日本は、日中戦争で国際法に違反して、細菌戦、毒ガス戦、無差別爆撃を行った。日本政府は、この事実をきちんと認めていない!!
●『細菌戦部隊』
731研究会編 1996年9月(核時代51年)初版発行
Ⅱ 関連部隊・支部
香港難民の大量虐殺
ゲルトネル菌を飲用湯に投入して・・・・
丸山茂
8604部隊
(経歴)
1917年生まれ
1938年 朝鮮・龍山の歩兵79連隊に教育召集
1939年 南支那派遣軍防疫給水部(波第8604部隊)に転属。細菌検索班に所属
1943年3月 除隊。帰国
1945年 再召集
1945年8月 朝鮮で除隊
1945年10月 帰国
■この証言は731研究会の学習会での発言(1993年11月)、『短歌草原』(1992年8・9・10月号)所収「いかなる美名でも戦争への道は悪だ」よりまとめられたもの。
●証言
生体解剖(旧日本軍の戦争犯罪)
中央档案館
中国第2歴史档案館
吉林省社会科学院編
江田憲司
兒島俊郎
古川万太郎編訳
Ⅰ東北
2 華北
4 山西
陳水池の吉沢行雄告発資料(1954年12月)
吉沢、中国名吉偉民は日本軍占領時、惇(忄が山偏)県独立混成第3旅団通信隊で軍医大尉であった。1944年、原平の菊地部隊の軍医に配属され、原平鎮陸軍病院で衛生兵を訓練する際、主要な教官を担当し、救急法及び人体構造、治療などの方法を教育した。彼は新兵教育のたびに残虐無比なことを行った。即ち、憲兵隊から中国人をもらい受け解剖したのである。これは私が、病院で彼らに使われていた時に知ったことである。私が知っているだけでも3回、特に1944年の7,8月頃、彼はそこで教官を担当し、1回解剖を行った。翌日神山から人を探しに来た者がおり、ようやく彼らが死体を病院の西塀の外に埋めたことがわかった。殺されたのは神山村の若い農民で、賈招来といった。
(1)119-2、732、3、第49号
●毒ガス戦
・『日本軍の毒ガス兵器』 松野誠也著
第7章なぜ日本軍は毒ガス兵器に依存して戦いを行ったのか
3 毒ガス兵器から見た日本軍の諸相
日本軍と毒ガス兵器④ 砲兵力の低さの問題
以上は、中国戦線の日本軍がいかに劣悪な装備で戦わざるを得なかったかをよく示すものである。日本陸軍が装備する砲の質(射程や機動性など)や量は欧米の軍隊に比べて大変劣っていたと言うことはよく指摘される問題だが、その上砲弾の生産能力も低劣で、しかも中国戦線への砲弾の交付も貧弱の状態にあったのである。このような状況で長期持久戦を戦う中国戦線の日本軍は、堅固な中国軍陣地や中国軍の反撃に遭遇すると多大の犠牲を出すことになり、それだけに歩兵部隊が軽易に使用することができる中国軍に対する有力な兵器として、毒ガス兵器(特に「あか筒」)に頼る光景が出現したと言える。
・『日本の中国侵略と毒ガス兵器』 歩平著(山邊悠喜子、宮崎教四郎訳)明石書店 1995年発行)
第8章 無辜の被害者
河北井シン(チンシン)県老虎洞 毒ガス殺人事件
九死に一生を得た生存者、范羊羔の回想
そこから別の割れ目に入って行った。私は随分深くもぐり込んだので、敵の目に留まらなかった。その頃私は病気にかかっていたため、咳が出そうでたまらなかったが、敵に聞かれるのを恐れて、両手でしっかり口を塞ぎ、息を押し殺してじっとしていた。
まもなく、『ボン』という音がしたと思うと、ひどい臭気が咳を直撃した。私はむせて息をすることもできず、胸が詰まって爆発しそうになった。後先も考えず、高い段から下の方へ転げ落ち、方向も全く分からないまま明るい方へと走った。洞口へ出ると、私はあわてて身を伏せ、敵が遠ざかっていくのを見て、また洞内に戻り、人々に早く外へ逃げろと叫ぼうと思った。その時、私は立ち上がれず、声も出ず、ただ咳が出るばかり。
SNSで人気「ウサギの島」が背負った〝毒ガスの歴史〟大久野島を歩く
加害の歴史」北九州市の毒ガス工場 第二次世界大戦で旧陸軍が使用
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