●『1931 満州鞍山守備兵 斉藤準太郎の日記』
おわりに
母や姉から聞く断片的な話とこの日記によって、父は無類の子ども好きで、夫としても申し分のない人だったと知りました。日常生活では穏やかで優しい人でも、戦場では別で、戦争は人間を狂気にするという体験談を幾度となく聞いてきたものです。
小学校高等科を卒業するまで級長を通したという父は、庄屋の生まれとはいえ五男坊なので神戸の洋服製造業者の奉公人となります。後に横浜市中区(戦後は西区)東久保町で独立し、自分の工場を持ちました。同じ敷地内の自宅には4人の娘たちの賑わいと、動力ミシンの音が混ざり、日々活気に満ちてタコtでしょう。
●大江健三郎著
Ⅳ 人間の威厳について
Ⅴ 屈伏しない人々
しかも彼は、草が繁茂した暁には、その緑の草の内部の異常を看視する、注意深い鋭敏さの持主でもなければならない。絶望しすぎず、空しい希望に酔いすぎる事もないという人間、即ち真の意味で、ユマニスト的な人間でなければならない。そのような実際的なユマニスト達が、1945年夏の広島で、切実に必要とされたのである。そして広島にはそのような人々がいた。そこで初めて、人類のかつて体験した最悪の絶望の時を、生き延びる希望が存在したのである。
唯一の戦争被爆国 日本政府は核兵器禁止条約に署名・批准してください!
日本は、日中戦争で国際法に違反して、細菌戦、毒ガス戦、無差別爆撃を行った。日本政府は、この事実をきちんと認めていない!!
●『細菌戦部隊』
731研究会編 1996年9月(核時代51年)初版発行
Ⅰ 731部隊
“マルタ”の監獄を建設
憲兵としての“マルタ”狩りも
志麻田実(しまだみのる)(仮名)
731部隊・部隊建設班
〈略歴〉
1918年生まれ
1938年1月 731部隊入隊(建設班)
1939年4月 新京の関東軍憲兵隊入隊
1945年 戦犯抑留
1956年 中国最高人民法院の判決により釈放
■この証言は1995年の聞き取りをまとめたもの。
731部隊建設
憲兵とした“マルタ”狩り
私の731部隊とのかかわりは、それで終りにはなりませんでした。
現役入隊した1年後、1939(昭和14)年4月、私は憲兵を志願して合格しました。新京関東軍憲兵教育隊に入隊して6か月の特別教育を受け、教育終了後、東寧憲兵隊大肚子川(だいとしせん)分隊の老黒山(ろうこくざん)憲兵分遣隊に配属となりました。以来、憲兵兵長から古参軍曹になるまでの約4年10か月の間、そこにいたわけです。
●中央档案館、中国第2歴史档案館、吉林省社会科学院編
『証言 人体実験(731部隊とその周辺)』1991年初版発行
江田憲治、兒嶋俊郎、松村高夫編訳
解説
松村高夫
5、本書が明らかにした新事実
③ 平房の監獄の構造はどうなっていたのか
平房の監獄=第7・8棟は実際に建築した萩原英雄の供述は、その詳細な構造を明らかにしている。萩原は、1938年1月に平房に到着した第1次建設班20名の内の1人で、当時21歳であった。その職工20名のリストと、第2次の38年4月到着の約40名のリストも添付されているが、「秘密漏洩を防ぐため」何れも石井四郎の郷里近くの千葉県山武郡か香取郡の出身者である。建築を請け負った鈴木茂も、1898年、香取郡多古町生まれの石井四郎の親戚で、臨時工の大工をしていたが、1936年、五条研究所があった時に石井に呼ばれて満州にわたり、ハルビン市で鈴木組を創業し、平房の建設も請け負って財をなした。
●毒ガス戦
・『日本軍の毒ガス兵器』 松野誠也著
第5章
日中全面戦争と毒ガス戦の展開
3 戦略的持久戦下での毒ガス戦と糜爛性ガスの実験使用
くしゃみ性・嘔吐性ガスの大規模使用による作戦の成功
この時日本軍は、使用後の「あか筒」や発煙筒の埋没処理を申し合わせており、また、ガス攻撃を受けた中国軍が「第1戦部隊の将兵中毒する者が続出し・・・前方医院に於て死亡する者は殆ど中毒患者なり」と電報していたり(第11軍司令部「修水河渡河戦に於ける特種煙使用概況」)、日本軍の砲撃は「瓦斯弾多数ありて民衆の被害甚大」と電報しているのを傍受している(陸軍中佐白木真澄「化学戦 仁号作戦(修水河畔の戦闘)視察報告抜粋」)。くしゃみ性・嘔吐性ガスにより中国兵が逃亡し、住民もガス弾の攻撃に巻き込まれていたことがわかる。
・『日本の中国侵略と毒ガス兵器』 歩平著(山邊悠喜子、宮崎教四郎訳)明石書店 1995年発行)
第5章 陸軍習志野学校
重要な実験場
化学兵器部隊(516部隊)チチハル市東側
細菌兵器部隊(731部隊)ハルピン市平房
関東軍化学部隊の中核人員もすべて日本の陸軍科学研究所、習志野学校等から来ていた。歴代の部隊長は、小柳津正雄、宮本清一、秋山金正、丹波利男であった。小柳津政雄は陸軍科学研究所の所長の地位から陸軍習志野学校の副校長に、さらに関東軍化学部に来て部長となり、後に帰国して陸軍第6技術研究所の所長を担任した。秋山金正もまず陸軍科学研究所の所員を担任、後に習志野学校に派遣された研究部主事、さらに関東軍にいたって化学部の部長となり、後に陸軍第6技術研究所の所長に戻った。
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