●『1931 満州鞍山守備兵 斉藤準太郎の日記』
はじめのことば
仏壇の下奥に忘れられたように日記帳が置かれていました。茶色に煤けた布張りの表紙には「1931」の題字が刻まれています。私はこれを見つけて以来、いく度かぱらぱらとページを繰っては、狭い行間に細かい字と漢字、馴染みのない軍隊用語を見て読む気が失せ、閉じてきました。
既に90年という時を経て、紙もペン字も薄れて頼りなくなっております。
軍都広島での物語
●大江健三郎著
Ⅳ 人間の威厳について
Ⅴ 屈伏しない人々
広島駅東口で、頭から血を流しながら起き上がった博士が初めにしたことは、破壊し尽くされ火炎にまかれた市街を、より幕臣に近い日赤病院に向かって駆け出すことだった。最初、まったき静寂が辺りを領していた。そして不意に阿鼻叫喚が市街を満たした。阿鼻叫喚は、日赤病院での博士たちの救護活動の間、もう決しておさまる事無く、病院の中庭に積み上げられた死者たちは凄まじい臭いを発し続けた。
唯一の戦争被爆国 日本政府は核兵器禁止条約に署名・批准してください!
日本は、日中戦争で国際法に違反して、細菌戦、毒ガス戦、無差別爆撃を行った。日本政府は、この事実をきちんと認めていない!!
●『細菌戦部隊』
731研究会編 1996年9月(核時代51年)初版発行
Ⅰ 731部隊
731部隊の看護婦だった
石井四郎の不気味な顔と言葉が忘れられなくて・・・
赤間まさ子
731部隊・看護婦
〈経歴〉
1915年生まれ
1939年 731部隊入隊。診療部配属(看護婦)
1945年 帰国
■この証言は1994年6月、7月、8月他の証言をまとめたもの。
診療部に配属
地図一つ持って、私は死に物狂いで“満州”に向かいました。船に乗り汽車に乗り・・・そのうち段々“満人”が多くなり、西も東もわからない土地にたった独りぼっちの心細さが身に染みて、私は泣きました。
ようやく大連に着いた時です。731部隊の隊員が叔父の代わりに私を迎えに来てくれていました。私の名前を書いた大きな横幕を持っていたのですぐに見つけることができました。1939(昭和14)年の夏の事です。
●中央档案館、中国第2歴史档案館、吉林省社会科学院編
『証言 人体実験(731部隊とその周辺)』1991年初版発行
江田憲治、兒嶋俊郎、松村高夫編訳
解説
松村高夫
5、本書が明らかにした新事実
③ 平房の監獄の構造はどうなっていたのか
ハバロフスク裁判で山田乙三(関東軍司令官)は、「1945年8月開戦と共に、私の命により第731、第100両細菌戦部隊並びにその各支部は細菌戦準備の証拠を秘匿する為完全に破壊され、これ等の部隊の人員は朝鮮に撤退しました」と供述している。施設が如何に「完全に破壊され」たかについては、ソ連のスミルノフ大佐が前述した1947年1月15日のアメリカとの会談で、「平房の施設は日本軍の手によって、証拠隠滅のため完全に破壊された。全ての文書は破棄され、我が方の専門家は廃墟を写真に撮ろうかと思い悩む事もない程のひどい破壊状況だった」と語っている。
●毒ガス戦
・『日本軍の毒ガス兵器』 松野誠也著
第5章
日中全面戦争と毒ガス戦の展開
3 戦略的持久戦下での毒ガス戦と糜爛性ガスの実験使用
・『日本の中国侵略と毒ガス兵器』 歩平著(山邊悠喜子、宮崎教四郎訳)明石書店 1995年発行)
第5章 陸軍習志野学校
重要な実験場
中国東北へ化学兵器を転送した状況に関しては、我々は先に服部忠さんの回想を見た。彼は毒剤が運ばれた具体的な場所までは提供できなかったけれど、渡した相手の勝村福太郎という将校を記憶していた。我々は彼の回想と、当時チチハルにあった関東軍化学部隊の前身は関東軍技術部化学班であり、班長が勝村だったので、「勝村部隊」と呼ばれていたことを知った。
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