南京大虐殺

2008-11-25 14:39:47 | Weblog
日中戦争では、日本軍には捕虜と言う言葉はなかったようである。日本軍人は死ぬまで戦うべきだとして、捕虜になることは最大の恥辱だとされるような風潮があった。1941年には「戦陣訓」が出て、「生きて虜囚の辱めを受けず、死して罪禍の汚名を残すことなかれ」という捕虜否定思想の徹底になった。ましてやもっと蔑視、軽視していた中国軍の捕虜に対しては、なおさらその権利を認めなかった。 中国で戦っていた日本軍(皇軍)は後方支援がなかったから、前進したら、夜営する場所、食糧はすべて、自分たちで見つけなければならなかった。民家に押し入り、食糧や寝床を占拠した。勿論人がいれば殺した。自分たちは正義の戦いをしていると錯覚し、中国人を人とも思わなかったふしがある。人としてどのように扱うか全く考えていなかったようだ。 中国のその当時の首都南京に入っても、状況は変わらず、当番を決めて、食糧をあさっていた。(徴発していた。)敗残兵や武器を捨てて民間人に成りすましている(便衣兵)と思われる人などを片っ端から捕まえては、殺してしまった。本来、捕虜を処刑する時、戦時国際法にのっとって、裁判にかけてから刑を執行するのだが、それもしなかった。 大量の捕虜がでれば、その人たちに食べさせる食糧も必要だ。だが、その時の日本軍には全くの予備の食糧などないのだから、現地指揮官も、どうしていいのか分からなかったのだろう。パニック状態になっていたと思われる。陣中日誌の続き・・・・ 12月15日話によれば城内北方に敵武装解除したる兵1万5千人いて、これを機関銃で囲んでいるそうな。また、紫金山のトーチカ内に一ヶ師団ほどいて、これも囲んで守っているそうな。ちょう発に行く。面白い、何もかも引っ張り出してさがして行く。(「上羽日記」) 12月16日南京東側地区掃蕩のため午前7時30分露営地出発、硝石村に向かい前進す。情報によれば南京東地区には敗残兵多数あるもののごとし。連隊主力の掃蕩により敗退する残敵を捕捉殲滅せんとすにほんブログ村 政治ブログ 政治・社会問題へ
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