●『細菌戦部隊』
731研究会編 1996年9月(核時代51年)初版発行
Ⅱ 関連部隊・支部
香港難民の大量虐殺
ゲルトネル菌を飲用湯に投入して・・・・
丸山茂
8604部隊
(経歴)
1917年生まれ
1938年 朝鮮・龍山の歩兵79連隊に教育召集
1939年 南支那派遣軍防疫給水部(波第8604部隊)に転属。細菌検索班に所属
1943年3月 除隊。帰国
1945年 再召集
1945年8月 朝鮮で除隊
1945年10月 帰国
■この証言は731研究会の学習会での発言(1993年11月)、『短歌草原』(1992年8・9・10月号)所収「いかなる美名でも戦争への道は悪だ」よりまとめられたもの。
Mは部隊長に指導されて、ゲルトネル菌を飲用湯に投入したそうです。一般に腸管系の細菌は熱に弱く、摂氏45℃ぐらいで死んでしまうそうです。炊事場で湯桶に汲まれた湯の温度は60℃を越す。菌が死なない43℃以下に下げるには時間がかかるわけです。だからあらかじめ桶に汲んだ湯が、炊事場の涼しい場所で温度が下がる時間のグラフを作り、このグラフにより釜から桶に湯を移したときの温度を計って菌を湯に投入する時刻を決め、時を見計らって菌を入れたと彼は話していました。そんなことを中国人に見られるとまずいので、ずいぶん神経を使ったということでした。
●証言
生体解剖(旧日本軍の戦争犯罪)
中央档案館
中国第2歴史档案館
吉林省社会科学院編
江田憲司
兒島俊郎
古川万太郎編訳
Ⅰ東北
2 華北
4 山西
遠山哲夫自筆供述書(1955年)
両手で持ち上げ、7本の注射針の刺さった頭部をごろごろと動かすたびに、ベークライトの暗箱にあたり「カタカタ」という低い音を発し、それが広々とした放射線室に響き渡った。死臭が鼻を突いたが、私はそれでも、この切られたばかりの頭部を動かしながら20枚の写真を撮り終えた。この時すでに夜中の2時であった。いつの間にか夜間の衛兵司令の松本軍曹が入ってきて、戸口に立っていた。彼の頭は青ざめて全身がかすかに震えており、手には銃を持っていた。
この後まもなく、これ等の写真は、神納がその博士論文とともに資料として大阪帝国大学医学部に送った。
これ等の人々は博士の学位を得るために、惜しげもなく中国人民を殺害したのである。彼らの医学的基礎は中国人民の鮮血の上に打ち立てられ、博士の学位は中国人民の鮮血を代価に獲得された。私の医療技術に関する知識も同様に、この血生臭いにおいの中から得たものなのである。
(1)119―1、174、第81-83頁
原注:本文は、遠山哲夫が戦犯管理所で自ら進んで書いたものである。
●毒ガス戦
・『日本軍の毒ガス兵器』 松野誠也著
第7章なぜ日本軍は毒ガス兵器に依存して戦いを行ったのか
3 毒ガス兵器から見た日本軍の諸相
毒ガス戦を遂行した中国戦線の日本軍には、以上のような深刻な問題が伏在していたのである。これまで見てきたことをまとめてみると、対ソ戦の準備を進めつつ、中国側の旺盛な抗戦力に直面しながらも長期化した日中戦争を継続するために、①貧弱な装備・補給能力(特に火力・弾薬)を補い、歩兵中心主義・白兵主義の弱点をカバーする必要性、②装備や兵員・指揮官の資質が低い部隊に攻撃力と防御力を与える必要性、③兵力の消耗を抑える必要性が生まれ、これらを解決する有力な兵器として中国戦線の日本軍はくしゃみ性・嘔吐性ガスを中心とした毒ガス兵器に依存し、日中戦争の拡大とともに毒ガス戦は熾烈さを増していったと考えることができる。
このことは、参謀本部がどのようなタイミングで毒ガス使用の許可の指示を出しているのかを分析するとより明確になる。最後にこの問題を検討してみよう。
第1次世界大戦では、毒ガスが大量に使われた。
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