南京大虐殺
原爆投下や東京大空襲ばかり取り上げて、 日本のテレビや教科書が重慶爆撃を取り上げないのは問題だと思います。 (視聴者のコメント)
731部隊
日航123便の怪(1985年8月12日)
- 東京帝国大学伝染病研究所『実験医学雑報』
・東大伝研とは戦前、どんなことをやっていた機関なのか?
・1934年6月、宮川米次と阿部俊男は何をしに満洲国へ行ったのか?
・満洲衛生技術廠とは、一体何をやっていたところなのか??
・東大伝研は731部隊と連携を図っていなかったのか??
・伝研で毒ガスの講演?毒ガスへの対処法も考えることになるのか??
・小島三郎の渡満では、満洲衛生技術廠や大連衛生研究所にもいったのだろうか?
・1933年頃から細菌兵器開発の一環として、「満洲」の背蔭河では人体実験が行なわれているが、そこでも赤痢菌の研究が行なわれていたのだろうか?35年の川崎市の爆発赤痢は、人為的に行なわれたものなのか?それとも自然流行なのか?
・1936年5月に浜松一中で大福餅事件、37年9月に大牟田で爆発赤痢事件が起きているが、これなども細菌兵器・研究の一環として軍医学校や伝研の関与による仕掛けられたものか、自然に発生したものか究明する必要がある。
・1936年5月と37年9月の両事件に、小島三郎が出張しているが、果たして何をやったのであるか??
・河本禎助も毒ガスの研究をしていた。
・1938年6月1日の伝染病研究所で石井の厚意によって上映された映画には、731部隊の生体解剖でも映っていたのでであろうか?
精神的緊張裡とは、何のことだろうか?
実験医学雑報20巻 第7号(1936年)
本所職制改正
この度本所では職制を次の如くに改正し7月より実施することとなった。
*特別研究室とは何だ??
雑報10号(22巻、1938年)
※中込亘は、731部隊で細菌に感染して死んだのだろうか?
三田村は、真実を隠すだろう。
尚所長に代わって述べられた三田村教授の追悼の辞は次の様であった。
故中込亘君を想う
三田村篤志郎
今日は我々はここに相集って君が生前最も深き関係を持たれたこの研究所に於いて、しかも君かつて幹事として多大な労を致された我が学友会の集談会に於いて、君を想わんとしております。
故中込君は明治32年9月8日山梨県中巨摩軍錯中條村に中込恵十郎及び春子の御両方の第5男として生まれましたが不幸にも幼くして両親を失われ、長兄尚也氏の庇護の下に長じ、甲府中学校、第2高等学校を経て、昭和2年12月東京帝国大学医学部を卒業し、越えて昭和4年4月25日我が伝研の人となられました。技手として小島博士の検査部に入り、本年3月10日陸軍技師として北満石井部隊に職を奉ぜられるまで前後9年間我々の中におられたのであります。
●昭和天皇(ハーバード・ピックス著『昭和天皇』より)
吉田裕監修
吉田裕監修
2001年ピュリッツァー賞受賞
※昭和天皇は、平和主義者でもなんでもなかった。
好戦的であり、常に軍部に色々と指示を出していた!!
戦後補償問題に国家無答責という天皇主権の明治憲法下の原則を適用するな!!
第2部
V
日中間の紛争が拡大するのと並行して、日本国内の政治的危機も深まっていった。陸軍士官学校第25期生〔1923年卒業〕の将校は、元老西園寺に対し、「『昭和維新は政党政治の打破にあり』とうたい、全国の中・少尉が『昭和維新の振興力』になるべきことを唱えた」宣言文を送った。若き天皇の目下の治世に関する声明であり、彼は祖父のような偉大な改革者にならなければならず、少なくとも彼の治世下で改革が行われなければならないというのだった。青年将校が高齢の元老にこのような警告を発するなどということは、軍の規律と階級秩序の崩壊の進行を象徴する前代未聞の不敵なふるまいだった。それはまた、天皇に話のできる旧世代の最後のひとりに対する若い世代のいやがらせという、昔ながらの常套手段のなごりでもあった。
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