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抵抗勢力の恐怖を乗り越え、マフムト2世はオスマン帝国を根本から改革しようとした。大宰相のムスタファ・パシャはイェニ・チェリに暗殺されたが、1826年スルタンはクーデターでイェニ・チェリを全廃し、近代的な新秩序の軍隊ニザーム・ジェディードをつくった。5年後には最初の国立病院を開き、1833年には「タンジマート」と呼ばれるようになる改革指令を発し、知事やパシャたちの権力濫用を法律で禁じた。
1839年スルタンになったアブドゥル・メジト1世も父の改革姿勢を受け継ぎ、シャリーアの代わりに欧州的な民法と銀行制度を整備した。近代的な大学をつくり、夷教徒への不公正な税金も廃止した。1856年クリミア戦争が勝利に終わると。「ハッティ・フマユーン」という勅令が出た。信条にかかわらず、教育機関や政府・司法機関で平等を貫くことが謡われた。「少数民族」という概念が認められ、イスラムの機関が夷教徒の受け入れを始めたのだ。トルコ語第一の原則も捨てられ、多言語化が進んだ。
1861年後継者となった弟のアブドル・アジズもその姿勢を受け継いだ。1863年にはアルメニア民族会議の設立を認め、アルメニア人に様々な権利を与えた。しかし、1871年になるとシャリーアへの回帰を求めるムスリムからの反発が強まり、改革派の大宰相が殺された。すると、ミドハト・パシャなどリベラル系勢力が台頭したが、内部抗争によりアブドル・アジズは1876年殺されてしまう。
1870年の普仏戦争以来、欧州では民族主義が高まっていた。その余波がオスマン帝国にも及び、トルコ人にも独立意識が流入した。改革派スルタンは「トルコらしさ」よりも「オスマン主義」を掲げていたが、支配層は「トルコ」の概念の方を好んだ。アブドル・アジズの甥ムラト5世は在位わずか93日で廃位され、1904年の死まで自宅軟禁された。
四、オスマン帝国内のアルメニア人(p150~)
オスマン帝国のアルメニア人はミレット体制の下、主に「東方6ヴィライェット(州)」に暮らしていた。キリキアや大都市にも多く居住していて、金融・商業で重要な役職にもついた。しかし、彼らは夷教徒だったので2級市民としかみなされてこなかった。礼拝の権利もなく馬に乗ることもできず、ムスリムより高い家に住むことはできず、教会の鐘を鳴らすこともできなかった。ムスリムに対する事件では、法廷での証言が証拠として採用されなかった。
自由拡大を求める少数民族の声に押され、1839年オスマン帝国はタンジマートの下改革案を出したが、実効性はほとんどなかった。しかしアルメニア人はバルカン半島で民族起義が起きても静かにしていたため、「ミレットの忠臣」(ミレッティ・サディカ)と呼ばれていた。
アブドゥル・メジト1世は1860~70年代、東部アナトリアのアルメニア人農民からの集団署名運動を受け、不平等体制を改善する指令を出した。しかし、ゲンバのムスリム民族は、彼らへの不平等体制を変えようとはしなかった。
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抵抗勢力の恐怖を乗り越え、マフムト2世はオスマン帝国を根本から改革しようとした。大宰相のムスタファ・パシャはイェニ・チェリに暗殺されたが、1826年スルタンはクーデターでイェニ・チェリを全廃し、近代的な新秩序の軍隊ニザーム・ジェディードをつくった。5年後には最初の国立病院を開き、1833年には「タンジマート」と呼ばれるようになる改革指令を発し、知事やパシャたちの権力濫用を法律で禁じた。
1839年スルタンになったアブドゥル・メジト1世も父の改革姿勢を受け継ぎ、シャリーアの代わりに欧州的な民法と銀行制度を整備した。近代的な大学をつくり、夷教徒への不公正な税金も廃止した。1856年クリミア戦争が勝利に終わると。「ハッティ・フマユーン」という勅令が出た。信条にかかわらず、教育機関や政府・司法機関で平等を貫くことが謡われた。「少数民族」という概念が認められ、イスラムの機関が夷教徒の受け入れを始めたのだ。トルコ語第一の原則も捨てられ、多言語化が進んだ。
1861年後継者となった弟のアブドル・アジズもその姿勢を受け継いだ。1863年にはアルメニア民族会議の設立を認め、アルメニア人に様々な権利を与えた。しかし、1871年になるとシャリーアへの回帰を求めるムスリムからの反発が強まり、改革派の大宰相が殺された。すると、ミドハト・パシャなどリベラル系勢力が台頭したが、内部抗争によりアブドル・アジズは1876年殺されてしまう。
1870年の普仏戦争以来、欧州では民族主義が高まっていた。その余波がオスマン帝国にも及び、トルコ人にも独立意識が流入した。改革派スルタンは「トルコらしさ」よりも「オスマン主義」を掲げていたが、支配層は「トルコ」の概念の方を好んだ。アブドル・アジズの甥ムラト5世は在位わずか93日で廃位され、1904年の死まで自宅軟禁された。
四、オスマン帝国内のアルメニア人(p150~)
オスマン帝国のアルメニア人はミレット体制の下、主に「東方6ヴィライェット(州)」に暮らしていた。キリキアや大都市にも多く居住していて、金融・商業で重要な役職にもついた。しかし、彼らは夷教徒だったので2級市民としかみなされてこなかった。礼拝の権利もなく馬に乗ることもできず、ムスリムより高い家に住むことはできず、教会の鐘を鳴らすこともできなかった。ムスリムに対する事件では、法廷での証言が証拠として採用されなかった。
自由拡大を求める少数民族の声に押され、1839年オスマン帝国はタンジマートの下改革案を出したが、実効性はほとんどなかった。しかしアルメニア人はバルカン半島で民族起義が起きても静かにしていたため、「ミレットの忠臣」(ミレッティ・サディカ)と呼ばれていた。
アブドゥル・メジト1世は1860~70年代、東部アナトリアのアルメニア人農民からの集団署名運動を受け、不平等体制を改善する指令を出した。しかし、ゲンバのムスリム民族は、彼らへの不平等体制を変えようとはしなかった。
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