日中戦争の実態
日本人中国抑留の記録6(三光作戦)
日本人中国抑留の記録7(アヘン・731・無人地区)
日本政府は、戦後60余年も経っているのに、731部隊の資料を公開していない!!
いや、公開できない?
今でも生物戦の研究を進めている?
天皇制が続く限り、731部隊の資料は、出て来ないのではないか?
アメリカ・日本政府は必死に隠すだろう!!
これじゃ死者(=殺された者)は浮かばれない!!
オウムのやったことと旧日本軍のやったことはよく似ている!!
サリンを撒いた!細菌を撒いた!
日中国交正常化41周年
問われる日本政府の隠蔽体質!!
問われる日本人の歴史認識!!
日本は世界で唯一、第2次大戦中、細菌兵器を実戦に使った加害国だった!!
きけ!!「マルタ・アジアの被害者」の悲痛な叫び!!
「怨」
黒い太陽731部隊
「吾、吾が罪を知る」という遺書を残して自死した東大助教授に石井らは果たして何を要求したのか?(詳しくは「細菌戦部隊と自決した2人の医学者」【新潮社】をお読みください!)
昭和20年9月2日大学の研究室で自殺。(その日は戦艦ミズーリで日本が降伏文書に調印した。)
●731部隊
小特集 日中関係雑感(2012年11月9日 第5号発行)
最近の緊迫した日中間の状況に鑑み、4人の方にそれぞれの思いを語って頂きました。
○釣魚島問題をめぐって 中国の一地方都市から 権田茂(大学講師)
日中国交回復40周年の今年前半、中国では、一昨年の中国漁船員逮捕事件によって後退した友好ムードを再び盛り上げていこうという空気が濃厚だった。それが一転して、「国交40年で最悪の事態」となった。これは野田政権が釣魚島(尖閣列島)の国有化を決定した9月上旬から、中国公式マスコミで使われ出した言葉だ。それから約2週間、9・18柳条湖事件記念日をピークに、中国全土100近い都市で総数10万を超える抗議デモが巻き起こった。残念なことに、実際現在の状況は国交40年で最悪の事態になってしまったと言わざるをえない。
9・15 5000人デモ
ここ常徳でも、9月15日に大規模なデモが行われた。テレビ、新聞では報道されなかったようだが、インターネットで流された映像を見ると4~5000人ぐらいのデモである。デモは常徳駅から烈士公園までの平和的なデモで、途中の路上で、あらかじめ用意した日本車を破壊するパフォーマンスが行われたようである。このような大規模なデモは極めて珍しいことである。
また街中の商店街では、商店入口の上にスローガンを掲げた幕を張ったり、電光掲示板で流しているのが散見された。あるレストランでは、スローガンを料理の名前に付けて、たぶん通常より安く売り出しているところもあった。さらに路上を走る車で、中国国旗を付けて走っている車をときどき見かけた。これはおそらく日本車なのだろう。
大学内では、学生寮の1ヵ所に垂れ幕が掲げられていたが、特別の行動はなかった。しかし日本語科の学生にとっては大きな影響が出た。毎年11月に行われている湖南省教育部主催の日本語スピーチコンテストが中止となった。また今年で4回目となる湖南省日本人会主催の日本祭も中止となった。
2000年代に入ってから、日中関係が悪化したことが過去2回あった。1回目は2005年小泉首相の靖国神社参拝と日本の安保理事国入りが 問題になった時、2回目は一昨年の中国漁船員逮捕事件の時である。この時スピーチコンテストは通常通りに行われた。一昨年は、他では中止になった省もあったが、湖南省ではスピーチコンテスト、さらに日本祭も挙行された。しかし、今回はついに湖南省も中止に追い込まれたのである。
(15)吉田源二、東大医学部出身、昭14.4.5から終戦まで在隊、吉村寿人の下でマルタの管理を担当。
【2 吉田の源さん
だが、このような区別、つまり正規の軍医であったか、短限であったか、それからまた陸軍技師であったか、臨時嘱託であったか、そんなことが、あの部隊に所属していた研究者である限り、その罪は一蓮托生であるという点からすれば、いったいどれほどのちがいになるというのかと、思い知らされる日が間もなく到来した。
それは、わたしが昭和19年(1944)5月末、その前年の9月に再婚したばかりの妻を伴って任地へ赴く途中、満州国での第1夜を過したハルビンの宿に、歓迎の意を伝えるべく訪れてくれた旧友の口からはじめて、部隊の秘密をおぼろげながら聞き知ったときのことである。
その旧友というのは吉田源二陸軍技師であり、この人は旧制第1高等学校を経て昭和9年(1934)に東京大学医学部を卒業後、いつ頃から第731部隊に勤務するようになったのかは知らないが、当時は第4部二木班に所属していた。
この吉田技師を旧友とよぶ所以は、かつてわたくしが昭和4年(1929)4月、一高に再入学したときに同校の3年生であったばかりでなく、かれはその頃だれ知らぬ者がなかったほどの向陵切っての名物男でもあったからである。
だが、そのかれにハルビンの宿で久しぶりに再会したわたくしが、何よりもまず衝撃を受けたのは、(きみが来てくれたのはうれしいが、それにしてもとんでもないところにやってきてしまったもんだなあ。きみは知っていたのか、知らずにか)というかれからの質問がきっかけではじまった部隊のはなしであったが、それにもましておどろかされたのは、かれの変わり果てた面影であった。
わたくしの記憶の中で生きていた吉田の源さんは、豪放らいらくを絵に描いたような、典型的な一高健児であった。そして、数々の向陵物語でおなじみな記念祭とか、全寮茶話会とか、あるいはまた一高三高対抗野球戦とか、寄宿寮ストームなどでは、必ずといってよいくらい高吟乱舞をほしいままにしていたかれの姿を見るたびに、わたくしは「友の憂いにわれは泣き、わがよろこびに友は舞う」という寮歌の一節がそのままのかたちで演じられている感に迫られたものであった。
それがどうであろう。ハルビンの宿で目前にした吉田技師は、相手をまともに見ることはせず、いつも伏目勝ちで、話す言葉には弾みがないのでぼそぼそと聞きづらく、あまつさえその口許にはうすら笑いさえうかべていたのである。
しかもそれは相手に対してというよりは、多分自分自身へ向けての侮蔑の現われであることはたやすくみてとれた。それにしても、かつては豪傑笑いとよく噂された、明るい、いかにも屈託のなさそうなかれのあの笑いがいつの間に、こんなにうしろめたい、謎めいたものに変わってしまったのか。
そのほか、かれの身のこなし方にも以前とはすっかりちがってしまっているところがあるのに気がついた。たとえば、両肩をすぼめ、前かがみになって歩くかれの後ろ姿などは、その身につけているカーキ色の軍属服とはおよそちぐはぐな感じであったし、それやこれやが重なり合ったかれの変わりようは、(これがあの源さんなのか)と、しばしわが目を疑いたくなったほどのものがあった。
わたくしはその後も、しばしばかれとは話し合ったこともあり、それに間もなくかれが二木班でどのようなことをやっていたのかを知るに及んで、はじめてすべてが残りくまなく解き明かされたのである。そしてわたくしは改めて、ドイツ浪漫派作家が好んで題材にしたあの「悪魔に影を売り渡した男」は現実にも存在しているのであって、決してとりとめもない空想の産物などではないことを思い知ったのであった。】
※向陵・・・東京本郷向ヶ丘にあった旧制第一高等学校の別名。
(「医の倫理を問う 第731部隊の体験から」 秋元寿恵夫著 勁草書房)
731部隊で行われていた残虐行為はアウシュビッツ以上だ!!(医学者の道を捨てた男もいた!!)
医学犯罪、今どう考える…?731部隊の“闇”を振り返る
2000/3/5 放送「731部隊と医学者たち」(医学者の道を捨てた男・秋元寿恵夫の生涯!!)
知ってるつもり 731部隊
『部隊展』(1993年~1994年)の資料より
体の凍り具合
●凍傷は日本軍が極寒の地を征服するためには、どうしても克服しなければならない課題だった。以前は、凍傷に対する最も有効な治療法は、患部をわらでこすることだった。凍傷実験を担当した吉村寿人(ひさと)班では、以下の手順で実験を行った。
1、零下20度以下の屋外に被験者をしばりつけ、腕などに塩水をかけて人工的に凍傷を作る
2、棒でたたいて、凍り具合を確認する
吉村が自著『喜寿回顧(きじゅかいこ)』の中で批判に応えるため「凍傷実験など大したものではなかった」例として使っている写真(被験者は蒙古人少年)
※吉村 寿人(よしむら ひさと、1907年 - 1990年)は日本の医学者。生理学者として師である正路倫之助(兵庫県立医科大学、後の神戸医科大学初代学長)より731部隊に赴任するよう命じられ、凍傷研究に従事した。吉村の731部隊における研究について、かつての部下らによるハバロフスク裁判での証言やイギリスの取材陣らが収集した証拠資料と証言資料では、人体実験での貴重な「研究」とされる。戦後、731部隊の人体実験のデータと推定されるものを用いて日本生理学会に論文を多数発表する。また、戦時中においてもすでに成果を同学会において口頭発表がなされていた。戦後京都大学に戻り、正路倫之助が学長になった兵庫県立医科大学(現在の神戸大学医学部)に移動して研究を続け、その後京都府立医科大学の教授となり、学長を務めた。1978年には、「環境適応学」の先駆的業績を果たした功績に勲三等旭日章が授与された。(ウィキペディアより)
『証人古都良雄の尋問より』
●古都良雄。1941年7月より1945年2月まで、第1部第1課に勤務、衛生兵。その後第643支部病原菌研究班に勤務中、ソビエト軍の俘虜となる。
問)人体凍傷実験について話してもらいたい。
答)人体凍傷実験は、毎年、一年の中で一番寒い・・・11月、12月、1月、2月に部隊内で行われました。この実験の方法は次の通りであります。すなわち被験者を夜11時頃、酷寒の戸外に連れ出し、冷水の入った桶に両手を入れさせ、それから手を出させて、濡れ手のまま、長時間寒気に立たせました。あるいは又、こうもしました。着物は着せても裸足の人間を戸外に連れ出して、夜、一番寒い時に寒気に立たせました。
人間が凍傷に罹った後、室内に連れ込み、およそ5度の温水に足を入れさせ、徐々に水温を上げました。こうして、凍傷の治療方法が研究されていました。私はこれらの人間が室内に連れ込まれてからの実験は直接見ませんでしたが、私が不寝番に立っていました時、人間を寒気に連れ出し、そのところで凍傷に罹らせられているのを見ただけであります。人間に手を水に漬けさす室内の実験については、目撃者の話で聞きました。
問)又、どんな人体実験が行われていたか?
答)吉村研究員が、人間に対するびらん瓦斯(ガス)使用実験を行っていたことを私は知っています。私はびらん瓦斯(ガス)の効力を試験するのに使用されていた人間を監獄の中で見ましたが、この実験の方法がどうだったかは、知りません。
問)これらの人々はどういう状態に置かれていたか?彼らには、どういう症状が現れたか?
答)私は、手、足に大きなびらんが生じている人々を見たことがありますが、これ以上何も知りません。(『細菌部隊ハバロフスク裁判』海燕書房)
黒い太陽731 3
ハバロフスク裁判の様子
NPO法人 731資料センター 会報5号」より
日本人中国抑留の記録6(三光作戦)
日本人中国抑留の記録7(アヘン・731・無人地区)
日本政府は、戦後60余年も経っているのに、731部隊の資料を公開していない!!
いや、公開できない?
今でも生物戦の研究を進めている?
天皇制が続く限り、731部隊の資料は、出て来ないのではないか?
アメリカ・日本政府は必死に隠すだろう!!
これじゃ死者(=殺された者)は浮かばれない!!
オウムのやったことと旧日本軍のやったことはよく似ている!!
サリンを撒いた!細菌を撒いた!
日中国交正常化41周年
問われる日本政府の隠蔽体質!!
問われる日本人の歴史認識!!
日本は世界で唯一、第2次大戦中、細菌兵器を実戦に使った加害国だった!!
きけ!!「マルタ・アジアの被害者」の悲痛な叫び!!
「怨」
黒い太陽731部隊
「吾、吾が罪を知る」という遺書を残して自死した東大助教授に石井らは果たして何を要求したのか?(詳しくは「細菌戦部隊と自決した2人の医学者」【新潮社】をお読みください!)
昭和20年9月2日大学の研究室で自殺。(その日は戦艦ミズーリで日本が降伏文書に調印した。)
●731部隊
小特集 日中関係雑感(2012年11月9日 第5号発行)
最近の緊迫した日中間の状況に鑑み、4人の方にそれぞれの思いを語って頂きました。
○釣魚島問題をめぐって 中国の一地方都市から 権田茂(大学講師)
日中国交回復40周年の今年前半、中国では、一昨年の中国漁船員逮捕事件によって後退した友好ムードを再び盛り上げていこうという空気が濃厚だった。それが一転して、「国交40年で最悪の事態」となった。これは野田政権が釣魚島(尖閣列島)の国有化を決定した9月上旬から、中国公式マスコミで使われ出した言葉だ。それから約2週間、9・18柳条湖事件記念日をピークに、中国全土100近い都市で総数10万を超える抗議デモが巻き起こった。残念なことに、実際現在の状況は国交40年で最悪の事態になってしまったと言わざるをえない。
9・15 5000人デモ
ここ常徳でも、9月15日に大規模なデモが行われた。テレビ、新聞では報道されなかったようだが、インターネットで流された映像を見ると4~5000人ぐらいのデモである。デモは常徳駅から烈士公園までの平和的なデモで、途中の路上で、あらかじめ用意した日本車を破壊するパフォーマンスが行われたようである。このような大規模なデモは極めて珍しいことである。
また街中の商店街では、商店入口の上にスローガンを掲げた幕を張ったり、電光掲示板で流しているのが散見された。あるレストランでは、スローガンを料理の名前に付けて、たぶん通常より安く売り出しているところもあった。さらに路上を走る車で、中国国旗を付けて走っている車をときどき見かけた。これはおそらく日本車なのだろう。
大学内では、学生寮の1ヵ所に垂れ幕が掲げられていたが、特別の行動はなかった。しかし日本語科の学生にとっては大きな影響が出た。毎年11月に行われている湖南省教育部主催の日本語スピーチコンテストが中止となった。また今年で4回目となる湖南省日本人会主催の日本祭も中止となった。
2000年代に入ってから、日中関係が悪化したことが過去2回あった。1回目は2005年小泉首相の靖国神社参拝と日本の安保理事国入りが 問題になった時、2回目は一昨年の中国漁船員逮捕事件の時である。この時スピーチコンテストは通常通りに行われた。一昨年は、他では中止になった省もあったが、湖南省ではスピーチコンテスト、さらに日本祭も挙行された。しかし、今回はついに湖南省も中止に追い込まれたのである。
(15)吉田源二、東大医学部出身、昭14.4.5から終戦まで在隊、吉村寿人の下でマルタの管理を担当。
【2 吉田の源さん
だが、このような区別、つまり正規の軍医であったか、短限であったか、それからまた陸軍技師であったか、臨時嘱託であったか、そんなことが、あの部隊に所属していた研究者である限り、その罪は一蓮托生であるという点からすれば、いったいどれほどのちがいになるというのかと、思い知らされる日が間もなく到来した。
それは、わたしが昭和19年(1944)5月末、その前年の9月に再婚したばかりの妻を伴って任地へ赴く途中、満州国での第1夜を過したハルビンの宿に、歓迎の意を伝えるべく訪れてくれた旧友の口からはじめて、部隊の秘密をおぼろげながら聞き知ったときのことである。
その旧友というのは吉田源二陸軍技師であり、この人は旧制第1高等学校を経て昭和9年(1934)に東京大学医学部を卒業後、いつ頃から第731部隊に勤務するようになったのかは知らないが、当時は第4部二木班に所属していた。
この吉田技師を旧友とよぶ所以は、かつてわたくしが昭和4年(1929)4月、一高に再入学したときに同校の3年生であったばかりでなく、かれはその頃だれ知らぬ者がなかったほどの向陵切っての名物男でもあったからである。
だが、そのかれにハルビンの宿で久しぶりに再会したわたくしが、何よりもまず衝撃を受けたのは、(きみが来てくれたのはうれしいが、それにしてもとんでもないところにやってきてしまったもんだなあ。きみは知っていたのか、知らずにか)というかれからの質問がきっかけではじまった部隊のはなしであったが、それにもましておどろかされたのは、かれの変わり果てた面影であった。
わたくしの記憶の中で生きていた吉田の源さんは、豪放らいらくを絵に描いたような、典型的な一高健児であった。そして、数々の向陵物語でおなじみな記念祭とか、全寮茶話会とか、あるいはまた一高三高対抗野球戦とか、寄宿寮ストームなどでは、必ずといってよいくらい高吟乱舞をほしいままにしていたかれの姿を見るたびに、わたくしは「友の憂いにわれは泣き、わがよろこびに友は舞う」という寮歌の一節がそのままのかたちで演じられている感に迫られたものであった。
それがどうであろう。ハルビンの宿で目前にした吉田技師は、相手をまともに見ることはせず、いつも伏目勝ちで、話す言葉には弾みがないのでぼそぼそと聞きづらく、あまつさえその口許にはうすら笑いさえうかべていたのである。
しかもそれは相手に対してというよりは、多分自分自身へ向けての侮蔑の現われであることはたやすくみてとれた。それにしても、かつては豪傑笑いとよく噂された、明るい、いかにも屈託のなさそうなかれのあの笑いがいつの間に、こんなにうしろめたい、謎めいたものに変わってしまったのか。
そのほか、かれの身のこなし方にも以前とはすっかりちがってしまっているところがあるのに気がついた。たとえば、両肩をすぼめ、前かがみになって歩くかれの後ろ姿などは、その身につけているカーキ色の軍属服とはおよそちぐはぐな感じであったし、それやこれやが重なり合ったかれの変わりようは、(これがあの源さんなのか)と、しばしわが目を疑いたくなったほどのものがあった。
わたくしはその後も、しばしばかれとは話し合ったこともあり、それに間もなくかれが二木班でどのようなことをやっていたのかを知るに及んで、はじめてすべてが残りくまなく解き明かされたのである。そしてわたくしは改めて、ドイツ浪漫派作家が好んで題材にしたあの「悪魔に影を売り渡した男」は現実にも存在しているのであって、決してとりとめもない空想の産物などではないことを思い知ったのであった。】
※向陵・・・東京本郷向ヶ丘にあった旧制第一高等学校の別名。
(「医の倫理を問う 第731部隊の体験から」 秋元寿恵夫著 勁草書房)
731部隊で行われていた残虐行為はアウシュビッツ以上だ!!(医学者の道を捨てた男もいた!!)
医学犯罪、今どう考える…?731部隊の“闇”を振り返る
2000/3/5 放送「731部隊と医学者たち」(医学者の道を捨てた男・秋元寿恵夫の生涯!!)
知ってるつもり 731部隊
『部隊展』(1993年~1994年)の資料より
体の凍り具合
●凍傷は日本軍が極寒の地を征服するためには、どうしても克服しなければならない課題だった。以前は、凍傷に対する最も有効な治療法は、患部をわらでこすることだった。凍傷実験を担当した吉村寿人(ひさと)班では、以下の手順で実験を行った。
1、零下20度以下の屋外に被験者をしばりつけ、腕などに塩水をかけて人工的に凍傷を作る
2、棒でたたいて、凍り具合を確認する
吉村が自著『喜寿回顧(きじゅかいこ)』の中で批判に応えるため「凍傷実験など大したものではなかった」例として使っている写真(被験者は蒙古人少年)
※吉村 寿人(よしむら ひさと、1907年 - 1990年)は日本の医学者。生理学者として師である正路倫之助(兵庫県立医科大学、後の神戸医科大学初代学長)より731部隊に赴任するよう命じられ、凍傷研究に従事した。吉村の731部隊における研究について、かつての部下らによるハバロフスク裁判での証言やイギリスの取材陣らが収集した証拠資料と証言資料では、人体実験での貴重な「研究」とされる。戦後、731部隊の人体実験のデータと推定されるものを用いて日本生理学会に論文を多数発表する。また、戦時中においてもすでに成果を同学会において口頭発表がなされていた。戦後京都大学に戻り、正路倫之助が学長になった兵庫県立医科大学(現在の神戸大学医学部)に移動して研究を続け、その後京都府立医科大学の教授となり、学長を務めた。1978年には、「環境適応学」の先駆的業績を果たした功績に勲三等旭日章が授与された。(ウィキペディアより)
『証人古都良雄の尋問より』
●古都良雄。1941年7月より1945年2月まで、第1部第1課に勤務、衛生兵。その後第643支部病原菌研究班に勤務中、ソビエト軍の俘虜となる。
問)人体凍傷実験について話してもらいたい。
答)人体凍傷実験は、毎年、一年の中で一番寒い・・・11月、12月、1月、2月に部隊内で行われました。この実験の方法は次の通りであります。すなわち被験者を夜11時頃、酷寒の戸外に連れ出し、冷水の入った桶に両手を入れさせ、それから手を出させて、濡れ手のまま、長時間寒気に立たせました。あるいは又、こうもしました。着物は着せても裸足の人間を戸外に連れ出して、夜、一番寒い時に寒気に立たせました。
人間が凍傷に罹った後、室内に連れ込み、およそ5度の温水に足を入れさせ、徐々に水温を上げました。こうして、凍傷の治療方法が研究されていました。私はこれらの人間が室内に連れ込まれてからの実験は直接見ませんでしたが、私が不寝番に立っていました時、人間を寒気に連れ出し、そのところで凍傷に罹らせられているのを見ただけであります。人間に手を水に漬けさす室内の実験については、目撃者の話で聞きました。
問)又、どんな人体実験が行われていたか?
答)吉村研究員が、人間に対するびらん瓦斯(ガス)使用実験を行っていたことを私は知っています。私はびらん瓦斯(ガス)の効力を試験するのに使用されていた人間を監獄の中で見ましたが、この実験の方法がどうだったかは、知りません。
問)これらの人々はどういう状態に置かれていたか?彼らには、どういう症状が現れたか?
答)私は、手、足に大きなびらんが生じている人々を見たことがありますが、これ以上何も知りません。(『細菌部隊ハバロフスク裁判』海燕書房)
黒い太陽731 3
ハバロフスク裁判の様子
NPO法人 731資料センター 会報5号」より
●南京大虐殺
「この事実を・・・・」 (「南京」市民に仕えた宣教師証言集:章開?/編 加藤 実/訳) (発行:ストーク、発売:星雲社、定価2200+税) ※『日中歴史共同研究』(2010年1月31日公表)でも明らかなように、日中戦争は日本の侵略戦争であり、南京大虐殺は歴史事実である。私達日本人は、南京大虐殺の「この事実を・・・」を謙虚に読むべきだと思う。 南京でどんなことが起こっていたのかをもっと日本人は知る必要があると思う。 今でも多くの被害者の方々はPTSDに悩んでいる!! スマイス 家族への手紙 南京 1月5日、水曜日(午後9時20分) 平倉巷[Ping Tsang Hsiang]3号 そして外国人社会の拡大が、とりわけおそらく、ほかの宣教師や実業人たちが戻ってくるのに道を開くものとして、“中立の観察者”が増えることになり、ぼくらを抗議する必要から救い出してもくれるだろう。ぼくミルズに言ったんだが、ぼくら自治委員会といっしょに仕事していかれる。領事や外交代表の何人かが、12月10日までここにいた人たちでよかったと、ぼく喜んだのは、そのときは町はいい状態だったと、彼ら覚えているだろうからで、車で町をさっと一回りしただけで、違いが判るだろうからなんだ。ぼくらの12月21日に起草して大勢で署名した、この町の焼き払いについてのささやかな文書が、戦略上たいへん重要なものとなるだろう。ラーベがきょう、ローゼンにはたいへんなショックだろうから、ベッドを1つ彼の分として病院に確保しといたほうがいいと、言った!それに、この代表たちの来ることで、外の世界とのぼくらの意思疎通に道を開くだろうから、ぼくきみたちと言葉のやり取りが少しはできるだろうが、ぼくらの外へ報告することの内容や表現を、十分慎重に吟味してやらなければならず、そうでないと、出て行かねばならなくなる!今は圧力が、ぼくらをここに閉じ込めているんだが―あらゆる点でぼくらは、この城内では自由にやれる囚人なんだ。 南京大虐殺・731部隊の悪行を幻にするな!! 日本兵が記録した南京大虐殺1 南京大虐殺の真相 (1/14)南京大虐殺を謝罪する勇敢で良識ある元日本兵たち 映像の世紀 南京大虐殺26 見透かされた否定派の陰謀1/2 1. 南京大虐殺 日本軍によるアジアでの 残虐行為 Rape of Nanking Part 1 2. 南京大虐殺 日本軍によるアジアでの 残虐行為 Rape of Nanking Part 2 映像の世紀 南京大虐殺12 元日本兵の証言 金子安次 In the Name of the Emperor 天皇の名のもとにー南京大虐殺の真実 情報遮断!1937年12月12日・・南京攻略下の南京にとどまって取材活動を続けていた4人の外国人記者が、無線記事の送信に利用していたアメリカ砲艦パネー号を、日本軍が撃沈した!!なお、USS PanayのUSSは、US Shipの略号で、米国艦船であることを示します。 映像の世紀 南京大虐殺13 元日本兵の証言 東史郎1/13 映像の世紀 南京大虐殺25 元日本兵の証言 東史郎13/13 南京大 ( Nanking Massacre ) The Rape of Nanking & Unit 731 1937 Nanking Massacre NHKスペシャル 映像の世紀 第11集 JAPAN 南京大虐殺マギーフィルム1 南京、マギーフィルム2 南京、マギーフィルム3 南京、マギーフィルム4 証言ー侵略戦争1 証言ー侵略戦争2 証言ー侵略戦争3 07-07. そういう話には乗らないでほしい-元日本兵の証言02 続きは「ノブのノート」で |
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