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「怨」
きけ!「マルタ・アジアの犠牲者」の叫び!
「日の丸」・「君が代」反対!!
(侵略のシンボル)(天皇賛美の歌)
新しい日本!!
「世襲の天皇制から選ばれし大統領制へ!」
(昭和天皇の戦争責任を問う。)
(時効なき戦争責任)
●『死の工場』(隠蔽された731部隊)
(シェルダン・H・ハリス著、近藤昭二訳:柏書房)
日本語版前書き
物語の背景
戦犯に対する連合国の扱いはヨーロッパと日本とでは驚くほど異なる。アメリカはドイツにおける自国の占領地域で80万人以上の元ナチス党員を裁き、50万人以上を戦犯として有罪にした。死刑の宣告もあり、多くの者がそれぞれ異なる期間の懲役を言い渡された。他の連合軍もドイツの自国占領地域で多くの元ナチス党員の裁判を行った。ヨーロッパ各地で捕らえられ、裁判を受けた元ナチス党員もいる。ナチス戦犯の捜索は戦後何十年にもわたって行われてきたが、20世紀が終わりに近づこうとする今日でもまだ捜索は続いている。
ドイツ人の医師や研究者も、ナチス政権時代に犯した残虐行為に対して連合軍から責任を問われ、1946年及び1947年にはドイツを代表する23名の医師や科学者がドイツのニュルンベルグで行われた4カ国国際軍事裁判、すなわち歴史上「ニュルンベルグ医師裁判」と呼ばれる戦犯裁判で裁かれた。これらの医師の中には、アドルフ・ヒトラーの主治医カール・プランツ、ドイツ赤十字の会長カール・ゲプハルトのほか、有名な医学の権威たちが含まれていた。裁判を受けた者のほとんどが医学的な残虐行為を行ったとして有罪となり、ブランツ、ゲプハルトと、他の5名の医師は言い渡され、彼らは、1948年6月2日、絞首刑によって処刑された。また、後の非ナチ化戦犯裁判でも、多数の医師や科学者が罰金刑に処せられた。(明日に続く)
※なぜ、このように日本とドイツでは戦犯の扱いがこうも違うのか。ヨーロッパでは人権意識がアジアに比べて強かったこともあろうが、中国は何と言っても内戦で裁判どころではなかったからか?
日本では、731に限らず軍医による中国人の生体解剖や人体実験にも追及が及ばなかった。何か割り切れないものを感じる。
アメリカはドイツは裁いた。なぜ、日本は裁かなかった?マッカーサーのアジアに対する差別意識か?天皇を利用して占領政策をうまくやろうとしたからか?
●戦後補償
・731部隊の被害者は3000人ではない。これは1941年~1945年までの川島清少将の証言だ。1941年より前に殺された人々は考慮されていない。思い出さねばならないのは、石井は人体実験を1932年に始めているということである。何百、おそらく何千と言う人々が、背陰河(ハイインガ)の冒険的事業で殺された。ほかにも、平房で1938年から1941年に川島が来るまでの間に殺されている。あと、731部隊の支部や石井の指揮下にはない(奉天・南京・長春など)の施設で殺されている。また、細菌戦の被害者・撤退後の疫病の発生での被害者を含めるとゆうに万の単位になるのではないか?
・人体実験 (『731部隊』ウキペディアより)
731部隊は捕らえた多くの中国人、モンゴル人、ロシア人捕虜等をマルタ(丸太)と呼称し、人体実験や生体実験に供したと言われている。終戦後にソ連・中国が行なった調査では、犠牲者数は500,000人以上とも推定されている。
・石井のネットワークが行なった人体実験や生物戦(細菌戦)の犠牲者の発掘調査や補償は何もされていない。(1995年現在)
・日本政府は平和条約等による他の国家への賠償は行なっても、個人に対して決して補償しないという態度が取られている。国としては過去の犯罪の事実を、また、それについての責任を認めるわけにはいかないのだ。
・中国人強制連行裁判で2007年4月に最高裁西松判決では、「日中共同声明第5項により、個人賠償請求権は放棄された」と判示された。しかし、中国外務省は直ちに「国の戦争賠償請求権は放棄したが、被害者個人の請求権は放棄していない。最高裁判決は『違法』、『無効』である」と非難している。
・中国人強制連行の背景
日中戦争が深まり、太平洋戦争も迫った1940年頃、日本は深刻な労働不足に陥っていました。重要な戦略物資の生産拠点である炭坑や金鉱鉱山、港湾荷役、飛行場建設などには既に朝鮮人が強制連行され、奴隷労働を強いられていましたが、それでも労働力は決定的に不足していました。そこで企業は、政府に中国人労働者の強制連行・強制労働を願い出、政府はこの要請に応じて、1942年の閣議決定で中国人の強制連行を決定しました。時の内閣は東條内閣、商工大臣の岸信介の係わりが大きい。「華人労務者内地移入ニ関スル件」及び「華人労務者内地移入ノ促進ニ関スル件」
・最近の裁判の動き【「Suopei(すおぺい)」=中国語で「索賠」(賠償請求)を意味します。No66より】
中国人強制連行:長野訴訟、控訴審判決(2009年9月17日:東京高等裁判所第19民事部)
被害事実・企業の安全配慮義務違反は認定するも請求権放棄で切る
判決では、強制連行強制労働の事実認定について第1審判決をそのまま維持し、国と企業の共同不法行為であることも認めた。第1審では認められなかった企業の安全配慮義務違反については控訴審ではこれを認定したものの、第1審に続き、国の安全配慮義務違反についてはこれを否定した。時効と除斥期間については判断せず、結局、日中共同声明により個人賠償請求権は放棄されているとして西松最高裁判決と同様の判断をした。
賃金支払いについては退ける
ただ、「自発的な対応の余地があるとしても、裁判上訴求することは認められない」とし、広島西松建設判決と同様に実態法上の権利としては存在することは否定しなかったこと、自発的な対応の余地があるとしたことは、むしろ積極的に評価し、今後の運動につなげていくべきではないかと考える。
また、企業に対して安全配慮義務違反を認定したこと、賃金は支払ったとする企業側の主張は明確に退けたことは、企業に解決を迫る上での力にしたい。
・戦後補償裁判の成果を全面解決の戦いにどう生かすか(Suopei №66より)
松岡 創(弁護士)
・・・・これまでに20件以上の強制連行裁判が行われてきたわけですが、福岡訴訟第1陣の裁判官は、裁判を重ねるごとに態度が変わっていきました。裁判官は一生ののうち2回心からの判決を書くと言われています。この裁判官はこの判決を書くとき、手が震えたといいます。
長野の1審の裁判官もそうです。本当は勝たせたい・・・・。悩みを持った裁判官もいます。
最高裁判決では訴求権はない、となりましたが、このままでは許せないということで、私たちが付言と呼んでいる「当事者同士の解決」に言及したのです。その後、福岡高裁、宮崎の高裁などが「解決への期待」を表明しのたです。
中国人の強制連行は4万人といわれています。38935人ですが、中国の港から出発した時は39385人です。途中の船で、港で、列車で亡くなり、事業所が受け入れたのが、先の人数です。そして6800人以上が事業所などで亡くなっています。
今後どういう解決をしたらいいのでしょうか。例えばスペインでは「歴史記憶法」が制定され、独裁者フランコの銅像を壊すなどの動きがあります。ドイツでは「包括的名誉回復法」が制定されたといいます。ヨーロッパにはこういう動きがあります。日本では全くありません。 日本の企業はどうかというと、三菱マテリアルは、和解したいという姿勢です。法的安定性を求めています。三井は、国が変われば・・・、と言っています。西松はかたくなに和解を拒否していましたが、不祥事があり、全役員が交替しました。そして「解決したい」と言ってきました。西松は2つの現場があります。広島の安野に360人と、新潟の信濃川に183人です。それぞれが別の裁判を起こしていました。
中国の中でも動きがありましす。全国人民代表大会でも意見が出されるようになっています。政治的解決に道が拓かれてきました。
今、この日本で民主党が政権を取ったことの意味はとても大きいです。鳩山氏はアジア重視、東アジア共同体、中国・韓国との友好を言っています。私たちはこれに働きかける必要があります。それが市民運動の進むべき方向です。
●南京大虐殺
「この事実を・・・・」
(「南京大虐殺」生存者証言集:侵華日軍南京大遇難同胞紀念館/編 加藤 実/訳) (発行:ストーク、発売:星雲社、定価2000+税)
※私達日本人は、南京大虐殺の「この事実を・・・」を謙虚に読むべきだと思う。
南京でどんなことが起こっていたのかをもっと日本人は知る必要があると思う。
今でも多くの被害者の方々はPTSDに悩んでいる!!
2、日本軍の狂暴な個人的虐殺
父や母の被害
戴玉珍(女、52歳)の証言
1937年の冬月に、日本軍が南京を占領した時、家は通済門外の戴家辺村で、母はその頃23歳で身ごもっていたので、避難しに、母と叔母とが妹を連れて農渡廟まで行きました。ある日朝早くに、日本兵が3人家に闖入して来て、銃剣で父と父の従兄弟(お婆さんの甥)2人とに強いて地にひざまずかせ、又お婆さんにも銃剣で強制して内庭でホアクーニャン(若い娘)を探させました。一渡り探してもホアクーニャンが見つからなかったので、日本兵はこん棒でお婆さんの下半身を打ちつけました。日本軍が年寄りをしいたげ侮辱している間に、叔父達2人が隙に乗じて塀を跳び越えて逃げました。日本軍は振り返って父1人しかいないのを見ると、気ちがいのようになって茶碗の口くらいの太さの大きな旧式の竿秤で、父を酷く殴りつけ、父は打たれて頭も顔も血だらけになり、竿秤が折れてしまったら、また、父を門口まで引きずって行き、銃口を父のこめかみに当て、1発父の頭を撃ち抜きました。日本軍が行ってしまってから、私はお婆さんと父の父の身体の上に突っ伏して泣いたりわめいたりで、死にたい想いでした。父が死んだ後、母は悲しみ泣きながら私の小さい弟を生み、私はその頃やっと5歳で、お婆さんと私たち姉弟3人を養うため、母は城内へ行きお手伝いさんをしました。間もなく弟と妹は病気と飢えとで死んでしまい、母は年若く後家を通していたのが人に強いられ嫁がされました。私たち幸せだった一家が、日本の侵略軍に害されて家も無くなり人も亡くなったこの深い恨みを、私は永遠に覚えていることでしょう。(申全英と章厚之が記録)
※南京大虐殺に加わった元陸軍伍長栗原利一さんの息子さんから大変貴重なコメントを頂いた!!
本当にありがとうございます!!「南京大虐殺」の真実が日本人の1人でも多くの方に理解していただけたらと強く思います!!以下:コメント
南京大虐殺は世界的に誤解されています。 中核的な出来事は南京陥落時の城外における大規模な捕虜の殺害です。 父親(栗原利一)のスケッチブックでも7万余人と書かれています。 非戦闘時の7万余人の捕虜の殺害ですから、当然、日本陸軍が軍の組織として行なったものです。 捕虜の多くは蒋介石軍兵士などです。 ただ、中国側の言う30万人説は戦闘時の犠牲者も含めた数として合理的な数です。 昭和12年7月の南京の人口は135万人です。 11月末の人口は50万人で、これに南京防衛軍15万が加わった65万人が日本軍の攻撃に晒されました。 否定派の言う20万人は逃げ場の無い貧民の数です。 小平市の警察学校と小平団地を合わせた(昔の警察学校の広さ)10万坪の安全区に押し込められた貧民の数です。 (65連隊のシャーカンおける2千人斬首は父だけが日本側の証人です。名古屋市の河村市長は無知なだけです。「ジョン・ラーベ」は城内での出来事しか書かれていないので日本人には誤解を与えます。)
※日中戦争は、戦時国際法(戦争法)として国際慣習法が条文化されたハーグ陸戦条約に拘束されていた。同条約は、国家間の戦争を合法としながらも、国際人道法の理念からその惨禍をできるだけ軽減するために、直接の戦闘外に置かれた者の苦痛や殺傷を防止しようとしたものだった。そのために、戦争の手段と方法が規制され、非戦闘員である文民及び非軍事目標への攻撃を禁止し、さらに戦闘員を人道的に保護するために、直接の戦闘外におかれた捕虜、投降兵、敗残兵などの殺傷も禁じられた。捕虜についてはその保護と待遇改善を一層明確化して存在した。(日本は調印したが、批准はしなかった。しかし、欧米に対しては「同条約の規定を準用する」と表明した)。【『南京事件』:笠原十九司著:岩波新書】より
栗原利一資料集
※昭和天皇より南京占領を喜ぶ「お言葉」
陸海軍幕僚長に賜りたる大元帥陛下お言葉
中支那方面の陸海軍諸部隊が上海付近の作戦に引き続き勇猛果敢なる追撃をおこない、首都南京を陥れたることは深く満足に思う。この旨将兵に申し伝えよ。(『南京事件』笠原十九司著:岩波新書)
※南京大虐殺については、外務省や軍部・朝香宮は天皇に報告をしなかった?
※皇族と南京大虐殺
・・・・大報道陣によって日本国民に報道される「未曾有盛事、敵の首都への皇軍の入城」一大セレモニーの日に、式場はもちろん、場内、場外においても、敗残兵や便衣兵によるゲリラ活動のたぐいがあっては皇軍の威信が損ねられることになる。そのうえ、上海派遣軍司令官・朝香宮(あさかのみや)鳩彦王中将は皇族で、「宮殿下」「宮様」である。天皇の軍隊の象徴である皇族の司令官の身に、もしもの不祥事が発生することになれば、天下の一大事で当然関係者の引責問題につながった。南京城内の首都飯店に司令部をおいた朝香宮にたいして、各部隊から立哨を派遣して厳重な警戒体制をとったし、「中山門のすぐ手前の所にて宮殿下(朝香宮)が入城するため一時通行禁止となり」(「牧原日記」)という特別警備体制がとられることもあった。
こうして、17日に入城式を挙行するために、南京城区だけでなく近郊農村にまでおよんで過酷な「残敵大掃蕩作戦」が展開され、虐殺される軍民の犠牲をいっそう大きなものにした。
(『南京事件』笠原十九司著:岩波新書)
※1946年の中国国民政府の司法行政部が作成した戦犯リスト1位の朝香宮鳩彦王こそ上海派遣軍司令官として南京大虐殺の直接の責任者であったが、アメリカ政府とGHQが天皇の免責を決めていたことから、皇族であるがゆえに南京軍事裁判でも免責とされた。・・・(『「百人斬り競争」と南京事件』笠原十九司著:大月書店)・・・これもおかしくありませんか?裏で取引があった?(ノブ)
■ 南京・史実を守る映画祭 ■ (転載)
http://jijitu.com/filmfestival2009/
○日時 2009年12月13日(日) 10:00開場
○場所 東京都世田谷区区民会館ホール
○料金 前売券900円、当日券999円。
1作品ごとに入れ替えを行います。前売券の購入方法は下記のURLをご参照ください。
http://jijitu.com/filmfestival2009/2009-09-28-06-41-10
○プログラム・上映作品
10:30-『南京』(88分)
13:00-『アイリス・チャン』(103分)
15:00- シンポジウム
※ゲスト:鈴木邦男さん、武田倫和監督さん(詳細はHPで)
※映画祭チケットご購入のすべての方が入場いただけます。
16:30-『南京・引き裂かれた記憶』(85分)
18:30-『チルドレン・オブ・ホァンシー 遥かなる希望の道』(125分)
主催:南京・史実を守る映画祭実行委員会
お問合せ:nankin-eigasai-owner@yahoogroups.jp
「南京大虐殺」と聞いて、どれだけの人々が具体的に事件のイメージを語ることができるでしょうか。日本では、南京大虐殺という事実は、公の場であまり語られることはなく、学校教育でもほとんど取り上げられず、どこか、事件に触れることがタブーであるかのような空気が作られているようでもあります。
事件をめぐっては、戦後になっても何度かの裁判が提起されてきました。その中には、事件の証言をする人々に対する「偽者」呼ばわりがきっかけになったものも多くありました。
中国人の被害者である夏淑琴さん、李秀英さん。事件そのものの証言を報じた本多勝一さん。
事実は必ず勝つ、という言葉のとおり、これらの裁判では真実が勝利し、事件はなかったとする人々の主張はすべて、疑似科学や単なる読み物レベルの俗論に過ぎない、ということが白日の下に晒されてきました。
しかし、事件はなかったとする勢力が沈黙することはなく、それどころか、事件について公の場で触れることそのものにまで、攻撃の手を伸ばしてきました。
事件を描いた「南京1937」は、その上映が右翼によって暴力的に妨害され、上映する劇場のスクリーンは、右翼によって切り裂かれました。
日本の大手映画会社によって、日露戦争や太平洋戦争の映画が次々と作られる中にあっても、日本軍による中国大陸での残虐行為を描いた映画はほんのわずかしかなく、南京大虐殺を描く映画は皆無、という状態です。
この間、諸外国では南京大虐殺をテーマにした映画が数多く制作され、公開されているのに、事件の当事者である日本の国内では、南京を描く映画は作られていないのです。
映画【靖国】の上映に至るまでの経緯を振り返るとき、このような状況は「暴力と、それを恐れるが故の自粛」によってもたらされる、言論の自由の危機だとはっきりいえます。これは、断じて容認することはできません。
そこで私たちは、映画配給会社がやらないのなら私たちがやってしまおうと決意し、南京大虐殺をテーマとする映画を集めて映画祭を開催することにしました。
ぜひお越しください。
●1つの家族をずっと、国民の税金を使って、意味のよく分からない象徴としてあがめるのではなく、日本の国を良い方向に進めるリーダー(大統領)を選挙で選んだ方がいいのではないのかな?
●「怨」旗は、水俣病原告団が掲げた旗である。水俣病も、国・県・チッソは10年以上もその責任を認めず患者を増やし続けた。
「怨」
きけ!「マルタ・アジアの犠牲者」の叫び!
「日の丸」・「君が代」反対!!
(侵略のシンボル)(天皇賛美の歌)
新しい日本!!
「世襲の天皇制から選ばれし大統領制へ!」
(昭和天皇の戦争責任を問う。)
(時効なき戦争責任)
●『死の工場』(隠蔽された731部隊)
(シェルダン・H・ハリス著、近藤昭二訳:柏書房)
日本語版前書き
物語の背景
戦犯に対する連合国の扱いはヨーロッパと日本とでは驚くほど異なる。アメリカはドイツにおける自国の占領地域で80万人以上の元ナチス党員を裁き、50万人以上を戦犯として有罪にした。死刑の宣告もあり、多くの者がそれぞれ異なる期間の懲役を言い渡された。他の連合軍もドイツの自国占領地域で多くの元ナチス党員の裁判を行った。ヨーロッパ各地で捕らえられ、裁判を受けた元ナチス党員もいる。ナチス戦犯の捜索は戦後何十年にもわたって行われてきたが、20世紀が終わりに近づこうとする今日でもまだ捜索は続いている。
ドイツ人の医師や研究者も、ナチス政権時代に犯した残虐行為に対して連合軍から責任を問われ、1946年及び1947年にはドイツを代表する23名の医師や科学者がドイツのニュルンベルグで行われた4カ国国際軍事裁判、すなわち歴史上「ニュルンベルグ医師裁判」と呼ばれる戦犯裁判で裁かれた。これらの医師の中には、アドルフ・ヒトラーの主治医カール・プランツ、ドイツ赤十字の会長カール・ゲプハルトのほか、有名な医学の権威たちが含まれていた。裁判を受けた者のほとんどが医学的な残虐行為を行ったとして有罪となり、ブランツ、ゲプハルトと、他の5名の医師は言い渡され、彼らは、1948年6月2日、絞首刑によって処刑された。また、後の非ナチ化戦犯裁判でも、多数の医師や科学者が罰金刑に処せられた。(明日に続く)
※なぜ、このように日本とドイツでは戦犯の扱いがこうも違うのか。ヨーロッパでは人権意識がアジアに比べて強かったこともあろうが、中国は何と言っても内戦で裁判どころではなかったからか?
日本では、731に限らず軍医による中国人の生体解剖や人体実験にも追及が及ばなかった。何か割り切れないものを感じる。
アメリカはドイツは裁いた。なぜ、日本は裁かなかった?マッカーサーのアジアに対する差別意識か?天皇を利用して占領政策をうまくやろうとしたからか?
●戦後補償
・731部隊の被害者は3000人ではない。これは1941年~1945年までの川島清少将の証言だ。1941年より前に殺された人々は考慮されていない。思い出さねばならないのは、石井は人体実験を1932年に始めているということである。何百、おそらく何千と言う人々が、背陰河(ハイインガ)の冒険的事業で殺された。ほかにも、平房で1938年から1941年に川島が来るまでの間に殺されている。あと、731部隊の支部や石井の指揮下にはない(奉天・南京・長春など)の施設で殺されている。また、細菌戦の被害者・撤退後の疫病の発生での被害者を含めるとゆうに万の単位になるのではないか?
・人体実験 (『731部隊』ウキペディアより)
731部隊は捕らえた多くの中国人、モンゴル人、ロシア人捕虜等をマルタ(丸太)と呼称し、人体実験や生体実験に供したと言われている。終戦後にソ連・中国が行なった調査では、犠牲者数は500,000人以上とも推定されている。
・石井のネットワークが行なった人体実験や生物戦(細菌戦)の犠牲者の発掘調査や補償は何もされていない。(1995年現在)
・日本政府は平和条約等による他の国家への賠償は行なっても、個人に対して決して補償しないという態度が取られている。国としては過去の犯罪の事実を、また、それについての責任を認めるわけにはいかないのだ。
・中国人強制連行裁判で2007年4月に最高裁西松判決では、「日中共同声明第5項により、個人賠償請求権は放棄された」と判示された。しかし、中国外務省は直ちに「国の戦争賠償請求権は放棄したが、被害者個人の請求権は放棄していない。最高裁判決は『違法』、『無効』である」と非難している。
・中国人強制連行の背景
日中戦争が深まり、太平洋戦争も迫った1940年頃、日本は深刻な労働不足に陥っていました。重要な戦略物資の生産拠点である炭坑や金鉱鉱山、港湾荷役、飛行場建設などには既に朝鮮人が強制連行され、奴隷労働を強いられていましたが、それでも労働力は決定的に不足していました。そこで企業は、政府に中国人労働者の強制連行・強制労働を願い出、政府はこの要請に応じて、1942年の閣議決定で中国人の強制連行を決定しました。時の内閣は東條内閣、商工大臣の岸信介の係わりが大きい。「華人労務者内地移入ニ関スル件」及び「華人労務者内地移入ノ促進ニ関スル件」
・最近の裁判の動き【「Suopei(すおぺい)」=中国語で「索賠」(賠償請求)を意味します。No66より】
中国人強制連行:長野訴訟、控訴審判決(2009年9月17日:東京高等裁判所第19民事部)
被害事実・企業の安全配慮義務違反は認定するも請求権放棄で切る
判決では、強制連行強制労働の事実認定について第1審判決をそのまま維持し、国と企業の共同不法行為であることも認めた。第1審では認められなかった企業の安全配慮義務違反については控訴審ではこれを認定したものの、第1審に続き、国の安全配慮義務違反についてはこれを否定した。時効と除斥期間については判断せず、結局、日中共同声明により個人賠償請求権は放棄されているとして西松最高裁判決と同様の判断をした。
賃金支払いについては退ける
ただ、「自発的な対応の余地があるとしても、裁判上訴求することは認められない」とし、広島西松建設判決と同様に実態法上の権利としては存在することは否定しなかったこと、自発的な対応の余地があるとしたことは、むしろ積極的に評価し、今後の運動につなげていくべきではないかと考える。
また、企業に対して安全配慮義務違反を認定したこと、賃金は支払ったとする企業側の主張は明確に退けたことは、企業に解決を迫る上での力にしたい。
・戦後補償裁判の成果を全面解決の戦いにどう生かすか(Suopei №66より)
松岡 創(弁護士)
・・・・これまでに20件以上の強制連行裁判が行われてきたわけですが、福岡訴訟第1陣の裁判官は、裁判を重ねるごとに態度が変わっていきました。裁判官は一生ののうち2回心からの判決を書くと言われています。この裁判官はこの判決を書くとき、手が震えたといいます。
長野の1審の裁判官もそうです。本当は勝たせたい・・・・。悩みを持った裁判官もいます。
最高裁判決では訴求権はない、となりましたが、このままでは許せないということで、私たちが付言と呼んでいる「当事者同士の解決」に言及したのです。その後、福岡高裁、宮崎の高裁などが「解決への期待」を表明しのたです。
中国人の強制連行は4万人といわれています。38935人ですが、中国の港から出発した時は39385人です。途中の船で、港で、列車で亡くなり、事業所が受け入れたのが、先の人数です。そして6800人以上が事業所などで亡くなっています。
今後どういう解決をしたらいいのでしょうか。例えばスペインでは「歴史記憶法」が制定され、独裁者フランコの銅像を壊すなどの動きがあります。ドイツでは「包括的名誉回復法」が制定されたといいます。ヨーロッパにはこういう動きがあります。日本では全くありません。 日本の企業はどうかというと、三菱マテリアルは、和解したいという姿勢です。法的安定性を求めています。三井は、国が変われば・・・、と言っています。西松はかたくなに和解を拒否していましたが、不祥事があり、全役員が交替しました。そして「解決したい」と言ってきました。西松は2つの現場があります。広島の安野に360人と、新潟の信濃川に183人です。それぞれが別の裁判を起こしていました。
中国の中でも動きがありましす。全国人民代表大会でも意見が出されるようになっています。政治的解決に道が拓かれてきました。
今、この日本で民主党が政権を取ったことの意味はとても大きいです。鳩山氏はアジア重視、東アジア共同体、中国・韓国との友好を言っています。私たちはこれに働きかける必要があります。それが市民運動の進むべき方向です。
●南京大虐殺
「この事実を・・・・」
(「南京大虐殺」生存者証言集:侵華日軍南京大遇難同胞紀念館/編 加藤 実/訳) (発行:ストーク、発売:星雲社、定価2000+税)
※私達日本人は、南京大虐殺の「この事実を・・・」を謙虚に読むべきだと思う。
南京でどんなことが起こっていたのかをもっと日本人は知る必要があると思う。
今でも多くの被害者の方々はPTSDに悩んでいる!!
2、日本軍の狂暴な個人的虐殺
父や母の被害
戴玉珍(女、52歳)の証言
1937年の冬月に、日本軍が南京を占領した時、家は通済門外の戴家辺村で、母はその頃23歳で身ごもっていたので、避難しに、母と叔母とが妹を連れて農渡廟まで行きました。ある日朝早くに、日本兵が3人家に闖入して来て、銃剣で父と父の従兄弟(お婆さんの甥)2人とに強いて地にひざまずかせ、又お婆さんにも銃剣で強制して内庭でホアクーニャン(若い娘)を探させました。一渡り探してもホアクーニャンが見つからなかったので、日本兵はこん棒でお婆さんの下半身を打ちつけました。日本軍が年寄りをしいたげ侮辱している間に、叔父達2人が隙に乗じて塀を跳び越えて逃げました。日本軍は振り返って父1人しかいないのを見ると、気ちがいのようになって茶碗の口くらいの太さの大きな旧式の竿秤で、父を酷く殴りつけ、父は打たれて頭も顔も血だらけになり、竿秤が折れてしまったら、また、父を門口まで引きずって行き、銃口を父のこめかみに当て、1発父の頭を撃ち抜きました。日本軍が行ってしまってから、私はお婆さんと父の父の身体の上に突っ伏して泣いたりわめいたりで、死にたい想いでした。父が死んだ後、母は悲しみ泣きながら私の小さい弟を生み、私はその頃やっと5歳で、お婆さんと私たち姉弟3人を養うため、母は城内へ行きお手伝いさんをしました。間もなく弟と妹は病気と飢えとで死んでしまい、母は年若く後家を通していたのが人に強いられ嫁がされました。私たち幸せだった一家が、日本の侵略軍に害されて家も無くなり人も亡くなったこの深い恨みを、私は永遠に覚えていることでしょう。(申全英と章厚之が記録)
※南京大虐殺に加わった元陸軍伍長栗原利一さんの息子さんから大変貴重なコメントを頂いた!!
本当にありがとうございます!!「南京大虐殺」の真実が日本人の1人でも多くの方に理解していただけたらと強く思います!!以下:コメント
南京大虐殺は世界的に誤解されています。 中核的な出来事は南京陥落時の城外における大規模な捕虜の殺害です。 父親(栗原利一)のスケッチブックでも7万余人と書かれています。 非戦闘時の7万余人の捕虜の殺害ですから、当然、日本陸軍が軍の組織として行なったものです。 捕虜の多くは蒋介石軍兵士などです。 ただ、中国側の言う30万人説は戦闘時の犠牲者も含めた数として合理的な数です。 昭和12年7月の南京の人口は135万人です。 11月末の人口は50万人で、これに南京防衛軍15万が加わった65万人が日本軍の攻撃に晒されました。 否定派の言う20万人は逃げ場の無い貧民の数です。 小平市の警察学校と小平団地を合わせた(昔の警察学校の広さ)10万坪の安全区に押し込められた貧民の数です。 (65連隊のシャーカンおける2千人斬首は父だけが日本側の証人です。名古屋市の河村市長は無知なだけです。「ジョン・ラーベ」は城内での出来事しか書かれていないので日本人には誤解を与えます。)
※日中戦争は、戦時国際法(戦争法)として国際慣習法が条文化されたハーグ陸戦条約に拘束されていた。同条約は、国家間の戦争を合法としながらも、国際人道法の理念からその惨禍をできるだけ軽減するために、直接の戦闘外に置かれた者の苦痛や殺傷を防止しようとしたものだった。そのために、戦争の手段と方法が規制され、非戦闘員である文民及び非軍事目標への攻撃を禁止し、さらに戦闘員を人道的に保護するために、直接の戦闘外におかれた捕虜、投降兵、敗残兵などの殺傷も禁じられた。捕虜についてはその保護と待遇改善を一層明確化して存在した。(日本は調印したが、批准はしなかった。しかし、欧米に対しては「同条約の規定を準用する」と表明した)。【『南京事件』:笠原十九司著:岩波新書】より
栗原利一資料集
※昭和天皇より南京占領を喜ぶ「お言葉」
陸海軍幕僚長に賜りたる大元帥陛下お言葉
中支那方面の陸海軍諸部隊が上海付近の作戦に引き続き勇猛果敢なる追撃をおこない、首都南京を陥れたることは深く満足に思う。この旨将兵に申し伝えよ。(『南京事件』笠原十九司著:岩波新書)
※南京大虐殺については、外務省や軍部・朝香宮は天皇に報告をしなかった?
※皇族と南京大虐殺
・・・・大報道陣によって日本国民に報道される「未曾有盛事、敵の首都への皇軍の入城」一大セレモニーの日に、式場はもちろん、場内、場外においても、敗残兵や便衣兵によるゲリラ活動のたぐいがあっては皇軍の威信が損ねられることになる。そのうえ、上海派遣軍司令官・朝香宮(あさかのみや)鳩彦王中将は皇族で、「宮殿下」「宮様」である。天皇の軍隊の象徴である皇族の司令官の身に、もしもの不祥事が発生することになれば、天下の一大事で当然関係者の引責問題につながった。南京城内の首都飯店に司令部をおいた朝香宮にたいして、各部隊から立哨を派遣して厳重な警戒体制をとったし、「中山門のすぐ手前の所にて宮殿下(朝香宮)が入城するため一時通行禁止となり」(「牧原日記」)という特別警備体制がとられることもあった。
こうして、17日に入城式を挙行するために、南京城区だけでなく近郊農村にまでおよんで過酷な「残敵大掃蕩作戦」が展開され、虐殺される軍民の犠牲をいっそう大きなものにした。
(『南京事件』笠原十九司著:岩波新書)
※1946年の中国国民政府の司法行政部が作成した戦犯リスト1位の朝香宮鳩彦王こそ上海派遣軍司令官として南京大虐殺の直接の責任者であったが、アメリカ政府とGHQが天皇の免責を決めていたことから、皇族であるがゆえに南京軍事裁判でも免責とされた。・・・(『「百人斬り競争」と南京事件』笠原十九司著:大月書店)・・・これもおかしくありませんか?裏で取引があった?(ノブ)
■ 南京・史実を守る映画祭 ■ (転載)
http://jijitu.com/filmfestival2009/
○日時 2009年12月13日(日) 10:00開場
○場所 東京都世田谷区区民会館ホール
○料金 前売券900円、当日券999円。
1作品ごとに入れ替えを行います。前売券の購入方法は下記のURLをご参照ください。
http://jijitu.com/filmfestival2009/2009-09-28-06-41-10
○プログラム・上映作品
10:30-『南京』(88分)
13:00-『アイリス・チャン』(103分)
15:00- シンポジウム
※ゲスト:鈴木邦男さん、武田倫和監督さん(詳細はHPで)
※映画祭チケットご購入のすべての方が入場いただけます。
16:30-『南京・引き裂かれた記憶』(85分)
18:30-『チルドレン・オブ・ホァンシー 遥かなる希望の道』(125分)
主催:南京・史実を守る映画祭実行委員会
お問合せ:nankin-eigasai-owner@yahoogroups.jp
「南京大虐殺」と聞いて、どれだけの人々が具体的に事件のイメージを語ることができるでしょうか。日本では、南京大虐殺という事実は、公の場であまり語られることはなく、学校教育でもほとんど取り上げられず、どこか、事件に触れることがタブーであるかのような空気が作られているようでもあります。
事件をめぐっては、戦後になっても何度かの裁判が提起されてきました。その中には、事件の証言をする人々に対する「偽者」呼ばわりがきっかけになったものも多くありました。
中国人の被害者である夏淑琴さん、李秀英さん。事件そのものの証言を報じた本多勝一さん。
事実は必ず勝つ、という言葉のとおり、これらの裁判では真実が勝利し、事件はなかったとする人々の主張はすべて、疑似科学や単なる読み物レベルの俗論に過ぎない、ということが白日の下に晒されてきました。
しかし、事件はなかったとする勢力が沈黙することはなく、それどころか、事件について公の場で触れることそのものにまで、攻撃の手を伸ばしてきました。
事件を描いた「南京1937」は、その上映が右翼によって暴力的に妨害され、上映する劇場のスクリーンは、右翼によって切り裂かれました。
日本の大手映画会社によって、日露戦争や太平洋戦争の映画が次々と作られる中にあっても、日本軍による中国大陸での残虐行為を描いた映画はほんのわずかしかなく、南京大虐殺を描く映画は皆無、という状態です。
この間、諸外国では南京大虐殺をテーマにした映画が数多く制作され、公開されているのに、事件の当事者である日本の国内では、南京を描く映画は作られていないのです。
映画【靖国】の上映に至るまでの経緯を振り返るとき、このような状況は「暴力と、それを恐れるが故の自粛」によってもたらされる、言論の自由の危機だとはっきりいえます。これは、断じて容認することはできません。
そこで私たちは、映画配給会社がやらないのなら私たちがやってしまおうと決意し、南京大虐殺をテーマとする映画を集めて映画祭を開催することにしました。
ぜひお越しください。
●1つの家族をずっと、国民の税金を使って、意味のよく分からない象徴としてあがめるのではなく、日本の国を良い方向に進めるリーダー(大統領)を選挙で選んだ方がいいのではないのかな?
●「怨」旗は、水俣病原告団が掲げた旗である。水俣病も、国・県・チッソは10年以上もその責任を認めず患者を増やし続けた。
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