細菌戦の系譜!!

2020-11-30 09:31:17 | Weblog

 

●『1931 満州鞍山守備兵 斉藤準太郎の日記』

 

 

三月十日

 

陸軍記念日第弐拾六周年目なり 一大奉天戦を形どった市街戦あり 参加部隊 守備隊 在郷軍人青年訓練所 中学生徒 小学生徒 非常に盛会にして意義深し 市街戦における我重機隊の進路図のごとしー此の日晴 風強し

陸軍戦勝第弐拾六周年記念日也。奉天会戦の模擬戦挙行の為に重機編成ー午前九時半 沙河対陣の状況の元に行く為にゴルフ山の向こう斜面に陣取って戦機を待つ 

第一軍中学生軍 第二軍在郷軍人及び青訓軍 第三軍守備軍 第四軍小学生軍編成にて、敵は奉天城(駅前御大戦記念午砲サイレンの公園式広場)門端に陣を作り我を待つ

 


大江健三郎著

「ヒロシマノート」岩波新書(1965年発行)

 

 


 

 
挿絵カット 丸木位里・赤松俊子『ピカドン』(1950年86日ポツダム書店発行)より

 

Ⅱ 広島再訪

 この小柄な中年の死者は≪第9回世界大会の成功を信じます≫と一言述べるために日盛りの前庭に現れ、自分自身の衰弱死への道を、確実に短くした。その切実極まる代償において、彼は志を述べ(それが平和行進の先導車のスピーカーの声にかき消されて、行進団の人々の耳に、ほとんど達しなかったにしても)そして志を述べた人間の、威厳と満足感と共に引き下がった。しかし、その夕暮から始まった第9回世界大会は決して成功したわけではなかった。

 

唯一の戦争被爆国 日本政府は核兵器禁止条約に署名・批准してください!

 

 

 日本は、日中戦争で国際法に違反して、細菌戦、毒ガス戦、無差別爆撃を行った。日本政府は、この事実をきちんと認めていない!!

 

●『細菌戦部隊』

731研究会編   1996年9月(核時代51年)初版発行

 

Ⅰ 731部隊

 

生体解剖をやらされた

意識がはっきりとしている“マルタ”の手足を解剖台に縛り付け・・・

 

鎌田信雄(かまたのぶお)

731部隊・少年隊

(経歴)

1923年生まれ

1938年 731部隊入隊

1940年 新京の防疫でペスト感染

1943年 病気療養の為帰国

■この証言は1994年6月、1995年10月ほかの聞き取りをまとめたもの。

ペスト流行

 

 実はこの頃、私はペストに感染してしまいました。高熱が出て倒れました。倒れた後、ハルピンに移送されたそうです。陸軍病院に送られ、ワクチンを投与されました。陸gン病院と言っても、他の患者から隔離された離れ小屋みたいなところです。誰も立ち入ることができず、入って治療に当たることが出来たのは731部隊の先生ばかりでした。

 何とか良くなった頃、今度は「結核の療養」と言う名目で、旅順に送られました。1943年になって広島の江波病院に移り、その後盛岡にある江波分院の観武カ原(かんむがはら)の衛生(えいじょう)病院〔盛岡陸軍病院〕で療養し、ようやく退院になったわけです。 

 

 

 

 

 『証言 人体実験(731部隊とその周辺)』


中央档案館、中国第2歴史档案館、吉林省社会科学院編
江田憲治、兒嶋俊郎、松村高夫編訳

 


 細菌兵器製造の為の大がかりな鼠類収集

 

榊原秀夫供述書(1955年5月17日)

問:部下をどのように指揮して大量の鼠捕獲とノミの繁殖を行い、731部隊に細菌兵器大量生産の原料を供給するという任務を果たしたのか。

答:1945年4月、私は731部隊本部で開かれた支隊長会同に出席した。石井四郎部隊長が各支隊に対し部下を大いに動員して補鼠活動を行うよう命令した。会同後、私は林口に帰り、支隊の幹部会議を招集して、林口に間所少尉を責任者とする25名の常設捕鼠班を設け、専門に捕鼠活動にあたらせることを決めた。

 

●毒ガス戦
・『日本軍の毒ガス兵器』  松野誠也著

第1章毒ガス兵器の製造と教育

4 毒ガス戦の訓練や教育はどのように行われたか

危険な「実物体験主義」教育

 また、別の元学生は「『瓦斯室』での訓練のあと2時間位、野原に倒れて休息し回復したこと、イペリットを撒布した演習場内での戦闘訓練で足をやられ入院の後、退校したした者があったことなど思い出します」と回想している。退校せざるを得ないような相当な傷害を受けていた兵士もいたのである。

 

 

 


 

 

 

 

 

 

 ・『日本の中国侵略と毒ガス兵器』 歩平著(山邊悠喜子、宮崎教四郎訳)明石書店 1995年発行)

 

 

 

 

 1章 「陸軍科学研究所」-日本の毒ガス兵器のゆりかご

 

陸軍第6技術研究所

 

 ここで特に指摘せねばならないことは、日本の軍隊の中で、海軍もこれとは独立して化学兵器の研究と製造を行っていたことである。すでに、1922年には海軍の中に化学兵器委員会が成立し、陸軍とは密接に連携を保っていた。1923年には海軍技術研究所の中に化学兵器研究室を設立し、金子忠吉大尉が室長を務めた。1934年には、神奈川県平塚市で、海軍から独立して科学研究部が設立された。1943年には相模海軍工廠が設立され、化学兵器を生産した。

 

 



 
 
 

 

 

 

日本軍の毒ガス戦と遺棄毒ガス問題

 


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