日本政府は731の史料をことごとく隠蔽し、人体実験・細菌戦の事実を認めていない!!
731部隊等の旧帝国陸軍防疫給水部に関する質問主意書⁄川田悦子(衆議院議員) 2003年10月3日 いかなる部隊であったのか? 731部隊というのは一旦入ったら、2度と出ることはできない気違い共の医者たちに目茶目茶に切り刻まれて実験で殺されてしまう。 医学者?と人体実験 731部隊のドキュメンタリー 731部隊にいたことを悔い、医学者の道を捨てた男の物語 こういう人は稀だ!!ほとんどの上級隊員は、731での実績??をもとに出世??した!! 「731部隊と医学者たち」 ※中国の731罪障陳列館から特移扱で731部隊に送られ、人体実験されて亡くなった人の資料が届きました。犠牲者は3000人以上とされています。 その「特移扱」というのは、憲兵隊及び偽満州国警察が、中国人民を不法に逮捕し、「重罪にあたる者」と決定したならば、裁判をおこなわないで、憲兵隊から石井部隊に移送して、細菌実験材料としてなぶり殺しにすることであった。 李厚彬の特移扱資料6 キャスターは今回都知事選に出る鳥越俊太郎 封印された真実 ・情報公開裁判 6月28日(火曜日)は、時折、雨がポツポツ降る中、足をお運びくださいましてありがとうございました。 今回は、裁判所前で、3日間ビラ(下記のもの)をまき、一般の方や裁判所に少しでもアピールが届くように奮戦しました。 14:00から東京地裁419号室で『衛生学校記事』の情報公開裁判がありました。 11回目の法廷も、ほぼ満席でした。今回は時間通り開廷し、準備書面のやり取りがなされました。今回の法廷では、裁判の進行についての協議が9月6日(火)16:00~、次回法廷は10月11日(火)14:00~になりました。証人尋問も実現するかもしれません。 裁判所も、こちらの主張を真摯に受け取っている感じがしました。『衛生学校記事』だけでなく『化学学校記事』『衛生学校30年のあゆみ』等の開示も積極的に進めてくれると、今の自衛隊の兵器の研究・開発部門の事が、国民にもより分かって、いいと思います。 それに伴い、731部隊のアメリカからの返還資料の所在を突き止められ、それが公開されて、731部隊の実態が明らかにされることを最終的に望んでいます。次回の傍聴もよろしくお願いします!! なぜ、自衛隊衛生学校で作った『衛生学校記事』がきちんと保管されていないのだろうか?衛生学校と言っても、国民の税金で作られた公の施設である。自衛隊だから戦後、物品の管理はしっかりやっていると思うのであるが、不思議である。自分たちの大事な研究をまとめた機関誌である。第5代衛生学校長、金原節三氏の大切な寄贈資料も所在不明、よほど、管理が杜撰なのか?? 季刊誌『ふかみどり』がきちんとあるのに、なぜ、その前の『衛生学校記事』ない?? 金原節三・・陸軍に入り、次いで東大大学院で耳鼻咽喉科を専攻。ドイツ留学、昭和17年軍医大佐、近衛師団軍医部長、第15軍軍医部長、第38軍軍医部長、陸軍省医務局医事課長を歴任。戦後厚生省東海北陸医務出張所長を経て開業。30年防衛隊に入り陸上自衛隊衛生学校長、陸上幕僚監部衛生課長から陸将、第3代陸上幕僚監部衛生監となった。36年退官。その後防衛衛生協会会長、共済組合連合会三宿病院顧問、48年防衛衛生協会名誉会長。竹郎子と号し俳句、俳画をよくした。著書に「大東亜戦争陸軍衛生史」がある。 ※『化学学校記事』等についての回答がありました。 審査会の結論 「『化学学校記事』1号ないし最新号」につき、これを保有してしていないとして不開示として決定は、妥当である。 審査会の結論 「『衛生学校30年のあゆみ』衛生学校30年のあゆみ編さん委員会編(1982年10月)第4編の資料中の『研究の実績』の昭和55年度(265頁)の『衛生戦史資料の体系化』と題する論文」(以下「本件対象文書」という。) につき、これを保有していないとして不開示とした決定は、妥当である。 原告の陳述より 6 最後に一再度、徹底調査を実行して下さい 防衛省がなすべきことは、衛生学校の彰古館及び図書室をはじめ、世田谷区池尻の陸上自衛隊三宿駐屯地内を徹底的な資料捜索です。 また寄贈目録、未整理史料一覧も調査し開示すべきです。 是非、真剣に探索して一日も早い公開をお願いします。 以上 裁判所の三権分立がいま問われている!! なんとか、この防衛省の内部研究誌を公開させたい!! ※尚、情報公開・個人情報保護審査会の答申が3月にあり、 「『化学学校記事』と『衛生戦史資料の体系化』も不開示決定は妥当」としたことに対しても、裁判で公開を求めることにしたという。 お粗末な日本政府の情報公開 ※自衛隊衛生学校、階級社会のパワハラ、セクハラ!! 国民が見えない密室の中で何が行われているのだろうか?? ○○○さんよりの投稿がありました。 沖縄の嘉手納基地内(空軍の滑走路の近く、国道58から見えます)に米軍専用のゴルフ場「バニアンツリ-.又は、(クイーンズトラップ)」があります。民間人がプレ―する事は簡単ではありません。米軍人の友人(ゲスト)として参加するか…いずれにしても、超難題です!。しかし、自衛官は違います。自分達で予約(英語)して、米軍基地の入口(ゲ-ト)で米兵に「自衛官身分証明書」を提示するだけでフリーパスです!又、(1佐)以上は超特別です!。18ホールの本格的なゴルフ場です。料金も40ドル位で格安です。何故、自衛官は特別なのかは不明です。 そう言えばこんな事件もありました!! たちかぜ自衛官いじめ自殺事件 警視庁でも!! 自殺2警官、上司批判のメモ 警視庁「パワハラない」 ※特定秘密保護法が施行され、TPPはじめ、各省の情報開示が困難になってきている昨今、マスコミはこういう裁判を積極的に報道し、国の隠蔽体質を明らかにするべきだと思うが、一社も取材しないとは、どういうことだろうか?嘆かわしい!! 日本は「核兵器の非人道性」を主張する前に「731の非人道性」を謝罪せよ!! 歴代日本政府は、天皇制護持の為、いつも情報を隠蔽している!! TPP文書だけではない!! 開示された文書「何で黒塗り?」 歴史を繰り返さないための海外の取組み!! ヒトラー生家収用へ法案 オーストリア内務省 守秘徹底、法人設立も容易=「文書」発端の租税回避地-パナマ 731部隊の設置許可、人体実験、毒ガス戦・細菌戦実施の許可した昭和天皇とそれに協力せざるを得なかった日本医学界の責任、戦後、その人体実験、毒ガス戦・細菌戦を全く裁判にかけなかったマッカーサーとアメリカ政府の責任、1990年代から2000年代にかけて行われた裁判において、事実を認めながら、それを放置している司法の責任、全く無視している政治の責任、731に対する国民の認識は? 戦後70周年、中国の人々から日本の我々に届いた重いメッセージ! 虐殺された人々(日本人を含む)の声なき声にどう応えるか? 日本人はこの731問題にどう向き合うか?重い課題!! 日本には本当に三権分立があるのかが問われている!! ・・・・731部隊というのは一旦入ったら、2度と出ることはできない気違い共の医者たちに目茶目茶に切り刻まれて実験で殺されてしまう。言い換えればあの部隊はるつぼのようなものなんですね。・・・・ 白系ロシア人、通訳生が「これからみんなに予防接種するから」・・・連れて行った所が、 向こうは予防接種されると思うしね、殺しちゃう人間にえらく消毒する必要はないわね。一つのカモフラージュですよね。実際にもう試験する資材(マルタ)はもう飽和状態になっているわけ、要らないし、約1㏄(の青酸カリ)だからこんなもんですよね。鉛筆の頭ぐらいのもんですよね。このぐらい注射すると、あのでかいロシア人も音を立てないでパタッーっとひっくり返っちゃう。 ・・・・・・・・・ 731(4) ・731部隊は我が大日本帝国最大の機密であり、今後はこの機密保持がどこまでなされるかが最大の問題である??? 黒い太陽№15 ※「機密」とは、秘密の保全が最高度に必要であって、その漏えいが国の安全又は利益に重大な損害を与えるおそれのあるものをいう。 戦前の刑法には、「敵国ノ為メニ間諜ヲ為シ、又ハ敵国ノ間諜ヲ幇助シタル者ハ死刑又ハ無期若クハ5年以上ノ懲役二処ス 軍事上ノ機密フ敵国二漏泄シタル者亦同シ」(第85条)という規定があった。 朝枝繁春の証言 古河、三井、チッソも戦前から国策「富国強兵」のもと、事業が進められ、環境問題を無視し、被害を拡大させ、今でも問題になっている!!そして、福島第一原発事故後も、国策「核兵器開発」のために、脱原発の方向に進まず、原発を再稼働させている!! ●水俣病 新潟水俣病 感覚障害だけで認定命令 7人の訴え認める 水俣病の被害が拡大した時も、医学界の権威者が、一時、チッソ水俣工場の有機水銀説を否定した。 原因が工場排水中の水銀らしいと見当がついた1959年夏以降は、熊本大学医学部の研究班は企業や通産省、御用学者の集中砲火を浴びることになる。 東大を中心に水俣病をもみ消すために作られた田宮委員会 ※細菌戦部隊の周辺で研究者を送り込んだり,その他の協力関係にあった人です。 *田宮猛雄 (当時)東京帝国大学で若い研究者を731に送り込んだ (戦後)東大医学部部長 水俣病公式確認60年 未曽有の被害 全容未解明 水俣病 水俣病を引き起こしたチッソと皇太子妃雅子様は 日本の公害 ●イタイイタイ病も賠償まで50年かかった!! G7閣僚 高い関心 イタイイタイ病の教訓 世界へ/富山 1920年(大正9年)、当時の上新川郡農会長であった金岡又左衛門が農商務大臣山本達雄と富山県知事東園基光に神岡鉱業所の鉱毒除去の建議書を提出したのが神通川流域の鉱毒被害の表面化の始まりである。 1966年(昭和41年)11月、被害者の家族や遺族らがイタイイタイ病対策協議会(略称:イ対協)を結成した。 その後、イ対協は神岡鉱業所と交渉するも企業側の対応が冷ややかだったためイ対協の会長であった小松義久などは裁判で訴えることを決意する。 1968年(昭和43年)1月、全国から集まった20人の弁護士によってイタイイタイ病訴訟弁護団を結成した[8]。 1968年(昭和43年)3月9日、患者・遺族28人が三井金属鉱業を相手に総額約6億3000万円の第1次訴訟を起こす。 1971年(昭和46年)6月に第1審が原告勝訴の判決を下した。 1審判決を不服とする三井金属鉱業は控訴したが、第2審も1972年(昭和47年)8月9日に原告側勝訴の判決となった。 三井金属鉱業は上告を断念し、第2次以下の訴訟も判決内容にしたがって補償することを決めた。判決ではカドミウムの放流とイタイイタイ病とは因果関係があると断定した。 三井金属鉱業は第5次訴訟まで総額23億5633万円の損害賠償金の支払い、農業被害の賠償と汚染土壌の復元義務、住民の立ち入り調査権を認めた公害防止協定書の締結の3点を内容とする和解に応じることとなった。・・・・・ 2014年(平成26年)9月末時点では認定患者は198人で要観察者が延べ408人となっており[15]、患者数は増加し続けている。 さらに、2014年(平成26年)9月の検査では従来行われてきた5歳刻みで対象年齢を決めていた流域住民への健康調査を全年齢を対象に切り替えたところ、1969年(昭和44年)の調査開始以来最多の精密検査対象者が出ており、健康調査への受診率が低迷していることも合わせると、患者数の正確な数字は把握できていない[15]。 患者に認定されると公害医療手帳が支給され、国から医療費・障害補償費・療養手当などが給付される。また、三井金属鉱業からも賠償費・医療費・入通院費・医療介護手当・温泉療養費が支給される[14]。 しかし、認定にハードルは厳しく、いまだに行政の救済を受けることができずに苦しんでいる人たちが残っている。現代での問題点は原因分析ではなく、患者認定・要観察判定の具体的な基準に移っている。行政側である県認定審査会は厳しい基準を課して却下する事例が多い。 具体的には、イタイイタイ病の認定の4要件の1つとなる骨軟化症の判定をおこなっている。 ドキュメンタリー:イタイイタイ病 「イタイイタイ病」全面解決?? 萩野医師によって、原因究明がなされたが、日本医学界はこの問題にきちんと向き合ったのだろうか??? イタイイタイ病裁判さいばん の 記録 苦しむ患者たちを救え! 公害裁判ではじめて勝訴したイタイイタイ病 窮地きゅうちにおちいっていた小松のもとに 昭和42年(1967)10月 弁護士の島林 樹しまばやし たつるが尋ねてきました。 島林は地元婦中町の出身で東京で弁護士をしていました。 弁護士となってまだ1年ほどであったが、 病に苦しむ人の手助けをしたいと申しでた。 私自身 中学生のころ 川の水をくんで風呂を沸かしていました そのとき 川の水が白くにごっていたのを知っていたので 鉱毒説という考えは自然に理解できた。 先のことは見えなかったが 被害をこのまま放置してはいけないと強く感じた (NHK映像より 島林弁護士の談話) 昭和42年(1967)12月 小松の呼びかけで集まった被害者住民の集会で 島林弁護士は こんなひどい公害を許してはいけません。 裁判でたたかいましょう。 と 訴えた。 東京に戻った島林弁護士は仲間達に呼びかけ協力を要請した。 すると、 東京、大阪、名古屋、北陸など全国から20人ほどの弁護士が無報酬で協力すると申し出てきた。 ※水俣病・福島原発事故でもそうだが、いつも県・医学界は企業側に立つ!! 裏金が動いているのか??被害者は見捨てられる!! ※共同研究者の東大の細谷教授は何をやったのか? 731部隊に弟子を送り込んだ防疫研究室の嘱託研究者 *細谷省吾 (当時)東大伝染病研究所教授 (戦後)同研究所に残る 研究業績で朝日賞を受ける なぜ、研究者は以前から指摘されていた鉱毒被害には目をつぶる。 企業の方も、研究者を味方につけた?? なぜ、きちんと原因究明をしない??足尾鉱毒事件なども起こっていたのに!! 今の、水俣病や福島原発事故と構図は同じだ!! ※足尾銅山でも鉱毒でイタイイタイ病が発生していた!!(ウキペディア「足尾鉱毒事件」より) 1899年(明治32年)の群馬栃木両県鉱毒事務所によると、鉱毒によるイタイイタイ病で死者・死産は推計で1064人。これは、鉱毒被害地の死者数から出生数を単純に減じたものである。松本隆海は、すべてが鉱毒が原因だとはいえないかもしれないが、当時の日本は出生数のほうが多いにもかかわらず、この地域で死者数のほうが多いのは、鉱毒に関連があるとしている(実際には、鉱毒が原因で貧困となり、栄養状態が悪化して死亡した者が多く含まれていると考えられるが、田中正造や松本はこれらも鉱毒による死者とすべきだとしている)。この数値は、田中正造の国会質問でも使用された。 1895年頃の足尾銅山 ※以前から地元住民は鉱毒被害を政府に訴えていた!!医学界の反応は??(ウキペディア「イタイイタイ病」より) 1920年(大正9年)、当時の上新川郡農会長であった金岡又左衛門が農商務大臣山本達雄と富山県知事東園基光に神岡鉱業所の鉱毒除去の建議書を提出したのが神通川流域の鉱毒被害の表面化の始まりである。建議書には「神岡鉱業所事業の勃興に伴い、土砂に流入する田地の稲は発育に変調をきたし、完全に登熟しない。鉱山経営者に対し除害施設を講ぜしめられたい。」と訴えられている[8]。 その後も同様に要望が婦負郡農会や富山県会からも出たため、東京鉱務署の調査があり神岡鉱業所に廃砕・廃水処理の改善が命じられた。また、富山県は災害対策費として1ヶ所2円の県費補助金を出して、用水路幹線からの取水口に小沈殿池を設けさせて被害の軽減に努めた。これによって一時的に効果をあげたが、満州事変や日中戦争などに伴い神岡鉱業所が増産体制に入ったり、何度かの出水で小沈殿池が流されたり、埋没したりして以前にも増して泥や砂など流入が激しくなった[8]。 1948年(昭和23年)、熊野村(現:富山市婦中町)など3町4村の農家が神通川鉱毒対策協議会を結成。富山県を通じて交渉し、1951年(昭和26年)に神岡鉱業所が農業協力費を関係市町村へ支払うことになった。しかし、原因は解明されないままであった。 |
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