細菌戦の系譜!!

2022-01-21 10:05:30 | Weblog

 日本は、日中戦争で国際法に違反して、細菌戦、毒ガス戦、無差別爆撃を行った。日本政府は、この事実をきちんと認めていない!!

 

●『細菌戦部隊』

731研究会編   1996年9月(核時代51年)初版発行

 

 

Ⅱ 関連部隊・支部

香港難民の大量虐殺

ゲルトネル菌を飲用湯に投入して・・・・

 

丸山茂

8604部隊

 

(経歴)

1917年生まれ

1938年 朝鮮・龍山の歩兵79連隊に教育召集

1939年 南支那派遣軍防疫給水部(波第8604部隊)に転属。細菌検索班に所属

1943年3月 除隊。帰国

1945年 再召集

1945年8月 朝鮮で除隊

1945年10月 帰国

■この証言は731研究会の学習会での発言(1993年11月)、『短歌草原』(1992年8・9・10月号)所収「いかなる美名でも戦争への道は悪だ」よりまとめられたもの。

 

口封じ
 
 大量に人を細菌で殺し、生き残った者すら敵地にやってそれを利用し、そして自分の手足として使った日本兵も激戦のニューギニアへやって帰還させない、そのような事をしたのが日本の軍隊だったんです。私たちは青春の全てをその中に捨てたんです。
 

●証言

生体解剖(旧日本軍の戦争犯罪)

中央档案館

中国第2歴史档案館

吉林省社会科学院編

 

江田憲司

兒島俊郎

古川万太郎編訳

 

 

 

 

 

Ⅰ東北

 

2 華北

5  内蒙古

安達千代吉自筆供述書(1955年)

1945年6月中旬、当時私は第4独立警備隊独立歩兵第21大隊で本部付准尉であり、庶務功績係の仕事もしていた。部隊は綏遠省托克托県城内に駐屯していた。

 朝食後、私が事務室で煙草を吸っていると、大隊長丸尾大尉が来て「林副官が今日、刺突練習をする。10時から始めるので当番以外は全員集合だ」と命令した。大隊全員はまもなく、裏山上のやや高いところの墓地に集合した。

 高台上の重要な場所全部に銃剣を持った兵士が配置され、やや大きい広場には10個の深さ4尺、長さ6尺の穴が掘ってあり、掘り出されたばかりの土の色がひどく人々の注意を引いた。

 
 

 

 

●毒ガス戦

・『日本軍の毒ガス兵器』  松野誠也著

第7章なぜ日本軍は毒ガス兵器に依存して戦いを行ったのか

4 日中戦争をめぐる陸軍中央の動向と毒ガス戦

不拡大方針を放棄した大規模作戦の実施と毒ガス戦

 しかし、3月1日に河辺作戦課長が更迭されて、新任の作戦課長に稲田正純大佐が就任すると、不拡大方針を覆し、大規模軍事攻勢で中国国民政府を屈服させようという方針に転換される。こうして、5月から実施された徐州会戦では、くしゃみ性・嘔吐性ガスが初めて使用され、続く武漢・広東攻略作戦に際し閑院宮参謀総長はくしゃみ性・嘔吐性ガスの使用許可の指示を下し、特に武漢戦ではこれが大量に使用された。稲田大佐は、第1章でふれたように、毒ガス戦に深い関心を示していたので、参謀本部作戦課長として、くしゃみ性・嘔吐性ガスの使用に踏み切るにあたって大きな役割を果たしていたと思われる。

 

 

 

 

第1次世界大戦では、毒ガスが大量に使われた。

百年の悲劇は、ここから始まった1

 
 

 
 

・『日本の中国侵略と毒ガス兵器』 歩平著(山邊悠喜子、宮崎教四郎訳)明石書店 1995年発行)

 

第8章 無辜の被害者

山西沁水県西山の毒ガス殺人

敷地内に閉じ込められていた廉坡村の崔鳳国の一家7人は、既に5人が殺され、妻は負傷しながらも8歳の息子、崔学恭の手を引いて、無我夢中で家を飛び出し、表門に飛び込んだところで日本兵の一刺しに遭い、あえなく倒れた。息子は驚いて引き返し、張老人と一緒に干しわらの山に身を潜めた。日本軍はここにも2度来て、わら山にめちゃくちゃに剣を突き刺したため、崔学恭は傷を負った。

SNSで人気「ウサギの島」が背負った〝毒ガスの歴史〟大久野島を歩く

 

加害の歴史」北九州市の毒ガス工場 第二次世界大戦で旧陸軍が使用



 



 
 
 

 

 

 

日本軍の毒ガス戦と遺棄毒ガス問題


 

 

 

 

 

 

 


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