細菌戦から核戦略へ!!

2024-04-06 09:07:01 | Weblog
 
「戦後50周年の終戦記念日にあたって」(いわゆる村山談話)
                             1995年8月15日
 敗戦の日から50周年を迎えた今日、わが国は、深い反省に立ち、独善的なナショナリズムを排し、責任ある国際社会の一員として国際協調を促進し、それを通じて、平和の理念と民主主義とを押し広めていかなければなりません。同時に、わが国は、唯一の被爆国としての体験を踏まえて、核兵器の究極の廃絶を目指し、核不拡散体制の強化など、国際的な軍縮を積極的に推進していくことが肝要であります。これこそ、過去に対するつぐないとなり、犠牲となられた方々の御霊を鎮めるゆえんとなると、私は信じております。
 「杖るは信に如くは莫し」と申します。この記念すべき時に当たり、信義を施政の根幹とすることを内外に表明し、私の誓いの言葉といたします。
 
南京大虐殺 

 
南京大虐殺(マギーフィルム)
パネー号撃沈

 
 重慶爆撃               
原爆投下や東京大空襲ばかり取り上げて、 日本のテレビや教科書が重慶爆撃を取り上げないのは問題だと思います。 (視聴者のコメント)

731部隊 

731部隊展
 
 原爆    
ニュース257号
 広島原爆の写真・映像、「世界の記憶」に推薦 ユネスコへ 朝日新聞社など申請
2023年11月29日 5時00分
 文部科学省は28日、ユネスコ(国連教育科学文化機関)の「世界の記憶」の国内候補として、朝日新聞社などが申請した「広島原爆の視覚的資料―1945年の写真と映像」など2件を推薦する、と発表した。登録の可否は、被爆から80年となる2025年のユネスコ執行委員会で決まる見通し。
 「世界の記憶」は、後世に残す価値がある歴史的な資料が対象。「広島原爆の視覚的資料」は写真1532点と動画2点からなり、保存や活用に携わってきた朝日新聞社と中国新聞社、毎日新聞社、広島市、中国放送、日本放送協会の6者が共同申請した。
 
 
 

 
 

日航123便の怪(1985年8月12日)

 

 

     
 
●東京帝国大学伝染病研究所
  
伝染病研究所の写真は、『傳染病研究所』小高健著より
  • 東京帝国大学伝染病研究所『実験医学雑報』
    ・東大伝研とは戦前、どんなことをやっていた機関なのか?
    ・1934年6月、宮川米次と阿部俊男は何をしに満洲国へ行ったのか?
    ・満洲衛生技術廠とは、一体何をやっていたところなのか??
    ・東大伝研は731部隊と連携を図っていなかったのか??
    ・伝研で毒ガスの講演?毒ガスへの対処法も考えることになるのか??
    ・小島三郎の渡満では、満洲衛生技術廠や大連衛生研究所にもいったのだろうか?
    ・1933年頃から細菌兵器開発の一環として、「満洲」の背蔭河では人体実験が行なわれているが、そこでも赤痢菌の研究が行なわれていたのだろうか?35年の川崎市の爆発赤痢は、人為的に行なわれたものなのか?それとも自然流行なのか?
    ・1936年5月に浜松一中で大福餅事件、37年9月に大牟田で爆発赤痢事件が起きているが、これなども細菌兵器・研究の一環として軍医学校や伝研の関与による仕掛けられたものか、自然に発生したものか究明する必要がある。
    ・1936年5月と37年9月の両事件に、小島三郎が出張しているが、果たして何をやったのであるか??
    ・河本禎助も毒ガスの研究をしていた。
    ・1938年6月1日の伝染病研究所で石井の厚意によって上映された映画には、731部隊の生体解剖でも映っていたのでであろうか?
    精神的緊張裡とは、何のことだろうか?


実験医学雑報20巻 第7号(1936年)
本所職制改正
この度本所では職制を次の如くに改正し7月より実施することとなった。
*特別研究室とは何だ??

 
 
 
 雑報10号(22巻、1938年)
 
※中込亘は、731部隊で細菌に感染して死んだのだろうか?
三田村は、真実を隠すだろう。
 
尚所長に代わって述べられた三田村教授の追悼の辞は次の様であった。
故中込亘君を想う
                    三田村篤志郎
 我が研究所は既に多数の研究者及び臨床家を満州及び支那に送っているのであります。我々の使命は研学で我等の意図は平和であります。この学術の戦場に於いて我々は既に山田、田中、中込の3君を失いました。
 しかし我々の勇気はこれによって寸毫も砕けるものではありません。例え北満広野の寒風吹き荒むとも。中支山嶽の炎熱身を焦すとも、我々の同志は彼地に学問を戦を戦い続けるでしょう。
 
 
 
●昭和天皇(ハーバード・ピックス著『昭和天皇』より)
吉田裕監修  
2001年ピュリッツァー賞受賞 
※昭和天皇は、平和主義者でもなんでもなかった。
 
好戦的であり、常に軍部に色々と指示を出していた!!
 戦後補償問題に国家無答責という天皇主権の明治憲法下の原則を適用するな!!   
 
第2部    
仁愛の政治
1922(大正11)年―1930(昭和5)年
   

第6章 政治的君主の誕生 
 
 V 
 
 状況証拠では、『東京朝日新聞』の緒方竹虎、『大阪毎日新聞』の高石真五郎の両主筆も、この策謀を知っていたようである。2ヵ月前の7月16日の夜、2人は東京で(おそらく男爵原田熊雄邸での)会合に出席したが、外務官僚も交えたその席で、陸軍省軍務局長の陸軍少将小磯国昭が「満州の独立」を主張し、陸軍が立てば国民はそれを支持するだろうと述べたのを聞いた。
 
 
 
 

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