核・戦争のない世界!!

2024-07-16 09:45:19 | Weblog
「戦後50周年の終戦記念日にあたって」(いわゆる村山談話)
                             1995年8月15日

 敗戦の日から50周年を迎えた今日、わが国は、深い反省に立ち、独善的なナショナリズムを排し、責任ある国際社会の一員として国際協調を促進し、それを通じて、平和の理念と民主主義とを押し広めていかなければなりません。同時に、わが国は、唯一の被爆国としての体験を踏まえて、核兵器の究極の廃絶を目指し、核不拡散体制の強化など、国際的な軍縮を積極的に推進していくことが肝要であります。これこそ、過去に対するつぐないとなり、犠牲となられた方々の御霊を鎮めるゆえんとなると、私は信じております。

 「杖るは信に如くは莫し」と申します。この記念すべき時に当たり、信義を施政の根幹とすることを内外に表明し、私の誓いの言葉といたします。

 

南京大虐殺 
 
南京大虐殺(マギーフィルム) パネー号撃沈



        
 重慶爆撃               





原爆投下や東京大空襲ばかり取り上げて、 日本のテレビや教科書が重慶爆撃を取り上げないのは問題だと思います。 (視聴者のコメント)

  







 原爆    

 
広島に原爆投下された理由は?
原爆に関するよくある質問
原爆の被害を受けた人たちの今は?
原爆の被害を受けた人は「原子爆弾被爆者に対する援護に関する法律」(被爆者援護法)の対象となり、健康診断や手当の支給などが行われています。*17)被爆者健康手帳が交付されるのは以下の条件を満たした人です。
原爆投下時に広島市・長崎市の一定の区域内にいた人
原爆投下後2週間以内に一定の区域内に立ち入った人
原爆投下時やその後に、身体に放射能の影響を受ける事情にあった人
1~3にあてはまる人の胎児だった人
*17)
被爆者健康手帳の所有者のうち、原爆症認定を受けた人は医療特別手当が受けられます。しかし、原爆症の認定基準が厳しいとして複数の裁判が提訴され、そのいくつかで国が敗訴しています。*17)

 
 
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原爆が使用されたのはなぜ?

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日航123便の怪(1985年8月12日)
 
     
 
●東京帝国大学伝染病研究所
伝染病研究所の写真は、『傳染病研究所』小高健著より
 ●東京帝国大学伝染病研究所『実験医学雑報』
・東大伝研とは戦前、どんなことをやっていた機関なのか?
・1934年6月、宮川米次と阿部俊男は何をしに満洲国へ行ったのか?
・満洲衛生技術廠とは、一体何をやっていたところなのか??
・東大伝研は731部隊と連携を図っていなかったのか??
・伝研で毒ガスの講演?毒ガスへの対処法も考えることになるのか??
・小島三郎の渡満では、満洲衛生技術廠や大連衛生研究所にもいったのだろうか?
・1933年頃から細菌兵器開発の一環として、「満洲」の背蔭河では人体実験が行なわれているが、そこでも赤痢菌の研究が行なわれていたのだろうか?35年の川崎市の爆発赤痢は、人為的に行なわれたものなのか?それとも自然流行なのか?
・1936年5月に浜松一中で大福餅事件、37年9月に大牟田で爆発赤痢事件が起きているが、これなども細菌兵器・研究の一環として軍医学校や伝研の関与による仕掛けられたものか、自然に発生したものか究明する必要がある。
・1936年5月と37年9月の両事件に、小島三郎が出張しているが、果たして何をやったのであるか??
・河本禎助も毒ガスの研究をしていた。
・1938年6月1日の伝染病研究所で石井の厚意によって上映された映画には、731部隊の生体解剖でも映っていたのでであろうか? 精神的緊張裡とは、何のことだろうか?
 ・実験医学雑報20巻 第7号(1936年) 本所職制改正 この度本所では職制を次の如くに改正し7月より実施することとなった。 *特別研究室とは何だ??
・中込亘は、731部隊で細菌に感染して死んだのだろうか?
 
雑報6号(23巻、1939年)
伝染病研究所創立41周年記念日に当り医学界を展望して所感を述ぶ
                     宮川米次
 
5、リケチャに関する1,2の所見
齧歯類による地方性発疹熱の伝播
Zwierz J (C. R. Soc. Biol.1938)は流行地の野鼠の心血によるWeil-Felix.反応によって16%陽性.稀薄地では0.5%。無病地では全然これを認めなかったと言い、野鼠が病毒伝播に意義があるものであるらしいと言う報告もある。
Zinsser, H. Weih & Fitzpstrick F, (Proc. Soc. Exper. Biol.& Med. XXXVII 1937) Rickettsia の培養は従来組織培養によってのみ成功したのであるが、Zinsser等は―新法によってこれに成功した。即ち4%寒天水溶液に50%馬血淸を加え、2倍量のタイロード液を注ぎPHを7.4―7.6となして斜面とする。PHを修正するために試驗管にはゴム栓をなし中央に毛細管を挿入してある。病材は海猽莢膜の乳剤を病毒に浸し、上記の斜面に塗擦するのである。6日目頃から培養が始まり、10日目頃か最高になると言う。一種の組織培養法を発表した。
 
 
 
 
 
●昭和天皇(ハーバード・ピックス著『昭和天皇』より) 吉田裕監修  
2001年ピュリッツァー賞受賞 
※昭和天皇は、平和主義者でもなんでもなかった。
 
好戦的であり、常に軍部に色々と指示を出していた!!
 戦後補償問題に国家無答責という天皇主権の明治憲法下の原則を適用するな!!   
 
第3部   陛下の戦争
1931(昭和6)年―1945 (昭和20)年  
 
第7章 満州事変
 
1933年が明けるとジュネーブの日本代表団は国際的に孤立していた。国際連盟が日本政府の公式見解を受け入れなかったことをめぐり、東京での議論は沸騰した。内田外相は日本の連盟脱退が差し迫っていることを奏上したが、天皇は、日本が連盟から認められている旧ドイツ領ミクロネシアの信託統治権にどのような影響があるかと質問したにすぎなかった。ひと月後の2月20日、斎藤内閣は正式に―しかし、ひそかに―国際連盟脱退を決定した。24日、連盟は42対1(日本)で満州国承認を否認し、当然のことでもあるが日本の侵略を穏健な仕方で批判した報告書を採択した。英語に堪能な日本代表団首席松岡洋右(ようすけ)は、内閣の既定の方針に従い、総会を退出した。3月27日、日本政府は連盟脱退を正式に通告した。
 
 
 
 
 
 

 

 

 

 

 

 

 

 

 




























 











































































































































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