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開戦1週間
マルテルの作戦は完全に的中し、有利な状態のまま戦闘が始まった。木と傾斜を利用して騎兵の突撃を防げる陣地を敷くことができたのだ。
その後1週間は小競り合いのみだった。ウマイヤ軍のアブドゥッラフマーン将軍は増援を呼んだが、結果は同じだった。マルテルは外から援軍がやってくる時間を稼ぐことができた。民兵部隊も少しだが戦争に貢献した。数だけでみると、ウマイヤ軍の方が倍以上いたとみられている。アブトゥッラフマーンは焦った。何としても前進してトゥールの街を掠奪せねば。しかし、そのためには自ら討って出ようとしない坂の上のフランク軍の陣地を突破する必要がある。マルテルの作戦は的中しつつあった。
マルテルは10年前からこの戦に備えていた。トゥールが落ちれば、イスラム勢力を食い止められる西洋キリスト教世界の拠点はもはやない。そう考えれば、例え重装騎兵がいなくても、「最悪の中の最善」(ギボン)を尽くし、30kgの木材と鉄の鎧をつけた精鋭重装兵だけで抵抗する勇気が湧いた。
冬が近づいていた。そうなればいかに宿泊設備を独占していようとも、南国からやってきた兵士にとって不利になる。ウマイヤ軍はフランク軍を大平原におびき出そうとしたが、フランク軍は釣られなかった。待機していれば、坂と樹木のおかげで、ウマイヤ軍自慢の騎兵部隊が役に立たなくなるからだ。我慢比べの末、ついにウマイヤ軍は動いた。
交戦
アブドゥッラフマーン将軍は騎兵部隊の突撃戦法に大きな信頼を寄せていたが、やはりその期待は裏切られた。騎兵は時としてフランクの密集陣地を突破したが、その度に押し戻された。双方に多数の犠牲者が出た。遂にフランク軍は突撃に耐え切った。教会の資金で年中続けてきた厳格なる訓練の成果が出たのだ。マルテルの精鋭部隊は志気高く、規律性も高かった。マルテルはこの精鋭部隊を率いて欧州を巡り、敵を攪乱、襲撃した。モザラビック年代記にいわく
北の戦士(マルテルの兵士)たちの動かざること海のごとしだった。その防御力は氷塊のごとく硬く、敵に下されるその劍撃は容易くアラブ人を刈り倒した。
転機
ウマイヤ軍は何としてもマルテルを殺そうとしたが果たせなかった。戦争が長引くと、ウマイヤ軍の間にはフランクの遊撃隊がボルドーでの略奪品を奪い返そうとしているとの噂が流れ、確認に戻る部隊まで現れた。実際本格会戦2日目には遊撃隊がそのようなことを行った。騎兵が戻ったので、ウマイヤ軍は全面撤退が始まったものと思い込み、大いに混乱した。アブドゥッラフマーン将軍は勝手な撤退を止めようとしている内にフランク軍に包囲されて戦死した。ついにウマイヤ軍は根拠地へ撤退した。しかし、フランク軍は密集陣地(ファランクス)を立て直し、当初の位置で翌朝の再戦に備えた。
翌日
翌朝、ウマイヤ軍は現れなかったが、マルテルは敵の罠かもしれないと警戒し、斥候を出した。うっかり大平原に出たら何が起きるか分からないからだ(ノルマン・コンクエストにおけるヘイスティングスの戦いをみよ)。結局のところ、ウマイヤ軍は持ちきれない戦利品を根拠地に置き去りにして、夜の内に撤収したことが判明した。
こうして、マルテルは歩兵ばかりの編成で、アラブやベルベルの騎兵部隊に勝利した。時と地の利を生かしたマルテルの大捷だった。
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開戦1週間
マルテルの作戦は完全に的中し、有利な状態のまま戦闘が始まった。木と傾斜を利用して騎兵の突撃を防げる陣地を敷くことができたのだ。
その後1週間は小競り合いのみだった。ウマイヤ軍のアブドゥッラフマーン将軍は増援を呼んだが、結果は同じだった。マルテルは外から援軍がやってくる時間を稼ぐことができた。民兵部隊も少しだが戦争に貢献した。数だけでみると、ウマイヤ軍の方が倍以上いたとみられている。アブトゥッラフマーンは焦った。何としても前進してトゥールの街を掠奪せねば。しかし、そのためには自ら討って出ようとしない坂の上のフランク軍の陣地を突破する必要がある。マルテルの作戦は的中しつつあった。
マルテルは10年前からこの戦に備えていた。トゥールが落ちれば、イスラム勢力を食い止められる西洋キリスト教世界の拠点はもはやない。そう考えれば、例え重装騎兵がいなくても、「最悪の中の最善」(ギボン)を尽くし、30kgの木材と鉄の鎧をつけた精鋭重装兵だけで抵抗する勇気が湧いた。
冬が近づいていた。そうなればいかに宿泊設備を独占していようとも、南国からやってきた兵士にとって不利になる。ウマイヤ軍はフランク軍を大平原におびき出そうとしたが、フランク軍は釣られなかった。待機していれば、坂と樹木のおかげで、ウマイヤ軍自慢の騎兵部隊が役に立たなくなるからだ。我慢比べの末、ついにウマイヤ軍は動いた。
交戦
アブドゥッラフマーン将軍は騎兵部隊の突撃戦法に大きな信頼を寄せていたが、やはりその期待は裏切られた。騎兵は時としてフランクの密集陣地を突破したが、その度に押し戻された。双方に多数の犠牲者が出た。遂にフランク軍は突撃に耐え切った。教会の資金で年中続けてきた厳格なる訓練の成果が出たのだ。マルテルの精鋭部隊は志気高く、規律性も高かった。マルテルはこの精鋭部隊を率いて欧州を巡り、敵を攪乱、襲撃した。モザラビック年代記にいわく
北の戦士(マルテルの兵士)たちの動かざること海のごとしだった。その防御力は氷塊のごとく硬く、敵に下されるその劍撃は容易くアラブ人を刈り倒した。
転機
ウマイヤ軍は何としてもマルテルを殺そうとしたが果たせなかった。戦争が長引くと、ウマイヤ軍の間にはフランクの遊撃隊がボルドーでの略奪品を奪い返そうとしているとの噂が流れ、確認に戻る部隊まで現れた。実際本格会戦2日目には遊撃隊がそのようなことを行った。騎兵が戻ったので、ウマイヤ軍は全面撤退が始まったものと思い込み、大いに混乱した。アブドゥッラフマーン将軍は勝手な撤退を止めようとしている内にフランク軍に包囲されて戦死した。ついにウマイヤ軍は根拠地へ撤退した。しかし、フランク軍は密集陣地(ファランクス)を立て直し、当初の位置で翌朝の再戦に備えた。
翌日
翌朝、ウマイヤ軍は現れなかったが、マルテルは敵の罠かもしれないと警戒し、斥候を出した。うっかり大平原に出たら何が起きるか分からないからだ(ノルマン・コンクエストにおけるヘイスティングスの戦いをみよ)。結局のところ、ウマイヤ軍は持ちきれない戦利品を根拠地に置き去りにして、夜の内に撤収したことが判明した。
こうして、マルテルは歩兵ばかりの編成で、アラブやベルベルの騎兵部隊に勝利した。時と地の利を生かしたマルテルの大捷だった。
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