されていた中国人“捕虜”を目撃したのは1945年2月のことであったが、第3課にいた他の元隊員は、1944年の夏過ぎに3日に渡って計17名の中国人捕虜第3課に連行したことを証言している。彼らは北京市豊台の捕虜収容所から連れてきて、第3課で細菌実験を行ったという。それ以外にも、1942年に2人の中国人捕虜に対して人体実験が行われたという証言もある(『細菌作戦』同文館)。これらについては『季刊・戦争責任研究第9号』(「北京甲1855部隊の検証」西野瑠美子、日本の戦争責任資料センター刊)に詳しい。

 さらに人体実験が行われていたのは本部だけではない。特に済南支部では、かなりの回数に渡って人体実験が行なわれたと思われる(前掲『細菌作戦』参照。

 一方、大快良明氏の証言によれば、シンガポールの9420部隊では、東京の軍医学校からペストノミの生産に必要なネズミを大量に宰領(管理)していたが、1855部隊もこれと同様に年2回軍医学校にネズミの受領に出かけていた。 

 
 
 

●証言

生体解剖(旧日本軍の戦争犯罪)

中央档案館

中国第2歴史档案館

吉林省社会科学院編

 

江田憲司

兒島俊郎

古川万太郎編訳

 

 

 

 

 

Ⅰ東北

 

2 華北

1、河北

 

林吾夫自筆供述書(1954年4月20日)

1944年5月、解剖実験を行うため、私は旅団長の許可なしに、勝手に旅団司令部が拘留していた2名の捕虜を保定の陸軍病院に引き渡した。私の記憶では、旅団司令部の空き地で防空壕を作っている時に、旅団司令部情報係の黒江中尉が「保定陸軍病院のある軍医(当時野田軍医であったかどうか、今では記憶にない)が解剖をするために捕虜2名を欲しがっているが、どうだろうか」と聞いてきた。このとき私は旅団長の許可を得ることなく、その場で引き渡すことに同意した。私が許可したので、その後のことは旅団司令部の黒江中尉が全て処理した。

(1)119‐2、855、1、第4号

 
 
 

●毒ガス戦

・『日本軍の毒ガス兵器』  松野誠也著

第6章 アジア太平洋戦争期の毒ガス戦

4 毒ガス戦をめぐる 日米の確執 アメリカ軍の毒ガス戦論計画と日本軍

 

毒ガス戦の中止へ

このような連合軍側の動きに日本軍は敏感に反応した。参謀本部作戦部長・真田穣一郎少将の業務日誌には、7月12日から15日の間に「大局上直ちに禁止すること(あか筒)」と記されているので(参謀本部第一部長真田穣一郎少将「真田穣一郎日記」)、参謀本部がくしゃみ性・嘔吐性ガスの使用禁止を決定したことが分かる。

 この決定は直ちに戦線に伝達された。第11軍の高級参謀・島貫武治大佐の日誌には、7月13日に特種煙及び特種弾の使用を禁止せらる。米軍に使用の口実を与えざるが為なり」とある(島貫武治「1号作戦、第11軍の統帥」)。また、畑俊六支那派遣軍総司令官の7月15日の日記には「衡陽の攻撃は弾薬不足に起因し、15日より再興することとなり、且迫撃砲を以てする赤筒の使用は相成らずとの事にて、第11軍は折角相当赤筒を準備したるに大本営は重慶(中国国民政府)の宣伝に驚き、瓦斯弾使用は米をして瓦斯使用の口実を得せしめるものとし、折角の処にて使用を中止せられた」とはあるので(伊藤隆/照沼康孝編『続・現代史資料第4巻 畑俊六日誌』)、大本営は、日本軍の毒ガス用に対する中国国民政府の非難をきっかけとしてアメリカ軍が先制的な毒ガス戦を発動するではないかと恐れ、慌てて毒ガスの使用を中止させていたことが分かる。

 
 
 
 

 
 

・『日本の中国侵略と毒ガス兵器』 歩平著(山邊悠喜子、宮崎教四郎訳)明石書店 1995年発行)

 

第7章 残虐な毒ガス戦

 

動かしようのない事実

 

 

武漢戦役(1938.6.7~11.12)

同時に、日本軍は日本国内及び中国華北などから多数の化学部隊を移転させ、各参戦師団に配置した。その概要は次の通りである。

第11軍の長江両岸に沿った進攻

 

 

 蒋介石は9月13日、何応欽に充て次のような電報を打った。
「敵軍の松陽橋東南高地への3度にわたる持久性毒ガスの放射によりわが軍の前進は阻止され、被害は甚大となった。同陣地一帯の毒ガスはまだ飛散しておらず、進入は不可能。なお陣地にある負傷兵救出のため、大量の消毒剤及び防毒マスクを携行した消毒人員を早急に派遣されたし」。

 

加害の歴史」北九州市の毒ガス工場 第二次世界大戦で旧陸軍が使用



 



 
 
 

 

 

 

日本軍の毒ガス戦と遺棄毒ガス問題


 

 

 

 

 

 

 


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