「2083―ー欧州独立宣言」日本語版

グローバル極右界の「共産党宣言」、現代世界最大の奇書

八、レバノン陥落の教訓(p217~)

2012-10-19 22:51:50 | 中東
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 シリアなどのムスリム勢力はキリスト教徒に対し、自分たちのミニ国家を建設することを認めなかった。キリスト教徒は今、ムスリムが権限を全部掌握してしまわないかと怯えている。中東で生き残るためには出生率を上げるしかなさそうだ。ここでマルグリット・ジョンソンの楽観論を聞こう。

 確かにキリスト教徒は以前の支配的地位を失った。しかし、ベイルートからも山岳部の黎巴嫩杉からもキリスト教徒は決して消え去らない。彼らは12世紀の間、ムスリムの隣人たちにとって脅威であると同時に資産でもあったのだから。

 まだ希望はある。マロン派の司教府は、ハリーリ政権が進めた30万人のムスリム移民帰化政策がキリスト教徒の地位を脅していると提訴に踏み切った。だが、シャルル・セノットは、カタイブ党のジョルジ・サード党首の死をもってキリスト教支配体制の終わりとした。将来への不安感が今もレバノンのキリスト教徒を覆っている。

 最後に

 レバノンのキリスト教徒は今、未曽有の危機にある。人口面でムスリム勢力に押され、汎アラブ主義の急進的なムスリム知識人の声が社会に浸透してきている。マロン派はこれ以上、文書による保証抜きで、ムスリムに対し譲歩すべきでない。
 数で攻勢をかけるムスリムに対し、学者のジャン・デュクレ師はキリスト教の信条を拒否権をもって死守できる新制度の確立を提言する。これは多数決の民主主義に対し、構成員全員の総意に基づく民主主義に則ろうとする動きだ。しかし、宗派制度を廃止しようとするムスリムの多数派がこれを受け入れる公算は非常に低い。

 キリスト教徒の状況はもう絶望的かもしれない。


 連盟注

 日産自動車のカルロス・ゴーン会長はレバノン系のブラジル人である。基礎教育はレバノンの学校で受けた。マロン派であり、レバノンの大統領に擁立しようとする動きもあったようだ。

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レバノン・キリスト教衰退の系譜(p216~)

2012-10-19 22:45:08 | 中東
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1990年10月:マロン派の領導ダニー・シャムーンが家族ごと暗殺される
1991年5月:アウン将軍の国外追放、スフェイル総司教がシリア・レバノン協定が1943年の国民協定を脅かすと糾弾
1992年9月:カトリックの選挙抵制。その結果、40票で当選するキリスト教徒も現れた。
1993年5月:ショーフ地方で嫌カトリックの暴動が起きる。
6月:正教会とカトリックの集会場でテロ未遂事件が起き、3人がカミカゼになる
10月:キリスト教徒の政界の大物たちが相次ぎ逮捕され、シリアへ連行される
12月:クリスマスを前に、マンソリエのキリスト教墓地が荒らされる
1994年2月:ミサの最中に爆発が起き、8人が死亡する。イスラエルの過激派がヘブロンでムスリムの討滅作戦を実施したのに伴うものだった。
6月:キリスト教徒の伝統的土地がムスリムに購入されていくことへの不安を報道したICNテレビとニダール・ワタン新聞が、ハリーリ首相の指示で閉鎖される
2000年1月:黎巴嫩軍団とイスラム勢力との奮闘が起きる
9月:マロン派の司教会議がシリア軍の撤退を求める決議を採択
12月:シリアがレバノンのキリスト教系政治犯50名を送還する。ただ、シリア国内に捕われたレバノンの政治犯は数百人とも数千人ともいわれている。
2001年8月:シリア軍の撤兵を求めたキリスト教徒の青年200名が逮捕される。イスラエルとの共謀容疑をかけられた。
10月:シドンとトリポリの教会が爆破される
2002年1月:黎巴嫩軍団を率いたエリー・ホベイカが暗殺される


 連盟による補足
 その後、ハリーリ首相は総理退陣後の2005年2月、謎の怪死を遂げた。そこから国際的な反発が巻き起こり、4月シリア軍はレバノンから完全撤退した。キリスト教の影響力が回復するかに思えたが、シーア派系のヒズボラが政治的影響力を次第に強めつつある。2000年代の動きについては、青山弘之、末近浩太『現代シリア・レバノンの政治構造』(岩波書店)を参照してほしい。2010年代のシリア内戦では、スンニ派が反アサド陣営に立ち、異端色の強いアラウィ派が宗派を同じくするアサド側に立ち、トリポリなどで抗争を繰り広げた。

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七、レバノン内戦の終焉と「藁にもすがった」ターイフ合意(p213~)

2012-10-19 22:29:28 | 中東
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 レバノン内戦は1990年、アウン将軍がシリア軍に撃破されて終わった。サウジのターイフで和平協定が結ばれ、ムスリムに多くの政府権力を譲ることになった。和平協定はアラブ連盟が提示したもので、キリスト教徒は自分の国家を守るために藁にすがるように協定(合意)を受諾した。
 カトリックのスフェイル枢機卿は、「キリスト教徒が覇権を握らずして、どうして独立レバノンがありえよう?隣国との明快な合意なしで、どうやって小国に住むキリスト教の少数派がこのイスラムの大海の中で生き延びられよう?」と反対したが、合意が揺らぐことはなかった。
 ターイフ合意では、3つのことが強調された。1、レバノンの国家身份の中にアラブ性を盛り込むこと 2、国家制度の中に完全に平等な社会権が与えられることを明記すること 3、政治面で宗派主義を廃止すること。そして24条で非宗派的な選挙法ができるまでの間、国会の議席をキリスト教徒とムスリムで折半することが定められた。これは1960年代以降進んでいたムスリム人口の多数派化に合わせ、議席配分を是正するためだった。また、64条でスンニ派の務める首相の職権が拡大され、44条でシーア派の務める国会議長の任期が1年から4年に延長された。一方、マロン派の就任する大統領の権限は象徴的なものへと縮小され、首相や国会議長と相談して物事を決定することにされた。これにより、三人の元首が国を治めていく制度ができた。しかし、「路上」レベルでの宗派関係という重大な問題には手が付けられなかった。
 ターイフ合意の締結に伴い、レバノンはシリアと同胞国協力協調条約を結んだ。キリスト教徒はこれに不安を抱いた。ウィリアム・ハリスいわく、

 キリスト教徒はターイフ合意後の新体制を拒絶した。カタイブ党や黎巴嫩軍団はやむなく受諾したが、彼らはマロン派の利害が脅かされるとして、1992年の総選挙を辞退した。シリア軍が駐留したままでは、シリアが不正を働くと主張したのだ。

 彼らの不安はやがて現実化した。親シリア派の大統領が1993年誕生し、内戦前とは異なり民族主義的キリスト教徒の議員がほとんどいなくなったのだ。ハリーリ首相の下、アラブ諸国からムスリムの経済発展を支援するための油貨が流れてきたので、経済格差も縮小した。1990年代にムスリムの富は倍増し、「悲運なるオジェ富」ラフィク・ハリリ首相の私営企業ソリデールはベイルート中心部のビジネスを支配している。シーア派の多い南地区には海外から開発資金が舞い込んでいる。キリスト教徒側は何とかおこぼれに預かろうとムスリムに陳情する始末だ。
 キリスト教徒の領導者たちも散々だ。アウン将軍はフランスに亡命し、ジェマイエルは米国に行った。シャムーン一族は支持者を集められていない。ジェマイエルの息子ピエールは帰国し、2000年の総選挙で当選したが。黎巴嫩軍団を率いていたサミール・ジェアジェアはベイルートのカトリック教会爆破やダニー・シャムーン暗殺に関与した疑いで1992年から投獄されている。

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六、レバノンでのキリスト教徒の地位低下をもたらした原因(p209~)

2012-10-19 22:01:48 | 中東
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 レバノンでキリスト教勢力の影響力が低下したのには4つの原因がある。ムスリム勢力との抗争、勢力内部での内ゲバ、外国の介入、強制を含むキリスト教徒の移住だ。
 ラティフ・アブル=フスンはレバノン内戦の原因について、政治体制改革、レバノンの国家身份、レバノンの主権の3つを軸に展開したとする。人口で上回るようになったムスリムは政治体制改革を求めたが、キリスト教徒側から無視(スルー)されたので、戦争に訴えた。
 1983年には山岳部で大規模な宗派衝突が起き、異端的ムスリムのドルーズ派がカタイブ党を倒した。その後彼らは夷教徒への討滅活動を実施し、60の村を焼光し、数千人を殺害した。ドルーズ派のカリスマだったシェイク・アブー・シャクラは、キリスト教徒を「ドルーズの山」から討滅するためだったと語った。同年には、ショーフ地方でも50の集落が燼光された。この時、レバノン山岳部南部の人口構成が激変した。ショーフ、上メトゥン、アレイの三地域で、これまで多数派だったキリスト教徒の数が1%にまで減ったのだ。代わりにムスリムが集団入植した。キリスト教徒が討滅されたこの「山嶺戦争」こそレバノン内戦で最も意味の深い戦争だった。
 内戦が1990年終わると、故郷に戻るキリスト教徒もいたが、キリスト教徒側が多くの権力をムスリムに委譲したので、より明るい未来を求めて出国する者も多かった。
 内戦前から権限を巡ってキリスト教徒内部に分裂が生じていた。1970年代カタイブ党はマロン派内部で軍事機構を統一することを目指し、フランジーエ一家と国民自由党に統合を呼び掛けた。しかし、トリポリなど北部を支配するフランジーエはこれを拒み、勝手に工業部門に重税をかけていることを糾弾しに来たカタイブ党のジュド・バイェー局長を殺害した。すると、カタイブ党は1978年6月、フランジーエの自宅を急襲して殺害した。フランジーエは黎巴嫩軍団がイスラエルやシリアに寄り過ぎると非難していた。
 1980年、バシル・ジェマイエルの民兵が国民自由党系の民兵組織・猛虎団をベイルートで襲撃した。カタイブ党がマロン派以外の全キリスト教徒を代弁する組織になろうとする過程で起きた事件だった。
 1990年1月31日、黎巴嫩軍団は渋々タイーフ合意を受け入れることにしたが、キリスト教代表のミシェル・アウン将軍に従えない者は騒乱を起こした。7月までベイルートなどで続いたキリスト教徒同士の内戦で、750人余りの市民が殺害され、12億ドルの被害が出た。
 対外関係もキリスト教徒側に不利に働いた。レバノン一のコラムニストであるガッサン・トゥエニはこれを「他人戦争」と呼んだ。レバノンは冷戦の中、中東や超大国の戦場にされたという。
 エヤル・ジザーは、イスラエルとマロン派の深すぎる関係が内戦を導いたと総括した。ブレンダ・シーヴァーは、パレスチナ人問題が無ければ、レバノンの政治制度は機能し続けていたとする。パレスチナ人が南レバノンに祖国の代替地を求めたことが事態を決定的に悪化させた。ムスリムとキリスト教徒の間には数百年間の内何度か諍いは起きたが、多くは共存を望んでいたのだ。
 隣国シリアもキリスト教衰退の道を敷いた。その歴史は1976年、キリスト教徒救済を求めて、ハーフェズ・アサド大統領がムスリム系のレバノン国民運動(LMN)に対して介入したことに始まる。ガッサン・ハージによると、キリスト教徒救援の理由は「マロン派の支配する土地を基にした小キリスト教国家の誕生を阻止するためだった」。
 マロン派などは当初これを歓迎したが、後のことは考えていなかった。これにより、レバノン内戦はアラブ世界を巻き込む戦争となり、事態は内乱から地域紛争に発展した。
 しかし、その蜜月関係は短かった。エジプトのアンワル・サダトとイスラエルのベギン首相との和平構想が発表され、カタイブ党の権利が認められると、カタイブ党は早速シリアに反旗を翻したのだ。
 1978年2月、シリア軍とレバノンのキリスト教勢力は武力衝突した。ベギンの計画により、南部レバノンへの侵攻、駐留計画が認められた。黎巴嫩軍団の急進派はこれに応じてパレスチナ武装勢力の討滅を呼び掛けた。シリアはこれに激怒し、ベイルートのキリスト教徒居住地区を空爆した。「アサドは救世主のはずの自国を裏切るキリスト教右翼に対して憔悴」したのだ。
 シリアとムスリムが連合してレバノンのキリスト教的要素を浄化しようとしている。シャムーンなどのキリスト教勢力は空爆に対してこう「文明世界」に訴えた。キリスト教国家自由レバノンの原則に反して、南部へのパレスチナ人駐留を認めるシリアに助けを求めた国家指導者に対する不満の声は強まった。内乱は次第に、キリスト教のレバノン人対ムスリムのシリア+イラン革命防衛隊(ヒズボラ)という構図に変わっていった。そしてレバノンは内戦に敗れ、マロン派の領導者たちはシリアに捕えられ、後継政府でのキリスト教徒の地位は低下した。
 レバノン内戦で米国はシリアに圧力をかけきれなかった。1983年アイン・アル・ムレイセの米国大使館がカミカゼに遭って60名が犠牲になると、米国は手を引いた。半年後には、アミン・ジェマイエル大統領の求めでやってきていた多国籍軍にカミカゼ攻撃が行われ、241名の米国海兵隊員を爆死させた。米国は最終的にレバノンから撤退した。結局のところ、外交交渉上、米国はレバノンに重点を置いていなかった。シリアとレバノンが会談してシリア軍撤退の日程を決めればよいと思っていたのだ。
 国外移民も急増した。ムスリムの移民もいたが、大部分はキリスト教徒だった。400万人の人口の内、50~70万人のキリスト教徒が移民したという。ウィリアム・ハリスの推定によると、キリスト教徒の人口比は年代別に
1910年代 79% 1920~50年代 50%代 1970年 42% 1990年 35% 2008年 25%

この統計的流れを翻すのは難しそうだ。このままでは50年以内にキリスト教徒の数は絶滅状態まで減少するだろう。人口増が望まれるところだが、移民の影響はあまりに大きかった。弁護士のネフマタッラー・アビー・ナスル曰く、

 キリスト教徒は西側の富を求め、戦禍から逃れるために祖国を離れたが、そのためにますます祖国での影響力が弱まり、帰国しづらくなった。自業自得の工程だった。

 これは、自発的移民、内戦による戦死、ムスリムによる故郷追放が積み重なった結果だ。マロン派のナスラッラー・ブトリス・スフェイル司教は、非キリスト教徒のレバノン移民、大多数のムスリムに市民権を与える政府の政策により、キリスト教徒の声はますます弱まっていると慨嘆する。

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