「2083―ー欧州独立宣言」日本語版

グローバル極右界の「共産党宣言」、現代世界最大の奇書

2.67 多様性業界、民族業界、下文化は如何にマスゴミ権と共に世上を破壊したか(p628~)

2013-01-12 22:02:09 | 米国
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ジョン・H・マクホーター


 出典

 少し前、ハーレムのKFCで昼食していたら、サボりとみられる黒人の学生8人が行儀悪く大声で食べ物を床に散らかしているのに遭遇した。女店長が警告してもスルーしたので、男の警備員が出動した。すると、渋々と帰ったが、その前に悪戯よろしく店を一周していった。彼らは主社会から疎外されていると思っているのだろうか。ともかく、店長も中心客も黒人のこの店が、健全なる「黒人小社」といい難いことは確かだ。
 この黒人学生は反体制の象徴でもあったラップ音楽の嘻哈なる旋律を奏でてもいた。示威もその手のものだった。ラップが学生たちの共通言語だったのだ。これはつまり、人種主義米国における反体制の象徴として政治系の知識人が賛美してきたラップやヒップホップが黒人文化の発展を妨げ、黒人の栄達を遅らせてきたことを示唆している。
 ラップやヒップホップの瘴気は1960年代以前の黒人文化にはほぼ見られなかった。しかし、黒人の矜持が高まると、サヨクな白人も支持する中、マルコムXらが黒人の卑賊がやらかした犯罪行為を人種主義社会米国の貧困と搾取に対抗する義士として称賛するために、民兵的な風貌を称賛した。ブラック・パンサーがその筆頭だ。リロイ・ジョーンズ(アミリ・バラカ)の演劇やメルヴィン・ヴァン・ピーブルズの「スウィート・スウィートバック」といった専黒映画(ブラックスプロイテーション)も有名だろう。
 しかし、専黒映画は直ぐに廃れた。白人による黒人差別の記憶が生々しかった当時、スウィート・スウィートバックの描写は余りにも黒人に侮標的だったのだ。レロン・ベネットがいうように、「1960年代の黒人大行進は白人的にみて去年のサファイアとスタッドを再生するようなものだった」のだ。
 ラップは歓喜の音楽として世に出た。1978年、シュガーヒル・ギャングの「ラッパーズ・ディライト」がオトコンナとして大当たりしてから、全米の児童が嘻哈で無意味な旋律を奏でてきた。ヒップホップの誕生でもある。

 (歌詞は省略、以降同じ)

 煽情的なラップがその後も続いた訳だが、当時執筆者はこんなのは直ぐ廃れる無害な熱狂だと思っていた。
 しかし1980年代、バブルガム音楽が専黒映画の名残を引くギャングスタに道を譲った。すると、ラップが路上の械闘や麻薬、乱交を煽るようになり、歌詞の本質が変わったのだ。グランドマスター・フラッシュの1982年の曲「Message」は蕃城での生活を「ここはジャングル、迷える場所」と魔都的に描き、感受性を変えた。
 知識マスゴミの音楽評論家は「Message」を路上詩と讃え、以来ヒップホップをそのように表象している。蕃城で被害者意識を培った黒人はヒップホップを武器に、「押すなよ、キレる寸前なんだから」(メリー・メル)と呪文を唱え出した。「蕃城の生活は不毛天翼なのだから、暴力が顕現しても正当だ」というMessageが浸透したのだ。
 黒人大衆文化に浸透したこの噴青的Messageはラップ音楽を8000万曲級(2002年の総売り上げの13%)という大分野に押し上げた。ラッセル・シモンズらの製作業者らは、「初期の黒人音楽はただの娘音楽だった。マイケル・ジャクソンやルーサー・ヴァンドロスもまだ平和的だ。だから、その逆をやった」と語っている。
 このMessageが出てから20年間、ヒップホップは魔都なる蕃城での無間暴力や犯罪を讃え続けている。例えばスクーリーDの「PSKって何だ?」のように。
 後で改悛したが、暴力化の引き金を弾いたのはKRS・ワンだった。故人となった2パックは警官を残虐な侵攻者として謡いあげた。[本職ギャングでもあった]アイス-Tの「コップ・キラー」は嫌警官流の極点だ。
 ラップはまた、人類史上最強の嫌女性流も生み出した。スクーリーDの曲やジェイZの「君はイアンフか?」などだ。NWAはヒップホップの世界観を「人生などカネとイアンフだけさ」と一言で総括した。
 
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