「2083―ー欧州独立宣言」日本語版

グローバル極右界の「共産党宣言」、現代世界最大の奇書

会戦(p223~)

2012-10-21 21:58:44 | 西洋史
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 開戦1週間
 マルテルの作戦は完全に的中し、有利な状態のまま戦闘が始まった。木と傾斜を利用して騎兵の突撃を防げる陣地を敷くことができたのだ。
 その後1週間は小競り合いのみだった。ウマイヤ軍のアブドゥッラフマーン将軍は増援を呼んだが、結果は同じだった。マルテルは外から援軍がやってくる時間を稼ぐことができた。民兵部隊も少しだが戦争に貢献した。数だけでみると、ウマイヤ軍の方が倍以上いたとみられている。アブトゥッラフマーンは焦った。何としても前進してトゥールの街を掠奪せねば。しかし、そのためには自ら討って出ようとしない坂の上のフランク軍の陣地を突破する必要がある。マルテルの作戦は的中しつつあった。
 マルテルは10年前からこの戦に備えていた。トゥールが落ちれば、イスラム勢力を食い止められる西洋キリスト教世界の拠点はもはやない。そう考えれば、例え重装騎兵がいなくても、「最悪の中の最善」(ギボン)を尽くし、30kgの木材と鉄の鎧をつけた精鋭重装兵だけで抵抗する勇気が湧いた。
 冬が近づいていた。そうなればいかに宿泊設備を独占していようとも、南国からやってきた兵士にとって不利になる。ウマイヤ軍はフランク軍を大平原におびき出そうとしたが、フランク軍は釣られなかった。待機していれば、坂と樹木のおかげで、ウマイヤ軍自慢の騎兵部隊が役に立たなくなるからだ。我慢比べの末、ついにウマイヤ軍は動いた。
 
 交戦
 アブドゥッラフマーン将軍は騎兵部隊の突撃戦法に大きな信頼を寄せていたが、やはりその期待は裏切られた。騎兵は時としてフランクの密集陣地を突破したが、その度に押し戻された。双方に多数の犠牲者が出た。遂にフランク軍は突撃に耐え切った。教会の資金で年中続けてきた厳格なる訓練の成果が出たのだ。マルテルの精鋭部隊は志気高く、規律性も高かった。マルテルはこの精鋭部隊を率いて欧州を巡り、敵を攪乱、襲撃した。モザラビック年代記にいわく

 北の戦士(マルテルの兵士)たちの動かざること海のごとしだった。その防御力は氷塊のごとく硬く、敵に下されるその劍撃は容易くアラブ人を刈り倒した。

 転機
 ウマイヤ軍は何としてもマルテルを殺そうとしたが果たせなかった。戦争が長引くと、ウマイヤ軍の間にはフランクの遊撃隊がボルドーでの略奪品を奪い返そうとしているとの噂が流れ、確認に戻る部隊まで現れた。実際本格会戦2日目には遊撃隊がそのようなことを行った。騎兵が戻ったので、ウマイヤ軍は全面撤退が始まったものと思い込み、大いに混乱した。アブドゥッラフマーン将軍は勝手な撤退を止めようとしている内にフランク軍に包囲されて戦死した。ついにウマイヤ軍は根拠地へ撤退した。しかし、フランク軍は密集陣地(ファランクス)を立て直し、当初の位置で翌朝の再戦に備えた。

 翌日
 翌朝、ウマイヤ軍は現れなかったが、マルテルは敵の罠かもしれないと警戒し、斥候を出した。うっかり大平原に出たら何が起きるか分からないからだ(ノルマン・コンクエストにおけるヘイスティングスの戦いをみよ)。結局のところ、ウマイヤ軍は持ちきれない戦利品を根拠地に置き去りにして、夜の内に撤収したことが判明した。
 こうして、マルテルは歩兵ばかりの編成で、アラブやベルベルの騎兵部隊に勝利した。時と地の利を生かしたマルテルの大捷だった。

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イベリアからのイスラム侵攻(p221~)

2012-10-21 21:41:59 | 西洋史
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 アンダルシアを治めていたウマイヤ軍のアル・サムフ将軍はイベリア半島の討滅活動に乗り出し、719年までにセプティマニア(現フランス領)を蹂躙した。そして720年ナルボンヌに都を築き、アレット、ベジエール、アグド、ロデーヴなど西ゴート朝が支配していた都市を服属させた。
 721年、アキテーヌのオド大王がトゥールーズでサムフ将軍を急襲して敗死させると、その勢いは一時的に弱まった。しかし、ウマイヤ朝のガリア進出の勢いは止まらず、海から補給を受け725年にはブルゴーニュをも攻撃した。
 ウマイヤ朝とフランク勢力に挟まれたオド大王は730年、今のカタルーニャ地方を治めていたベルベルの首長ウスマン・イブン・ナイーサ(ムヌザ)と同盟を結び、愛娘のランパードを嫁がせた。しかし、翌年ウスマンは主君のアブドゥッラフマーンに反旗を翻し、あっさり鎮圧された。アブドゥッラフマーンはすぐさまオド大王に標的を定め、アラブの重装騎兵団とベルベルの軽装騎兵団を「灼嵐のごとく」差し向けた。オド大王もボルドーで抗戦したが敗れ、ボルドーは掠光された。ガロンヌ川の戦いで起きたキリスト教徒の討滅作戦は、獄壌劫火のごとき光景だったという。ムスリム側の記録にいわく、「聖軍はピレネー山を貫光し、敵国フランクの逆敵を劍でもってすべて討滅した。ガロンヌ川で抗戦したオド王はたまらず逃走した」。

 オド大王、フランク人に訴える
 オド大王はフランク人に救援を求めた。シャルル・マルテルは大王がフランク人に服属することを条件に承認した。
 ウマイヤ朝はフランク人などのゲルマン勢力を軽視していたようにみえる。フランクのことがアラブ系の記録に現れるのは、ポワティエで敗戦して以降だ。ウマイヤ朝には欧州の北部へ侵入する気がそれほどなかったようだ。もしあれば、717年以降権力を握り、西ローマ帝国の灰燼から欧州を復興させようとしていたマルテルにもっと注意を払っていただろう。
 
 ロアール地方への前進
 732年、ウマイヤ朝の軍隊は軍をロアール川に向けて進めた。そして、ガリアの抵抗勢力をすべて討滅した後、軍を分割してさらに北上した。征服先で兵士や馬のための穀物が収穫されるのを待って行軍したため、北上速度は極めて遅かった。収穫物の在り処を住民に問い質そうとしても、言葉が通じなかったのでその分食料調達は長引いた。
 トゥールーズで勝利したオド大王がボルドーやガロンヌで敗北した理由は単純だ。トゥールーズでは歩兵ばかりだったウマイヤの本隊に警備の手薄な外側から取り囲んで奇襲をかけることができた。ウマイヤ朝に精鋭の騎兵はほとんどいなかった。しかし、ボルドーとガロンヌでは騎兵中心の部隊が敵だった。当時の西欧諸国と同じく、オド大王の方には鐙が不足していたので、重装騎兵はほとんどいなかった。なので、歩兵で構成された大王の軍は騎兵たちに思う存分いたぶられ、全滅状態に近いほど打ち負かされた。
 ついにウマイヤ軍は当時西欧で最も権威のあったトゥールのマルティヌス修道院に目をつけた。これを聞くなり、アウストラシア地域のシャルル・マルテル宮宰は出陣したが、ローマ以来の街道を通らず南へ迂回し、密集陣地戦法で敵に奇襲をかけることにした。木の多い平地での待ち伏せ作戦だ。

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