細菌戦の系譜!!

2020-09-10 11:52:51 | Weblog

 

 日本は、日中戦争で国際法に違反して、細菌戦、毒ガス戦、無差別爆撃を行った。日本政府は、この事実をきちんと認めていない!!

 

●『細菌戦部隊』

731研究会編

 

 序ー 731部隊がいかにして作られ、またいかにして歴史の闇に葬られたのか?

 

 

1925(大正14)年、生物化学兵器の使用を禁止するジュネーブ議定書が締結された(日本はこの時批准していない)。731部隊の創設者となる石井四郎はこのことにヒントを得て関東軍防疫給水部の設立を思いついたと言われる。陸軍の中にあって後陣の下位の位置に甘んじていた軍医の立場を、なんとか上位に押し上げたいという野心を抱いていた彼は、細菌兵器の研究、準備をもってそれを実現しようとしたのである。1928年の春から2年間、石井はワルシャワ、モスクワ、パリ、ベルリン、アメリカと、各国の医学研究所を視察して回った。 

 
 

 

 

 

 

 

 

 ・『証言 人体実験(731部隊とその周辺)』


中央档案館、中国第2歴史档案館、吉林省社会科学院編
江田憲治、兒嶋俊郎、松村高夫編訳

三 警察・憲兵の第731部隊への「特移扱」 

 

 

原口一八供述書(1954年8月26日)

問:いわゆる浮浪者という名目で、部下に指図して我が国の善良な住民を何人逮捕したか。

答:1943年3月から44年10月まで、「満洲国」牡丹江市警察局で、特務科長をしていた期間に、「浮浪者」という名目で、中国人の善良な住民797人を逮捕し、労務興国会牡丹江支部の運営する労働訓練所に拘留した。拷問の後、そのうち職業を有する者506名は釈放したが、牡丹江市駐屯の731部隊支部に送って細菌実験に供し死亡した者が25名いた。残りの270人は訓練所に移送し、 2、3か月訓練してから、労務者として使った。


※訳注:労務興国会―1941年10月、満州労工協会を改組して成立した労働力調達・統制組織。労働者の募集・雇用・供給・解雇などに強力な権限を持ち、10人以上雇用の事業者を強権的に掌握、「興国精神」のスローガンのもとに労働力の大量動員を目指した(小林英夫『「大東亜共栄圏」の形成と崩壊』御茶の水書房、 1975年、285、466頁、前掲『満洲国史』各論、1169頁)。

 

 

 

 

●毒ガス戦

・『日本軍の毒ガス兵器』  松野誠也著
第1章 毒ガス兵器の研究と開発

 

 

5、アジア太平洋戦争と科学動員による毒ガス兵器開発の展開

 

科学者の動員による毒ガス開発の推進

 

 戦争と科学者

 

 今後は、それぞれの科学者か具体的にどのような毒ガス研究を行っていたのかについての詳しい実態解明を行うとともに、科学者はどのような経過で戦争に協力していくのか、そしてそれを許してしまった条件や背景とは何だったのかなど、科学と戦争の関係についてのより深い広範な議論を深めていく必要があるだろう。

 

 

  

  ・『日本の中国侵略と毒ガス兵器』 歩平著(山邊悠喜子、宮崎教四郎訳)明石書店 1995年発行)

第13章

毒ガスは消えず

 

  死の谷踏査記

 

 この場所についてのタブーがお経を詠むように村人たちの間に伝わった。「毒弾溝には行くな。あそこには毒弾があるぞ」。年を取った人はこの言い伝えを自分の一生の責任と思っているし、小学校の先生もしばしば子どもたちに毒弾溝の話をしている。侵略されたあの悲惨な日々を語り、次の世代が永遠に忘れないようにしている・・・・。

 谷の入り口にはコンクリート製の通告碑が立っている。そこに刻まれた告示はこうだ。

「ここに日本軍の遺棄した毒ガス弾を処理してある。人民の生命の安全を保障するために、ここで土砂を採取したり、開墾したり、狩猟や放牧を行なったり、柴や薬草を取ったりしてはならない」。

 この通告碑は1980年に立てられたもので、案内役によれば、以前はここに木製の通告碑が立っていたということだ。

 
 
 
 
 

 

 

 

日本軍の毒ガス戦と遺棄毒ガス問題

 

●『三光』     中国帰還者連絡会編
日本鬼子(リーベンクイズ)

 

糧穀の略奪

冷酷非情な取り立て

 

引地 章(ひきじあきら)

警察署長 警正

(略歴)

学歴 高等小学校卒業

所属 旧満国 図們警察署

年齢 54歳

 

 

 

「おらあ三道崗の後街(うらまち)の王ちうもんだが、今年一垧(いっけい)半の作付に、2600斤の割当てだ。俺の土地は以前は良かったか村落に集家させられ、畑には遠くなるし、肥料は思うようにならない、今年干ばつと雨で七分作で、やっと6割出したが、もうあとは出せねえ、出せ出せと言ったって、もうねえんだ。それに日本軍に乾し草干し草を出せと言うんで、馬車に1台出したが、倭背(わいはい)駅まで往復一晩泊まりだ。俺は馬車を持っていないので、雇ったらこれに15円取られたんだ。乾草代はたった10円だ。ただ働いて5円を損した。出せ出せと言ったって、それは無理ってもんだ、俺たちは飢え死にしかけているんだ。ここんとこよく考えてもらいてえ」

 農民たちの間に、そうだ、その通りだという声があちこちから起こった。今度は後ろの方の農民が立った。40歳くらいの黒の袷(あわせ)の短衣を着た男だった。

 

 

 2018年12月に、『留守名簿 関東軍防疫給水部 満州第659部隊』2冊が発売されました!!(不二出版)

 


コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 細菌戦の系譜!! | トップ | 細菌戦の系譜!! »

コメントを投稿

Weblog」カテゴリの最新記事