細菌戦の系譜!!

2021-10-15 11:52:47 | Weblog

日本は、日中戦争で国際法に違反して、細菌戦、毒ガス戦、無差別爆撃を行った。日本政府は、この事実をきちんと認めていない!!

 

●『細菌戦部隊』

731研究会編   1996年9月(核時代51年)初版発行

 

 

Ⅱ 関連部隊・支部

南京でもやっていた人体実験

血管が切ると心臓からものすごい勢いで血が・・・・

松本博

1644部隊

経歴

1926年生まれ

1943年中支那派遣軍防疫給水部栄1644部隊配属

この証言は1995年6月、8月、11月の聞き取りをまとめたもの。

 

“ロツ”に入れられたマルタ

“ロツ”はまるで鳥篭のようで、高さ約1mで縦約1m、 幅約1 m 20 ㎝ぐらい、大人が座っているのがやっとの広さしかありません。鉄棒で囲われ、床板だけが5寸角の角材をボルトで締めて敷かれていました。彼らは全裸でその中に入れられていましたが、部屋は冷暖房完備でしたから室温調節には細心の注意が払われていたと思います。

 
 
 

 

 

●証言

生体解剖(旧日本軍の戦争犯罪)

中央档案館

中国第2歴史档案館

吉林省社会科学院編

 

江田憲司

兒島俊郎

古川万太郎編訳

 

 

 

 

 

Ⅰ東北

 

2 華北

1、河北

 

野田実自筆証書(1954年7月31日)

 

これ以後、私は長田文男ともっと多くの八路軍捕虜を使って医学上の生体実験を行うこと、保定陸軍病院付近に実験場を設立することを計画した。林吾夫の許可を得て、当時、部隊が河南作戦に出動して空いていた保定城外の兵舎を用いることに決定した。
 
 1944年6月下旬から7月上旬にかけて、私はまた第63師団歩兵第66旅団司令部で情報係将校黒江中尉を通じて、15名ないし16名の八路軍捕虜を受け取った。彼らは全て男子で黄褐色の軍服を着ており、ほとんどが25歳以下であった。旅団司令部のトラックを使い、警備兵を1名派遣して私自身が運転手の隣に座って、彼らを保定城外の前述の場所に連れて行って監禁した。監視と飲食などのことは、近くの保定兵器所の黒岩中尉に委託した。約1か月の間、私は1回も見に行かず、放置したまま虐待した。これと同時に、北京の方面軍軍医部へ実験用の病理器械及び薬品も請求した。ちょうど準備をしている時、1944年7月下旬、117師団編成人員となるべしとの転属命令を受け、7月29日に保定を出発して平原省新郷に赴いたため、計画は中止になってしまった。その後の処理と結果については知らない。
(1)119‐2、901、1、第5号
※訳注:平原省―1949年から52年まで河北・河南・山東の省境地帯におかれた省(張在晋『中国近現代政区沿革表』福建省地図出版社、1987年)。したがって抗日戦争期にこの省は存在しなかったし、日本人捕虜が供述を行った1954年~55年にはすでに元の三省に分割されていたが、後出の「二 河南」の節を含めて日本人捕虜の供述にはこの省名が用いられている。尚、新郷はその省都であり、現在は河南省に属する。 
 

●毒ガス戦

・『日本軍の毒ガス兵器』  松野誠也著

第6章 アジア太平洋戦争期の毒ガス戦

4 毒ガス戦をめぐる 日米の確執 アメリカ軍の毒ガス戦論計画と日本軍

 

毒ガス戦の中止へ

 

また、真田参謀本部作戦部長の日誌には、7月15日頃から同月末辺りに、「『ガス』は米とは相撲にならぬ、よりて使わぬこととせられたなら兵本〔陸軍兵器行政本部〕としては結構なり」「使わぬこととなれば撒毒車その他を他の方面に戦力化し得ることとなる」「瓦斯を使わぬか使うか早く決められたし」「瓦斯の設備を発煙剤を作る方向に利用すれば相当できる」などと記しているので(前掲「真田穣一郎少将日記」)、部内で毒ガスを巡る議論が行われていたことがわかる。 
 
 
 

 
 

・『日本の中国侵略と毒ガス兵器』 歩平著(山邊悠喜子、宮崎教四郎訳)明石書店 1995年発行)

 

第7章 残虐な毒ガス戦

 

動かしようのない事実

 

 

武漢戦役(1938.6.7~11.12)

同時に、日本軍は日本国内及び中国華北などから多数の化学部隊を移転させ、各参戦師団に配置した。その概要は次の通りである。

第11軍の長江両岸に沿った進攻

 

 

 日本軍の報告の中に次のような記載がある。
「数日来の連続攻撃は敵の側面からの射撃によって、進攻の目的を達しえず、しかし特殊発煙弾の使用後、1日のうちに八〇〇高地の占領に成功。主に毒ガスの効果によるものである」。
 9月16日、日本軍第10師団及び傀儡軍3000余人、その他に砲兵2個連隊、重砲2個大隊、騎兵1個連隊が空軍の支援の下、潢川(旧・光州)への進攻を開始。日本軍は歩、砲、空の連合による猛攻を3昼夜続け、さらに大量の毒剤の使用により、守る第59軍の第38、第180師団及び1個旅団に極めて多数の被毒者を出した。
 
 

加害の歴史」北九州市の毒ガス工場 第二次世界大戦で旧陸軍が使用



 



 
 
 

 

 

 

日本軍の毒ガス戦と遺棄毒ガス問題


 

 

 

 

 

 

 


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