核・戦争のない世界!!

2024-06-06 10:12:07 | Weblog
「戦後50周年の終戦記念日にあたって」(いわゆる村山談話)
                             1995年8月15日

 先の大戦が終わりを告げてから、50年の歳月が流れました。今、あらためて、あの戦争によって犠牲となられた内外の多くの人々に思いを馳せるとき、万感胸に迫るものがあります。

 敗戦後、日本は、あの焼け野原から、幾多の困難を乗りこえて、今日の平和と繁栄を築いてまいりました。このことは私たちの誇りであり、そのために注がれた国民の皆様1人1人の英知とたゆみない努力に、私は心から敬意の念を表わすものであります。ここに至るまで、米国をはじめ、世界の国々から寄せられた支援と協力に対し、あらためて深甚な謝意を表明いたします。また、アジア太平洋近隣諸国、米国、さらには欧州諸国との間に今日のような友好関係を築き上げるに至ったことを、心から喜びたいと思います。

 

 
南京大虐殺 
 
南京大虐殺(マギーフィルム) パネー号撃沈




 重慶爆撃               
原爆投下や東京大空襲ばかり取り上げて、 日本のテレビや教科書が重慶爆撃を取り上げないのは問題だと思います。 (視聴者のコメント)

    

731部隊展





 原爆    



 

ナガサキの歩みと平和活動
ナガサキの歩み
原爆が落とされた浦上地区は焼け野原となり、草木が70年生えないだろうと言われていました。壊れた建物の木材などを集めて、小屋を建て始めるところから復興が始まりました。 1950年には平和公園ができ、その後1955年には平和祈念像も建てられ、毎年8月9日は長崎の人にとって平和を祈る大切な日となりました。 また、8月9日は現在登校日となっており、平和学習を行っています。 長崎はかつて三菱を中心として戦艦を造る一大軍事工業都市でしたが、現在も自衛隊の護衛艦や魚雷の製造を担っています。反核平和を訴える被爆地でありながら、日本有数の軍需産業都市の性格は完全に払拭されておらず、矛盾を抱えているのが長崎の現状です。
 
 
日航123便の怪(1985年8月12日)
 
     
 
●東京帝国大学伝染病研究所
   伝染病研究所の写真は、『傳染病研究所』小高健著より
 ●東京帝国大学伝染病研究所『実験医学雑報』
・東大伝研とは戦前、どんなことをやっていた機関なのか?
・1934年6月、宮川米次と阿部俊男は何をしに満洲国へ行ったのか?
・満洲衛生技術廠とは、一体何をやっていたところなのか??
・東大伝研は731部隊と連携を図っていなかったのか??
・伝研で毒ガスの講演?毒ガスへの対処法も考えることになるのか??
・小島三郎の渡満では、満洲衛生技術廠や大連衛生研究所にもいったのだろうか?
・1933年頃から細菌兵器開発の一環として、「満洲」の背蔭河では人体実験が行なわれているが、そこでも赤痢菌の研究が行なわれていたのだろうか?35年の川崎市の爆発赤痢は、人為的に行なわれたものなのか?それとも自然流行なのか?
・1936年5月に浜松一中で大福餅事件、37年9月に大牟田で爆発赤痢事件が起きているが、これなども細菌兵器・研究の一環として軍医学校や伝研の関与による仕掛けられたものか、自然に発生したものか究明する必要がある。
・1936年5月と37年9月の両事件に、小島三郎が出張しているが、果たして何をやったのであるか??
・河本禎助も毒ガスの研究をしていた。
・1938年6月1日の伝染病研究所で石井の厚意によって上映された映画には、731部隊の生体解剖でも映っていたのでであろうか? 精神的緊張裡とは、何のことだろうか?
 ・実験医学雑報20巻 第7号(1936年) 本所職制改正 この度本所では職制を次の如くに改正し7月より実施することとなった。 *特別研究室とは何だ??
・中込亘は、731部隊で細菌に感染して死んだのだろうか?
 
雑報6号(23巻、1939年)
伝染病研究所創立41周年記念日に当り医学界を展望して所感を述ぶ
                     宮川米次
 
2、昭和13年度に於ける人事異動
その他にも多数の研究者の出入りがあり、又中堅の青年たちが応召せられているが、吾等は銃後の護りの全きを期せんが為に懸命の努力を為し、研究に、作業に相当見るべき成績を挙げていることは、全く所員諸君の誠意の発露であり、努力の結晶であると信じ、衷心より感謝するとともに今後一層の緊張を望んで止まないのであります。申す迄もなく、日支事変は正に長期建設の期に入りました。加うるに欧州の天地は風雲の極めて急なるものであります。何時吾等は鋒を北の方に向けなければならないことになるかもしれませぬ。誠に一大覚悟が必要な時期に入ったのであります。
 
 
 
 
●昭和天皇(ハーバード・ピックス著『昭和天皇』より) 吉田裕監修  
2001年ピュリッツァー賞受賞 
※昭和天皇は、平和主義者でもなんでもなかった。
 
好戦的であり、常に軍部に色々と指示を出していた!!
 戦後補償問題に国家無答責という天皇主権の明治憲法下の原則を適用するな!!   
 
第3部   陛下の戦争
1931(昭和6)年―1945 (昭和20)年  
 
第7章 満州事変
 
 犬養内閣組閣後の5ヵ月間で、天皇は公然と積極的に、そして自発的に事変に関与するようになっていた。事変の当初にはまったくなかったことである。1932年初頭、満州の作戦に広範な支持が高まっていった当時、天皇の最優先事項は皇位の独立性を、にわかに人気を博した軍部ではなく、諸政党から守ることにあった。天皇はまた、政府の政策と閣僚人事の双方に連続性を維持しようと努めた。したがって、観兵式から戻る天皇の鹵簿(ろぼ)に朝鮮の民族主義者が爆弾を投げつけ暗殺しようとしたとき(1月8日、桜田門事件)、天皇は内閣が総辞職するよりは、むしろ、留任することを主張し、それが後々の先例となった。
 
 
 
 
 
 
 

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