細菌戦の系譜!!

2021-06-09 09:46:04 | Weblog

●『1931 満州鞍山守備兵 斉藤準太郎の日記』

 

 

六月三日

 

初年兵入隊式あり 雨のち晴 又花の咲いた理屈に紙面を汚した。午前五時起床。

貴女は宗教のことについて如何なる考えを抱いておられますや?

宗教を否定する人は不幸でしょうか。宗教は決して人に教え説くべきものでなく 自分の心に信じる一事さえあればそれで立派なものであろう。地獄極楽を語る宗教を信じられない人に説すは笑い紛らすよりも もっと深い悲しみが生まれれは致さないものでしょうかしら。貴男は信じますか霊の事をそして人間の心不滅を 宗教は決して理屈で通るものではありません、深くふかく行った人々が初めて自分の心に見出す事の出来る神々しい心持 それがその人々の宗教です。

 

大江健三郎著

「ヒロシマノート」岩波新書(1965年発行)

 


 

 

挿絵カット 丸木位里・赤松俊子『ピカドン』(1950年86日ポツダム書店発行)より

 

Ⅳ 人間の威厳について

Ⅴ 屈伏しない人々

 原爆によって60名の医師が即死した。健全な状態で救護活動を始める事の出来た医師は28名、歯科医師20名、薬剤師28名、看護婦130名、そしてアンケートにも明らかであるように重い負傷を負いながら、なお救護活動を行なう医師たちがいたわけだが、それにしても、この救護者たちが立ち向かわねばならなかった市内の負傷者の数は10数万人に達していたのである。もし絶望して虚脱状態に陥る資格のある医師たちがあるとしたら、彼ら、広島の大洪水後の医師たちこそ、その一団だった。 

 

 唯一の戦争被爆国 日本政府は核兵器禁止条約に署名・批准してください!

 

 

日本は、日中戦争で国際法に違反して、細菌戦、毒ガス戦、無差別爆撃を行った。日本政府は、この事実をきちんと認めていない!!

 

●『細菌戦部隊』

731研究会編   1996年9月(核時代51年)初版発行

 

Ⅰ 731部隊

 

“マルタ”の監獄を建設

憲兵としての“マルタ”狩りも

 

志麻田実(しまだみのる)(仮名)

731部隊・部隊建設班

〈略歴〉

1918年生まれ

1938年1月 731部隊入隊(建設班)

1939年4月 新京の関東軍憲兵隊入隊

1945年 戦犯抑留

1956年 中国最高人民法院の判決により釈放

■この証言は1995年の聞き取りをまとめたもの。

 

731部隊建設

募集当初の契約では、私達は石井部隊の職工ということでしたが、ハルピンに着きますと、全員が鈴木組と一緒に仕事をすることになったのです。731部隊の建設業務、仕事の手配、賃金など、全て鈴木組を通して行なわれました、身分的には石井部隊の軍属でしたから、食事やら作業班なども部隊から支給されました。私達が寝泊まりする宿舎は陸軍の官舎の中にあり、後に部隊と共同生活をするようになりました。 

 

●中央档案館、中国第2歴史档案館、吉林省社会科学院編

 

『証言 人体実験(731部隊とその周辺)1991年初版発行

 

江田憲治、兒嶋俊郎、松村高夫編訳

 

解説

 

松村高夫

 

 

5、本書が明らかにした新事実

 ①731部隊のどこが人体実験を行なったのか

 この柄沢は、731部隊に1939年12月から44年8月まで約5年間おたが、ハバロフスク裁判での証言で、人体実験を行なったのは細菌研究の第1部と「特設実験場」で行なった第2部であり、「私は第4部の製造課長として勤務していましたので」細菌生産能力については供述できるが、自らは人体実験にかかわらなかったかのように証言している。

 

●毒ガス戦
・『日本軍の毒ガス兵器』  松野誠也著

第5章

日中全面戦争と毒ガス戦の展開

 

2 積極的侵攻作戦でのくしゃみ性・嘔吐性ガスの使用

 

武漢・広東攻略作戦

11、 あか筒の大規模放射に於て成功したるも局部に毒煙の逆流及び滞留を生じたる例

〇一般の状況

 ○○D(師団)は曲沃付近近澮河河畔の敵陣地に対し6月下旬以降攻撃準備中にして7月6日払暁攻撃を開始する予定なり

〇戦闘経過の概要

4、成果及び成果利用

 毒煙の流動は要図の如く敵の第1戦陣地を完全に包蔽し我が第1戦部隊は殆ど損害なく一挙に約3㎞を突破せり 但し北薫村付近は毒煙逆流し成果の利用十分ならざりし部隊あり 又山脚付近に毒煙の大部は滞留して敵の後方陣地を制圧するに至らず。

 


・『日本の中国侵略と毒ガス兵器』 歩平著(山邊悠喜子、宮崎教四郎訳)明石書店 1995年発行)

第5章 陸軍習志野学校

 

隠蔽と反宣伝

 

なぜならばいったん発見されてしまうと、軍縮会議で表明したことが一切破綻を来し、国際上の日本の境遇がさらに具合が悪くなることを恐れたからである。起こるであろうこの困窮を逃れるため、1937年7月戦争を開始するや、散々苦心した結果日本外務省は政府に1つの策を提出した。

 その計画は、焼夷兵器の使用と毒ガスの使用に関する2つの部分にわたっている。第2の部分で、まず日本がすでに承認し、あるいは加盟した化学兵器禁止の各種の公約と協議の条文を列挙した。続いて、最近の戦争中に各国が公約に違反して化学兵器を使用した状況を列挙した。それは、日本が化学兵器を製造した事実上の根拠にしようと意図したものである。日本側が化学兵器を使用した問題に関して、まず策略を弄して、日本が華北地区で使用したのは催涙ガスだけだと称した。しかし、外務省はこれで世論の批判を収めることはできないと十分承知しており、この文件中すでに将来受けるであろう批判を推測していた。

 



 
 

 

 

日本軍の毒ガス戦と遺棄毒ガス問題


 

 

 


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