●『1931 満州鞍山守備兵 斉藤準太郎の日記』
一月二七日
午前六時十分 晴 風あれど割合に暖か 不寝番十一時半至 零下十八度
午前六時十分起床す 非常にねむし 大隊当番第二日目だ 少々慣れたが忙しいのは変わらず。新聞にて社頭の雪の歌を見る こんな神々しい静かなゆとりを読むと自分の心持まで軍隊意識が冷え込んでしまう 運悪くその歌の新聞紙を失くしてしまった。この日記に書きこんで今日一日を私らしい心持を此の中に折り込んでおきたかった。軍隊生活にも折にはこんな心持になることができるとね。
正月の弐拾六日事件あり 場所は四平街付近。馬賊十幾名四平街に現れ第十六列車襲撃を目的としてその手段はレール一本を持ありたり。折から第十六列車に先立ち四平街を発して次の駅の貨車を引くべき機関車のみ進行し乗りしが幸い 脱線のみにて事無く 付近の馬賊は一挙にけん銃を機関車に発射しつつ目的を果たさず逃走せり 第十六列車がもしも脱線して馬賊が来たら・・・残酷性を物とせずの人ばかり 必ず恐ろしい結果になったのであろう
守備隊の必要なことが理解出来て良いかもしれないが一面大きな恥としなければならない
●パネル展「戦争の加害」感想(2020年7月27日~31日)
7月30日(木)
6、今の日本では多く語られない戦争の加害を少しでも知ることはこれからの国の在り方、自らの生き方を考えるうえで大変重要であると感じました。パネル自体も難しすぎず、大変簡潔になっており、わかりやすいと感じました。
(男性、20代、市内、友人)
≪先日、長崎で、原口喜久也という被爆者で詩人であった人が、骨髄性白血病であったか、診断されてから縊死したということを、ふとした機会から、その遺稿詩集の後記で知って暗然とした。・・・その原口氏が死んだのは、原爆の後遺症でなく、自らの下した死で死にたかったのではないか。すべてひっくるめて、原爆後遺症として非人間的、没個性的に一括されるのでなく、一人の生を生きた人間の、いかにもその人らしい死を、原爆の手から離して遂げようとしたのではないかと解したい。
原口氏の健康への違和感は被爆者への詳細な検診がなければ、その病因は明らかにされなかったのであろう。単なる違和感としてのみあって、突然の死が来たのであろう。
日本は、日中戦争で国際法に違反して、細菌戦、毒ガス戦、無差別爆撃を行った。日本政府は、この事実をきちんと認めていない!!
●『細菌戦部隊』
731研究会編
はじめに
8月9日のソ連参戦により部隊破壊と(臨江)付近に退がれ」と命令したのは関東軍参謀であった。ハバロフスク裁判での尋問調書の中で松村はその事について、「1945年8月9日あるいは10日、軍事行動開始に関連して、山田司令官は総ての実験室および貴重な細菌培養設備を絶滅することに決しましたが、これはこれらの科学実験室がソビエト軍の手に落ちないためでありました。私の部下の草地大佐によって上述の諸部隊の解消及びこれらの部隊員の京城市(南朝鮮)への引き上げに関する命令が作成され、同日、命令は山田司令官によって署名され、その遂行の為、第731部隊及び第100各部隊長宛送られました」と、部隊破壊と、隊員と「貴重な設備」を「南朝鮮」に引き揚げるようにという証拠隠滅の指示が関東軍によりなされましたことを証言している。
・『証言 人体実験(731部隊とその周辺)』
中央档案館、中国第2歴史档案館、吉林省社会科学院編
江田憲治、兒嶋俊郎、松村高夫編訳
三 警察・憲兵の第731部隊への「特移扱」
(昨日の供述書の名前は、長沼ではなくて貝沼でした。)
堀口正雄供述書(1954年8月28日)
問:思想対策実施の結果と犯した罪について具体的に述べよ
答:在任中、私は各地の軍情、各機関の動向、労働者の動態、民心の動向に関する情報を収集している抗日地下工作員について、秘密裏に偵察して逮捕するよう命じた。1942年8月、平陽鎮地区で約10名、半截河地区で約20名、鶏寧、滴道地区で約10名、八面通、下城子、梨樹鎮地区で15名、綏陽、綏芬河地区で約15名、林口、杏樹、勃利地区で約10名、計80名前後を逮捕した。これら80名前後の地下工作員に対して、拷問を加え、「満州国軍機保護法」、「治安維持法」などに従って処理した。その内訳は、私の提案により、憲兵司令官の許可を受けて、1942年9月から43年7月までに「特移扱」でハルピンの石井部隊に引き渡した者約20名、牡丹江省及び東安省検察庁に送られ処刑された者25名、鶏寧陸軍特務機関に送られて処理されたもの20名、「満洲国」第6軍管区軍法会議に送られた者10名、我が隊で強制的に使用したもの5名である。
(1)119-2、40、1、第3号
●毒ガス戦
・『日本軍の毒ガス兵器』 松野誠也著
第1章 毒ガス兵器の研究と開発
5、アジア太平洋戦争と科学動員による毒ガス兵器開発の展開
科学者の動員による毒ガス開発の推進
実は、アジア太平洋戦争開戦前にこのような戦時研究員制度が不可欠であると訴えていた科学者がいた。後に第6陸軍技術研究所戦時研究員となる小竹無二雄は、41年に出版した「科学者の心境』の中で、劣った産業と国防では国家の興隆と安寧は望めないので、日本が最も劣っている問題を解決するためには、「数人の指導者が協力者を携げ、束になって各人の名誉も利益も全く顧みることなく、協力一致することより他に方法はありえない」として、大学や研究所を超えた科学者の協力関係を築いて研究を進めるべきだと提言している。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます