「2083―ー欧州独立宣言」日本語版

グローバル極右界の「共産党宣言」、現代世界最大の奇書

1.8 ヒンドゥー・キラー(p136~)

2012-10-03 23:47:37 | アジア
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16世紀までのジハード活動は、文字通り生死をかけた闘争だった。ジハードのたびに街は焼光され、数十万の民が討滅、奴隷化され、その髑髏の丘は新たな侵攻者にとっての記念碑となった。
 バフマニ朝(1347~1480)のスルタンは一日のうちに10万人の捕虜を殺光した。1564年、ヴィジャヤナガル王国が征服された時は、カルナータカ州の大半で人口が激減した。イスラムによるこうした「人道に対する罪」のために1000年(ムスリムのアフガン征服)から1525年(デリー・スルタン朝の終わり)までの間にインドでは8000万も人口が減少した。
 しかし、インドの夷教徒の数はあまりにも多かったので、ヒンドゥー教徒が完全に降伏することはなかった。なので、ハナフィー派などの論理を適用して、ムスリムの統治者たちもヒンドゥー教徒に妥協するようになったが、保護を受けられるジンミーになるためにはジズヤの上に20の忌まわしき規制を受け入れねばならなかった。ところが、時が経つとユダヤ人やキリスト教徒だけでなく、ラージプート諸侯やナワブの騎士階級カヤスサーなど上位のヒンドゥー教徒も協力するようになった。「擦火の和合」アクバル大帝(正統ムスリムにとっては棄教者だが)のように、ジズヤを廃止する開明君主も現れた。
 ジェノサイドを休止する動きにムッラーたちは反発したが、ムスリムの君主は方針を変えなかった。アフガンやトルコのムスリムがインドに侵攻してきた時は、夷教徒と連合して出兵することもあった。夷教徒を殲滅するという当初の使命はどこかに行ってしまったようだった。改宗者が増えるとジズヤが減るので、ムガル帝国は改宗を制限しようとした。ムスリムによる暴力行為は寺院破壊や奴隷狩り、ブラーミンへの嫌がらせなどに限定された。しかし、今でも北インドでは、ムスリムによる花嫁泥棒を防ぐために、夜に結婚式を行う習慣がある。
 18世紀末に「麻衣剃の虎」ティプー・スルタンの起こしたジハード(マイソール戦争)は、インドが大英帝国の植民地になる前に起きた最後の大ジハードだった。1857年のインド大反乱(セポイの乱)で、実質的に崩壊していたムガルやナワブの君主は、反目するヒンドゥー教徒に対し、アヨディヤのバーブル・モスク(ラーマ神殿)を返還するから、共通の敵である英国に対して共に立ち上がろうと呼びかけた。ムスリムがヒンドゥーに対して示した近代史上唯一の妥協だった。以降ヒンドゥーの示したムスリムへの慈悲は、すべて一方通行のものにしかならなかった。

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