731部隊の犯罪は、アメリカ軍やアメリカ政府が免罪しても、世界の目が許さない!!
「731部隊展開催20周年記念シンポジウム」
東京裁判はその後もアメリカが主導権を握ったまま推移した。
石井たちから人体実験の裏付けを得られなかったスミルノフ。
ソビエト検事団は731部隊の行為を暴露しその責任を追及することを遂に断念した。
1948年秋、東京裁判は結審した。
こうして人体実験のデータはすべてアメリカの独占するところとなった。
元731部隊の幹部たちは各自の専門分野の報告をまとめ、アメリカ側に提出していくのである。
1947年12月12日。731部隊の調査を終えた生物戦研究所は、アメリカ国防総省に最終報告書を送った。
そこには次のように記されている。
「これは日本の科学者が数百万ドルの費用と長い歳月をかけて得たデータである。
このような情報は我々自身の研究所では得ることができなかった。なぜなら人体実験には良心の呵責があるからである。
これらのデータは総額25万円で得られた。研究にかかった実際の費用に比べれば微々たる額である。自ら進んでこの情報を提供してくれた人たちには迷惑がかからないように望みたい。
そしてこの情報が他に渡ることがないようにしなければならない。」
アメリカに提出された人体実験のデータの数は400人分にのぼった。
旧満州で日本軍が行った人体実験の記録はアメリカの軍事目的のために貢献する結果となったのである。
戦後間もなく731部隊をめぐってアメリカとソビエトとの激しい駆け引きが行われた東京。
アメリカに協力して情報を提供した731部隊幹部たちは、その後、731部隊について堅く口を閉ざした。
731部隊の記録とその罪は闇に葬り去られようとしていた。
しかし、東京裁判結審の翌年ソビエトは独自の軍事裁判を開き、日本の細菌戦部隊の罪を告発した。
代表検事席に座ったのはスミルノフ。
被告席には東京裁判の舞台裏でその名が行き交った柄沢の姿もあった。
人体実験のデータはアメリカが独占したが、ソビエトには数百人に及ぶ細菌戦部隊が抑留されていたのである。
ソビエトが細菌戦部隊を裁いた26冊に及ぶすべての裁判資料が40年の歳月を経て初めて公開された。
ハバロフスク軍事裁判。(1949年12月25日~12月30日)
厚いベールに包まれてきた裁判の実像が明らかになろうとしている。
(1992年放送、NHK[プライム10 731細菌戦部隊前編〕より)
・・・・・
1950年2月1日、ソビエトはアメリカのアチソン国務長官に裁判結果をまとめた文書を渡した。
ソビエトはその文書で「日本の細菌戦部隊の行為は天皇を頂点とする日本軍部の組織的な犯罪であることを指摘し、改めて国際軍事裁判を開くことを要求している。そして、直接人体実験を行った科学者である石井たち731部隊幹部を新たに訴追し、これを裁くことを求めた。
アメリカはこの時までハバロフスク軍事裁判に表面上は無関心を装っていた。
しかし、その裏で裁判の情報を盛んに集め、分析を進めていた。
ソビエトのアピールを受け取った2日後アメリカ国務省は記者会見を開き声明を発表した。
「今回のハバロフスク軍事裁判は37万人の日本人抑留者の問題から目をそらすためのソビエトのカムフラージュに過ぎない。」
731部隊の行為を国際軍事法廷で改めて裁くことを求めたソビエトのアピールは無視された。
アメリカは、このときすでに人体実験の詳細なデータを入手していたのである。
731部隊の人体実験の事実を世界に初めて告発したハバロフスク軍事裁判。
この裁判には、戦後世界の主導権を握りつつあったアメリカを牽制するという政治的意味合いも込められていた。
しかし、その政治性ゆえに、ハバロフスク軍事裁判は黙殺され、幻の裁判として忘れ去られていく運命をたどったのである。
こうして米ソ対立のはざまで日本の細菌戦部隊が行った人体実験の罪は闇に葬り去られた。
当事者である日本はその責任を自ら問うことなく半世紀が過ぎようとしている。
(1992年放送、NHK[プライム10 731細菌戦部隊後編〕より)
この墓地の一角に柄沢が眠っていた。
柄沢はソビエトに抑留されていた細菌戦部隊員の中で人体実験の事実を最初に認めた1人である。
告白を始めるとき、柄沢はその心境をこう語っている。
「このことは、いずれ誰かが語らねばならないと思って、苦しい思いをしてきた。今、私は医者としての良心をかけてすべてを語ろう!!(柄沢十三夫軍医少佐:731部隊第4部細菌培養課課長・・・帰国前自殺)
天皇はもちろん731部隊の人体実験を知っていただろう!!
(3:30あたりから)
unit 731 3
2013年 731部隊シンポジウム1 単長清女史(陳列館書記)、
2013年 731部隊シンポジウム 2 張可偉氏(731部隊被害
731部隊は中国各地で細菌戦を行った!!
2013年 731部隊シンポジウム3 李宏華氏、易友喜氏(常徳細菌戦被害者)
2013年 731部隊シンポジウム 4 山田朗氏(明治大学教授、登戸研究所資料館館長)
2013年 731部隊シンポジウム5 吉中丈志氏(京都民医連中央病院院長)
「731部隊展開催20周年記念シンポジウム」
東京裁判はその後もアメリカが主導権を握ったまま推移した。
石井たちから人体実験の裏付けを得られなかったスミルノフ。
ソビエト検事団は731部隊の行為を暴露しその責任を追及することを遂に断念した。
1948年秋、東京裁判は結審した。
こうして人体実験のデータはすべてアメリカの独占するところとなった。
元731部隊の幹部たちは各自の専門分野の報告をまとめ、アメリカ側に提出していくのである。
1947年12月12日。731部隊の調査を終えた生物戦研究所は、アメリカ国防総省に最終報告書を送った。
そこには次のように記されている。
「これは日本の科学者が数百万ドルの費用と長い歳月をかけて得たデータである。
このような情報は我々自身の研究所では得ることができなかった。なぜなら人体実験には良心の呵責があるからである。
これらのデータは総額25万円で得られた。研究にかかった実際の費用に比べれば微々たる額である。自ら進んでこの情報を提供してくれた人たちには迷惑がかからないように望みたい。
そしてこの情報が他に渡ることがないようにしなければならない。」
アメリカに提出された人体実験のデータの数は400人分にのぼった。
旧満州で日本軍が行った人体実験の記録はアメリカの軍事目的のために貢献する結果となったのである。
戦後間もなく731部隊をめぐってアメリカとソビエトとの激しい駆け引きが行われた東京。
アメリカに協力して情報を提供した731部隊幹部たちは、その後、731部隊について堅く口を閉ざした。
731部隊の記録とその罪は闇に葬り去られようとしていた。
しかし、東京裁判結審の翌年ソビエトは独自の軍事裁判を開き、日本の細菌戦部隊の罪を告発した。
代表検事席に座ったのはスミルノフ。
被告席には東京裁判の舞台裏でその名が行き交った柄沢の姿もあった。
人体実験のデータはアメリカが独占したが、ソビエトには数百人に及ぶ細菌戦部隊が抑留されていたのである。
ソビエトが細菌戦部隊を裁いた26冊に及ぶすべての裁判資料が40年の歳月を経て初めて公開された。
ハバロフスク軍事裁判。(1949年12月25日~12月30日)
厚いベールに包まれてきた裁判の実像が明らかになろうとしている。
(1992年放送、NHK[プライム10 731細菌戦部隊前編〕より)
・・・・・
1950年2月1日、ソビエトはアメリカのアチソン国務長官に裁判結果をまとめた文書を渡した。
ソビエトはその文書で「日本の細菌戦部隊の行為は天皇を頂点とする日本軍部の組織的な犯罪であることを指摘し、改めて国際軍事裁判を開くことを要求している。そして、直接人体実験を行った科学者である石井たち731部隊幹部を新たに訴追し、これを裁くことを求めた。
アメリカはこの時までハバロフスク軍事裁判に表面上は無関心を装っていた。
しかし、その裏で裁判の情報を盛んに集め、分析を進めていた。
ソビエトのアピールを受け取った2日後アメリカ国務省は記者会見を開き声明を発表した。
「今回のハバロフスク軍事裁判は37万人の日本人抑留者の問題から目をそらすためのソビエトのカムフラージュに過ぎない。」
731部隊の行為を国際軍事法廷で改めて裁くことを求めたソビエトのアピールは無視された。
アメリカは、このときすでに人体実験の詳細なデータを入手していたのである。
731部隊の人体実験の事実を世界に初めて告発したハバロフスク軍事裁判。
この裁判には、戦後世界の主導権を握りつつあったアメリカを牽制するという政治的意味合いも込められていた。
しかし、その政治性ゆえに、ハバロフスク軍事裁判は黙殺され、幻の裁判として忘れ去られていく運命をたどったのである。
こうして米ソ対立のはざまで日本の細菌戦部隊が行った人体実験の罪は闇に葬り去られた。
当事者である日本はその責任を自ら問うことなく半世紀が過ぎようとしている。
(1992年放送、NHK[プライム10 731細菌戦部隊後編〕より)
この墓地の一角に柄沢が眠っていた。
柄沢はソビエトに抑留されていた細菌戦部隊員の中で人体実験の事実を最初に認めた1人である。
告白を始めるとき、柄沢はその心境をこう語っている。
「このことは、いずれ誰かが語らねばならないと思って、苦しい思いをしてきた。今、私は医者としての良心をかけてすべてを語ろう!!(柄沢十三夫軍医少佐:731部隊第4部細菌培養課課長・・・帰国前自殺)
天皇はもちろん731部隊の人体実験を知っていただろう!!
(3:30あたりから)
unit 731 3
2013年 731部隊シンポジウム1 単長清女史(陳列館書記)、
2013年 731部隊シンポジウム 2 張可偉氏(731部隊被害
731部隊は中国各地で細菌戦を行った!!
2013年 731部隊シンポジウム3 李宏華氏、易友喜氏(常徳細菌戦被害者)
2013年 731部隊シンポジウム 4 山田朗氏(明治大学教授、登戸研究所資料館館長)
2013年 731部隊シンポジウム5 吉中丈志氏(京都民医連中央病院院長)
2013年 731部隊シンポジウム 6 奈須重雄氏(細菌戦資料センター理事)、伊勢弘志氏(明治大学講師)
731細菌戦部隊 1(前編:プライム10) 731細菌戦部隊 2(前編:プライム10) 731細菌戦部隊 3(前編、後編、プライム10) 731細菌戦部隊 4(後編、プライム10) 731細菌戦部隊 5(後編、プライム10) ・・・・ 1回で見たい方は、こちらでどうぞ! 731細菌戦部隊 前編 (1992年) 731細菌戦部隊 後編 (1992年) unit731 1 unit 731 2 unit 731 3 今も続く細菌戦の恐怖 1 国立予防衛生研究所(現在の感染症研究所) ・登戸研究所 今も続く細菌戦の恐怖 2 日米医学会義 発見!731部隊 衝撃の新事実!! 日本に細菌戦生体実験場があった !? 闇に消えた虐殺 731部隊(10分版) 闇に消えた虐殺ー731部隊 1 闇に消えた虐殺ー731部隊 2 闇に消えた虐殺ー731部隊 3 語り部 731部隊 少年隊員の見た細菌戦部隊 ・・・・・ 1回で見たい方は、こちらでどうぞ! 闇に消えた虐殺~731部隊・細菌戦の真実(テレビ朝日「ザ・スクープ」、1997年8月 知ってるつもり 731部隊 黒い太陽731部隊 2013年「731部隊パネル展」より 27分あたりから川田龍平さんの意見。 語り部 731部隊 少年隊員の見た細菌戦部隊 政府は、731部隊の資料を公開せよ!! 反対!秘密保全法!! 「秘密保全法案」概要まとまる 政府は、安全保障に関する情報を厳重に保護するため、特に秘匿が必要な「特定秘密」に指定された情報を漏えいした公務員らに対し、最高で10年の懲役刑を科すなどとした、「秘密保全法案」の概要をまとめました。・・・・・・ 「問題は過去を克服することではありません。さようなことができるわけはありません。後になって過去を変えたり、起こらなかったことにするわけにはまいりません。しかし過去に目を閉ざす者は結局のところ現在にも盲目となります。非人間的な行為を心に刻もうとしない者は、またそうした危険に陥りやすいのです。」 【「荒れ野の40年」ワイツゼッカー連邦大統領演説全文(1985年5月8日) より】 ヴァイツゼッカーの演説【独語】1/4 問われる戦争責任!!戦後責任!! 戦争遺跡!「731部隊」 聞こえませんか?「マルタ」の叫びが!! 象徴的な事例をあげてみたい。今はもう無くなったが、数年前には731部隊遺跡の本部楼から「ロ号棟」を結ぶ回廊の一部が残されていて(それは現在も確認できるが)、「煉獄門」(「不帰の門」)と書かれた文章が壁の金網越しに中国語、そして英語、日本語、韓国語の訳が添えられてあった。 これは誰が考えた文章か、筆者は確認することができない。以下、原文のままを再掲する。 これは731部隊が設立した人生の「不帰の門」である。当時たくさんの被実験者は此処を経由して生命の終点に行った。そして生還者が1人もいない。この門の中で飽くことを知らない野心と喪失した人間性とを無情な殺戮が充満したことがある。ただ「人間」として自分の罪を反省する事だけ発見できない。「煉獄門」の前に立って誰かが何かを述べているような感じがする。誰かが悲惨な歴史と未来の平和を述べているような感じがする。 決して正確ではない日本語がここではよけいに現実的な情景として見る者に訴えかける。「被実験者」とは通称マルタのことで、ここを通ったが最後、生きて帰ることはなかった。「飽くことを知らない野心」と「人間性を喪失した無情な殺戮」とは当時の医学の倫理的破綻であろうか。彼らは人道を、罪という自覚を失した集団であった。「煉獄門」の前に立てば、そこから人間の叫びが聞こえる。私もまた耳をそば立ててみた。未来の平和ではなく、憎しみばかりが募った。・・・・・ (『戦争遺跡と歴史認識」』ー「731部隊」遺跡保存活動を通して私が学んだことー田中 寛著より) ▽▲▽▲▽▲▽▲▽▲ 明治大学生田キャンパス内の登戸資料館で パネル展示『731部隊展2013』開催 期間:9月4日(水)~10月26日(土) 10:00~16:00(日、月、火曜は休館) ★臨時休館あり大学のHPか資料館に御確認のうえご来館下さい。 神奈川県川崎市多摩区東三田1-1-1 TEL: 044-934-7993 生田キャンパス アクセスマップ 生田キャンパス キャンパスマップ |
731部隊からフクシマまで、日本医学界は何の反省も無く医療が続けられている!!
日中戦争の最中、国家総動員法が施行され、医学界から多くの優秀な人材が731部隊にも行った。そこで人体実験を繰り返しながら、細菌兵器の開発を進め、中国各地で細菌戦を行い、多くの中国人や日本人にも被害を出した!!敗戦直前に、天皇の責任が問われないよう証拠湮滅のため部隊は破壊され、部隊員はいち早く日本へ帰国した。上級幹部は、アメリカに研究データを引き渡し、戦犯免責を受け、アメリカの細菌兵器開発に協力し、東京裁判にはかけられなかった。 1945年8月6日や9日の原爆投下後の被爆調査には、医学者が動員され、天皇制護持するためのカードとして、アメリカの喜ぶような原爆の威力を示す被害調査が行われ、患者の治療はほとんどされなかった。8月のうだるような暑さの中での原爆投下の惨状は、本当に生き地獄であった!! 医学者たちは、被害調査に没頭し、ほとんど被爆者の医療がなされていないとは驚きだ!! その中で、治療とは関係ない人体実験が行われ、もしかしたら生体解剖もされていたのではないかと疑ってしまう!! また、731部隊上級研究員たちは、医学界で出世し、重要なポストに坐ったため、731部隊の非人道的な行為は反省も謝罪もされなかった。 戦後も、人体実験が行われ、それが世間に知られるようになると、社会問題になることもあった。 1954年の水爆実験では、元731部隊員の宮川正が被曝した漁船800隻のうちの1隻「第5福竜丸」だけを問題視し、放射能の影響を過小評価した。 また、水俣病では、田宮委員会が、水俣病をもみ消し走った。 昭和35年に入り、医学者は水俣病の発生は止んだと発表した。こうして患者は、以後10年まったく忘れ去られた!! (20:40あたりから)福島原発事故を想起させる! 水俣病=その20年= 「薬害エイズ事件」では、元731部隊員内藤良一の設立したミドリ十字が問題となった。 27分あたりから川田龍平さんの意見。語り部 731部隊 少年隊員の見た細菌戦部隊 今回の福島第一原発の事故も、健康被害の調査は表面上は行われているが、治療は行われていないのではないか? 長崎大学の山下俊一を福島県立医大の副学長として派遣し、とんでも発言を繰り返し、問題を起こしている。 山下俊一トンデモ発言 731部隊を隠蔽する目的の取引!NHKスペシャル 封印された原爆報告書 資料を早く公開してほしい!! 日本の医学界は戦後731部隊での残虐な行為を反省することもなく、謝罪もしていていない!! これでいいのだろうか? 731細菌戦部隊残党と長崎大学の放射線医学者たち 福見秀雄・青木義勇と長瀧重信・山下俊一 パネル集「731部隊展」 1993年7月~1994年12月(731部隊展より) 発行「戦争と医の倫理」の検証を進める会 発売三恵社より 榊原林口支部長の証言(5:30あたりから) 発見!731部隊 衝撃の新事実!! 日本人中国抑留の記録7(アヘン・731・無人地区) これまで、「証拠がない」として細菌戦の実施を認めてこなかった日本政府の根拠が、崩れた!! 発行「戦争と医の倫理」の検証を進める会 発売三恵社より アメリカ(占領軍)は帝銀事件の捜査に圧力をかけた! やはり、犯人は特務機関(731部隊員か陸軍中野学校等)の人間か? 日本政府は、何時まで731部隊の資料を隠蔽するのだ!! 帝銀事件とは? 731細菌部隊と帝銀事件との真相1 "戦後最大のミステリー"「帝銀事件」(1) |
●ドイツと日本の違い
ドイツの医学会の謝罪や脱原発はドイツ国民が「生命への畏敬の念」に目覚めたからか? 『人間の価値』 ―1918年から1945年までのドイツ医学 Ch.ブロス/G.アリ編 林 功三訳 1938年11月9日*を思う *「水晶の夜」 *「水晶の夜」 ベルリン医師会の声明 ベルリン医師会はいま、ナチズムの中で医師層がはたした役割と、忘れることができない犠牲者の苦しみを思い起こす。医師組織を結成する我々は、我々地震の過去とナチズムに関与した医師の責任を問題にしないわけにはいかない。 ナチス政権掌握の何年も前から、医師たちも人間の社会的差別と少数者の迫害を奨励する思考をはっきりもっていた。遺伝優生学や人種的遺伝体質、遺伝的に劣る人間、人生の余計者、生きる価値のない人生、といった思考であり、ナチス保健政策の基礎を築いた思考である。これが社会的に自明のものとされ、差別を正当化したのである。それが人間の絶滅を可能にしたのである。 ユダヤ人の医者は「アーリア人」の治療をすることが許されなくなり、1938年、法律によって、彼らの新規採用と開業が禁止され、また彼らの既得の営業許可が消滅されられた。ユダヤ人および異なる思想を持つ人々が排除されたことに対して、同僚の医師サークルやその団体からはほとんど抗議の声が挙がらなかった。 医師たちは「遺伝病の子どもの出生を予防する」法律を準備するのに関与し、無数の病気の人々、身体障害者に対する不妊。断種手術をおこなった。 医師たちは選別と殺戮の官僚機構に協力した。専門家として彼らは選別の鑑定を行い、国家医療行政機構に協力して、強制収容所へ患者を移送させた。 医師たちは「安楽死病院」で働いた。彼らによる「認定」がヨーロッパのユダヤ人の工場的規模の殺戮の基礎になった。 医師たちは強制収容所、研究所、大学病院で残酷な人体実験を行った。 ごくわずかの医師たちが彼らのキリスト教的、社会主義的、共産主義的世界観にしたがって抵抗したにすぎない。 ベルリン医師会はその過去の重荷を負う。我々は悲しみと恥を感じている。(以上) ■外科用メスと銃 傷病兵選別の原則の犠牲になったのは重傷者、とりわけ腹部負傷者であった。彼らは速やかな手術を必要としていたのに、適当な施設へ送られることができなかったからである。外科軍医にとっての「基本原則」は「個々の人間の運命」ではなく、「軍の戦闘力の維持」であった。 ドイツ精神医学会の謝罪 ドイツ精神医学会は公式に謝罪しました。では、日本の精神医学会は ●南京大虐殺 「この事実を・・・・」 (「南京」市民に仕えた宣教師証言集:章開?/編 加藤 実/訳) (発行:ストーク、発売:星雲社、定価2200+税) ヴォートリン 日記の抄訳(1937年12月12日~1938年5月13日) 12月21日、火曜日 日本大使館を出た後、また三牌楼のジェンキンさんの家へ行った。アメリカ国旗や日本大使館の掲示や東京への特別電報で保護されていたのに、徹底的に掠奪されたのだ。ガレージで、彼の信頼していた用務員が死んでいた―射殺されていた。主人の家を離れて大使館に保護してもらうのを、拒絶しているのだ。 南京に住んでいた人たちには、街路がどんな有様になっているか、想像もつくまい―わたしには見たこともないもっとも悲惨な光景。バスや自動車が通りにひっくり返っていて、死骸がここにもあそこにも、その顔がもう真っ黒になっていて、兵士たちの脱ぎ捨てた軍服がいたるところに散らかり、どの家や店も焼かれてなければ、掠奪されたり壊されたりしている。安全区では道に人が群がっていて―区外では、日本人のほか誰もめったに見られない。 続きは「ノブのノート」で |