「2083―ー欧州独立宣言」日本語版

グローバル極右界の「共産党宣言」、現代世界最大の奇書

三、改革派の三人のスルタン(1808~76)(p149~)

2012-10-05 21:48:15 | トルコ
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 抵抗勢力の恐怖を乗り越え、マフムト2世はオスマン帝国を根本から改革しようとした。大宰相のムスタファ・パシャはイェニ・チェリに暗殺されたが、1826年スルタンはクーデターでイェニ・チェリを全廃し、近代的な新秩序の軍隊ニザーム・ジェディードをつくった。5年後には最初の国立病院を開き、1833年には「タンジマート」と呼ばれるようになる改革指令を発し、知事やパシャたちの権力濫用を法律で禁じた。
 1839年スルタンになったアブドゥル・メジト1世も父の改革姿勢を受け継ぎ、シャリーアの代わりに欧州的な民法と銀行制度を整備した。近代的な大学をつくり、夷教徒への不公正な税金も廃止した。1856年クリミア戦争が勝利に終わると。「ハッティ・フマユーン」という勅令が出た。信条にかかわらず、教育機関や政府・司法機関で平等を貫くことが謡われた。「少数民族」という概念が認められ、イスラムの機関が夷教徒の受け入れを始めたのだ。トルコ語第一の原則も捨てられ、多言語化が進んだ。
 1861年後継者となった弟のアブドル・アジズもその姿勢を受け継いだ。1863年にはアルメニア民族会議の設立を認め、アルメニア人に様々な権利を与えた。しかし、1871年になるとシャリーアへの回帰を求めるムスリムからの反発が強まり、改革派の大宰相が殺された。すると、ミドハト・パシャなどリベラル系勢力が台頭したが、内部抗争によりアブドル・アジズは1876年殺されてしまう。
 1870年の普仏戦争以来、欧州では民族主義が高まっていた。その余波がオスマン帝国にも及び、トルコ人にも独立意識が流入した。改革派スルタンは「トルコらしさ」よりも「オスマン主義」を掲げていたが、支配層は「トルコ」の概念の方を好んだ。アブドル・アジズの甥ムラト5世は在位わずか93日で廃位され、1904年の死まで自宅軟禁された。

 四、オスマン帝国内のアルメニア人(p150~)

 オスマン帝国のアルメニア人はミレット体制の下、主に「東方6ヴィライェット(州)」に暮らしていた。キリキアや大都市にも多く居住していて、金融・商業で重要な役職にもついた。しかし、彼らは夷教徒だったので2級市民としかみなされてこなかった。礼拝の権利もなく馬に乗ることもできず、ムスリムより高い家に住むことはできず、教会の鐘を鳴らすこともできなかった。ムスリムに対する事件では、法廷での証言が証拠として採用されなかった。
 自由拡大を求める少数民族の声に押され、1839年オスマン帝国はタンジマートの下改革案を出したが、実効性はほとんどなかった。しかしアルメニア人はバルカン半島で民族起義が起きても静かにしていたため、「ミレットの忠臣」(ミレッティ・サディカ)と呼ばれていた。
 アブドゥル・メジト1世は1860~70年代、東部アナトリアのアルメニア人農民からの集団署名運動を受け、不平等体制を改善する指令を出した。しかし、ゲンバのムスリム民族は、彼らへの不平等体制を変えようとはしなかった。

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1.13 イスラム帝国トルコの歴史1299~(p147~)

2012-10-05 21:20:17 | トルコ
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ハイ・ブルンツク


 1300年までにビザンツ帝国はアナトリアで力を失い、アナトリアの大半はセルジューク系の10大ガージーの支配下に置かれた。[[串本の沈没船に名を残す]]エルトゥールルの息子オスマンは1281年初代ベイとなり、1299年までにセルジューク勢力内で大権を宣言し、オスマン帝国を築いた。

1326 ブルサ掌握
1386 セルビアとのプロチュニクの戦い
1389 コソボの決戦
1452~53 コンスタンチノープル征服
1514 イランとのチャルディランの戦い
1526 ハンガリーとのモハーチの戦い
1538 プレヴェサの戦い
1571 レパントの戦い
1635 アルメニアのエレヴァンを征服
1639 バグダッド征服
1683 第2次ヴィーン包囲に失敗

 オスマン帝国はギリシア人、アルメニア人、アッシリア人、アラブ人、ユダヤ人、クルド人、イラン人、グルジア人、ブルガリア人、セルビア人、ハンガリー人、クロアチア人、ルーマニア人、アルバニア人などからなる多民族国家だった。しかし、スルタンや太宰相、公務員などの重職はトルコ人かムスリムだけが就いた。軍隊の根幹をなすイェニ・チェリはキリスト教徒の家から強制徴用(デヴシルメ)されていたが、強制改宗させられてトルコ人として育てられた。また、嫁やハーレムの少女はキリスト教徒の家から連れてこられた。
 夷教徒(ガヴール)は馬に乗れず、武器を携帯できず、違う色の服を着させられた。国法はシャリーアだった。

 二、衰退期(1683~1808)

 1683年以降、オスマン帝国は衰退期に入った。ロシアのピョートル大帝は1723年オスマンを負かしてドーベントやバクーなどを奪った。1768~74年の露土戦争で、エカテリーナ2世は南ウクライナ、北カフカス、クリミア半島を支配下に置いた。オスマン側も奪還しようとしたが、ロシアはオーストリアと同盟して1792年、トランシルバニア、ベッサラビア、ハンガリーも占領した。
ナポレオンは1798年エジプトやマルタに攻め入ったが、英国がオスマン側に立って宣戦してきたため撤退した。英国は見返りとしてオスマン帝国からマルタを受け取った。
 1807年英国と衝突したオスマン帝国のイェニ・チェリ部隊はスルタンのセリム3世を廃位し、翌年には擁立したムスタファ4世も廃位した。そうしている間にもロシアは侵攻し、1812年ブカレスト条約を締結した。余談だが、ナポレオンが冬戦争を始めたのは条約締結の翌日だ。
 1815年のセルビア蜂起では「豚将軍」カラジョルジェ・ペトロヴィッチや[[独立後の初代国王]]ミロス・オブレノヴィッチらの活躍によりセルビアが独立した。その6年後には、作家リガス・フェライオスの死をきっかけにギリシア独立戦争が始まり、11年後独立を達成した。
 英国とのナヴァリノの戦いではダーダネルス海峡が封鎖された。ロシアは1828年からオスマン、イラン両国と戦い、グルジアと東アルメニアへの宗主権を認めさせた。
こうして1830年代以降、オスマン帝国は「欧州の病人」と呼ばれるようになった。

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1.12 今日における十字軍の表象(p144~)

2012-10-05 01:12:08 | 十字軍
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 今描写されている十字軍は、史実における十字軍よりはるかに侵略的だ。ロバート・スペンサーの『政治的に正しくないイスラムと十字軍入門』では、イスラム過激派が西側への敵意を煽るために、十字軍についての誤った情報をいかに誇張しているかが描かれている。

 Q:十字軍は侵略的な軍事的冒険行為としてよく描かれますが、これは本当なのですか?
 A:違う。教皇ウルバヌス2世猊下が1095年クレモントで宣誓した自衛行動としての面が長い間スルーされてきた。ウルバヌス2世は「トルコ人やアラブ人がキリストの土地を脅かしている。敵は既にギリシアを抑え、地中海やヘレスポント(ダーダネルス)の沿岸にまで迫った。敵は7つの大戦に勝利し、多くの教会を破壊した。これ以上放置しておけば、神の土地がもっともっと襲われるだろう」と述べた。
 正しい宣言だった。ジハーディは既にキリスト教の土地の半分以上をイスラム化していた。なのに、十字軍のように連帯して立ち向かう姿勢はこれまでなかった。

 Q:十字軍に対する誤解をどう思いますか?
 A:十字軍は侵略軍とされてきたがそれは違う。638年のイスラム勢力によるエルサレム征服以来、キリスト教徒は常に迫害されてきた。8世紀初めにはアモリウムからの60人以上の巡礼者が磔にされ、ケサリアの知事はイコニウムからの巡礼者にスパイ容疑をかけて改宗しなかった者を皆殺しにした。聖墳墓教会を略奪すると巡礼者を脅迫することもあった。
 8世紀後半には十字架を掲げることが禁じられ、ジズヤの額も増え、子供にキリストの教えを伝えることまで禁じられた。
 9世紀には迫害が激化し、コンスタンチノープルなどにエクソダスする信徒が相次いだ。937年にはエルサレムで聖墳墓教会などが掠光された。
 1004年にはファーティマ朝の「狂智六代」アリー・アル・マンスール・アル・ハーキムが教会の破壊と財産没収を命令し、次の10年間で3万の教会が壊光され、無数のキリスト教徒がイスラムに改宗させられた。
 1009年、アル・ハーキムは聖墳墓教会などの破壊を命じた。1056年には300名のキリスト教徒が追放され、再建された聖墳墓教会に欧州人が入ることが禁じられた。
 1077年、セルジューク・トルコのアミールであるアシズ・イブン・ウワクがエルサレムを占領した。彼は住民に害をなさないと公約していたが、入城するなり3000人を殺戮した。
 十字軍がムスリムに対しキリスト教に改宗するよう迫ったというのも誤解だ。ウルバヌス2世の演説にもそうした箇所はない。フランシスコ会などキリスト教の組織が集団的に布教活動を行ったのは第一次十字軍から1世紀以上経った13世紀からのことだし、布教はあまりうまくいかなかった。
 十字軍による1099年のエルサレム略奪も誤解されている。確かに事前の宣言内容と異なる面はあったが、中世という当時の基準に照らし合わせると、それほど異常なことではなかった。最後まで抵抗した都市が略奪を受けるのは当時の慣習で、ムスリムも同様の行為を行っていた。これで十字軍の振る舞いがすべて免罪されるわけではないが、このことだけは強調しておく必要がある。
1148年、ヌール・アッディーンはアレッポでキリスト教徒殺光を躊躇せず行った。1268年、マムルーク朝のスルタンだった「勝利の奴隷」バイバルス1世はアンティオキアの十字軍を追い払った際、敵の大将が逃げていたことに腹を立て、キリスト教徒を殺光した。最も戦慄すべき討滅行為は1453年5月29日、コンスタンチノープルが陥落した時に起きた。
 ローマ法王ヨハネ・パウロ2世が十字軍を謝罪したというのも誤解だ。確かに法王が死去した時、ワシントン・ポストは「法王はムスリムには十字軍を、ユダヤ人には反セム主義を、正教徒にはコンスタンチノープル略奪の黙認を、イタリア人にはマフィアとの協力関係を、科学者にはガリレオ迫害を謝罪した」と報道した。
 しかし、十字軍の部分は誤りだ。根拠とされる2000年3月12日の「謝罪の日」の演説をみよう。「キリスト教徒間での分裂や真理の名の下で振るわれた暴力、他宗教の信者に時としてとられた不信に基づく敵対的態度を謝罪したい」と述べたが、十字軍のことには言及していない。

 Q:ムスリムは十字軍をどのように認識してきた/いるのですか?
 A:オスマン帝国の繁栄期、十字軍はイスラム世界侵攻の先駆者とは思われていなかった。しかし、西洋の方が強くなると、ムスリムの間で十字軍が搾取と憤懣の象徴になった。

 Q:今日のイスラム過激派が抱く十字軍観はどの程度間違っているのですか?
 十字軍は史実から大きくかけ離れて野蛮で強靭な存在となった。カトリックだけでなく、西洋世界全体のシンボルになったのだ。
 ウサマ・ビン・ラディンはアル・カイダを「ユダヤ人と十字軍に対する世界イスラムジハード戦線」と位置付けていた。イラク戦争直前の2002年11月、アル・サマライ師はバグダッドにある全戦闘の母モスクで、「イスラム世界は今、ユダヤ人、不信仰者、鬼畜米英、十字軍の夷教徒連合軍から挑戦を受け、難局に立たされている」と演説した。2004年末にジッダの米国領事館をテロ攻撃したジハーディもテロを「十字軍とユダヤ人、夷教徒集団をアラビア半島から追い払う大いなるセカイ計画の一部」と呼んだ。
 西洋人がもう十字軍の記憶を恥じる必要はもうない。「十字軍、いいとも!」の精神で、子供たちに故郷を守護した十字軍の偉大なる遺産を矜持をもって伝えていこう。

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1.11 何が十字軍をもたらしたか(p143~)

2012-10-05 01:03:38 | 十字軍
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ルシオ・マスカレナス


 出典

 イスラムに先軍的カルト性があるのは歴史的な事実だ。イスラム勢力は予告なくキリスト教徒の隣国を攻撃し、土地を蹂躙し、ジェノサイドを行ってきた。
 征服されたキリスト教の土地を列挙しよう。アラビア、フェリックス、イスラエル(フィリスティア)、ヨルダン、イラク(カルデア、アッシリア、アディアバネ)、シリア(アラム)、レバノン(フェニキア)、トルコ(ビテュニア、カッパドキア、シリシア、ガラティア、ポントス等)、トラキア、エジプト(コプト)、スーダン(ヌビア、アクスム)、リビア(リュビア、キレナイカ、トリポリタニア)、チュニジア(カルタゴなど)、アルジェリア(ヌミディア等)、モロッコ、スペイン、ポルトガル(ルシタニア)、南仏(732年にシャルル・マルテルがトゥールで大捷した時やっと、ムハンマドの死後1世紀続いたジハードは終わった)、南イタリア(シチリア、サルディニア)、マルタ(メリタ)、アルメニア(ハヤスタン)、グルジア、アゼルバイジャン(ローマ領アルバニア)。
 それに拝火教徒の支配していたイラン。一部の拝火教徒はジハードのジェノサイドを逃れてインドへ行き、パルシーとなった。今の狂信的なイラン人でさえ、この時のジェノサイドを最大級の蛮行(ナクバ)と呼ぶほどだ。
 トルコ人は当初、中央アジアの他の民族と同じく、仏教徒かヒンドゥー教徒だった。しかし、イスラムに強制改宗させられてからは、夷民族に対して同じような蛮行を振るった。イスラム勢力は多数派になるために、帝国主義、ジェノサイド、民族浄化、植民地主義、人口攻勢などあらゆる手段をあらゆる土地で用いた。
 それに比べると、十字軍が始まったのは仏クレモントでウルバヌス2世が「神意」として結成を宣言した1095年11月のことにすぎない。これはあくまでイスラム勢力の侵略主義に対抗するためだった。

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1.10 十字軍と今日(p140~)

2012-10-05 00:47:09 | 十字軍
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 トーマス・メイデンによると、現在における西欧諸国とイスラム諸国の緊張関係は、十字軍とはほとんど関係がない。19世紀の修悪主義者が、西欧帝国主義との闘争の中で、顧みられてこなかった十字軍の記憶を再現したという。

 Q:十字軍とジハードは関係があるのか?
 それほどの関係はなかった。ビン・ラディンなどのイスラム主義者が米国を「十字軍」と呼んでいることを考えると奇妙な答えかもしれない。しかし、中世から16世紀まで西洋世界はイスラム世界の後塵を拝していた。
 第一次以外の十字軍が失敗に終わった事実を考えてほしい。十字軍は確かにイスラムの征服活動を遅らせたが、それでもイスラム世界は拡大を続け、やがてはコンスタンチノープルを席巻した。18世紀のムスリムは十字軍のことを殆ど知らなかった。欧州人にとっては失敗だったが故に重要な出来事とされていたが。
 しかし、欧州列強の植民地化が本格化した19世紀になると情景は一変した。フランス等の民族主義者たちが十字軍を「遅れた中東に先進的な欧州文明の果実をもたらした勢力」として描写するようになったのだ。つまり、十字軍の戦争が帝国主義の戦争に準えられた。
 この歴史観が中東でも受容された。20世紀帝国主義の信用がなくなると、イスラム勢力やアラブ民族主義者は十字軍を植民地勢力とみなすようになった。先祖の記憶を大事にする中東の民だが、十字軍の記憶は欧州の征服者によってつくられたものなのだ。

 Q 十字軍と今日の反テロ戦争との間に共通点はあるのか?
 戦士たちの抱いている大義と望郷の念を除くと、共通点はまるでない。

 Q 十字軍はジハードなど他の宗教勢力の戦争とはどこが違うのか?
 ジハードには夷教徒の住む「戦争の家」に対して戦闘を仕掛け、「イスラムの家」を拡大するという拡張主義的本質がある。その中では夷教徒に対する制度的な改宗行為も存在した。
 しかし、十字軍は違った。キリスト教では強制改宗が禁じられていたので、十字軍にキリスト教世界を拡大するという使命感はなかった。
 十字軍の使命はむしろ防衛的なものだった。1070~90年代にトルコ人が小アジア全域を制圧し、キリスト教徒を圧迫したのを受け、1095年ローマ教皇ウルバヌス2世がビザンツ皇帝の救援要請を受ける形で欧州諸国の騎士たちに助けを求めた。
 小アジアはキリスト教徒ゆかりの地だ。使徒パウロはここで最初の福音を説き、ペテロはアンティオキアの初代司教になった。パウロはエフェソスの弟子たちに手紙も送った。ニケーアでキリスト教の信条が確立した。
 ビザンツ皇帝は西欧のキリスト教徒たちにこうした使徒ゆかりの地を取り戻すよう請願し、ついでにジハードで奪われた聖地エルサレムも奪還しようとした。これをみても、十字軍はジハードに対する防衛活動で、ムスリムの侵略に対抗するためだったことがわかる。

 Q 十字軍はイスラム世界を改宗させられたのか?
 13世紀にフランシスコ会の宣教師が改宗活動を行ったが、シャリーアが転向を死罪をもって制したのでうまくいかなかった。これは十字軍とは別個の活動であり、あくまで平和的な説得活動だった。

 Q キリスト教徒は十字軍の失敗をどう総括したのか?
 キリスト教徒の方に原罪があったから負けたと総括された。十字軍の撤退以降、西欧では大規模な改悛が行われ、キリスト教精神をより純化する運動が盛んになった。

 Q 前の教皇ヨハネ・パウロ2世は十字軍のことを本当に謝罪したのか?
 していない。確かにパウロ2世はカトリックの抱える原罪については謝罪した。1204年に第4次十字軍がコンスタンチノープルを制圧したことを謝罪したといわれているが、これは前任者イノケンティウス3世の立場を繰り返しただけだ。パウロ2世は制圧に参加した十字軍の兵士たちを糾弾したが、十字軍そのものを糾弾したことはない。

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