遺棄化学兵器処理事業情報公開裁判第6回
遺棄化学兵器被害裁判と被害者支援基金活動 2023 12 5
News & Information
国は、遺棄毒ガス処理の行政文書をきちんと国民に黒塗りではなく、全面公開せよ!!
2025年5月27日(火)11:30~
東京地裁703号法廷 弁護団報告
本日(5月27日)、国から全ての行政文書について、不開示理由が提出されました。
こちらからは335文書(6,861頁)のうち、文書番号200までの文書に対する反論を提出しました。
次回には文書番号335までの反論をする予定で、一通り出揃う見込み。
また、並行して提起している国賠訴訟*における、国の主張に対する反論も行います。
今後、何らかの形で皆さまに報告する機会を作りたいと思いますので、引き続きどうぞよろしくお願いいたします!
(*本来明らかにしなければならない箇所を黒塗りで出してきたことに対する慰謝料を請求するもの。)
\次回弁論傍聴のお願い/
2025年9月2日(火)11:00~
東京地裁703号法廷
\ご支援よろしくお願いします/
【口座記号番号】00120-2-732043
【口座名称】稲垣美穂子(イナガキミホコ)
他行からのお振込み頂く場合:
【店名(店番)】019【預金種類】当座【口座番号】0732043
▼頂いたご寄附の使途▼
・訴訟に必要な事務費用(印紙、郵券、印刷費・参考文献購入費、会議費など)
・専門家の意見書執筆費用
・弁護団交通費用
・弁護士費用
以上
*日本は、なぜこんなに情報公開に後ろ向きなのだ!!
毒ガス処理を含め、過去の負の遺産を
すべて隠そうとしている日本政府の姿勢にあきれてしまう!!
毒ガスの処理についても、大事な問題なのだから、国民にきちんとわかる形にして、どのように処理されているのかはっきりさせる必要がある!!
*裁判長にすら、原本黒塗りとは何事だ!!インカメラ審理の導入を!!
*秘密保護法反対!!戦時中の文書・戦後の文書もきちんと国は公開すべきだ!!
・インカメラ審理とは、「裁判所だけが文書等を直接見分する方法により行われる非公開の審理」を指す。情報公開訴訟において、このようなインカメラ審理が認められなければ、裁判官は、争点となっている文書を実際に見ることなく、これに不開示情報が記録されているか否かを判断せざるを得ないのである。
そのため、情報公開法の立案時以来、実務家、研究者、市民団体などから、情報公開訴訟においてインカメラ審理の導入を認めるべきであるとの強い要望があったにもかかわらず、今日に至るまで、インカメラ審理は認められていない。 (情報公開訴訟とインカメラ審理 行政監視委員会調査室 畠 基晃)より
被爆国日本は、核兵器廃絶・反原発を推進すべし!!
防衛費増額反対!!
旧統一教会問題
帝銀事件
帝銀事件と731部隊
731部隊と大学
731部隊の4つの細菌戦
「証言 石井四郎」~語られた人物像~
細菌製造の731部隊~731部隊軍医秦正氏(はたまさうじ)の証言
厚労省は新型コロナワクチンデータを開示せよ!
関東大震災時の朝鮮人虐殺
「戦争と医の倫理」の検証を進める会シンポジウム
狭山事件ー石川一雄さんを訪ねて
ご冥福をお祈りいたします。
62年前の狭山事件で再審求めてきた石川一雄さんが死去 86歳
2025.7.5 石川一雄さん追悼集会
小林多喜二没後90年(2023)
平頂山事件91周年集会(2023年9月)
平頂山は受難し 国内外が驚愕した
1932年9月16日午前、撫順守備隊、憲兵隊、警察署と炭鉱防備隊は総出動し、平頂山集落の非武装の住民 2700~2800人を平頂山の下へ追い立て、集団虐殺を行った。続いて、逃げ遅れた千金堡、栗家溝集落の200人余りの住民を殺戮した。虐殺から幸いにも逃げ出した数十人を除いて、3つの村の3000名以上の無辜の住民が犠牲となった。凶行後、日本の侵略者は死体を焼き払い、山を火薬で爆破して、死体を埋めてしまった。これが国内外を驚愕させた平頂山事件である。
撫順未来実行委員会からのお知らせ
細菌製造の731部隊~731部隊軍医秦正氏(はたまさうじ)の証言
南京大虐殺から雲南戦へ
「戦後50周年の終戦記念日にあたって」(いわゆる村山談話)
1995年8月15日
先の大戦が終わりを告げてから、50年の歳月が流れました。今、あらためて、あの戦争によって犠牲となられた内外の多くの人々に思いを馳せるとき、万感胸に迫るものがあります。
敗戦後、日本は、あの焼け野原から、幾多の困難を乗りこえて、今日の平和と繁栄を築いてまいりました。このことは私たちの誇りであり、そのために注がれた国民の皆様1人1人の英知とたゆみない努力に、私は心から敬意の念を表わすものであります。ここに至る
まで、米国をはじめ、世界の国々から寄せられた支援と協力に対し、あらためて深甚な謝
意を表明いたします。また、アジア太平洋近隣諸国、米国、さらには欧州諸国との間に今
日のような友好関係を築き上げるに至ったことを、心から喜びたいと思います。
南京大虐殺
第58号 重慶爆撃
原爆投下や東京大空襲ばかり取り上げて、 日本のテレビや教科書が重慶爆撃を取り上げないのは問題だと思います。 (視聴者のコメント)
731部隊
全球连线|日本学者来华披露731部队罪证档案
原爆
ニュース257号
八王子 平和・原爆資料館
●東京帝国大学伝染病研究所
伝染病研究所の写真は、『傳染病研究所』小高健著より
●東京帝国大学伝染病研究所『実験医学雑報』
・東大伝研とは戦前、どんなことをやっていた機関なのか?
・1934年6月、宮川米次と阿部俊男は何をしに満洲国へ行ったのか?
・満洲衛生技術廠とは、一体何をやっていたところなのか??
・東大伝研は731部隊と連携を図っていなかったのか??
・伝研で毒ガスの講演?毒ガスへの対処法も考えることになるのか??
・小島三郎の渡満では、満洲衛生技術廠や大連衛生研究所にもいったのだろうか?
・1933年頃から細菌兵器開発の一環として、「満洲」の背蔭河では人体実験が行なわれているが、そこでも赤痢菌の研究が行なわれていたのだろうか?35年の川崎市の爆発赤痢は、人為的に行なわれたものなのか?それとも自然流行なのか?
・1936年5月に浜松一中で大福餅事件、37年9月に大牟田で爆発赤痢事件が起きているが、これなども細菌兵器・研究の一環として軍医学校や伝研の関与による仕掛けられたものか、自然に発生したものか究明する必要がある。
・1936年5月と37年9月の両事件に、小島三郎が出張しているが、果たして何をやったのであるか??
・河本禎助も毒ガスの研究をしていた。
・1938年6月1日の伝染病研究所で石井の厚意によって上映された映画には、731部隊の生体解剖でも映っていたのでであろうか?精神的緊張裡とは、何のことだろうか?
・中込亘は、731部隊で細菌に感染して死んだのだろうか?
実験医学雑報20巻 第7号(1936年)
本所職制改正
この度本所では職制を次の如くに改正し7月より実施することとなった。
*特別研究室とは何だ??
実験医学雑報24巻12号で、三田村が伝研の所長に任命されて、挨拶を書いているが、宮川米次がなぜ、伝研を去ったのかに全く触れていない!!
宮川は、どんな不祥事をしでかしたのか?その後、伝研には姿を見せていない。
長與又郎・・・・石井は京大総長であった荒木寅三郎(生化学)の娘,清子と結婚します。荒木は東大医学部 出身で後輩に長與又郎(病理学,後に東大総長)がいました。長與は清野,川上漸(京大病 理,後に慶大病理教授),戸田正三,金関丈夫(京大解剖,後に台北帝大教授)らと交流があ り石井ともつながっていました。長與は京都で開催された第十回医学会総会(1938年)で石井 の戦地実況活動写真を鑑賞し,ハルビンの731部隊も訪問しています。石井は京大,軍医学校 を経て東大へと人脈を広げていきましたが,それは731部隊発足前から形成されていた三者の医学界エリートネットワークへの参入を意味しました。(731と大学:吉中丈志)
・北野政次・・・1942年4月、学友会に多額の寄付をしている。寄付額377円1銭
*731部隊の2代目隊長の北野政次が学友会にけた外れの寄付をしている!!
(1942年8月1日 石井四郎が華北方面軍第1軍軍医部長に転任。北野政次が731部隊の2代目の部隊長になる)
・城井尚義のいうあの機関とは何か?
実験医学雑誌26巻(1942年)
雑報8号
伝染病研究所創立第43回記念式典
(昭和17年6月1日)
伝染病研究所創立記念日午餐会席上演説
挨拶
小林六造氏
その癌が一体どうしてできるのであろうか。色々な研究はございましょうが、その研究のどれが本当か知りませんけれども、何かの刺激であろうとみられるようであります。もし刺激は癌を作るといたしますならば、そういう刺激が私は推定しがたいので、どうか日本を偉くする上において、指導者となる上におきまして、自分の中でお互いに癌を発生させるような刺激だけをどけて、他の刺激ならばいかに強くても宜い。お互いに刺激をし合うことが必要ではないかと思います。特に若いお方にお願いするのであります。私どもは、もうああいうやつは相手にならぬと言われるであろうけれども、私はどちらかと言うと、先生方はあまり実は好きではない、上の人はあまり好きではない、と言いますと叱られるかもしれませんが、学問の話では好きではないのであります。どうしても若い人とは話しませんといかんと思うのであります。どうかそういう意味合いで話して、私ともをこれから益々ご鞭撻、ご指導くださいまして、或いはもう10年ぐらいは追従していけるであろうと思いますから、この機会にお願いいたします 次第であります。(拍手)
バード・ピックス著『昭和天皇』より)
吉田裕監修
2001年ピュリッツァー賞受賞
※昭和天皇は、平和主義者でもなんでもなかった。好戦的であり、常に軍部に色々と指示を出していた!!
戦後補償問題に国家無答責という天皇主権の明治憲法下の原則を適用するな!!
第3部 陛下の戦争
1931(昭和6)年―1945 (昭和20)年
第11章 真珠湾への道
Ⅱ
昭和天皇は海軍の準備はけっしてアメリカと戦争できるほど進んではおらず、それが海軍内で意見が割れている主たる理由であるということを知っていた。そのため連絡会議での永野の発言に腹を立てていた。当時、永野が彼に対して行った公の報告にも満足していなかった。天皇は、対ソ戦の取りやめを決めた7月30日、海軍軍令部総長を呼び、不満を表明した。『杉山メモ』によると、昭和天皇は単刀直入に「伏見総長は英米と戦争することを避くる様に言ひしも お前は変つたか」とたずねた。永野は「主義は変りませぬが 物が無くなり逐次貧しくなるのでどうせいかぬなら早い方がよいと思ひます」と応えている。沢本頼雄海軍次官の日記によると、天皇は永野に「持久戦に策はないか」と質問していた。永野が長期戦に勝利する確証はまったくなく、三国同盟が対米関係の調整を損なっているとの見解を表明したとき、この状態にみずから責任がある天皇は、単に聞いているしかなかった。
*ご支援よろしくお願いします。
ゆうちょ銀行
記号番号 10100ー67985861
口座名義 五井信治(ごいのぶはる)
他金融機関からの振り込み
店名 〇一八(ぜろいちはち)
店番 018 預金種目 普通預金 口座番号 6798586
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