細菌戦の系譜!!

2021-06-02 09:50:26 | Weblog

●『1931 満州鞍山守備兵 斉藤準太郎の日記』

 

 

五月三十日

初年兵の班は最早見事なものだ。すっかり準備ができている。内藤が大分気合をかけているからな。菅野も一生懸命にやったらしい 何分特さんに多々殴られて仕舞ったそうだからな。経理検査も事無く済んで 後はぼやぼやしてしまったような次第だ。初めて大隅君と夜の九時半まで話をして 寝たのは十時頃だよ。

鞍山の兵営はつまらない。何しろ今まで分遣で暮らした時のアカシアの花が 少しもないんだもの。こんな大きな兵舎でありながら 今度来る初年兵で一杯になる。少しの隙もなく満員になるんだからあきれる。内部の様子を見ればそれまでだが、外からは立派なものだ。

 

大江健三郎著

「ヒロシマノート」岩波新書(1965年発行)

 


 

 

挿絵カット 丸木位里・赤松俊子『ピカドン』(1950年86日ポツダム書店発行)より

 

Ⅳ 人間の威厳について

Ⅴ 屈伏しない人々

もし、被爆はしたが、直接的には被害を受けず、しかも広島から外へ逃げ出してしまって、救護活動をしなかった医師がいたとしたら、彼はこのアンケート用紙を鋭い刃のように受け取るほかなかったであろう。被爆後、広島の医師たちが、救護活動の意志を失ったとしても、それは決して人間的に異常ではなかった筈だが、彼はアンケート以後遂に安眠できる夜を持つまい。それでもなおこのアンケート用紙は配布され、そして医師たちは率直に答えた。

 

 

唯一の戦争被爆国 日本政府は核兵器禁止条約に署名・批准してください!

 

 

 

日本は、日中戦争で国際法に違反して、細菌戦、毒ガス戦、無差別爆撃を行った。日本政府は、この事実をきちんと認めていない!!

 

●『細菌戦部隊』

731研究会編   1996年9月(核時代51年)初版発行

 

Ⅰ 731部隊

 

731部隊を破壊する

1945年8月14日に行った事

 

溝淵俊美(みぞぶちとしみ)

731部隊・教育部

 

〈経歴〉

1922年生まれ

1943年 731部隊入隊。教員部配属

1945年 教育助教勤務。ソ連侵攻時部隊警備隊指揮班長

1945年8月 帰国

■この証言は手記『平房燃ゆ』からの抜粋で、本人の了解を得てまとめたもの。

 

8月14日

 何とか14日の朝を迎えた、午後2時頃、ひょっこり石井部隊長が顔を見せた、9日以来であった。部隊長から、「今から2時間後に、部隊引込線に列車が入る。現在部隊に残留している者は全員、その列車に乗車せよ、この後、部隊に列車が入ることはない。列車到着2時間後に出発する、1人も残さずに乗車せよ」との命令が下った。石井部隊長は命令を下達するや、またどこかへ行ってしまった。

 

 

 ●中央档案館、中国第2歴史档案館、吉林省社会科学院編

 

『証言 人体実験(731部隊とその周辺)1991年初版発行

 

江田憲治、兒嶋俊郎、松村高夫編訳

 

解説

 

松村高夫

 

 

4 日本における調査・研究

作家やジャーナリストによるこのような活動が、1980年代に入ると際立ってくる。家永三郎が高等学校教科書に731部隊の記述をしたところ、文部省が731部隊に関しては信用するに足る学問的研究が発表されていないので教科書に載せるのは時期尚早であるとして削除した。83年度教科書検定がなされた時には、731部隊の関連文献は30点を超えていた。1984年には、731部隊が関与したイペリットガスの人体実験や破傷風の人体実験の調査報告書が発見・公表されるが、この数少ない日本軍による文献的資料は、吉村班の凍傷実験の資料などと共に『731部隊作成資料』として刊行された。

 

●毒ガス戦
・『日本軍の毒ガス兵器』  松野誠也著

第5章

日中全面戦争と毒ガス戦の展開

 

2 積極的侵攻作戦でのくしゃみ性・嘔吐性ガスの使用

 

武漢・広東攻略作戦

 

8月2日に閑院宮参謀総長は中支那派遣軍と北支那方面軍に対してくしゃみ性・嘔吐性ガスの使用を許可したが、そこでは「勉めて煙に混用し又市街及び第3国人居住地域に使用せず厳に瓦斯使用の事実を秘匿し其の痕跡を残さざるが如く注意すべし」と指示している(参謀総長閑院宮載仁「大陸指第225号」『資料集Ⅱ』資料37-10)。華中には欧米諸国の権益が多数ある事からこのような注意がなされた訳だが、ここからは、特に欧米諸国に知られなければ毒ガスを使用しても構わないという参謀本部の判断がうかがわれる。

 

・『日本の中国侵略と毒ガス兵器』 歩平著(山邊悠喜子、宮崎教四郎訳)明石書店 1995年発行)

第5章 陸軍習志野学校

 

毒ガス鎮圧、危うく発生

 

 これら引用した資料から見て、当時の形勢は矢は正に放たれようという状況で、化学兵器使用の計画も確定し、ただ命令を待つばかりだった。この状況下で化学兵器の使用は、すでにいわゆる「防御」ではなくて完全に「攻撃」のため、しかも攻撃の対象はずっと警戒してきた仮想の敵ではなく、自己の同伴者だったのだ。この件自体には風刺的な意味がある。

 「叛乱」の軍隊は各地から移動して来た軍隊の圧力で動揺し始め、銃撃戦が発生する前に、包囲された兵士は三々五々逃げ出して帰順した。主要な将校は自殺し、ある者は投降した。「叛乱軍」は武器を全部差し出して帰順し、事件は迅速に解決された。結局、習志野学校の隊伍は出る幕がなかったけれど、この学校の凶悪な顔をさらけ出したのである。



 



 
 
 

 

 

 

日本軍の毒ガス戦と遺棄毒ガス問題


 

 

 

 

 

 

 


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